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日清戦争の経過から講和までを、すでに確認して来ました。 日清戦争の目的は、宣戦の詔勅で宣言されたように、朝鮮にありました。日清戦争の研究書のなかには、開戦前の朝鮮の状況は触れているのに、開戦後の状況はほとんど記されていないものもあります。しかし、一つの戦争を考える時に、その戦争の目的がどこまで達成されたのかを考えることは、必ず必要な作業であると思います。 ここでは、日清戦争の戦中から戦後にかけて、朝鮮はどういう状況になったのか、日本の開戦の目的は達成されたといえるのか、を確認していきたいと思います。 朝鮮では、結局は目論見に反する結果を招く日清戦争で日本は、当時の金で2億円を超える巨額の軍事費を使い、当時の全軍に近い規模の動員を行い、将兵だけで1万3千人以上、軍夫も加えれば2万人以上の戦死者(戦病死を含む)という損害も出しました。それだけ大きな負担の戦争を行い、勝利して、賠償金や領土割譲要求についてはそれなりの見返りを獲得しました。 しかし、朝鮮での大きな影響力の確立という戦争の本来目的については、結局は目論見に反する結果を招いてしまった、しかも、それは日本自身の朝鮮への支援が不十分だったからである、という事実は、十分には常識化していないように思われます。 ここでは、日本は日清戦争で軍事的には大勝利を果たしたものの、朝鮮政府は日本の願望通りには動かず、内政改革もなかなか進まず、利権も得られず、日本が朝鮮に大きな影響力を確立したといえる状況はついに実現できなかった、という事実の確認を行いたいと思います。 「戦中戦後の朝鮮」の内容構成日本は、1894年7月の日清開戦直前に、まず朝鮮に内政改革を迫り、さらに朝鮮王宮襲撃事件というクーデターを起こして政権を変えさえたことは、すでに「日本の戦争準備」のうち、「出兵と開戦の決定」および「朝鮮王宮襲撃事件」の項で確認しています。 日清間で実際に開戦となった後、当初は朝鮮側も清国が有利と考え、内政改革はあまり進展しませんでした。しかし、平壌の戦いおよび黄海海戦で清国軍が敗れ、また大鳥圭介に代わって井上馨が駐朝公使として着任すると、内政改革討議は前進を始めます。しかし、内政改革が現実の成果を挙げ始める前に、三国干渉が起り、そのために日本の影響力が削がれてしまいます。 三国干渉が起るまでの内政改革の進捗と、成果の出現を阻害した事情を確認します。 → 内政改革 三国干渉後は、日本もロシアなどの意向を気にせざるを得なくなり、また朝鮮王宮がロシアとの関係の強化を図ったため、日本の指導力が十分に発揮できなくなります。井上馨が公使を退任し、後継者には三浦梧楼が選ばれます。 → 三国干渉後 井上の後任となった三浦梧楼は、閔妃殺害事件を起こします。その後は朝鮮国王がロシア公使館に逃げ出す露館播遷も起り、日本は、日清戦争の勝利によって得たはずの朝鮮への影響力を、喪失してしまいます。 → 閔妃殺害事件
まずは、日清の開戦後、三国干渉に至るまでの時期の朝鮮の状況についてです。 |