4b7 中盤戦⑦ 遼河平原と占領地

 

 

第一軍は、第二軍の旅順口攻略に張りあって、第三師団に海城攻撃をさせたこと、その結果ここだけが山中から遼河平原に突出した状況となり、毎回撃退はしたものの清国軍から攻撃目標化されてしまったこと、第二軍の第一師団にも、第一軍作戦の支援として蓋平まで進出させたこと、この間厳冬期であったため多数の凍傷患者を出したことは、すでに「4b5 中盤戦⑤ 海城・蓋平」のページで確認しました。

その後の第二軍の威海衛攻略成功を見て、第一軍はさらに新しい作戦、遼河平原制圧戦を進めていきます。ここでは、その経過を確認したいと思います。また、こうした作戦の結果、日本軍は清国領内で、かなりの広さの占領地域を有することになりました。その占領地の行政については日本はどうしていたのか、についても確認したいと思います。

なお、このページでの引用等で、引用元を記していない場合には、すべて「4 日清戦争の経過」のページに記した引用元から引用を行っていますこと、ご了解ください。

まずは、遼河平原制圧戦の内容からです。

 

1895年3月2日~9日 遼河平原制圧戦の経過

第一軍からの遼河平原制圧戦の提案

第二軍は、1985年1月20日から山東半島に上陸を開始して、威海衛攻略作戦を始動します。この第二軍の作戦に対抗するためだったのでしょうか、第一軍は新たに、遼河平原の制圧を大本営に提案します。

1月23日 第一軍から新作戦の提案

営口・田庄台・遼陽方面には、なお強大な清国兵。野津第一軍司令官、1月23日、「第三師団を3月下旬までに大連湾に移すには、少なくとも遼陽・営口付近の敵を撃滅し、その戦闘力を減殺する必要」と意見上申。大本営は、他の支戦に兵力を割くのは好まず「賛成し難い」と内訓。2月7日第一師団にも、「直隷平野の本戦に参与せしむるため3月下旬において金州に帰還せしむる計画なり」、3月下旬まで50日ほどしかなく、直隷決戦という「本戦」を忘れた作戦には関わるな、との大本営の意思。

もともと大本営では、直隷平野での清国軍との決戦を予定していました。直隷平野とは、北京・天津がある現河北省の平野部のこと。そのために、今清国領内にいる部隊も直隷平野に移す計画でした。それに対し、今いる場所の近くである満州・遼河平原内の敵を撃滅したい、という提案です。清国軍が直隷平野とは異なる場所で兵を増強するなら、直隷決戦時には再び兵を移動させざるを得なくなるので、放置しておくことにもメリットがあると思われるのですが。

これに対し、大本営は、第一軍からの提案を否定しつつ、蓋平増強は認めたようです。

現実に牛荘・営口付近の清軍は日を追って膨れ上がる状況、大本営はついに金州地方にいる第二軍第一師団の残部を蓋平に進める決心。第一師団残部は、2月10日から、逐次、金州地方を出発。

2月14日、第一軍からさらに新提案

2月14日第一軍司令部は、驚くべき新作戦計画を大本営に打電、10日後第三師団の牛荘攻撃、20日後第三師団と第五師団により遼陽攻撃、1ヶ月後両師団と第一師団の共同で営口攻撃。大本営は、遼陽攻撃は拒否したが、目前の敵を撃破する計画は受け入れ。

第二軍と海軍が北洋艦隊を降伏させたのは2月12日、第一軍からの提案はその2日後ですから、第二軍の戦果に対抗するための新提案だった可能性が高そうに思われます。近代軍というよりも、あたかも戦国合戦の一番槍争い、あるいは戦闘を行って勝つことが自己目的化している、といった印象を持たざるを得ません。

第一軍司令官は海城から北方70キロの遼陽攻撃が必要との主張を撤回したが、遼陽街道上の中間点、海城から北方30キロの鞍山站攻撃は組み入れ、2月16日大本営の承認を受ける。こうして、第五師団主力は鞍山站に出る、第三師団主力は海城の北方鞍山站までの地帯を掃蕩、鞍山站付近で第三・第五師団の主力が合し、牛荘付近の清軍を打破、さらに第一師団と協力して営口付近の清軍を撃破、すなわち三個師団による遼河平原制圧という、大本営が当初求めていなかった大きな作戦が、遂に実施されることになった。

結局、大本営は、遼陽攻撃を除き、鞍山站・牛荘・営口への攻撃を承認します。

1895年3月 遼河平原制圧戦 日清戦争の地図

 

遼河平原制圧戦の経過

遼河平原制圧戦に出撃するため、第一軍が新提案を行った2月14日からわずか3日後には第五師団が鳳凰城を、2週間後には第三師団が海城を出発します。

3月2日 第三師団・第五師団共同での鞍山站の攻略

2月17日第一軍は、第五師団には2月20日鳳凰城出発、第三師団には27日海城出発、3月2日鞍山站攻撃と訓令。
第五師団は、小戦闘を繰り返しつつ、西進して黄花旬、吉洞を通り、3月1日午後八般嶺に宿営。翌2日午前7時出発した前衛は2日正午前四家子に到着したが、すでに鞍山站に清国軍の姿はなく遼陽方向に退却後だった。鞍山站で清国軍撃破という作戦は不発に終わる。この攻勢前進作戦での問題は二つ、地図が十分ではなく道を誤る、厳寒で山道は凍結、大小行李の荷馬車や野砲の挽馬通行できず。
三方から海城を包囲されている第三師団は、まずその撃退が必要。海城出発は2月28日午前4時。6時40分ころまでに、三里橋北方の高地・五道子東北端・東沙河沿・北沙河沿を占領。8時過ぎまでに白廟子・西北高地・長虎台・平耳房を占領。大富屯東北端への進入は9時15分。この日は9時ごろから雪、昼からは激しい吹雪、50歩以上先は見通せないほど。この日の日本軍、戦闘人員約1万人、死者が下士卒15名、負傷者が将校以下109名。清国軍、戦闘員は約7200人、遺棄された死体は約200。
翌3月1日、師団は甘和堡の清軍と激しく戦って撃攘、11時50分これを占領。さらに湯河に進んで、清軍兵約2000と対戦、3時に新台子を占領。新台子の西北高地の優勢な清軍の攻撃は明日、となったが、2日7時、攻撃目標の高地には清兵おらず、10時50分前衛は全く清国兵と会うことなく鞍山站を占領。

この時期に作戦を行えば、「厳寒で山道は凍結、大小行李の荷馬車や野砲の挽馬通行できず」とか、「激しい吹雪、50歩以上先は見通せない」とかといった状況になりうることは、これまでの第一軍の経験から十分に分かっていたはずなのに、作戦を強行しました。地の利がある清国軍がなぜか余り戦わずに撤退したから良かったようなものの、そうでなければ、ナポレオンのロシア遠征や第2次世界大戦時の独ソ戦でのドイツ軍のように、大失敗に終わっていた可能性も十分にあったのではないでしょうか。

この後の日本軍のためには、ここで清国軍に一度手痛い目に会っておくと、その後昭和前期まで引き継がれて大敗戦の原因の一つとなってしまった、作戦優先思想に陥ることはなかったような気がするのですが。

3月4日 第三師団・第五師団は牛荘城攻撃 - 逃げ場のない市街戦

3月2日午後6時、第一軍司令部は、第三・第五両師団に、4日牛荘攻撃、直ちに移動し、7日田庄台攻撃、の命令。
3月4日は両師団による牛荘城攻撃、日清戦争最初の市街戦が展開される。清軍の抵抗は激しく、いたるところで猛烈な射撃の応酬。突貫して牛荘城西北一帯の家屋を占領、また市内南部に進入、零時10分ころ。まだ清軍が牛荘城東南面の守備を引き払わぬうちに退路が遮断されたため、清軍は「周章狼狽、遂に市街の各戸に鼠入し、決死の抵抗を為」した。城内は至る所で激しい市内戦。午後5時になって市街戦もやや静まり、翌5日早朝からの掃蕩戦で、午前11時過ぎようやく占領を完了。
抵抗・敗走する者は殺され、投降する者は捕虜に。清国軍の遺棄死体1880、捕虜698名で、牛荘城守備部隊は半数の兵力を失った。清国軍の損失としては最大となる。日本側は死傷者389名、うち戦死72名。

牛荘城でも、清国軍のための逃げ口を開けておく、という配慮を行っていなかったようです。旅順虐殺事件が問題になって数か月も経った後であり、この間に適切な反省・カイゼンが行われなかったことを示しているものと思われます。逃げ口を開けておいてやれば、清国軍側も市街地での必死の抵抗は行わず、日本軍側の死傷も、また住民の被害も、大きく減少していたものと思われます。

牛荘を攻撃 写真

<3月4日 牛荘を攻撃> (毎日新聞社 『日本の戦史 1 日清・日露戦争』 より)

 

3月6日 第二軍・第一師団は、無血の営口占領

大本営からの訓令により、第一師団残部、2月10日から現在地の三十里堡を出発、22日までに蓋平に到着する行軍計画。第一師団は第一軍と協力し、3月7日を期して営口を攻撃することに。しかし3月5日の斥候報告、前面の清軍は退却開始。翌6日、後退中の清軍を追撃しようと前進していくと、営口の清軍はすでに退却済み、その日のうちに難なく営口を占領。清国軍はほとんど抵抗せず営口を放棄、第一師団も残存清国軍を力攻めせず。営口には英国領事館あり、激戦を避けた。
要港・営口を攻略 写真

<3月6日 要港・営口を攻略> (毎日新聞社 『日本の戦史 1 日清・日露戦争』 より)

3月9日 第一・第三・第五師団共同で、激烈な市街戦の田庄台の攻略

営口を占領した第一師団と牛荘城を攻略した第五・第三両師団は、3月9日、相協力して田庄台の清軍と対決することに。清軍約2万、日本軍約1万9千。午前7時40分から遼河対岸の田庄台の清国砲兵団を攻撃、また歩兵は遼河を渡り交戦、続いて市街地へ進入し苛烈な市街戦。死体が街上に満ち、流血は雪を紅に染めるなど、悲愴な場面が繰り広げられ、日本軍は午前10時には占領。
田庄台攻略戦の目的は清国軍の殲滅ではなく、清国軍の資源を絶ちその拠点を毀つこと、そのため第一軍司令部の命令により、田庄台の市街地と船舶を焼き捨てた。兵器庫・兵営・司令部などの機能を持ち、住民も暮らしていた田庄台の街は一挙に灰燼に帰した。日本軍の死傷者数は極めて少なく、負傷者128名、戦死16名。戦場に遺棄された清国軍死者は約1000。
田庄台攻略によって、「遼河平原の掃蕩全く終われり」。3月12日、第一軍司令官野津道貫は陸軍大将に昇進。以後、第一軍司令部と第五師団は海城、第三師団は缸瓦寨、営口には歩兵二個大隊、第一師団は蓋平付近に駐屯、「清軍は至る所屏息し彼我の間に衝突なかりし」状態が続き、休戦を迎える。

田庄台は、下の写真から、雪上の戦いであったことがよく分かります。

田庄台でも、牛庄城と同様、逃げ道を開けずに、市街戦となってしまいました。ただ、牛庄城よりは、日本側の死傷者は少なくてすみました。

<3月9日 田庄台戦 - 田庄台付近の第三師団> (毎日新聞社 『日本の戦史 1 日清・日露戦争』 より)

遼河平原制圧戦の目的は、やはり不明確

鞍山站・牛荘城・営口・田庄台と続いた遼河平原制圧戦に、勝利することは出来ましたが、何のために実施された作戦か、目的が不明確です。当初からの方針で決められていた「直隷平野の本戦」に支障をもたらしかねない作戦でした。

直隷決戦実施のための牽制作戦として、ということなら意義がありますが、タイミングはもっと直隷決戦の時期に近づけるのが妥当ではないでしょうか。直隷決戦の前に清国軍が遼河平原に結集したなら、むしろ直隷平野は手薄になっているかもしれないので、しばらくは放っておき、日本軍が直隷決戦で上陸を開始する寸前に牽制作戦を実施する方が、より適切であったように思われますが。

威海衛攻略を成功させた第二軍に対する対抗心から行われた作戦であったというなら、必要がない作戦を実施した、といわざるをえないように思われます。第一軍司令官・野津は、第二軍司令官・大山と同じ薩摩の出身で、大山より1歳年上であった(半藤一利ほか 『歴代陸軍大将全覧 明治篇』)、ということですので、大山への対抗心が非常に強かったということでしょうか。

あるいは、野津道貫の個人の野心のための作戦だったのでしょうか。野津は、現に本作戦完了の3日後に陸軍大将に昇進していますので、野津にとっては、目的を達成できた作戦であった、ということであったかもしれません。

そうでなければ、「そこに敵がいるから作戦を行った」というだけの目的であった、言い換えれば、「戦闘を行って勝つ」こと自体が目的化していたのかもしれません。野津は、一方、「西南戦争以来、突撃に次ぐ突撃が身上」で、「他軍との関係を無視して猪突」する性格であり、「山県第一軍司令官にとっても、一番言うことを聞かない苦手な男だった」(半藤一利ほか 同上書)ということなので、直ぐそばに敵がいるなら戦わずにはいられない、きわめて好戦的な人物だった、という可能性もあります。

軍内部の競争心によるものや個人の野心によるものであったとしても、あるいは、単に好戦的にすぎる指揮官のせいだったとしても、このときの陸軍はそうした動機を許容してしまっています。たまたま清国軍の抵抗が弱かったので大事に至らなかったに過ぎず、そうでなければ、この作戦の結果日本軍にはもっと大きな死傷者が発生していた可能性が十分にあったように思われます。昭和前期の陸軍の失敗の根元がここに表れているようにも思えます。

 

ヨーロッパ人が見た日本軍の占領地行政

外国人の見た日本軍による営口の占領 ー クリスティ 『奉天三十年』

日本軍による営口の占領については、たまたま同地にいた外国人によって、その状況が記録されています。クリスティ 『奉天三十年』は、キリスト教の伝道医師として1883年に奉天に来たスコットランド人、デュガルド・クリスティによる満州での生活の記録です。日清戦争の当時、クリスティは、九連城での清国軍の敗退後、奉天が危ないという噂から営口に避難した結果、そこで日本軍による占領にあうことになってしまいました。

クリスティは営口では赤十字病院を設立して治療にあたっていました。以下は、同書からの抜粋です。なお、この文中で「牛荘」とあるのは営口のこと、「旧牛荘」とあるのが牛荘城のことと思われます。

日本軍の占領による混乱はなかった

3月5日、日本軍接近の報が伝わった。北方30哩(マイル)の旧牛荘は、その前日特別に猛烈な血戦の後に落ちた。牛荘港は包囲される形勢にあったため、支那軍は撤退して西北10哩の田庄台に集注した。
6日の早朝…牛荘には殆ど兵隊はいなかった。門は開け放たれて、守備はなかった。日本軍が近づいて来るのが、今は屋根の上から見えるが、その入市に対し抵抗する者はなかった。…日本軍は静粛に牛荘を占領した。…何等怖るべきことは起こらなかった。

日本軍の軍政は公正・文明的で、秩序が回復した

開戦当初の数か月間は、日本軍の到来は一般に恐怖をもって見られた。幾百の人々は敵の手中に落ちる未知の恐怖よりも、むしろ勝手の知れた逃走の危険を選んだ。春には、多くの哩程に亙る住民多き地方に於いて、日本軍の着々たる征服は平静に迎えられた。この態度の変化は、日本軍の規律の予想外なる慈悲と厳正の結果であった。最初は多くの放肆があった。しかし時が経つにつれ兵士は厳重に取り締まられることになり、町々に軍政が布かれるに及んで、人々は正しい、秩序ある統治を受けるようになった。
牛荘はよき行政者を得たことに於いて、特に幸運であった。訴は直に聴かれ、裁きは公平に下された。支那人を苦しめたかどにより日本人の処罰された二三件が、一大印象を与えた。衛生状態は改善され、道路は鋭意築造され、大通りには街頭が立てられた。この外いくつかの大都会の行政も、同じように仁慈、公正かつ文明的であった。

日本人にも悪い連中がいた

もし凡ての日本人が軍政当局者のようであったなら、人々は彼等の去るのを惜しんだであろう。しかし、他の部類の者もあった。軍隊のあとから、人夫、運搬夫等々として雑多なる最下級の群が来て、これらは支那人から恐怖の混じた軽蔑をもって見られた。彼らの無作法な衣類とむき出しの身体とは断えざる嫌悪の感をよび起こした。泥酔その他の悪行が彼らの間に普通であり、而して彼らは兵士の如く厳格なる規律のもとに置かれなかった。

日本の軍政が機能していたのは都会だけだった

都会はよく行政せられたが、田舎の地方は事実上無政府状態であった。強盗が横行し、多くは連発銃を持って居た。春から夏の数か月間遼河には海賊が群れ、水陸ともに旅行は最も危険であった。

営口の軍政当局は、都会地では良い占領行政を行ったようです。しかし、軍隊の後から流入した軍夫たちには悪行があって嫌悪されたり、田舎には軍政が及ばず治安が悪化したり、という問題もあったようです。

外国人の見た日本軍による営口の占領 ー フランスの宣教師

一方、S. C. M. Paine, "The Sino-Japanese War of 1894-1895" (サラー・ペイン 『日清戦争』)によれば、日本の占領地について、日中で発行されていた英字紙によって、下記の問題点の指摘もなされていたようです。

満州では飢饉にかかわらず日本軍の物資調達が優先

1895年の春、フランスの宣教師は、満州での飢饉が迫っていると報告した。1894年の6月に営口と奉天の間の大満州平原で深刻な洪水があった。洪水は小麦・大麦の作物は一部に被害を与えただけだったが、キビ・豆・モロコシという主要作物を荒廃させた。
一旦戦争が始まったら、日本軍は、残りの作物を、彼らの荷駄運搬用の動物や騎兵用の馬に餌を与えるために使い切ってしまった。このことは、日本陸軍は常に支払ってきたという流布している話が、どこでもそうであったのではないことを示唆している。中国と日本の陸軍の間で、農民は彼らの種子と彼らの作業用の動物を失った。さらに悪いことに、彼らは収穫までの5か月間をやりくりする手段をほとんど持っていなかった。(横浜発行The Japan Weely Mail 1895年5月25日付)。1895年4月に、天津からは餓死の報告があった(上海発行 The North-China Herald 4月26日付)。

戦争があると飢饉が起こる、というのは、戦国時代の昔からの常識とも言えることでした。なにしろ、戦禍を免れようとして住民は逃げるので、生産が低迷します。それでも、軍隊は食糧を現地調達したがるので、食糧が不足になります。戦場になった地域では、どうしても飢饉の発生が避けられませんでした。1895年春には、加えて洪水の被害も受けたようです。

この時の日本軍が、金を支払わずに徴発したとは思いにくいのですが、金は支払ったものの飢饉に苦しむ地域地域からも無理やり徴発した、ということはあったのかもしれず、飢饉を深めた可能性は十分にあるように思われます。

 

日本の占領地行政の体制

日本の占領地行政がどのような体制で行われたのかについては、参謀本部編纂 『明治二十七八年日清戦史』 に、ごく簡単にですが記載されています。次表は、その体制の変遷を筆者が整理してみたものです。

なお、威海衛は占領期間が短く、澎湖島は海軍の担当であったので、陸軍が占領行政を実質的に行ったのは遼東半島だけでした。

日清戦争時、清国領内の日本軍民政組織 表

出だしの1894年11月は、第一軍・第二軍が、それぞれ独自の民政組織を作っていて、その組織名称も統一されていません。1895年に入ると、第一軍・第二軍それぞれで、民政統括組織が設けられ、各軍内では各所の民政組織の名称も統一されて、体制が整備されます。講和後は、全体が「占領地総督部 民生部」という組織で統轄され、各所はその「民政支部」となりました。

初めて経験する事態について、まずはやってみて、徐々にカイゼンされていった、ということであったかと思います。

民政の責任者は、最初は外交官、すぐに軍人に切り替わった

関与した人について見てみますと、1894年内に合計6カ所作られた民政組織のうち、規模が大きな安東県・金州・旅順口の3カ所については、最初の組織長は軍人ではなく、外交官でした。安東県の民政庁の発足時点の長官が小村寿太郎で、小村が帰朝を帰朝を命じられると福島安正に代わったことは、「4b2 中盤戦② 九連城より清国内へ」のページですでに確認しました。金州・旅順口についても、軍人に切り換えられていきます。

営口については、開港地で外国人も多数いるという特殊性から、当初は外国対策を行う「理事官庁」と実務を行う守備隊で役割分担をしていましたが、講和後に民政支部となった後も、ここだけは外交官が支部長で、上述の通り、クリスティに褒められる良い民政を行ったようです。

出だしの時期を除けば、第二軍の茨木惟昭少将は一貫して民政の最高責任者であり、1895年1月に第二軍の金州行政庁長官となり、講和後は占領地総督部 民生部長となって、遼東半島還付撤退までその地位にいました。また、民政組織が機能したのは最長でも約1年のことでしたが、各組織の長は、特に第一軍側で短い期間に頻繁に交替した、という印象です。すなわち、第二軍の方が、民政政策にはより一貫性があったようにも思われます。

なお、民政責任者を文官とするか武官とするかについては、論争があったようです。以下は、檜山幸夫 『日清戦争』 からの要約です。

民政責任者は、東京の陸軍が言い張って、文官から武官に変更

山県も伊藤も、民政庁は文官をもって当てる考えであったが、これに異議を唱えたのは東京に残留していた陸軍省の少壮軍人であった。
陸軍省の異議に山県も同調し、さらに陸軍省の主任者が大本営副官にいろいろな注文をつけたことから、容易に〔民政庁官制を〕立案することができなかった。統帥権を楯にかたくなに抵抗する陸軍を説得できず、武主文従による占領地統治という軍政の構図が描かれ、3月30日の勅令第38号による占領地総督府条例にまとめられることになる。

実務的に考えた時、軍務しか知らない、占領地の民政に関する教育など受けたことがない、中国語もできない軍人に、民政の責任者が務まるのか、というのが、常識的な見方だと思います。文官が責任者となれば、民政と軍務の両立がそれなりに図れたでしょうが、武官が責任者となると、どうしても軍務側が絶対優先され、民政が圧迫される可能性が高くなります。その結果は、住民の反日意識を招き、かえって軍務に支障を生じることになりかねません。

こうした実質機能を考えて冷静に判断すべき所を、メンツにこだわった下からの異議に山県が同調してしまったところが、山県という人の問題点であったように思います。

もちろん、大東亜・太平洋戦争の敗戦時に日本の占領地行政を行ったGHQも、総司令官マッカーサーの下で民政局長であったホイットニーは軍人(少将)でしたので、軍人では民政はできない、ということではもちろんありません。ただし、ホイットニーは、軍人としては非常に珍しく弁護士をしていた経歴もありました。軍人の中でもそうした民政に通じた軍人を選ぶのであれば、機能するでしょうが、そういう(例外的な)適任者がいなければ、文官の方がはるかに経験値が高く、住民との摩擦を小さくできたでしょうし、軍務と民政間で必要な調整についても、より上手にこなしたでしょう。

もしもこの時点で、占領地の民政は、民政文官が優先、という原則が立てられていたなら、あるいは、占領地行政について、幹部将校への教育を開始・徹底していたなら、その後の歴史の中で、日本の占領地行政は大いにカイゼンされていたのではないか、現在に至る中国やアジアでの反日意識も少しは減じていたのではないか、という気がしますが、いかがでしょうか。

日清戦争時の日本の占領地行政の質は高かった

民政の目的として、『日清戦史』 は、「一時紛乱せる戦闘後の秩序を回復し、併せて軍需の急に応ぜんこと」としています。軍の駐屯を円滑に行い、必要な軍需物資を調達するためにも、住民から協力が得られる公正な民政が必要である、という目的意識があったものと思われます。

各地の民政が具体的にどのように実施されたのかについては、残念ながら、大本の『明治二十七八年日清戦史』も詳しくありません。以下の記述があるだけです。詳細を追及した研究書は、筆者は未読です。

占領地の民政の具体的な状況

各地方の情態を異にせるため、自ずから実施したる行政の事項も同じからず。…その顕著なるものを挙ぐれば、

● 戦乱の余り奸商等不当の利益を貪り、その害地方の貧民に及び、飢餓を訴うる者あるにより、最近数年の平均を取り、地方の物価を公定して励行
● 市街村落の戸口を調査しまた地方吏員の遁逃せし者を招来し、あるいは新たにその吏員を選挙
● 城門出入取締規則、道路取締規則、船舶出入取締規則、市場取締規則、市街清潔法、家畜飼養場清潔法、伝染病予防規則、徴発規則、兵器取締規則等を設け、これを励行
● 憲兵をして刑事訴訟法の大要に基づき司法警察の事務に服せしめた
● 地方人民救護のため鹵獲米塩を施与しあるいは相当代価をもって富豪の貯蓄を買収してこれを転売し、また地方人民に施療しあるいは種痘を行いし
● 清国と締盟各国との間に存する条約及び附属規則その他従来の規則慣例により営口出入りの船舶に課税
● 内地より渡航し来る商人に対し取締
● 占領地の耕地段別及び租税の大要を調査

公刊戦史ですから、上手くいったことだけを書いて、トラブルは書いていないと思われますので、どこまで尊敬に値する占領地行政であったかは、すこし割り引かなくてはならないようには思われます。

しかし、当時の日本の占領地行政が、クリスティの証言にあるように、英国人の眼から見ても公正・文明的なものであった、というのは、結構なことであったと思います。外国人もいる営口では特に公正さが意識されていた、ということもあったでしょうが、他の都市でも公正であったとされていますので、日清戦争当時の日本軍の占領地行政は、軍人が責任者であったのにかかわらず、おそらく文明的に行政を行う必要が十分に認識されていて、全般に質が高かった、と言えるように思います。

ところが、昭和前期になってからの、中国や東南アジアでの日本軍による占領地行政については、評価はむしろ正反対で、現実に日本軍への憎悪を招き、現地住民の反日意識を高めて、中国やフィリピンでは広範にゲリラ戦を仕掛けられ、結局は日本軍の敗退を促進しました。少なからぬ民衆を敵に回してしまったのですから、極めて下手クソな占領地行政を行ったものだ、と思います。

また、クリスティの指摘にある、都市は占領地行政が機能していたが、田舎は事実上無政府状態で掌握されていなかった、とか、ペイン指摘の飢饉の地域からも無理やり徴発したいうのは、この時の占領地行政の質は高くでも、まだカイゼンの余地があったことを示しているように思います。

占領地行政の機能は都市地域だけだったとか、無理やりの徴発、というようなことは、昭和前期の日中戦争期でも同じでした。すなわち、クリスティらのせっかくのこの指摘をカイゼンすべき課題とはとらえられず、適切な反省がなされることがなくて、何のカイゼンも生み出されなかったことが示されているように思われます。

それどころか、日清戦争という出発点においては高評価を得たものが、昭和前期に至ってなぜ継続されず、むしろ著しく劣化してしまったわけです。なぜそうなってしまったのでしょうか。筆者としては非常に関心のある課題です。しかし申し訳ありませんが、この点について筆者は、まだ勉強不足と言わざるを得ません。

日本の軍夫の質には問題があった

なお、クリスティの記録には、当時の日本軍の軍夫などの質がかなりひどかったことも示されています。

軍夫と一口に言っても、義勇軍運動から軍夫に志願した人たちと、請負業者による募集に応募した人々との二つのグループがあり、第一グループは、一定の読み書きもでき、理解力や実務能力もある人々で、東北地方に多かった、第二グループは、まったく体力だけを頼りに参加した人たちで、東京・大阪・名古屋などの都市住民が多かった、とのことです。(原田敬一「軍夫の日清戦争」 - 東アジア近代史学会編 『日清戦争と東アジア世界の変容』 下巻 所収

すなわち、東北の第二師団の軍夫の多くは、兵士と同等以上の資質があったものと思われますが、都会地から来た第一師団や第三師団などは、軍夫の質にかなりの問題があった可能性があります。営口の場合、占領を行ったのが第一師団だったので、東京やその周辺からかき集められた、「まったく体力だけを頼りに参加した」軍夫が少なからずいたものと思われます。

こうした軍夫の供給元となった、当時の都市の貧民の状況については、横山源之助 『日本の下層社会』 に記録があります。それによると、東京の貧民の職業は、従事者の多い順に、人足・日雇、人力車夫、車力、土方、屑拾い、その他の雑多な職業であるが、例えば人力車夫はその常として、「途中不要の飲食物に金を捨つること多き」であったり、「屑拾いに盗人根性なきは少なく、その大半はカッパライの者流なり」とか、「今日東京の貧民窟にては…十人中七、八人までは酒を飲む…その生活に窮する、多くは酒のためにして、夫婦喧嘩起こるもまた近因酒より来る」という状況であり、「貧民はその生活に欠陥あると共に、知識思想の上においてもこれに等しき程度を以って、むしろその以上の欠陥を有す」と書かれています。

「泥酔その他の悪行が彼らの間に普通」だったというクリスティの観察は、横山源之助の記録とよく一致しています。この点のカイゼンは、資本主義の発達による生活水準の向上と、就学率の向上・学校教育の普及を、待たざるを得なかったものと思われます。

 

これで、日清戦争での中国本土内での戦闘はすべて終了しました。次は、講和を目前にした終盤戦の状況についてです。まずは澎湖島の戦いについて確認します。