1b アヘン戦争とアロー戦争

 

 

19世紀の中国が仕掛けられた、60年間に4度の戦争

19世紀、帝国主義の時代なってから日清戦争が起こるまでに、アジアでは、日中韓の東アジアを除いて、ほとんどすべての地域が列強によって植民地化されてきた状況を見てきました。

中国、すなわち清国は、植民地化はされていなかったとはいえ、この時期に列強から戦争を仕掛けらたことが3度ありました。すなわち、1839~42年のアヘン戦争、1856~60年のアロー戦争(第2次アヘン戦争)、そして1884~85年の清仏戦争の3度です。1894~95年の日清戦争を加えれば、清国は、1839~95年の約60年弱の間に、合計で4度も戦争をしかけられたことになります。

このページではまず、清国に対し、イギリスから仕掛けたアヘン戦争と、イギリスがフランスも引き込んで仕掛けたアロー戦争について、どういう戦争であったのか、確認したいと思います。清仏戦争については、ベトナムの植民地化のページで確認します。

 

1839~42年 アヘン戦争

アヘン戦争の経過

年代順に、まずアヘン戦争について確認したいと思います。以下は、矢野仁一 『アヘン戦争と香港』陳舜臣 『実録アヘン戦争』の2書から、年表風に要約を行ったものです。

茶字は中国側の主要な動きと両者によって結ばれた条約等、青字はイギリス側による主要な動きを示しています。

1839年 1月 林則徐、欽差大臣に任命さる。イギリス人監禁、イギリス貿易監督官 チャールズ・エリオットにアヘン引渡し命令
  6月 香港島でイギリス船水夫による村民殴打致死事件
  8月 林則徐、イギリス人のマカオ滞留禁止、イギリス人への糧食供給禁止
  12月 川鼻におけるイギリス支那の衝突
1840年 2月 イギリス、支那出兵に決定、ジョージ・エリオット少将を全権大使に任命
  6月 イギリス艦隊、広東河口封鎖
  7月 イギリス、舟山島および定海県城を占領
  8月 イギリス艦隊、天津沖・白河口に出現
  11月 定海休戦条約、林則徐は罷免
1841年 1月 沙角・大角砲台攻略。川鼻仮条約、香港割譲を約許す
  2月 イギリスの定海および沙角・大角砲台還付、イギリス艦隊、広東諸砲台、香港島占領
  3月 琦善は罷免、楊芳・エリオット広東協約成立、交戦停止・広東開港
  5月 清側のイギリス軍殲滅計画に対抗し、イギリス軍、広東城の砲台占拠し城中を俯瞰する形勢、広東和約イギリス軍広東退出。イギリス側、エリオットからポッティンジャーに交替
  8月 ポッティンジャー到着、厦門攻陥
  10月 定海(舟山島)再占領、鎮海・寧波攻撃
  12月 余姚県・慈谿攻撃
1842年 1月 奉化攻撃
  3月 慈谿攻撃
  5月 寧波退出、乍浦城攻撃、イギリス軍側で埋葬した戦死者1200~1500人
  6月 揚子江に侵入、呉淞・上海占領、上海は撤退
  7月 鎮江攻撃
  8月 南京攻撃寸前に和議開始、南京条約

中国側が、イギリスによる中国へのアヘンの持ち込みを停止させようとしたことから、イギリスが出兵して戦争を開始、当初は広東方面と舟山島付近に限定されていた戦争が、後には厦門~寧波~上海~鎮江まで含む広い地域に拡大、南京まで攻撃されかけるに及んで、ついに南京条約となった、という経緯です。

アヘン戦争の地図

ここに挙げた地名を見ただけで、それが中国のどこにあるのか分かる人は、かなり少なかろうと思います。地図で確認したいと思います。

アヘン戦争の地図

詳細地図AとBに示されている、比較的狭い地域に限定された戦争であったことが分かります。

 

アヘン戦争の結果 - 南京条約

南京条約の内容は、下記となっていました。要約です。

● イギリスへの賠償、香港島割譲
● イギリスの支那政府との直接平等交通権
● 広東・福州・厦門・寧波・上海5港の外国貿易公許、開港場における貿易上の自由、開港港における居住の権利
● イギリスの対等独立国承認
● 貿易上の制限撤廃、定率の輸出入税・通過税制定など。

一言で言えば、賠償・香港割譲を除いては、イギリスが、出来る限り清国と自由な貿易ができ、また貿易による利得が拡大できるようにする、という内容の条約であったと言えそうです。

アヘン戦争は、イギリスによる、貿易利得の維持・拡大のための戦争

1839年12月から開始されたイギリスから清国に対する軍事攻撃について、イギリス側はその理由を清国側の敵対行動としましたが、元はといえば、清国が求めたアヘン持込み禁止の誓約書提出の要求に対し、他の欧米諸国は従ったのにかかわらず、イギリスだけがそれを拒否したことから始まっています。アヘン持込を止めれば、イギリスの巨額の対清貿易利得が失われることが、誓約書提出拒否の理由でした。

正邪論・善悪論からすれば、イギリス側に正義がなかったことはご存知の通りですが、ここではその論点には入りません。

戦争目的について考えれば、イギリスはその貿易利得を維持・拡大することを目的として戦争を仕掛けています。イギリスは勝利して、英国の貿易利得をさらに拡大できる内容の条約を得ましたから、戦争の善悪は別として、まさしく目的を達成する結果を得た、といえるように思います。

アヘン戦争の結果は、清国に、華夷秩序からの転換を迫るもの

アヘン戦争は、清国にとっては、外国との付き合い方に関する思考法を、根本的に見直すように迫られたものでした。「支那はこの時までは、朝貢国の生計をあわれむがために、人生に必要なる絹・茶・磁器・大黄などを与えるつもりで、外国貿易を許すという考えであった。即ち外国貿易は支那の恩恵であると思っていたのである。」だからイギリス政府が貿易監督官を置いても、支那政府はイギリス人の貿易監督官が支那の政府機関と直接平等に通信交渉することを認めず、支那の行商(ホン商=商人団体)を経由して請願書を差出させ、支那の官憲からの命令はまた行商に取り次がせるという形式を改めなかったわけです(以上、矢野仁一 前掲書)。あくまで、華夷秩序の枠組みの中で制度化されていた、と言って良いようです。

それが、南京条約の結果、イギリスを、朝貢国ではなく対等の独立国と認め、イギリス政府のしかるべき代表者と、清国政府のしかるべき役職者が、直接に、通信交渉を行うことを認めたわけです。しかも、この考え方は、他の欧米列強との条約にもすぐに反映されましたから、とにかく欧米列強とは、従来の華夷秩序とは異なる思考原理によって、付き合っていくように迫られることになりました。

しかし、その転換が十分にはなされず、清国は相変わらず華夷秩序原理によって付き合いを続けようとしたため、のちにアロー戦争が起ることになりました。

アヘン戦争に現れたイギリスの戦争の仕方の特徴

上の年表と地図からは、アヘン戦争の特徴として以下の2点が分かります。

① 軍事衝突が始まった1839年末から南京条約が締結された1842年までの間に、たびたび和議。
戦争が一貫して継続されていたわけではなかった。
② イギリスは、中国沿海部の多くの町や島を占領しても、香港以外は清国に返還した。

まず①について、1839年末から41年5月までは、広東地区での攻撃・舟山島占領・白河口に出現 →「定海停戦協定」→広東地区砲台攻略 →「川鼻仮条約」→広東諸砲台・香港島→「広東協約」→広東攻撃→「広東和約」、という流れで、戦闘と和議が何度も繰り返されています。むしろ、「戦争よりも和議がメインであり、和議が停滞したときに和議を促進させるために戦争が行われた」と言う方が状況をより的確に表現するかもしれません。和議なしに攻勢が継続したのは、1841年8月にイギリス側がポッティンジャーに変わってからで、それから1年間は戦闘が続いて、42年8月の南京条約になりました。

イギリスにとっては、条約による権利確保が目的で、戦争はあくまでその目的の達成の手段」だと割り切っていて、できるだけ効率よく戦争を行おうとした、と言えるように思われます。

②についてですが、イギリスは、中国沿海部の10以上の町や島を占領したのにかかわらず、領土割譲を要求したのは香港島だけで、英軍はそれ以外の場所からはすべて撤退し清国に返還しました。貿易を拡大してそれによる利益を増加することが目的であったので、割譲地を拡大して清国から恨みを買い貿易の支障になる事態は避けようとした、とも解釈できるように思われます。

舟山島も返還しましたが、舟山は「専門家が調査して、地理的にも気象のうえからも、貿易基地としては不適当という烙印を捺された土地だった」という事情もあったようです(陳舜臣『実録アヘン戦争』)。継続保持のコストとその費用対効果も考えて、合理的な判断を行った、と思われます。

こうした特徴は、アヘン戦争の個別事情だったのでしょうか、アロー戦争でも共通していたのでしょうか。次にアロー戦争を確認したいと思います。

 

1856~60年 アロー戦争

アロー戦争の経過

結論から言えば、同じ特徴が、アロー戦争(第二次アヘン戦争)でも現れました。以下は、矢野仁一 『アロー戦争と圓明園』から作成した年表です。地図は、同書に基づき筆者が作成しました。は英仏軍による攻撃、茶字は中国側の主要な動きと両者によって結ばれた条約等を示しています。

1856年 10月 8日 アロー号事件発生(清国がイギリスの船籍登録あるアロー号の水夫を海賊嫌疑で拘引、その際イギリス国旗も侮辱)イギリス領事パークスは、両広総督葉名琛に抗議。
(アロー号は支那人所有、実はすでに登録期限切れでイギリス国旗を掲ぐる権利なく、パークスはアロー号をイギリス船と主張する権利なし。)
21日 パークスは、最後通牒。英軍は、23日以降、広東近傍の諸砲台を取り、外国商館を占領、総督衙門に闖入。11月イギリス軍は断続的に広東城を攻陥、外国商館背面の支那民家を焚燬。
1857年 1月 英軍は、少数の兵力での占領維持は困難として、引上げ。
  イギリス本国、パーマーストン卿〔首相〕、新議会において対清強硬策への多数の支持を得て、エルギン伯爵を欽差全権大使に任命。
フランスも特派全権大使グロ男爵を任命しイギリスと同盟。フランス側は、1856年2月末フランス天主教宣教師が広西省で知県の命で斬首された事件の賠償を求むるため。
米露は、英仏の同盟参加勧告を辞絶。
エルギン伯とグロ男は10月までに香港に到着。
  12月 英仏同盟軍は水陸両面より広東城を砲撃、入城
エルギン伯・グロ男らは葉名琛をイギリス汽船内に拘禁、葉はのちにカルカッタに護送され、死亡。
1858年 4月 ようやく集合した英仏の海陸の兵とともに、4国全権は上海を発し、続々白河口沖に着。
英仏は、北京朝廷を威圧しこれを屈服する考え。
  5月 20日、同盟軍は大沽砲台を占領。4国全権は5月30日天津着、6月27日までに天津条約に調印
  10月 桂良らが上海着、通商章程及び税率の交渉、イギリスの調印11月8日。
1859年 6月 前年の天津条約は1年以内北京の批准交換を約束、従い英仏はブルース及びブルブロンを全権公使に任命し支那に派遣。ブルースらは6月20日大沽海口に到着。
北京朝廷は、北京を避け上海での換約、4カ条取消し別条約締結の考えのため、白河河道は閉塞。
6月24日障礙物除去の作業中に急に清国砲台より斉射され、死傷者数百人、砲艦も4隻撃沈、同盟軍は操縦不能となった砲艦を始め多数の銃砲弾薬等を遺棄して退去。
1860年 3月 ブルースとブルブロンは、最後通牒
  4月 同盟軍は舟山島を占領。イギリス軍はイギリス兵・インド兵等合わせて約1万余人、フランス軍は6千余人。
  7月 30日、同盟軍は北塘海口に達し、8月1日抵抗を受けず上陸。
  8月 天津は同盟軍の軍事占領に帰す。
  9月 8日、清国側はほとんど決戦方針、怡親王は欽差大臣。
17日、パークスと怡親王との協議、国書親呈問題で合意せず
18日、パークス一行23人は捕虜に、8人を除き皆非業の死。フランス側も13人捕虜となり、7人を除き非業の死。同日、英軍は、清軍の挑戦に応じて砲撃を開始、撃退して張家湾を占領
21日、支那側の御前会議、皇帝は熱河へ、多数の臣僚らは主戦論。恭親王の停戦和議交渉。
  10月 5日、ギリス軍は全軍北京に向い、6日に北京城外に舎営。フランス軍も北京城西北郊外の圓明園に達してこれを占領
7日、同盟軍ことにフランス軍は圓明園の大掠奪。
8日、パークスはじめ8人の捕虜の釈放。
17日、エルギン伯は20日期限の最後通牒、回答なければ紫禁城を占領と。また軍に18・19日圓明園を焼燬せしむ。20日、恭親王からの無条件承諾の書簡到来
24日・25日、英仏はそれぞれ、護衛兵らと入城、恭親王と会して北京協約に調印し、天津条約の批准交換

アヘン戦争と同様、戦争開始後、いったんは天津条約調印まで進んだものの、その後、清国側の方針転換から再び戦争が再開されています。清国側は、アヘン戦争でもアロー戦争の前半戦でも負けているのに、決戦方針に転じた、というのは、軍事力の客観的な比較など行わず、とにかくメンツだけで方針を決めたように思われます。案の定、北京が危うくなったため、北京協約を結ばざるを得なくなりました。

アロー戦争の地図

アロー戦争についても、地図で確認したいと思います。

アロー戦争の地図

アロー戦争で攻撃を受けた地域は、アヘン戦争よりはるかに限定的でしたが、何と言っても、清国の首都である北京の城外まで英仏軍に迫られました。

アロー戦争の結果 ー 北京協約

北京協約の内容は、下記となっていました。要約です。

● 賠償金のほか、天津開港、公使を北京に常駐、フランスその他もこれに倣う。
● イギリス協約の特別な規定、九竜地方を香港植民地付属地として譲与。
● フランス協約の支那文、フランス宣教師が各省において随意に田地を租借し購買し、また家屋を建造することを許す。

ここでいう九龍地方とは、現在の香港に含まれる九龍半島のうち南部だけで、北部の新九龍は1898年に99年租借されたものです。香港島・九龍・新九龍のすべてが、1997年に一括して中国に返還されています。

アロー戦争の主原因は清国側の条約不履行

アロー戦争の直接の契機は、イギリスが、実際には期限切れで英国への船籍登録が失効している清国船を、英国登録船であると言い張って、軍事衝突に踏み切りったことでした。その点は、アヘン戦争と同様に、イギリス側が不正義であるにかかわらず仕掛けた戦争でした。

しかし、アロー戦争の原因がアヘン戦争と大きく異なるのは、イギリス側だけが不正義とはいえなかった、と言う点です。確かに軍事衝突の直接の引き金はイギリスの不正義でしたが、そこに至るまでの事情には、清国側の条約不履行があったようです。以下は、この点についての、矢野仁一の前掲書からの要約です。

● イギリス人は支那をして国を開かしむるつもりで南京条約を結んだのであるが、支那はしばらく夷狄を羈縻(きび)する〔ここでは、夷狄であるイギリスを適当にあしらう、という意味か〕という考え方で調印したのである。だから、南京条約の実際の適用ということになって、双方の解釈の相違から紛擾が起こることは当然である。

● イギリス・アメリカ等の全権は、条約上北京大臣及び各省督撫と平等の交通ができるわけであるのに、事実上両広総督と面会できず〔葉名琛は、常に公務多忙を理由に面会を拒否〕、両江総督とは面会はできても外交上の交渉はできず、北京大臣とは接近する機会もなかった。こういう条約上の不便不備を修正する必要から、西暦1854年以来条約改正の問題は外交上重要な問題となった。

● 広東入城問題、両広総督らとの面会交渉問題、条約改正問題等、イギリス・支那両国の紛議は到底兵力の外解決ができない状態になった時、アロー号事件が起こって、イギリスはついに支那に対し再び兵を用うるに至った。

条約を締結した以上は、条約に従って協議を行う必要があったのに、面会すらしようとせず、協議に応じる姿勢を全く示さなかったわけです。イギリス側は、それを是正しないと、イギリスの貿易上の利害は拡大できない、と見たのでしょう。戦争の原因は、今回も、清国側の貿易障害問題であり、清国側の条約不履行にありました。

清国は、状況を客観視せず、変化・カイゼンを拒否

清国の両広総督が面会すら拒否したことは、清国内の、伝統的な華夷秩序を維持したいという願望からは、おそらくは「正しい」ことであり、清朝もそれでよいと思っていたのでしょう。しかし、戦争で負けたために結ばされた条約を守らない、となると、また戦争を起こされて被害を受けることになる、という現実的な可能性は、考慮の脇に押しやられていたようです。

状況を客観的に見れば、欧米列強とはうまく協議を行って、条約を適切に履行していく必要がある、そうしないとまた武力を持ちだされて再び戦争に負ける可能性が十分にある、という見方に立って考えていくのが妥当であったと思います。しかしそうした判断が清朝の多数派の判断にはなっていなかったのでしょう。

清国側は、アヘン戦争での一方的な敗戦にもかかわらず、カイゼン意識を持つことができず、事実に即して状況を客観的に判断することもなく、とにかく、旧来のメンツ、伝統的な華夷秩序観から抜け出られなかった、ということでしょう。そうなると、アロー戦争は自業自得の結果であった、と言わざるを得ないように思われますが、いかがでしょうか。

アヘン戦争・アロー戦争共通の、イギリスの戦争の仕方

アロー戦争もアヘン戦争と同様、貿易拡大による経済的利害の拡大がイギリスの戦争目的でした。戦闘と戦闘との間に、今回も和議交渉が入っていました。アロー戦争での戦闘地域は、アヘン戦争よりもはるかに限定的で、北京城内への突入などは行われませんでした。

イギリスの領土要求もまた限定的で、今回は香港島対岸の九竜半島を得ただけでした。戦場となった北京-天津の付近や、山東半島や舟山島などは、その要求の中に含められることがありませんでした。

アヘン戦争とアロー戦争に共通している、イギリスの戦争の仕方の特徴としては、下記が挙げられるように思います。

● 戦争目的は、イギリスの貿易上の利益の拡大で、一貫していた。
● 手段は武力を用いて乱暴とも言えるが、目的は実利にあった。
● 戦争は、あくまで外交交渉の圧力とするための手段であった。
軍事は外交に従属していて、軍事が独走してしまうことはなく、勝っているからといって無暗に占領地域を拡大しない。
守り切れないと思えば、すぐに撤退する。
● 領土要求も、イギリスの貿易上の利益という目的に適合する範囲で、必要最小限にとどめられた。
戦争途中で占領地が拡大しても、領土要求は拡大されなかった

アヘン戦争・アロー戦争とも、間違いなく帝国主義戦争ですが、このイギリスの思考法では、帝国主義戦争の最重要目的はイギリスに有利な貿易の拡大による経済的な利益の増大であって、領土の拡大ではなかった、ということが明確であると思います。

このイギリスの戦争の仕方を、あとで日清戦争での日本の戦争の仕方と比較することになりますが、日本は領土の拡大にこだわっていて、16世紀の戦国時代的な意識が混じった戦争を戦っていたように思われます。

「帝国主義の時代」の戦争の特徴

アヘン戦争およびアロー戦争は、帝国主義の時代に、独立国である清国を相手に戦われました。帝国主義の時代に、この二つの対清戦争が行われたことは、どういう意味があるのでしょうか。

一つは、当時は、貿易問題が戦争を起こす理由になった、ということです。貿易摩擦は、現代でも国際的な係争理由にはなりますが、貿易摩擦から戦争が発生するという事態はまず考えられません。しかし、この19世紀にはそれがあった、少なくとも当時のイギリスにとっては、貿易問題は場合によっては戦争によって解決すべき事項であると考えられていた、ということだと思います。その点に、19世紀、帝国主義の時代の特徴がありました。

もう一つは、清国は戦争を仕掛ける相手であっても、植民地化を図る対象とは思われていなかった、ということだと思います。現にアロー戦争でも、局地戦では大沽砲台からの砲撃で英仏同盟軍艦隊が撃破されたこともあり、清国を植民地化しようとするには骨が折れすぎると思われたのでしょう。

言い換えれば、当時アジアでほぼ唯一植民地化を免れていた日中韓の3ヵ国は、その政府が有効に機能し続けられれば植民地化を免れられるが、政府が著しく安定を欠けば、他の諸国と同様に植民地化される可能性も生じる、そういう状況にあったものと思われます。

すなわち、19世紀の帝国主義の時代は、現代ならば戦争にはならない理由で安易に戦争が行われた時代ではあったものの、その結果は、戦争相手国の政府の機能状況によって異なっていて、必ず即座に領土を大きく奪われたり植民地化されたというわけでもなかったようです。

 

 

次は、フランスが1850年代以降におこなった、すなわち日本がちょうど開国から日清戦争まで進んでいった時期に行われた、ベトナムの植民地化についてです。