日清戦争で戦場となった地域
日清戦争で
戦場となった地域
(黄は陸戦、赤は海戦) 
 
カイゼン視点から見る
日清戦争
The Sino-Japanese War of 1894-95 from Kaizen Aspect

日清戦争前の清国の状況

清国の状況 対日・対朝の政策
華夷秩序維持の大方針

上 日本陸軍の旅順西方砲撃 下 日本海軍の速射砲砲撃
上 日本陸軍の
旅順西方砲撃
下 日本海軍の速射砲砲撃
(日清戦争写真帳より)
 
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日清戦争の相手国であった清国は、当時どのような状況にあったのか、とりわけ、日本や朝鮮に対する政策はどのようなものであったのか、再確認したいと思います。

19世紀中葉以降、衰退が進みつつあった清国

17世紀後半から18世紀末までの約150年近く、康熙・雍正・乾隆の3帝の時代に清は最も盛隆し、巨大帝国となりましたが、19世紀中葉に入るとほころび始めます。

まず外交関係が緊張してきます。イギリスとのアヘン戦争が勃発したのが1840年、南京条約により香港島が割譲されます。1857年には第2次アヘン戦争ともいわれるアロー号事件、60年の北京条約により九龍半島が割譲されます。そしてイギリスと結ばれた不平等条約に準じて、他の欧米列強とも不平等条約を結ばされます。

ロシアとの間では、1858年のアイグン条約でアムール川左岸を、1860年の北京条約でウスリー川右岸を割譲し、ロシアのアムール州、沿海州となりました。中国東北部については、このとき定められた国境線が、現在に至るまで続いています。

間をおかず内政面でも大混乱が生じます。1851年末、広東省で太平天国の乱が勃発します。太平天国は、1853年には南京を占領して本拠とし、1864年7月に滅亡させられるまで、約15年にわたり清に反抗していました。その間の死者は、内輪に見ても7千万人といわれ、国土は激しく荒廃したと言われています。

1871年 日清の近代的外交関係の開始

日本が明治維新になった1868年当時、清では、太平天国も滅亡し、外交と内政の両面での緊張・混乱からは一応脱した、といえる時代だったと言えます。明治政府は、ただちに清国との正式国交の樹立に向かいます。

以下では、岡本隆司 『李鴻章 −東アジアの近代』によって、当時の清国の対日・対朝鮮の外交政策を確認していきたいと思います。

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1871年、日清修好条規の締結時から、清側と日本側には解釈の不一致

1870(明治3)年9月、明治政府の使節団が天津に。清と西洋的な条約を結び正式な国交を開くことが目的。同年8月に直隷総督に任命され11月からは北洋大臣も兼務となった李鴻章は、一貫して、日本の求めに応じ条約を締結すべきと主張。「連合して中国の外援とすべきであって、西洋人に外府として利用させてはならない」。

日中関係の歴史。16世紀の日本は「倭寇」。豊臣秀吉の朝鮮出兵、明も朝鮮に援軍派遣して正規軍同士の戦争。江戸時代に日中関係も落ち着く、当初は互いに重要な貿易相手。日本での貴金属の枯渇と国産化の進展のため、双方の貿易が激減、関係そのものが希薄化。したがって、李鴻章、ひいては清末中国の基本的な日本観は、日本は清朝に対する軍事的な潜在的脅威、というもの。

1871(明治4)年9月13日、日清修好条規に調印。対等の関係。原案は清側が用意し日本側が受け入れ。清側の狙いと日本側の解釈が合致していなかったという問題あり。第一条は相互不可侵規定。「両国に属したる邦土」、清側は朝鮮などの朝貢国も含むとの解釈、日本側は朝貢国と「属国」は異なると認識。第二条は日清の提携、「もし他国より…互いに相助け」、清側は西洋人を制する手段としての日清連合、日本側の解釈は、すでに清朝とアメリカが結んでいた条約の内容と同じ。

1874年の琉球処分、75年の台湾出兵 − 修好条規の解釈不一致が顕在化

日清修好条規調印のほぼ2ヶ月後、1871年11月30日、台湾に漂着した琉球宮古島島民54名が台湾の先住民「生蕃」に殺害された台湾事件。そのおよそ1年後、明治政府は琉球王国を琉球藩に、琉球国王を琉球藩王に。

1874(明治7)年5月日本の台湾出兵。「生蕃」は「化外の民」とする清国総理衙門の見解を延長し、「化外」なら国際法上の「無主の地」とみなすべき、というのが日本側の見解。清側は、修好条規第一条を根拠に日本を非難、万国公法は西洋各国のもので、清国にはあてはまらぬと。しかし軍備の整わない清が譲歩。日本は清を国際法に準拠しない国だとみて、清は日本を条約に背いてみだりに武力にうったえる国だとみて、たがいにいっそう不信感・警戒感。清側は、自らの条約観・対外関係に問題があるとは認めず、あくまで軍備の問題とみて、以後海軍力強化。

1875(明治8)年7月、日本政府は琉球に清への朝貢廃止、明治年号の使用など要求、79年4月沖縄県令設置。清から日本へ日清修好条規を引用しての抗議文。そもそも「属国」に対する日本の侵攻を未然に防ぐための手だてとしようとしたものが通用せず。

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近代の日清関係も出だしから緊張含み、原因は日本の過去の行動

この時代の日清関係も、現代の日中関係と相似的なところがありました。日本の過去の行動への記憶ゆえに、日本が清国側から警戒されていた、という点です。

日本が単に、華夷秩序に属してこなかった、中国皇帝をしかるべく尊重してこなかった、というだけなら、そこまで警戒心は持たれていなかったのではないか、と思います。そうではなく、倭寇として、海賊行為を長きにわたり行ってきた国である、さらに豊臣秀吉の時代には、明国から領土を得るために朝鮮侵攻を行う、という道理の立たない戦争を仕掛けてきて、朝鮮を支援する明国と交戦した国である、という悪しき実績がありました。

したがって、その当時の清国人から、今の日本人はその当時の日本人とは違うのかどうかわからない、警戒するにこしたことはない、などと考えられたわけです。そもそもの原因が日本側の過去の行動にあったことでもあり、警戒されたからといって著しく不当であるとは言えません。特に秀吉の朝鮮侵攻は、倭寇とは異なり日本の国家としての行動でしたが、実際には倭寇以上に激しい掠奪を行いました。このとき具体的にどういうことが起ったのかは、次の「朝鮮の状況@−秀吉の朝鮮侵攻」で確認したいと思います。

正式国交確立から数年も経たぬうちに、日清関係は緊張へ

日清修好条規は結ばれたものの、数年も経たぬうちに、日清関係は緊張しました。日本側が琉球処分と台湾出兵を行ったためです。

当時の日本は、近代国家の建設過程の一つとして、欧米流に条約締結や国境画定を進める途上にありました。日本側からすれば、日清間の条約と同様、琉球処分もまさしくその目的で行われたことでした。しかし、清国側からすれば、琉球処分は既存の華夷秩序への重大な敵対行動である、と受け取ったのも当然ではあります。薩摩藩に帰属させながら、経済の利を確保するため清国にも朝貢をさせつづけたのですから、もめて当たり前です。とはいえ、もめてもやらざるを得ない事柄でもありました。

では、台湾出兵はやらざるをえない必然性はあったのでしょうか。台湾出兵とはどういうものであったのかを、もう少し詳しく確認しておきたいと思います。台湾出兵では、現に軍隊が送り込まれはしたものの、相手はロクな武器を持たぬ先住民であり、なびかせることが目的でしたので、「戦争」を行ったという位置づけにはなっていません。以下は、毛利敏彦『台湾出兵−大日本帝国の開幕劇』からの要約です。

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1871(明治4)年の台湾事件、74(明治7)年の台湾出兵

1871(明治4)年、那覇を出港した69人乗組の宮古島船が航海中に嵐で遭難し台湾南端に漂着、上陸の時3人溺死、残り66人は清朝の統治に服していない台湾先住民部族(「生蕃」)の襲撃にあい、54人が殺害される事件が発生、12人は翌年帰還。欧米諸国であれば、ただちに軍艦を派遣して責任を追及し償金を出させるケース、と言われる。

1874(明治7)年2月6日、閣議は「台湾蕃地処分要略」の決定。「無主の地」として清国領土外とみなす「生蕃」地域に対して、琉球民遭難への「報復」の「役」を発動することが基本方針。4月4日、陸軍大輔西郷従道を台湾蕃地事務都督(遠征軍司令官)に任命、熊本鎮台歩兵一大隊・同砲兵一小隊と日進艦ほか二軍艦などを指揮下に委ねる。鹿児島士族約300名の徴集隊も参加。総数約3600名。

5月出陣。日本が近代国家となってから最初の海外への武力行使。西郷都督の任務は、表面は「討蕃撫民」だが、実質は「フォルモサ島の一部〔=「蕃地」つまり「無主の地」〕を日本に併す」こと。現地で「撫民」工作が着々と進められ、多くの部族が遠征軍になびいたが、6月1日から5日にかけて牡丹社の本拠地を陥落させ「生蕃」の抵抗はようやく終息。

遠征軍の損害延数は戦死12名、負傷17名。なお、風土病特にマラリアが蔓延し、ついには全軍3658のうち病死者561という惨状を呈した。

台湾出兵の結果

9月から10月、大久保利通が北京に行き日清会談。イギリスのウェード公使が調停し、日本側は50万両と引き換えに台湾占領地を放棄することで落着。日本は12月に撤兵。

遭難琉球人は日本国民であると解釈できる協定に清国が同意したため、琉球は日本領であると客観的に承認。華夷秩序の一角が崩れ、ひいては大清帝国滅亡の一里塚となった。これ以降、清国は日本を仮想敵国視することとなった。

清国から受け取った50万両は、日本貨幣に換算すれば約77万円、それにたいして遠征費用は約362万円、軍隊輸送用船舶購入費等を合算すれば771万円余、貧弱な日本政府財政にとって過大な負担。

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台湾出兵に至った日本の国内事情 − 士族の既得権喪失・失業問題

廃藩置県は1871(明治4)年4月、徴兵制施行は73(明治6)年1月のこと、士族は既得権を喪失していき、征韓論でもめて西郷隆盛が明治政府を辞した「明治6年の政変」も10月に発生しました。征韓論は、表面は外征論でも、その本質は士族の失業対策事業構想というべきものであり、既得権を喪失する士族の不満の処理が、政府にとって重大な課題となっていた時期でした。

台湾出兵は1874(明治7)年5月出陣。「明治6年の政変」から半年経つか経たぬかのタイミングでしたが、「反政府エネルギーを海外へとそらすための切羽詰まった選択」だったのではなく、大久保が終始一貫して、台湾出兵→領有に意欲的であったためである、台湾先住民地域を獲得しようと強引に推進した暴挙(司馬遼太郎いわくは官製の倭寇!)だった、というのが、毛利敏彦の前掲書の結論です。

ただし、のちに陸軍の反主流派将軍として知られた三浦梧楼は、その回顧録である『観樹将軍回顧録』のなかで、台湾出兵の目的について、「その実は薩摩人の融和を図らんため、西郷の部下に属する私学校の多数をもってこれに充てるというのである」と述べています。現に薩摩士族からの参加もあったのですから、その側面もあったと見るのが妥当のように思われます。三浦は当時兵部省で武器を管轄していて、政府兵に武器供給するのは当然だが、「私学校の者をもって蕃族を討伐するというのは、無名の師である。無法の戦いである」として、薩摩兵への武器供給を拒絶し辞表を出した、と書いています。

台湾出兵は、台湾の「蕃地」領有の意欲が直接の引き金であったとしても、士族の既得権喪失とその対策の過程での一事件でもありました。いずれにしても、日本側の国内事情が根本原因の事件であり、日本側に十分な正義があった、とはいえないようです。

台湾出兵の利得と損失

台湾出兵の結果の損得勘定を整理したいと思います。出兵の結果、琉球が日本領として認められた点では、ポジティブな効果がありました。しかしこの効果は、出兵の主目的に対しては副次的なものに過ぎないことに注意が必要です。本来の目的である台湾の「蕃地」領有は、完全に失敗に終わりました。

経済的には、わずかな償金を得ただけにとどまり、大損失となりました。出征した軍も、ほとんど全員マラリアの病人になりました。さらに、日清関係については、もともとあった清国の日本への警戒心を、日本は暴力的な国であるとの確信に変え、日本は清国の仮想敵国となり、その後の日清関係に重大な負の影響を与えました。

すなわち、やっただけの甲斐があったいえる出兵かどうか。琉球を日本領として認めさせるだけなら他の方法はなかったのか、反省の余地が十分に残った出兵であったよう思います。

台湾出兵までは征韓論がかまびすしかったのに、台湾出兵後に日本が海外に攻勢的出兵を行うことは、1894年の日清戦争まで約20年間ありませんでした。それは、台湾出兵がとても成功とは言い難い結果で終わったことに対する、一つの反省結果であったように思われますが、いかがでしょうか。

華夷秩序による宗属関係とは?

台湾出兵の後、日清両国の関係が、朝鮮を間に挟んで微妙なものになっていきます。何が問題であったかを理解するには、華夷秩序による清国と朝鮮との間の宗属関係を理解しておく必要があるようです。この宗属関係の実態がどんなものであったのかを確認したいと思います。

まずは、岡本隆司 『世界の中の日清韓関係史』に記述された、この関係の要約です。…明朝の皇帝は、天から天下を支配するように命ぜられ、天下の中心たる中華に君臨する天子である。周辺の国々はその天命を尊重し、皇帝に臣事、服属するあかしとして、天子のもとにその地の産物を貢物として持参する(朝貢)。それを受けた皇帝は、返礼として莫大な下賜品を与えるだけではなく、その国の君長たることを認可する(冊封)。朝鮮は明朝を君父たる宗主国とあがめたてまつり、自ら臣子たる藩属に甘んじた。朝鮮側から見ると大国または上国に事(つか)える事大関係ともいう。… 岡本は、明朝と朝鮮との関係を「宗藩関係」、清朝が明朝に替わり、朝鮮に事大関係を強要して以後の関係を、「宗属関係」と呼んでいます。

関係の中身、双方の権利義務を、もう少し具体的に確認したいと思います。以下は、東アジア近代史学会編 『日清戦争と東アジア世界の変容』に収録されている論文の要約です。

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冊封に対する、経済上の援助と軍事上の保護責任

中朝関係は、1637年以降、封貢の関係、つまり「宗藩関係」。政治、経済、軍事など多方面にわたるもの。その基礎は冊封、朝鮮の世子、世子妃、王妃の選考・決定、及び王位の継承は清国政府の承認必要、その上、賞罰の権。清国政府は朝鮮に対し経済上の援助、軍事上の保護の責任。この関係は、1882年10月1日に調印した中朝「商民水陸貿易章程」によって近代的条約形式で規定された。
(以上は、関捷 「甲午中日戦争期における東アジアの国際関係」)

 宗属関係での具体的な義務と負担

朝鮮と清の宗属関係、1627年後金(清の前身)・1636年清による武力的侵攻の後、1638年に朝鮮国王仁祖が清の皇帝太宗から冊封を受けたことに始まる。朝鮮は属国として宗主国の清に従臣、朝鮮国王は清の皇帝によって冊封、毎年朝貢と正朔を奉ずる義務。使節の往来は、日清戦争開戦直後の1894年7月25日に、朝鮮政府が章程の廃棄を通告して独立の意思を表明したことによって廃止、朝鮮と清の宗属関係は解体。

清に服属後の朝鮮の負担、

  1. 北京への使節の派遣
    258年間に合計903回、平均年3.5回。朝鮮の負担は平均年15.1万両、清の負担は平均年11.5万両
  2. 北京からの勅使の受け入れ
    245年間に169回、平均年0.7回。これに対する朝鮮の経費は年平均15.9万両
  3. 国境貿易
    義州など3つの市で辺境開市、海上貿易は清によって禁止

1882年の商民水陸貿易章程、海上貿易推進に転換、「大員」が天津に駐在、「商務委員」を清と朝鮮が相互に開港地に駐在、治外法権など宗主国の清に有利。締結されると、華商が朝鮮に活発に進出、許可された開港地(仁川、釜山、元山)楊花津、漢城以外の地にもどんどん入り込む。
(以上は、原田環 「日清戦争による朝清関係の変容」)

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使節の派遣やら、勅使の受け入れやらという、皇帝や国王の権威に関わる事柄が重大であり、そういう行事にそれなりの費用を使わねばならなかった関係である、と言えるようにも思います。国境貿易は、別途朝鮮の経済状況のところで触れますが、朝鮮側が赤字でした。

朝鮮を挟んだ日清関係

日本が朝鮮との間で欧米流の近代的な条約を結ぼうとしたとき、問題が宗主国である清国側にも波及してしまいました。清国側で、近代的な条約と、既存の宗属関係との整合性をどう維持するかという問題が生じてしまったわけです。

岡本隆司 『李鴻章 −東アジアの近代』・『世界の中の日清韓関係史』によって、それ以後の、特に朝鮮を挟んだ日清関係を再確認していきたいと思います。台湾出兵の翌年の江華島事件から、甲申事変までの期間です。

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江華島事件 − 噛み合わぬも深刻な対立せず

日本による1875年9月の江華島事件。日本政府は、朝鮮に使節を送ると同時に、特命全権公使森有礼を北京に派遣し清朝の調停を依頼。総理衙門は日清修好条規第一条(= 「両国に属したる邦土」への相互不可侵規定)に基づき朝鮮に対する日本の武力行使を非難、李鴻章からは、「所属邦土」の「土」とは中国各省、「邦」とは「朝鮮など外藩・外属」との説明。しかし朝貢国と「属国」は異なるところに問題あり、噛み合わず。李鴻章から口添えの言質を得たことから、このときは事なきを得る。

朝鮮に対する清国の地政学的認識と朝鮮「属国」実体化政策

日本に対する清朝の危機感は、1879年の琉球処分でひとつの頂点に達した。日本が琉球藩を廃して沖縄県としたこの事件は、清朝からすれば、琉球という属国の滅亡、清琉間に厳存した宗属関係の解体消滅。ほかの属国にも波及しかねない。そこで琉球の轍を踏まないよう、朝鮮政府に、西洋諸国との条約締結を説得。

1881年末から開始の、朝鮮政府のアメリカとの条約締結、清朝間で事前合意の朝鮮側草案の第一条、「朝鮮は清朝の属国であり、内政外交は朝鮮の自主」。「属国自主」の盛込み案に、アメリカ側は西洋流の条約にはそぐわないと同意せず。やむなく、李鴻章の幕僚である馬建忠が仲介して米朝調印、そのさい朝鮮国王が「属国自主」を明記した親書をアメリカ大統領に送るとの」解決策。

馬建忠は、朝鮮から日本の影響を排除し清朝との関係を強めるため、「属国」を実体化させ「自主」を名目化する方針を策定、以後の李鴻章の行動はもとより、東アジアの歴史過程全体を規定した。

背景には、西洋は条約さえ守ればおとなしくしているが、日清修好条規が通用しない日本は、政治中心地の北京に近い朝鮮半島や、経済中心地の江南を含む東南沿海に脅威をおよぼす第一の敵国との認識。「海防」は不可欠、北洋海軍の仮想敵国は日本。北京の防衛には東三省の保全が必要、それには朝鮮半島の保持が必要。

壬午軍乱・甲申事変での清国の対応 − 「属国」化強化の実践

1882年の壬午変乱、馬建忠は、名目的な「自主」のため朝鮮側に指示し、日朝間交渉で済物浦条約、他方、大院君拉致と旧軍討伐では公然と朝鮮の内政に干渉し清国の「属国」扱い。

李鴻章はソウルに袁世凱を代表として送りこんで従属化を強化。朝鮮側も事大党・独立党の色分けと相剋が鮮明化、1884年の甲申事変。「属国」に自由な出兵権を留保したい李鴻章と「双方均一の主意」を譲ろうとしない伊藤博文。ついに前者が譲歩して、1885年天津条約の締結。十年間機能し続けた。

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必然的な結果は、日本と清国の「利益線」の衝突

上記の経緯を整理すると、以下のようになります。
@近代国家の建設過程の中で、日本が琉球処分を行いその方面での領土を画定したため、従来の華夷秩序を維持しようとする清国の利害と衝突した → A清国側は対応策として、「属国自主」の規定を入れた条約を締結させようとした → B欧米諸国がそれを諒解しなかった → C清国はさらなる対応策として朝鮮の実質属国化に踏み出した。

「風が吹けば桶屋が儲かる」風に言い換えると、日本の近代国家建設の努力の一部が、清国による朝鮮の実質属国化をもたらした、という流れです。

そのさいに、清国側では、「北京の防衛には東三省の保全が必要、それには朝鮮半島の保持が必要」という認識を持っていたことに注意が必要であると思います。のちの1890年に日本の山県有朋首相が行った「利益線」主張と、基本的に同一の発想を持っていたからです。清国側から見ても、日本側から見ても、地政学的に見るかぎりは、真ん中にある朝鮮が自国の防衛に重要であるとして譲れない土地であったということになります。

お互い譲れない、妥協が出来ないとなれば、戦争にならざるを得ません。このまま道を譲らなければ正面衝突するしかない、と分かっていても、道を全く譲ろうとしなかった二人のドライバー、と同じ、という話になりました。現在の日中関係も、双方とも、今から百数十年前と同様で進歩がない、発想のカイゼンが見られない、と言えるのかもしれません。

清国と、日本や朝鮮以外の他の国との関係はどうだったでしょうか。また、岡本隆司 『李鴻章 −東アジアの近代』からの要約です。

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清とロシアとの関係安定化

東トルキスタン、いわゆる新疆、1864年に大反乱、清朝の権力が崩壊。折しもロシアの中央アジア征服が進行、西トルキスタン全域は70年代にほぼロシアの支配下に。左宗棠の新疆遠征、1877年までに新疆のほぼ全域を再征服。ロシアも妥協し、1881年ペテルブルグ条約で現在の中露西方の国境線が確定。清露間は以後長く平和な関係が続く。

ベトナムについてのフランスとの決着

ベトナム、1885年6月清仏戦争後の講和条約たる天津条約においても、フランスはベトナムと清朝の「威望体面を傷つける」とりきめは結ばないとの条文、清朝側としてはベトナムが引き続き清朝の「属国である」との意。相手の保護権を認めておきながらなお「属国」視するのは、フランスのあるいは西洋的な考え方ではほとんど理解できない論理。

1880年代半ば、李鴻章は対外的な脅威を除去

フランスとの天津条約で南方の辺境も安定、日清天津条約を加えて考えれば、李鴻章は当時、対外的な脅威をほぼ除去することに成功。この時期清朝の対外交渉、李鴻章が関わっていないものはほぼ皆無。外国側が、李鴻章となら交渉できる、条約を締結してもよい、と見なしていた。国内事情としては、清朝で最強の軍事力を有し、最終的な責任を負うことができた。李鴻章のまわりには、開明派、西洋通人材が集まった。

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80年代半ばにフランスにベトナムを奪われたりはしたものの、それから90年代初めまでの10年近い時期は、清国にとっては、外交上の重大問題がすべて片付き、李鴻章がその成果を最も誇れる時期であったようです。

しかるに、1894年には日清戦争が勃発します。戦争に勝った日本と、負けた清国。しかも清国は、単に敗戦したにとどまらず、朝鮮への影響力を失い、台湾の領土も失い、さらには清朝そのものが存亡の危機に向かって進んでいくことになります。なぜ日清戦争で負けることになったのか、もう一度、岡本隆司 『李鴻章 −東アジアの近代』からの要約です。

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李鴻章は例外的、大勢は変化しようとしない清朝

李鴻章の存在自体が清国の近代化には矛盾。「属国自主」論も旧来の朝貢関係を前提。李鴻章がそんなアピールをしつづけなければならないほど、攘夷・排外・「清議」の勢力が政界・社会で強かった。

李鴻章自身の勢力に内在する問題、淮軍の強化・海軍の建設が思うように進んでいない事態。李鴻章は1874年、科挙試験制度に改革を加え洋学で合格できるコースと洋学局の創設を提唱、しかし当時は過激な変革論として受け止められ、激烈きわまる非難を浴びた。李鴻章がめざしたものを真に獲得するためには、「清議」・科挙を支持する社会の構造をつくりかえなければならない。その失望は深かったというべき。

李鴻章は1860年代から清朝きっての知日派。日本に対し畏敬の念、自らがなしえない官民一体の西洋化・近代化を、急速に進めていたから。だからこそ誰よりも日本を脅威として恐れた。

士官・技師の人材と組織を欠いては、海軍の運営強化ができない。せめて海軍の威容をさかんにするほかなし。一度ならず長崎に寄港して、その姿を日本人に誇示、なかば虚勢を張った威嚇。北洋海軍は戦わない。あくまで示威的な抑止力だった。実戦に心許ないことは、李鴻章本人が熟知している。

清国の日清戦争への対応

東学乱、清朝の側には、とりわけ袁世凱にとって、千載一遇の機会に映った。援軍を送り、軍事的な保護を実現すれば、朝鮮が清朝の「属国」なのは誰の目にも明らかになる。政府と議会の対立がつづく日本の内政は紛糾しており、とても朝鮮に出兵してくる余裕がないと見きわめた。しかしそれは、実はとりかえしのつかない失敗。

李鴻章は戦争を回避したかった。それが実現しなかったのは、妨げる勢力があったから。皇帝・光緒帝が成人、現状に不満な勢力は、光緒帝のもとに結集し実権派に対抗、避戦を批判。軍資金の不足を口実に開戦を躊躇する李鴻章に対し、皇帝派の戸部尚書(財務大臣)は財政をやりくりして7月11日に300万両もの大金を北洋に交付。李鴻章はなお避戦の望みを棄てず、一挙に大軍を送ることもしなかったから、結果的に援軍の逐次増派、戦術として最もまずい。

1880年代に李鴻章の舵取りを支えてきた、対内的・対外的な政治・軍事・外交すべての条件が、この一戦(=日清戦争)で失われた。

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体面と既得権を守るメンツ、改革の徹底にかけるメンツ

戦争に負けた清国と勝った日本、何が違ったのでしょうか。清国は、なにしろ華夷秩序・攘夷論の本国でありました。自分たちこそ華であるというメンツ、それを支える伝統的思想、その思想と結びついた既得権、という構造から抜け出ることが容易ではなかったでしょう。とはいえ、アヘン戦争から半世紀にわたり対外戦争で敗北を続けた、という不幸な経験からの学習が、明らかに十分ではなかった、と言えます。

他方、日本は、といえば、その清国の対外戦争敗北の事実を反面教師として、同じ轍を踏まないように明治維新を行った、ということであると思います。しかも、士族が反乱を起こす情勢にも妥協せずに既得権を取り上げ、抵抗が激しくても増税を実施して軍備増強を図るなど、個別の政策が正しかったかどうかは別にして、改革が徹底していたために、短期間で成果があげられました。

外部条件が明らかに変化している時代に、メンツは、伝統や既得権を守るために発揮されるべきもの(=自分のメンツにかけて現状を守り通す)ではなく、改革の徹底的な実行のために発揮されるべきもの(=自分のメンツにかけて改革をやり通して現状を変える)である、と言えるかもしれません。

次には、日清の争いの対象、戦争の目的となった朝鮮の状況を確認したいと思います。まずは、朝鮮の開国から、日清間の対立が明確となった甲申事変までの時期についてです。

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