4a1 序盤戦① 豊島沖海戦

 

 

ここでは、日清戦争の実質的な開戦の戦いとなった、1894年7月25日の豊島(ほうとう)沖海戦について、経過を確認したいと思います。

なお、このページでの引用等で、引用元を記していない場合には、すべて「4 日清戦争の経過」のページに記した引用元から引用を行っていますこと、ご了解ください。

 

日本海軍 連合艦隊、日清戦争への出動準備

豊島沖海戦に至るまでの海軍の準備状況

日本の陸軍については、日本の国内で、西南戦争のように内戦を戦って勝利しているほか、台湾出兵のように海外派兵をされた経験もありました。しかし日本海軍にとって、海外に出て外国海軍の艦隊と交戦することは、全く初めての経験でした。

まずは、豊島沖海戦に至るまでの海軍の準備状況について、確認したいと思います。

日本艦隊 - 6月5日には出陣の準備なし

海軍は、大本営設置の6月5日にはまだ準備なし。西郷従道海軍大臣自身が「北洋艦隊の優勢なるを憚るが為に躊躇したり」(外務次官林董の回想録)の状況。「我国民は、はじめより陸軍に於ける勝利は予期したる所なりしも、海軍の勝敗如何に付ては、すこぶる疑念を抱きたるもの多かりし」(陸奥宗光 『蹇蹇録』)という海軍の実力に加え、そもそも日清が戦う必要性について、当時の総理大臣伊藤博文も明治天皇も消極派だったことも影響しているか。

6月24日から1ヶ月間の即席訓練 - 単縦陣の採用決定

6月24日にほとんどの軍艦が佐世保に集結、連合艦隊(司令長官は伊東祐亨海軍中将)が編成されたが、各艦は、艦隊を組んで統一された航行・戦闘を行うまでには訓練されおらず。そこで、7月23日に艦隊が佐世保を出港するまでの一か月間に即席の訓練と研究。信号や艦隊運動に未熟練のため、信号なしでも行動できる単縦陣の採用を決定。左右舷側方向に射撃可能な中口径速射砲を多数装備しており、結果的にも適切だった。(清国側は艦首方向の射撃能力を生かす単梯陣、二番艦以下が先頭艦に対し順次右または左にずれた位置を占める)

7月21日以降、清国陸軍の海路による増派と、日本艦隊の出港

清国は牙山の駐屯軍の増派の必要を悟り、3隻の英国商船を雇用、塘沽港から牙山海岸に向け、集中を避けるべく到着をずらすため、1隻目は7月21日午後、2隻目は22日の夕方、そして3隻目の「高陞号」は23日の早朝に出港する計画。将兵1150名ほかを積んだ1隻目は24日午前4時に、主に食糧・軍馬・弾薬などを積んだ2隻目は同日午後2時に、牙山港口に到着、はしけにより輸送。
大本営は、上海や天津駐在の日本人武官や領事から清国陸軍の動向の情報を得ており、7月19日、大本営から連合艦隊に、朝鮮半島西岸の制海権の把握と、清国増派を発見すれば清国艦隊とともに輸送船の破砕指示。
7月22日に「筑紫」と「赤城」、23日に本隊(「松島(旗艦)」「千代田」「高千穂」「橋立」「厳島」)・第一遊撃隊(「吉野(旗艦)」「秋津洲」「浪速」)・第二遊撃隊(「葛城(旗艦)」「天龍」「高雄」「大和」)・水雷艇隊母艦(「比叡」)が佐世保を出港。本隊と第二遊撃隊は、7月25日午後2時には群山沖に錨をおろしたが、第一遊撃隊はその快速を活かして、同日午前4時30分にはすでにベーカー島付近に至っており、さらには同日午前6時30分には仁川沖の豊島付近にまで到達していた。
1894年7月25日 豊島沖海戦 地図

「3 日本の戦争準備 - 3c 朝鮮出兵と開戦決定」のページで確認しました通り、伊藤内閣が開戦方針を最初に決定したのは6月15日のことでした。ところが、その後6月30日にロシアによる干渉が開始され開戦方針は一時棚上げとなり、開戦が最終決定されたのは7月19日のことでした。

当然のことだとは思いますが、政府側のこの動きと、海軍の出港準備は連動しています。最初に開戦方針を決定した6月15日から約10日のうちに、「ほとんどの軍艦が佐世保に集結」して訓練を開始したようです。また、清国の増派の状況も踏まえて開戦方針を最終決定した7月19日に、日本艦隊は指示を受け、その3~4日後の22・23日に出港、ということになりました。

列強の干渉による開戦遅延のおかげで、日本海軍は訓練ができた

上述のとおり、途中で列強からの干渉があり、そのため開戦への動きが一時止まりました。しかし、日本海軍の状況を見ると、そのおかげで約1ヶ月の訓練期間が確保でき、結果的に良かった、と言えるのではないでしょうか。もしも6月15日以降あまり間をおかずに開戦になっていたら、日本海軍は訓練不足を露呈して、すんなり勝ててはいなかった、その結果は陸軍の作戦にも影響を与え、戦争全体の趨勢はかなり変化していた、という可能性も大いにあったのではないか、という気がします。

見方を変えれば、この当時の日本海軍は、艦隊の集結時に即席訓練の必要性を発見し、即座に訓練を行っただけでなく、全体の未熟さも客観的に判断したうえで、単縦陣の採用を決めたわけです。メンツなど気にせず実質本位、大変にカイゼン精神にあふれていて、良い判断と実践を行ったように思われます。

 

1894年7月25日 豊島沖海戦は輸送船団襲撃戦

豊島沖海戦の経過

いよいよ豊島沖海戦です。経過を確認したいと思います。

豊島沖海戦の開始

7月25日早朝、偵察中の第一遊撃隊は、午前6時30分ごろ、仁川沖豊島付近にて、清国軍艦「済遠」と「広乙」を発見。もともと遊撃隊には、伊東連合艦隊司令官から「運送船を追撃すべし」との任務。
7時52分に両国艦艇の間で戦闘が開始された。「済遠」は中程度の損害を受け遁走、「広乙」は炎上して擱座、緒戦は日本海軍の一方的勝利。軍令部 『海戦史』 では「清国軍艦済遠先ず我に向かって発砲す」とされているが、事実は日本側「吉野」から先に発砲した(清国側記録、日本現場側の報告)が、清国側から開始との旨の文章を大本営が補って日本政府に公式報告。開戦責任を回避するため。
ただし、7月19日付で日本政府が行った対清覚書において「この際、清国より増兵するにおいては、日本はこれを威嚇の処置とみなすべし」という一項を付して、回答期限を24日としていた。清国側はこれに応じなかったため、25日以降に清国による軍隊増派を発見したとき、日本艦隊が戦端を開いても外交上の順序として支障なし。

「高陞号」の撃沈

逃げる「済遠」を「浪速」(艦長 東郷平八郎大佐)が追撃中、午前9時15分までに、清国砲艦「操江」と英国商船「高陞号」が西方から「済遠」に接近するのを発見。「済遠」からの信号を受けて「操江」は西方に退避。
しかし、「高陞号」は東方へ進航。「浪速」は「高陞号」に信号で停戦命令、士官を派遣して臨検させ、牙山に向かう約1100名の清国将兵と砲14門、弾薬を搭載していること判明。東郷艦長は「高陞号」船長に対し、「浪速」に続航命令、船長は応じたが清国軍将校がこれを拒んで従わず、銃剣をつけた番兵に船長以下の船員を監視させた。東郷艦長は意を決して「高陞号」を撃沈。(「浪速」はまず魚雷一発を発射したものの、距離が遠すぎ途中で停止、次いで砲撃により撃沈、という「のんびりした海戦」であった。)
このときイギリス人の船長以下3名は日本側が救助、清国軍陸兵のうち200名あまりは翌日に同海域を通過した仏・独・英の軍艦が救助、大部分の900名近くは船とともに沈んだ。

海戦の戦果と損害

日本側は、海戦そのものでは清国軍艦の「広乙」を撃破、「済遠」は遁走したものの中程度の損害を与え、「操江」を降伏させて捕獲、「高陞号」を撃沈するという戦果。損害は、「吉野」「秋津洲」がそれぞれ軽微、「浪速」は損害なし。
なお、この4日後に成歓で日清両陸軍が初めて交戦し日本側が勝利。このとき日本軍兵力は3500名、清国軍3000名、もし「高陞号」に搭載されていた清国将兵と火砲が揚陸されていれば、苦戦は必至であった。
第一遊撃隊が戦術目標としたのは軍艦の撃破ではなく、増援陸兵の上陸阻止、つまり輸送船の拿捕か撃沈であった。上海や天津の日本人武官を通じて、清国陸軍の増派情報を握り、それに対応して22日以降の連合艦隊出港があり、第一遊撃隊の海戦となる、という経過を考えると、「豊島沖海戦」ではなく「豊島沖輸送船団襲撃戦」が適当。

「高陞号撃沈」に対する国際法論争

イギリス国旗を掲げたイギリスの商船が開戦前に撃沈された、国際法違反である、ということで、イギリスの新聞・世論は激昂。すなわち、「高陞号撃沈」には、戦時であるのか? 敵船ではなくイギリス所有船ではないか? との二つの問題があった。
8月3日のイギリス 『タイムズ』 紙にケンブリッジ大学の国際法学者ウエスレーキが寄稿、英国国旗を掲げていても清国が使用、開戦の宣言公布前だが国際法上からは開戦後、との見解。またオックスフォード大学のホランド博士は、日本の停戦命令に拘わらず「高陞号」が逃走しようとした事実から、東郷艦長の処置は適法、との見解。
この両博士の反論をきっかけに、イギリスの反日世論はたちまち収束した。なお「高陞号」撃沈時に、日本は英国人船長らだけを救助し、清国将兵は一切救助しなかったことにも国際的批判があった。

豊島と牙山との位置関係

1894年7月25日 豊島沖海戦 豊島と牙山との位置関係 地図

上の地図は、豊島と牙山との位置関係を確認するための地図です。左側は現代のGoogle地図、右側は日清戦争の3年前に日本海軍水路局が作成した地図(「朝鮮全岸」)で、ほぼ同じ地域を表示(引用)しています。Google地図に記入した島名は、「朝鮮全岸」図に記載されている日本海軍の呼び名です。

豊島は、牙山に通じる湾の入り口にあります。清国が兵を牙山に輸送することが分かっているなら、豊島沖で待っていれば、その輸送船団に出会える可能性が極めて高いことは明らかでした。清国側の牙山駐屯軍の増派情報を入手した時点で、日本海軍は豊島沖待機で攻撃できそうだと判断したものと思われます。

輸送船に狙いを定め、敵軍増派阻止の目的を達成した海戦

実際に日本海軍の作戦は適切であった、と言えるのではないでしょうか。すなわち、清国陸軍の増派阻止が重要との判断に基づき、その目的を達成するため、速力の早い艦船のみで構成した第一遊撃隊を急派し、輸送船団を迎撃させる、という作戦です。

戦争は、自軍の補給が適切でなければ勝てるはずがなく、相手の補給を断ち切ることができれば勝てます。その基本原則に基づいて立てられた合理的な作戦であり、実際に作戦遂行に成功し、目的を明確に達成しました。

逃げる「済遠」を追っていた「浪速」が、「高陞号」の発見後はそちらに集中し、「済遠」は結局逃した、というのは、まさしく「運送船を追撃すべし」との命令に従った結果でしょう。この海戦で敵軍増派を阻止したことが、4日後の成歓の陸戦に与えた効果も、大きなものがありました。陸海両軍が、それぞれ自己が分担していた役割を適切に果たすべく、しかるべく動いた戦いであった、とも言えるように思います。

ところが、その後、昭和前期の日本軍は、日清戦争での自己の勝利の成果を正しく学習・継承していなかったと言えるように思います。数十年後の太平洋で、日本は輸送船への米軍側からの潜水艦攻撃によって補給力を大幅に削がれていき、兵力の維持増強が破綻して敗れました。当時の日本海軍はといえば、当初は自国の輸送船団を護衛することも考えず、また、敵に対しては最後まで艦隊決戦にこだわって、米軍の輸送船団に攻撃を集中する作戦は行っていませんでした。

つまり、攻撃力とは、直接攻撃力と補給力との総和であり、補給力が削がれれば攻撃力も低下せざるをえないという事実を著しく軽視し、自軍の補給には力を入れず、敵の補給力への攻撃は二の次にしていたのに加え、陸海軍がそれぞれ勝手に動いていて、敗けるべくして負けたように思います。この点は、まずは海軍が豊島沖海戦で敵陸軍兵力の輸送船を沈めた日清戦争よりも、戦術が退化してしまっていた、と言わざるをえないように思われます。

訓練の成果(実戦での勝利)

豊島沖海戦は、日本海軍の訓練の成果が発揮された開戦であった、とも思われます。海戦を戦う直前のわずか1ヶ月程度の促成訓練で、信号や艦隊運動などが未熟練であっても、なんとか戦闘できるように作戦方針を定めた、という状況ではありました。

清国の輸送船団に関する情報を入手して、豊島沖で待っていれば輸送船団を発見できる可能性は高いとは言え、見逃すことなく現に発見し、また味方にはほとんど損害なく、敵方に大きな損害を与えて勝利できた、という点に訓練の成果が表れているように思います。

実戦直前に促成訓練を受けたような艦隊であっても、その結果海戦に勝利することができたのですから、日本海軍の将兵は優秀であった、と言えると思います。もともと江戸時代から町民レベルでも多数の人々が読み書きできるほど教育水準が高く、さらに明治維新によって身分制を打破し四民平等となった国の強みでしょうか。

開戦への警告は不十分だった

この海戦は、宣戦布告のない状況で、日本側から砲撃して開始した海戦です。清国が増派を実施すれば威嚇の処置と見なす、との事前の警告はなされてはいたものの、それが開戦の警告として十分なものであった、とは言えないように思います。

増派の実施は開戦の意思とみなす、ぐらいに言っておけば、誤解が生じる余地がなく適切であったのではないでしょうか。それでもしも清国が増派を中止するなら、国内の対外硬派・世論に、日本の強い警告が清国に効果を発揮した、と説明できました。

この海戦で、最初に発砲したのは清国側ではなく日本側だった、というのが諸研究書の一致した結論です。その点では、日本の伊東連合艦隊司令長官からの電報や東郷平八郎の日記と、清国海軍側の記録が一致しているようです。伊東司令長官の電報を受取った日本の海軍省側が、それが西郷海軍大臣や政府のトップに届ける前に、意図的に修正を行ったようですが、具体的にどう修正されたのかは、原田敬一 『日清戦争』 に詳しく出ています。

おそらく、事前の警告が十分なものではなかった、という「自覚症状」があったために、日本海軍側からではなく、清国海軍側から攻撃が開始されたように書き換えがなされたものと思われます。実際にそれを行ったのは、海軍省の実務レベルであって、海軍大臣や政府側ではありません。しかし、政府がもっとしかるべく明確な事前警告を発していれば、そもそもそのような修正は行われていなかったのではなかろうか、という気がします。

カイゼン観点からすれば、事実の書き換えは極めて不適切、絶対に行われるべきではありません。正しい事実認識が出来なくなり、またその結果、適切な対策の検討もできなくなるからです。本件でしかるべく反省がなされていたなら、昭和になってからの対米開戦の宣言の伝達においても、もっと適切なやり方が講じられていた可能性があったように思います。

ただ、砲撃は日本側からだったと言っても、清国艦隊は、全く戦闘の用意のないところで不意打ちをくらった、という状況ではなかったと思われます。そもそも、清国側も日本との戦争になる可能性が高いと判断して陸兵を増派しているような状況です。また、豊島沖海戦の前日夕刻には、清国艦隊にも、日本軍が漢城で戦争を始めた、とか、日本の兵船が明日来る、などの情報がもたらされていたようです。したがって、清国側も、日本側からの砲撃の可能性は十分に認識していたであろうと思われます。

 

 

次は、この豊島沖海戦の4日後に行われた、日清戦争最初の陸戦である成歓の戦いについてです。