4a2 序盤戦② 成歓戦と宣戦詔勅

 

 

日本は、まず7月23日の朝鮮王宮襲撃占領事件によって、清国軍の朝鮮からの排除を正当化する前提条件を作り出し、7月25日には豊島沖海戦によって清国陸軍の増援を阻止しました。次はいよいよ陸上での清国軍との交戦となります。

このページでは、日清戦争の最初の陸戦であった成歓の戦いの経過を再確認するほか、この戦いの後に出された公式の宣戦布告についてもみていきたいと思います。

なお、このページでの引用で、引用元を記していない場合には、すべて「4 日清戦争の経過」のページに記した引用元から引用を行っていますこと、ご了解ください。

 

日清両国の陸戦の緒戦 1894年7月29日 成歓の戦い

成歓の戦いに至るまで ー 朝鮮への上陸・成歓付近への進軍

1894年7月29日の成歓の戦いについて、まずは日清両国の陸戦の準備状況について、確認します。

日本軍の朝鮮到着

広島第5師団から抽出された混成第9旅団(旅団長大島義昌)約8000人は、先発隊・第一次輸送隊・第二次輸送隊に分かれ、6月9日から24日にかけて宇品港を出発、12日から27日にかけて仁川港に到着し上陸、漢城に駐屯した約3000名以外は、漢城郊外の龍山(ヨンサン)に駐屯。
混成旅団上陸の図 日清戦争写真帖より

<混成旅団上陸の図> (『日清戦争写真帖』 より)

当時は、世界にまだ自動車・トラックというものが存在していない時代でした。この写真から、資材の運搬は馬が頼りであったことがよく分かります。

清国軍の配置

一方葉志超提督に率いられた清国軍、葉志超部隊1500は漢城より数十キロ南方の牙山(アサン)に駐屯、聶士成部隊900は南部の全州に駐屯。7月24日海路援軍が到着し総兵力は3880名に。
日本軍来襲の情報に、聶士成部隊は牙山東方18キロの成歓(セオンワン)駅に移駐、増援も得て総数約2500人に。他に、牙山に1000、牙山東南の公州(コンジュ)に500。
<旧参謀本部 『日清戦争』 では、成歓に聶士成部隊3000名余、天安に葉志超部隊1000名。「この間髪を入れぬ危急のときにあって、葉・聶の両将軍が、なぜその兵力を二分するような挙に出たのかは、どうしても不明」と。>

日本攻撃隊の南下

清国軍の増援兵はすでに乗船、また優秀な清国軍が平壌付近に集中し続いて南下してくるのは時間の問題。大島旅団長は、朝鮮政府の依頼の有無には関係なく、まず牙山の清国軍を討ち、即刻帰って北方の清国軍に備えるため、25日に南下を決した。清国兵の南下に備え漢城北方の守備が必要、また漢城の人心は日本につくか清国につくかわからない状態で、漢城・龍山・仁川にも守備兵必要。結局、日本の混成旅団のうち、漢城・龍山・仁川などの守備隊を除いた、攻撃隊約3500名(歩兵3000人、騎兵47騎、山砲8門)を組織。
大島旅団長に率いられ、7月25日、攻撃隊は駐屯地龍山を出発、本隊は漢城から南方10キロの果川(クワチョン)県に一泊して、26日午前さらに南方20キロの水原(スウオン)府に到着。しかし徴発していた朝鮮人と牛馬が皆逃亡し出発に支障、出発を延期して、運搬力の整備に努力。同じ26日、水原に大鳥公使の信書、牙山にある清国兵を撤退させる件について、25日に朝鮮政府から正式に代弁の依頼があったという知らせ。
27日旅団主力は18キロ進んで、振威(ジンウェイ)県に到達。この日、各方面の騎兵斥候から、清国軍が成歓北方に続々と兵力集中との報告を得て、旅団長は「目標を成歓駅方向に転じ、できれば明日は(11キロ南下して)素沙場まで進んで敵状を偵察し、明後29日払暁から決戦」。
旅団は28日午前4時振威を出発、出発に際し日本公使館からわが海軍が清国輸送船1隻撃沈などの戦果の通報、8時30分には素沙場北方の高地に到達。
日清戦争 成歓の戦い 地図

 

成歓の戦い 戦闘経過

日清両軍とも、7月28日までには、成歓付近に展開を終えていました。いよいよ成歓の戦いの開始です。

清国軍の位置と日本攻撃隊の作戦

清国軍主力は成歓を占領。右翼は東方の月峰山脈、東方および東北方面に向かって谷地を制す、中央は成歓北方の低い丘上の二個の堡塁により同時に全州街道を縦射、左翼は南山里からくる丘脈上の二個の幕営と塁壁によって成歓西方の広い水田を高所から押さえる。さらに清国軍は兵の一部を成歓西方の水田をへだてて、牛歇里の高地におき、全部の砲兵をここに配置。成歓と牛歇里の間の水田を通じる道はやっと一列の人間が通過できるほどの狭さ、道路以外を通ることはとうてい不可能。
大島旅団長は、広い水田に兵の姿をさらして多数の死傷者を出す事態を避けるため、一部の兵(右翼隊)を分けて銀杏亭高地に出して清軍を牽制しておき、旅団長は旅団主力(左翼隊・砲兵団・予備隊)を率いて東方山地を迂回し、けし坊主山(月峰山脈で月峰山頂東方約500メートルの突起部)を目標としてこれを占領、続いて成歓方面の幕営地を攻撃することに決定。このような動きを真昼に行ってはその意図を早く清軍に気づかれる恐れがあるので、28日は地形の偵察、翌朝払暁前に作戦を開始することに。
日本側は成歓の清国軍を歩兵砲兵合わせて3000~4000人と観測、旅団主力とほぼ互角と判断。実際は約2500人で3500人の攻撃部隊の方が優勢。他方、清国側聶士成は、山の上から日本軍の動向を見て、「騎兵・歩兵大隊が振威に駐屯しその数約2、3万」と、とんでもない過大評価。
日清戦争 成歓の戦い 戦場 地図

 

戦闘の朝 露営地を出発

左翼隊は7月29日午前0時、右翼隊は同日午前2時に露営地の素沙場を出発。地理不案内に加え、夜陰と降雨の中、道路泥濘で水田と区別できぬ状況で行軍に苦労、全部隊が予定の地点で展開を終えたのは午前5時過ぎ。

右翼隊の戦闘

右翼隊は、素沙場を出発して全州街道を前進。午前3時20分、先頭兵が安城の渡しを越えて2キロ進んだ佳竜里付近に近づいたとき、突如約30メートル前方の家屋の中から待ち伏せの清軍に「猛烈なる射撃」を受け、中隊長戦死などの損害。苦戦して反撃し清兵を成歓方面に向かって撤退させ、5時20分銀杏亭高地をめざして行進を再開。6時10分頃、清国歩兵約400名と銃撃戦。右翼隊の攻撃した牛歇里、成歓攻略後左翼隊および独立騎兵の支援を得て、7時40分頃には幕営内に突入、完全に勝利を収めた。

左翼隊の戦闘

28日夜半12時に素沙場露営地を出発した左翼隊も、行軍は難渋、4時ごろになってようやく成歓の東北の一高地の都監里付近に着き、5時10分には本隊以下砲兵団も到着して、都監里西方に散開。左翼隊前衛は新井里東南高地に前進し、けし坊主山の東南方山頂の清軍に一斉射撃、しかし清軍はこれに応じないのでさらに前方の山背を占領。ここで清軍も初めて射撃を始め、激しい射撃戦に。午前6時10分ころ。砲兵団は、このとき新井里東方の高地に移り、ちょうどこのころから砲撃を開始。
日本軍はけし坊主山の清軍に集中攻撃。けし坊主山の清国兵が、日本軍の猛砲射撃に耐え切れず退却しようとしたところへ、清国軍の将軍聶士成が兵数百を率いて応援に駆け付け、しばらくは踏みとどまろうとしたが、日本軍は救援隊に砲射撃を集中、ついに退却の様子を見せ始めた。日本軍はけし坊主山の清塁に躍り込んで占領したが、清国兵の大部分は退却したあと。聶士成も逃げて行った。成歓北方の幕営にいた清国兵は最後まで抵抗を試みたが、これもついに落ち、日本軍の成歓の攻略は成功した。午前7時頃突撃に移り二つの山を占領。清軍の幕営も午前8時頃には敗走。

成歓 → 牙山 → 漢城

成歓の戦いに引き続き、旅団は同日午前のうちに牙山に向けて出発、午後3時前後に到着したが、清軍の姿はなく、より南方の新昌方面に敗走、戦闘は成歓だけで終了。この際すみやかに漢城に帰って北方から南下してくる清軍に備えることが先決、として翌31日出発。8月5日午前8時半、全軍が漢江の渡河を終り、竜山に向かう途中、国王の勅使や大鳥公使以下の日本人が出迎えて凱旋式。
混成旅団 凱旋式の図 日清戦争写真帖より

<混成旅団 凱旋式の図> (『日清戦争写真帖』より)

成歓の戦いで、日本軍は戦死者34名、負傷者54名(うち5名は入院後に死亡)だったが、清国軍は死傷者約500名以下ということはありえない。

清国側の損害に対し、日本側の損害は非常に少なく、日本側の効率の良い勝利となりました。なお、この成歓の戦いの中の安城渡しの戦闘から、「木口小平は死んでもラッパを口から離しませんでした」という、昭和前期の敗戦までの小学校の教科書には必ず載っていた有名な逸話が発生しました。

 

成歓の戦いでの清国軍の敗因、日本軍の課題

緒戦を制するという日本の目的を果たした襲撃戦

日本は、清国との開戦に踏み切ることを決めており、そのステップとして、7月23日の朝鮮王宮襲撃戦を実施していました。成歓の戦いは、それに引き続いて行われた最初の会戦です。開戦することが良かったのかどうかという判断は別にして、「開戦して勝つ」という目的に照らして判断すれば、成歓の戦いは、兵力が増強される前に襲撃して勝ちを得ることにより優位に立つ、というきわめて合理的な作戦行動だったと思います。

目的に対しては合理的なのですが、戦争を仕掛けることの正当性は別の問題であり、旧参謀本部の公式戦史といえども、大島旅団長が攻撃隊の南下を決定し攻撃隊が出発した25日の時点では、まだ朝鮮政府からの公式依頼が来ておらず、フライングであったことを認めています。それほどまでに、日本軍は清国軍の増援を気にしている状況であった、と言えるのではないでしょうか。

逆に言えば、豊島沖海戦で清国の増援兵を乗せた高陞号を撃沈し、増派を阻止したことの効果の大きさが良く理解できます。だからこそ、この成歓の戦いの、目的に対する合理性も明確だと思われます。

李鴻章の戦争回避方針で手段に制約があった清国軍

開戦に向かって一直線の日本軍と比べると、できるだけ戦争回避の方針にあった清国軍側は、手段に制約があり、不利なところがあった、と言えるように思います。それでも、何かもう少し良い手はなかったでしょうか。

戦争回避の意思を明白にするためには、清国が率先して撤兵してしまい、その上で列強から日本に撤兵圧力を強めてもらう、という手もあったかもしれません。その方が、列強による日本への撤兵圧力をずっと高くでき、日本は開戦に持ち込めなかった可能性もありうると思います。

全く逆の手として、戦争回避方針ではあっても、早くからもっと増援を行っておいた方がよかったのかもしれません。日本軍が8000人規模の軍を送り込んだなら、清国はその倍の1万6千人に増派する、日本軍が増派するなら清国軍はさらに増派する、そういうやり方で常に兵力の優位性を図る、としていた方が、戦争回避を実現できていたかもしれません。国の人口がはるかに大きい分、兵員数に関する限りは、清国側はかならず日本に勝てたはずなので。

少なくとも、もう4日ほど早く、つまり7月23日の王宮襲撃事件の時点までに増派していたなら、日本海軍が輸送船を襲撃することもできず、増派は実現していたでしょう。そうであったなら、日本軍は清国軍陸上部隊に対し簡単に戦いを仕掛けることができたかどうか。そう考えると、清国軍敗退の一因として、清国の本国政府側、李鴻章の判断ミスもあった可能性があるように思うのですが、いかがでしょうか。

清国軍の戦争下手 ① 戦略の差、情報入手力の差

清国軍側の作戦については、いろいろと理解できないところがあります。先ず第一に、先にもありました通り、そもそも全体の約4分の1の兵力を、成歓の後方に置いていた、という理由がさっぱり理解できません。成歓で決戦を、という発想なら、成歓の布陣を厚くするのに活用すべきであったように思います。清国軍は、日本軍より兵器では劣っていたとしても、布陣の地の利はあったので、布陣をもっと厚くできていたら、抵抗力が違っていたかもしれません。

もう一つ理解困難なのは、日本軍の戦力のとんでもない過大評価を行ってしまったことです。なぜ、3500名の日本側攻撃部隊を2、3万人と、6倍以上にも見誤ったのか、 さっぱり理由がわかりません。28日夜に聶士成が斥候から得た情報は、日本軍は今夜部隊を二分し、一隊は成歓の清軍を奇襲し、一隊は公州に脱出する清軍を阻止する、というもので、二隊に分けるところは合っていても、一隊の目的を完全に誤っていました。大島旅団長が斥候から得ていた情報と比べると、正確さにずいぶん差があったように思われます。清国軍側では敵情の情報収集が不十分であった、という実態であったのかもしれません。

日本軍の戦力のとんでもない過大評価をしてしまうと、勝てるはずがないとの心理となり、実際に戦ってみて、やっぱり駄目だ、刃が立たない、と感じ、結局あまり戦わずして敗走してしまったのではないか、と思いますがいかがでしょうか。やはり敵を知らずして戦えば、戦争に負けます。

清国軍の戦争下手 ② 装備と訓練の差、戦術の差

清国軍は、日本軍より先に布陣し、成歓周辺の高地を占めました。その点からすれば、清国軍側の布陣の方が明らかに有利でした。これに対し日本軍は、夜間行軍を行うことで、その清国軍布陣の優位性の一部を削ぎました。多少の犠牲は発生したものの、夜間行軍という作戦は正しかったように思います。

清国軍は、佳龍里では日本軍を待ち伏せ攻撃し、損害を与えました。これも、先に布陣したメリットを生かした作戦だったと思います。ただし、待ち伏せの規模が小さく、ちょっと足を止めさせた程度の効果にしかならなかったところに限界がありました。また都監里方面でも待ち伏せを行っていたら、日本軍は楽には進めなかったでしょう。

そして、本格的戦闘が開始されてからも、清国軍は布陣の有利さを活かせずに勝負がつきます。その理由の一つとして、砲兵火力について、「清軍の砲弾は要塞攻撃の榴弾で、日本軍の上を越えていき当たらなかったが、日本軍は榴霰弾で殺傷力を高めていた」(原田敬一 『日清戦争』)とされています。日本軍は兵器の選択が状況に適合していて、またその使用の訓練が十分になされていたため、布陣の不利をはね返して勝利することができた、と考えればよいようです。兵器選択が適切であったとは言えない局面が頻繁であった昭和前期の戦争とは、ずいぶん違いを感じる点です。

日本軍側に発生した重大課題 - 輜重問題

幸いにして大きな損害なく勝てたものの、日本側にも一つ、大きな課題が発生していました。輜重の問題です。上記の中で、水原で、徴発していた朝鮮人と牛馬が皆逃亡し出発に支障を生じた、という点についてもう少し詳しく見てみたいと思います。

朝鮮人人夫を大量に用いる計画 - 集まらず、また非協力的

もともと朝鮮の地形から、駄馬による輸送は困難と大本営も認識、7月12日の第10旅団の動員発令時には、駄馬に替えて軍夫の大量雇用と、野砲連隊の暫時山砲編成への変更を指示したほど。野砲と山砲の相違は、山砲が野砲を軽量化し分解輸送を可能にしたものである、という点に存する。
南進する攻撃軍を補佐する輜重隊、定員は642名だったが満たしておらず、動員は130名のみ。不備は軍夫に頼るも、動員を急いだため内地から日本人軍夫を帯同できず、現地の日本人居留民から募集。
それでも足りぬので、朝鮮人人夫約2000人と朝鮮駄馬約700頭を用いて、朝鮮の人馬にまったく頼る輸送計計画だったが、集まらず、また非協力的。大島旅団長も危惧して、大鳥公使に宛てて、督促書簡。大島は、食糧や燃料、車馬などを朝鮮の村落から徴発するにも方法がないことに気づき、朝鮮政府から地方官へ命令させ、それで村落を動かそうと考えていた。
7月26日には徴発した朝鮮人人夫が皆逃亡して、翌日の出発に支障を生じる事態も発生。責任を感じた大隊長が自殺。

当時の朝鮮の道路がいかに未発達であったかについては、すでに「2 戦争前の日清朝 - 2c6 朝鮮⑥ バード・塩川の観察」のページで、イザベラ・バードと塩川一太郎の記録をすでにご紹介しました。悪路のため、攻撃隊の南進では荷馬車などは使えず、駄馬と人で輸送せざるを得ない、さらに第10旅団の作戦地域では駄馬すら使えない、などと判断されていたことは、当時の道路事情からして妥当だったのだろうと思います。

その対策として、朝鮮人人夫と朝鮮駄馬を大量に用いる計画としたところから、徴発した人夫が皆逃亡してしまう、という大きな問題が発生しました。

朝鮮の社会的経済的状況についての、日本軍の事前調査・研究不足

朝鮮人人夫の逃亡については、朝鮮の当時の社会的経済的状況がその原因となっていたように思われます。すでに、「2 戦争前の日清朝 - 2c5 朝鮮⑤ 経済の状況」で確認しました通り、当時の朝鮮は、日本と比べ、農村は自給自足の性格が強く、商工業や貨幣経済の発達も遅れている状況でした。すなわち、そもそも賃仕事で人夫を引受けてくれる人々の数が絶対的に少ない、また貨幣を得ても買いたいものが市場にあまり存在していない、そういう状況にあったといえます。

それに加え、「バードの観察」で記録されているように、両班は民衆から無理やり取り立てる、とか、両班は民衆をただでこき使う、ということがきわめて頻繁に起こっていました。つまり、朝鮮の行政組織を通じて人夫を徴発したとしても、そこで日本軍から支払われる賃金は、結局は両班に取り立てられて、人夫はただ働きになってしまう事態が容易に予想できます。ましてや日本は、秀吉の侵攻以来、信用されていません。そうなると、朝鮮人人夫や駄馬を集めようとしても集まらない、無理に徴発しても逃亡するのは当然であった、といえるように思います。

その点からすれば、自殺した大隊長に本質的な責任があったわけではなく、そもそも現地調査を十分に行わずに、朝鮮人人夫と駄馬を集めれば行軍できると安易に考えてしまった、軍の幹部の責任であるように思われます。朝鮮の民衆は両班の圧政に苦しめられていたわけですから、朝鮮政府経由で地方官に命令すれば簡単に集まる、というものではなく、もし集まったとしても積極的に働くことはありえなかったであろうと思われます。しかし、軍の幹部レベルは、誰もそこまで強い責任を意識しておらず、辞任も自殺も発生していないようです。

成歓の戦いで発生した輜重問題について、その後、対症療法的な観点ではカイゼンがなされ、対策が実施されました。すなわち、朝鮮人人夫を集めるという発想は棄てて、コストが大幅に上昇しても、日本から必要な人数の軍夫を連れてくる、という対策になったわけです。これは、最善の策であったかどうかは別にして、有効な対策となりました。

しかし、成歓の戦いでこの問題が発生した根本原因、すなわち、事前の現地調査を社会的経済的側面まで含めて行うことが不足していたことが、日本軍の中で、カイゼンすべき課題として認識されたのかどうかについては、疑問があるとせざるをえません。昭和前期、大東亜・太平洋戦争時代の日本軍は、事前に大した調査も行わず現地に侵攻して問題を引き起こし、その結果日本軍に反感をつのらせ敵対する現地住民を大量に生み出して、敗戦を早めました。成歓の戦いで日本軍がもう少し課題の対策研究を行っていたら、昭和前期の日本軍はもう少しまともになっていたかもしれません。

 

日本の宣戦詔勅

公式の宣戦詔勅は、成歓の戦いの3日後

公式に宣戦布告がなされたのは、成歓の戦いの3日後、8月1日になってからでした。国際的な「開戦に関する条約」で、明瞭な事前通告により開戦宣言を行うことや、中立国への速やかな電報通告などのルールが国際法で明文化されたのは1907年以降のことですので、この日清戦争当時は、開戦後の公式宣戦布告でもよかったわけです(原田敬一 『日清戦争』)。

宣戦詔勅は、日本のものも清国のものも、旧参謀本部編纂 『日清戦争』 などに、全文が掲載されています。

日本の開戦詔勅

日本の宣戦の詔勅では、開戦の理由を下記のように説明しています。

朝鮮は「独立の一国」であるのに、清国は「朝鮮を以って属邦と称し陰に陽にその内政に干渉」している、「朝鮮をして禍乱を永遠に免れ治安を将来に保たしめ、もって東洋全局の平和を維持せんと欲し」、清国に朝鮮の内政改革を協同して行うことを提案したが、清国はこれを拒んだ、「朝鮮はすでにこれを肯諾したるも」清国が妨害し、「更に大兵を韓土に派し我が艦を韓海に要撃し」たりしている、つまり「清国の計図」は、「帝国」(=日本)の「権利利益を損傷し以って東洋の平和を永く担保なからしむるに存する」ことであると疑わざるを得ない、したがって「公に戦を宣するをえざるなり」。

清国が、朝鮮を独立国として認めず属国扱いし、さらには朝鮮の国政の安定に必須の内政改革も拒否していることが、東洋の平和に反しているので、清国に対し宣戦布告する、との論理となっています。

清国の開戦詔勅

一方、清国側の宣戦詔勅も同じ8月1日に出されました。そのなかで、清国の宣戦布告の理由は、次のように説明されています。

「朝鮮は我が大清の藩屏たること二百余年」の関係であり、本年の内乱では清国は「該国王は兵を請う」たので出兵し「匪賊星散」したのに、「倭人故なくして兵を派し、漢城に突入し、嗣いてまた兵万余りを増し、迫りて朝鮮に国政の更改を令」する、などのことをやった。清国は朝鮮を藩服させているといっても、その国内政事は朝鮮側にまかせている。日本が兵力で朝鮮を圧迫して強引に政治改革を迫る理はない。「各国の公論は皆以って日本の出師は名無く、情理に合わずと為し」ているが、日本は豊島沖海戦で「砲を開いて轟撃し」て戦争を始めた。だから応戦し「以って韓民を塗炭より救わしむ」のである。

朝鮮での内乱を防ぐには、内政改革の実施が必須であったと見ていた点では、日本の詔勅の方が事態をより適切に認識していたように思いますが、それを外国が武力で迫ることが妥当であったのかどうか、日本の出兵には理があったといえるかという点では、清国側の方が正しかったように思います。いずれにしても、この二つの詔勅に、両国の見解の差が現れています。しかし、開戦に至った原因が、朝鮮を間に挟んだ両国関係にあったことだけは、両国に共通の認識でした。

 

 

次は、成歓の戦いから約1ヶ月半後の、平壌の戦いです。