日清戦争で戦場となった地域
日清戦争で
戦場となった地域
(黄は陸戦、赤は海戦) 
 
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日清戦争
The Sino-Japanese War of 1894-95 from Kaizen Aspect

日清戦争前の日本の状況 C

日本経済の状況
明治日本の産業革命

上 日本陸軍の旅順西方砲撃 下 日本海軍の速射砲砲撃
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旅順西方砲撃
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(日清戦争写真帳より)
 
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日清戦争当時の日本の経済力はどの程度であったのか、日清戦争の時代背景を理解するのに必要であると思われますので、以下に確認したいと思います。

ここでの記述は、石井寛治 『日本の産業革命』、および大江志乃夫 『日本の産業革命』に基づいています。鉄道関係については、講談社 『図説 日本の鉄道 1853〜1903』も参照しています。

日清戦争当時、日本は産業革命が始まって間もない時代だった

明治になって文明開化、と言っても、経済の近代化・産業の工業化が即座に急速に進行していったわけではなく、法制面と同様、明治の最初の20余年間は本格的な近代化・工業化の「準備期間」であった、と言えるようです。

もちろん開国により海外との交易を行うようになって以降、日本の国内産業が、特に商品生産の側面で、大きな影響を受けてきたことは間違いありません。しかし、蒸気機関、鉄道、工場制工業などの言葉で表される「工業化」について言えば、1880年代前半の松方デフレ期までは、まだまだ非常に限定的であったようです。

日本の「産業革命」は、1886(明治19)年ごろにはじまり、日清・日露の二大戦争を経験したのち、1907(明治40)年恐慌前後にひとまず完了する、これが学会の定説である、と言われています。内閣・憲法・国会という近代政治3点セットの最初のもの、近代内閣制度が成立し、伊藤博文が初代内閣総理大臣に就任したのは1885(明治18)年のことですので、産業革命と近代的政治体制の整備とは同時並行して進んだ、と言えるように思われます。

1886年、産業革命開始時点の日本経済のイメージ

内閣が活動を開始し、産業革命も始まった1886(明治19)年頃の日本経済のイメージを具体的に描いてみると、以下のようになるでしょうか。明治になって20年近く経つのに、まだまだこういう状況であった、と理解するのが良いように思います。

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東京から駕籠がなくなってすべて人力車に代わったのは10数年前だった。数年前に、馬車鉄道が東京の新橋から浅草まで通った。

鉄道は、10年ほど前までに官設の新橋−横浜間と京都−大阪−神戸間が開業した。その後は、私設で、北海道小樽(手宮)−札幌−幌内間(幌内鉄道、北海道炭鉱鉄道の前身)、上野−前橋・大宮−宇都宮間(日本鉄道)が開業しただけである。官設の東海道線は建設が開始されているが、今年までに開業したのは愛知・岐阜・滋賀県内の一部区間のみで、東海道線の全線開通はまだ3年先のことである。

だから、お伊勢参りや善光寺参りはもちろんのこと、国内のほとんどの地域では、旅行と言えば2本の足か水上輸送が頼りだった。

銀座にガス灯が初めてついたのは1882年でつい数年前のこと、電燈会社の開業は、今年86年が東京、来年が名古屋・京都・大阪などで、電気が一般的に使われ出すのはまだこれからのこと、だから夜は暗い。

産業では、輸出向けの養蚕業、生糸業、お茶の栽培、などという分野が開港以来急成長してきた。生糸業では器具が発達して生産性は上がったものの、手工業の町工場レベルだった。

当時の大金持ちと言えば、江戸時代から続く大商人、開港で富を為した新興商人、維新期に急成長した政商、などであり、この商人たちがようやく鉱工業にも金を出すようになってきた。

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1886年ごろの日本は、まだまだそういう状況でした。これからいよいよ産業革命がはじまり、日清戦争が勃発する8年後までだけでも、相当な変化が生じていきます。そういう時代だったようです。

1886年、児童の就学率もまだ高くはなかった

明治になって20年近く経った頃の日本は、まだまだこれから、という状況だったことを、別の観点から示すデータの一つとして、当時の全国の学齢児童の就学率のグラフを見てみたいと思います。(『愛知県教育史』の元データから筆者がグラフ化)

学齢児童の就学率 グラフ

1886(明治19)年の就学率は、男子が62%、女子29%、全体では46%と、全員が教育を受けている状態の実現には程遠いところにありました。日清戦争が勃発した1894(明治27)年には、男子77%・女子は44%・全体61%と、いずれも1886年と比べ15ポイント向上していますが、やはり全員就学にはまだ距離がありました。

日清戦争に出征した兵士や従軍した軍夫は、就学していたとすれば、10年かそれ以上前のはずでしたから、彼ら自身の就学率は、1886年の男子62%という数字と同等かそれ以下だった可能性が高いように思われます。言い換えれば、軍隊に来ている兵士や作業を行っている軍夫のほぼ二人に一人は、教育を全く受けておらず字もろくに読めなかったものと推定できます。ほぼ全員が義務教育は受けていた昭和前期の軍隊とは大違いであり、そういう集団を使って、訓練を実施し、戦争を行い、戦闘で勝利した、というのは、相当の苦労があったに違いない、と思われます。

なお、男子の就学率が70%を越えたのは92(明治25)年、80%を越えは97(明治30)年、1900(明治33)年に90%越えになりました。他方、女子は、50%を越えたのが1897(明治30)年と時間がかかりましたが、そこからは向上のペースが早くなり、1900(明治33)年には70%越え、翌年に80%越え、04(明治37)年には90%を越えました。

産業革命が明治も20年頃になってようやく開始され、明治40年ごろにひとまず完了したのと同様、学齢児童の就学率も時代が進むほど向上のペースが速くなっていき、義務教育対象年齢の児童のほぼ全員の就学は、産業革命の一応の完了とほぼ同時期に達成された、といえるようです。

工業化の進展状況 ‐ 鉄道の敷設

日本の産業革命は、具体的にどう進展していったのかを確認したいと思います。

まずは、工業化の象徴とも言うべき官営の鉄道建設を見てみると、1870年代に開通したのは、72(明治5)年開業の東京・横浜間と、77(明治10)年全線開業の京都・大阪・神戸間(うち大阪・神戸間は74年から開業)のみ、どちらも官設でした。明治維新から10年経っても日本の鉄道はこの程度でした。この背景の一つとして、大久保利通以来の明治政府の政策があったようです。

再び、石井寛治 『日本の産業革命』、大江志乃夫 『日本の産業革命』、および講談社 『図説 日本の鉄道 1853〜1903』からの要約です。

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外資に依らない経済開発

日本は、外資を排除しながら産業革命をすすめた点に大きな特徴があった。インフレを避けながら殖産資金を生みだすには、当時は外資導入に頼る道しかなかったが、日本政府は、鉄道建設や秩禄処分のために1870年と73年に合計340万ポンド(=1660万円)の外債をロンドンで発行して以降は、一切外資依存を停止、民間への外資導入も禁止した。返済難に陥ったばあい、国家の独立を損なう危険があったためであり、大久保の征韓論への反対論拠の一つもイギリスへの外資依存の増加は内政干渉を受けてインドの二の舞になるという点であった。

さらに、関税自主権を奪われていた条件下で、自国船以外による輸入及び運輸を禁じ、海運保護を通じて国内産業の育成を図ろうとした、そのため海運保護が優先され、鉄道が後回しにされた。

鉄道の勃興

しかし、1880年代後半に状況は変化する。日本産業革命の開始を告げる資本制企業の本格的な企業勃興は、鉄道業からスタート。86(明治19)年から92(明治25)年にかけて14の鉄道会社が開業。89年度末には私設鉄道の営業線は942キロとなって、官設鉄道の885キロを上回り、1906年に主要私設鉄道が国有化されるまで、私設鉄道がキロ数で優位を維持。北海道炭鉱鉄道・関西鉄道・山陽鉄道・九州鉄道・日本鉄道が五大私設鉄道。

ただし、私設というものの、事実上の官設または官主導で設立され、外国人株主は禁止であったため、資本は地域の資産家に出資を強制、あるいは銀行が株式担保金融で支援して設立された。例えば日本鉄道の場合、実務上も、建設時に用地買収は政府の地方官があたり、建設工事は政府鉄道局が実施、日本鉄道が行うのは会計業務だけ、開業後も当初2年間は、運転・保線車両修理などを政府鉄道局に委託していて自社では営業業務のみ、という実態だった。

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日清戦争開戦時期までの鉄道建設の進展

1886年以降、日清戦争開戦直前の94年7月までに開業した路線を北から見ていきます。

  • 北海道では空知太−岩見沢−室蘭間(北海道炭鉱鉄道)など
  • 東北では宇都宮−青森(日本鉄道)が開業して東北本線が全通
  • 関東では前橋−小山−水戸那珂川間(両毛鉄道および水戸鉄道、のち日本鉄道)
  • 信越方面では高崎−直江津間(官設)が開業して東京−直江津間が全通
  • 東京周辺では新宿−八王子間(甲武鉄道)など
  • 東海道は横浜−京都間が開業し新橋−神戸間が全通したほか敦賀(金ヶ崎)−関ヶ原間も開業(すべて官設)
  • 関西では草津−津・桑名間(関西鉄道)、湊町−奈良間(大阪鉄道)、難波−堺間(阪堺鉄道)など
  • 山陽方面では神戸−広島間(山陽鉄道)
  • 九州では門司−熊本間(九州鉄道)などが開業

現代の新幹線のカバー率よりも若干低い、という程度であったようです。

東海道線(新橋−神戸間605キロ)が全通したのは1889(明治22)年のこと、翌年の第一帝国議会に間に合わせるよう突貫工事が進められたようです。92(明治25)年にはまだ三原までだった山陽鉄道は、日清戦争開戦直前の94(明治27)年6月10日に広島まで延長され神戸−広島間が開通。このため広島は大本営が置かれただけでなく、兵員輸送の拠点となりました。その先の鉄道はまだできていなかったので、宇品港から船に乗って戦地に向かったわけです。北は青森まで開通していましたから、仙台の第二師団からの出征でも鉄道が活用されています。日清戦争の兵員・物資輸送の実務上、開業したばかりの鉄道が果たした役割は、きわめて大きなものであったようです。

この時代の工業化は軽工業から ‐ 綿業の工業化

大規模な工場制工業は綿紡績業から始まりました。綿と絹の繊維工業の状況です。石井寛治 『日本の産業革命』、および大江志乃夫 『日本の産業革命』からの要約です。

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まず綿布輸入、次に綿糸輸入に転換、さらに綿花だけ輸入へ

開港以来最大の輸入品だった綿布は、1873(明治6)年をピークに輸入量が減少。輸入綿糸を使って国内で綿布を織る方式に移行。1870年代中葉は、在来織物業が地域的な盛衰を伴いながらも全体として再生・発展し始めた画期。

1880年代後半になると、綿花だけ輸入して綿糸も国産化する新しい動きが急激に拡大、87(明治20)年から89(明治22)年にかけて一万錘規模の紡績会社が続々と設立される。のちの三大紡績の源流(大阪紡績・三重紡績 → 東洋紡、鐘淵紡績 → 鐘紡、摂津紡績・尼崎紡績 → 大日紡)は、いずれもこの時点までに活動を開始。大規模紡績会社は、輸入機械を据え付け、電燈も設備し、24時間稼働する大規模紡績工場を運営。

国産の綿作は1886(明治19)年がピークで以降は衰退、輸入綿花への依存度は年々激増。

1880(明治13)年に岡山県倉敷で生まれた山川均の回顧によれば、機械製の綿糸が売り出される前の87年ごろまでは、同地の人々の普段着は手織り木綿。やがて機械製の綿糸が出回るようになると、各家の糸車は納屋や天井裏へ追いやられ、綿の栽培はめきめき減少、さらに日清戦争前後の時期になると、既製品の反物を買ってすます時代となり、今度は手織り機が納屋や天井裏へ追いやられた、とのこと。

なお、豊田佐吉などの人々により力織機が発明され、織布が機械化されたのは日露戦争後のこと。

大規模紡績会社の設立

大規模紡績会社の設立には、新興の商人資本や大阪の問屋商・両替商などが出資して、商業資本から産業資本に転化。また地主層も株主として投資。他方、こうした大規模紡績工場ができたので、零細小作農・貧農層では、家族が紡績工場に働きに出て、家計補充的賃金収入を得ることが一般化。

すなわち、大規模紡績工場は、国産綿糸を大量に製造できるようにしただけでなく、株式会社として運営されることで、資金の集め方、企業運営の仕方、働き方、などにも大きな変化をもたらすことになった、まさしく産業革命。

大規模紡績が始まったのは日清戦争前だったといっても、日本の綿糸輸出が急増したのは日清戦争後のことで、大部分は中国向け、地域別では華北向け。華北以外の中国市場を独占的に支配したのは、イギリスが供給したインド綿糸。こうした事実からも、日清戦争は朝鮮の経済的従属・市場確保が目的であったわけではない。

生糸・絹織物について

開港時から日本の重要輸出品の一つであった生糸については、綿紡績よりも機械化が遅れた。生糸について、器械糸(機械制工業)が座繰糸(手工業)を量的に凌駕するのは1900〜1910年の後半と日清戦争後のこと。ただし、絹織物業は1887(明治20)年前後から93(明治26)年前後にかけて生産額が2.3倍に急増、同時期の綿織物消費数量も、毎年一人当たり6%増大。すなわち、日本で産業革命が始まった80年代後半から日清戦争の時期にかけては、平均的生活水準が確実に上昇しつつあった時期だった。

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産業革命の大変化が始まりだして、10年も経たずに日清戦争を迎えることになりました。経済生活の変化は、それが各個人にとって好ましいものかどうかは別にして、山川均の回想が示すように、相当多くの人に実感されていたと思われます。また、その間に平均的生活水準は上昇しつつあったのですから、最初は変化を嫌っていても、結局その変化を好ましいと思うようになった人々の方が多数派であったのではないか、と思われます。

1890年代にはいってからの日本経済の著しい発展

横山源之助 『日本の下層社会』は、日清戦争終結から3年後の1898(明治31)年に出版されました。本書の焦点は工場労働者や職人・日雇い・小作人など社会の下層の人々に当てられているものの、そうした人々が置かれている経済環境、すなわち産業の状況について、当時活用できた農商務統計表などのデータに基づき、客観的定量的な分析も行っています。したがって本書は、当時の産業革命の進行状況を簡潔に整理した報告となっている、とも言えます。

本書に引用されたデータによって、農業など第一次産業以外では当時の日本の最大の産業であった繊維産業、すなわち織物業と紡績業の状況を確認したいと思います。元データは農商務統計表であり、筆者がグラフ化しました。なお、農商務統計表は、農林水産省図書館のウェブサイトで電子化公開されています。

繊維産業の産額 グラフ

「内閣と議会」のところで申し上げました通り、第一議会が開催された1890(明治23)年は不況の年でした。このグラフは、翌年からの景気回復・経済成長の状況を示している、とも言えます。

この期間に最大の成長を示したのは、絹織物業の分野であり、1896(明治29)年には91(24)年の3.6倍の産額に急拡大しただけでなく、繊維産業中の最大分野にもなりました。綿織物と綿糸紡績は、どちらも同じ期間に2.5倍前後の成長をしています。絹・綿とも、日清戦争の前年である93(明治26)年から回復が鮮明となり、日清戦争と重なった2年間の成長が著しかった、といえるように思います。ただし、絹綿交織や麻織物のように、ほとんど規模が変わらなかったり、はっきり縮小した分野もありました。

なお、この時期には、賃金や物価の上昇も著しいものがあったようです。やはり同書に引用された、当時の大蔵省の東京府下での調査データを、筆者がグラフ化したものです。

労銀と物価の上昇 グラフ

1893(明治26)年1月を開始点としたデータですが、労賃はその後5年間で約5割上昇しています。白米の小売価格に至っては、同期間で倍近くになっています。白米だけで物価水準を判断しては誤解することになりますが、当時は経済の急拡大期であり、それなりのインフレ状況にあったものと思われます。

日清戦争以前、朝鮮はまだ日本産業の大市場ではなかった

日本の産業革命は、日清戦争の直前の時期に開始され、そこから日本経済が成長路線に乗り始めた、ということを確認してまいりました。では、その当時の日本にとって、朝鮮はどういう経済的存在であったか、ということを確認しましょう。また、石井寛治 『日本の産業革命』、および大江志乃夫 『日本の産業革命』からの要約です。

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日本の輸出入に占める朝鮮向けのウェート

日清戦争の開戦直前の5年間である1889(明治22)年〜93(明治26)年の資料によれば、朝鮮向け輸出が日本の輸出総額にしめる比率は、90(明治23)年の2.2%を最高としてせいぜい1.4〜1.8%という数字であり、日本の主要輸出先ではなかった。また輸出品といえば、1892(明治25)年度で、日本から朝鮮への輸出品の最大のものは鋳貨材料としての銅など金属類であって、工業製品ではなかった。この当時勃興しつつあった日本の紡績業界が着目していたのも、中国市場であって、朝鮮ではなかった。

朝鮮から日本への輸入では、朝鮮からの米穀輸入は日清戦争より後の時代には重要となるが、輸入米が国内産米の1割を超えるのは1898(明治31)年のこと。当時の日本経済にとって朝鮮が果たしていた最大の役割は金地金の確保であり、1868(明治元)〜93(明治26)年の輸入金貨および金地金の累計額の68%あまりが朝鮮からの輸入であった。

結論として、当時の日本資本主義にとって、日清戦争にいたるまでの朝鮮市場は、産業資本の市場としても、農産物供給元としても、大きな役割をはたしていず、また期待もされていなかった

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すなわち、当時の日本の経済にとって、朝鮮を日本の市場としての確保することは、まだ重要課題となっていなかった、という状況であったようです。必然的に、朝鮮市場の確保を目的に日清戦争が開始されたのではなかった、と言えるようです。

ただ、当時の日本経済にとって朝鮮市場が大きな存在ではなかったからといって、当時の朝鮮にとって対日貿易の影響が小さくなかったわけではありません。日本と朝鮮では経済規模が違うため、朝鮮からの米穀輸入は、日本の消費総量にとっては相対的に小さい量であっても、朝鮮経済にとっては影響が生じる量であり、現に米価高騰を生じ社会騒乱の原因となっており、この点は注意が必要なように思います。

また日清戦争当時、日本と朝鮮の経済発展度には大きな差が存在しており、その差を生み出す原因として、政府の経済政策にも大きな相違があった点は、きわめて興味深いところがありますが、別途、「朝鮮の状況」のところで考えたいと思います。

朝鮮=「利益線」は、経済上ではなく地勢上の重要性

1890(明治23)年の第一議会で、当時の山県有朋首相が、「主権線・利益線」演説を行いました。国家独立自営の道は、一に主権線を守禦、二に利益線を防護すること、主権線とは国境である、利益線とはわが主権線の安全とかたく関係し合う区域である、と言って、利益線である朝鮮の防護のための軍備支出への理解を求めました。

「利益線」という言葉は、経済的利益を思わせる響きを持っていますが、朝鮮はこの当時まだ重要市場としての位置づけを得ていたわけはありません。日本の隣国であるだけに、もしここが外国勢力によって支配されると必ず日本に大きな影響がある、地勢上で国境の安全に大いに影響のある地域である、という位置づけだったと理解すべきと思います。

日本から朝鮮への経済進出は、日清戦争後に本格化していきます。経済進出は、戦争の結果として拡大したことであり、経済進出の拡大を主要目的として戦争が行われたわけではありません。その点でも、日清戦争は確かに帝国主義の時代に勃発しましたが、日清戦争自体は、経済史学的な意味で帝国主義戦争であった、とは言えないように思います。

日清開戦前の日本の状況の確認はここまでとし、次には、対戦国であった清国の状況の確認を行いたいと思います。

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