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カイゼン視点から見る
日清戦争
The Sino-Japanese War of 1894-95 from Kaizen Aspect

日清戦争 戦中戦後の朝鮮

「閔妃殺害事件」
余りにも杜撰だった計画と実行

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日本政府は、朝鮮での「影響力維持方針」を捨ててはいないものの、その有効手段である資金恵与策について、臨時議会を開催してその協賛を得ることが出来なくなりました。すなわち、実質的には影響力縮小を容認せざるをえない状況で、閔妃殺害事件を起こすことになった三浦梧楼が、いよいよ井上馨の後任公使として着任します。

ここでは、その三浦梧楼の着任から、閔妃殺害事件、さらに、その後朝鮮国王の露館播遷によって日本の影響力がほぼ失われてしまうまでの状況について、確認していきたいと思います。

三浦公使の着任と井上公使の帰国

すでに確認しました通り、井上は1895年7月20日にソウルに帰任していました。以下は、その後三浦がソウル入りし、井上が帰国するまでの日程です。金文子 『朝鮮王妃殺害と日本人』からの要約です。

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三浦は9月1日にソウル入り、井上は9月21日に帰国

1895年9月1日、三浦梧楼がソウル入り。9月3日、三浦と井上は同道して朝鮮国王に謁見、新旧公使の交替を済ませた。

しかしその後も2週間もの間、井上馨は日本公使館に留まっていた。9月15日、井上は国王に最後の謁見、9月17日にソウルを出立、仁川でまた4日間留まり、朝鮮を離れたのは9月21日。

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三浦の着任後、井上がソウルを離れるまで、約半月間でした。三浦には外交官経験がなく、また朝鮮についても何も知識・経験を持っていなかったのですから、実務の引継ぎ期間として異常に長かったともいえないように思いますが、いかがでしょうか。

井上帰国後の「朝鮮宮中による改革の猛烈な破壊」

こうして9月の後半からは、井上がソウルを離れ関与しなくなって、三浦が名実ともに公使として動き出すことになりました。閔妃殺害事件は、それから1ヶ月も経たない10月8日に発生しています。

井上帰国後の状況については、在京城日本公使館の一等書記官で、公使不在時には代理公使であった杉村濬が、その回顧録 『明治廿七八年 在韓苦心録』に書いています。以下は、現代語に直した要約です。

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井上公使帰任直後からの朝鮮宮中による改革の破壊

井上公使は9月17日をもって帰朝の途に上り、これと同時に、宮中から新制度及び新軍隊の破壊に着手。

第一の破壊は財政。財政不足に対応する改正予算に反対し国王の裁可を得られず。また、政府の財源中で朝鮮人参への税などめぼしいものを政府への相談なしに王室財産に移し、さらに造幣事業をも宮中に移そうと計画した。

第二の破壊は、官吏任免進級や法律勅令発布を、内閣の同意なしに実行するようになった。第三の破壊は、内閣から金嘉鎮・兪吉濬という改革派をはずした。第四の破壊は、日本将校の訓練した訓練隊を解散しようとした。

9月下旬から10月上旬のわずか十日あまりの間に、宮中から政府への攻撃は実に猛烈を極め、日韓人共に非常に憂慮した。

朝鮮人にも国家の危亡を訴える者が増加

このため朝鮮人にも国家の危亡を訴える者が増加、彼等いわく、宮中の意は、先ず訓練隊を解散して政府の武力を奪い、金総理以下を殺害して閔氏政権の旧態に復そうとしている、あるいは、宮中は既にロシア公使と結託し、ロシアが朝鮮の君権を保護する代わりに咸鏡道の一港をロシアに貸すという密約をしたと。

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閔妃事件の研究書で、この杉村証言にある「改革の猛烈な破壊」が事実であったのかどうかについて、史料に基づいて検証しているものを、筆者はまだ読んでおりません。これが事実であるなら、当時は、日本の影響力の縮小が、短期間に急速に進行していった時期であったと言えるように思います。

朝鮮現地側では、日本からの資金恵与を前提に朝鮮政府と折衝することに日本政府がストップをかけ、さらには井上馨がソウルを去って重石が外れたことで、明らかなネガティブ・インパクトが発生していた、と言えるようです。西園寺外相はここまでの悪影響を予想していなかったかもしれませんが、彼が発信した電信が直接的に生じさせた結果であり、その点でこの事態について西園寺外相の責任は免れないように思います。

西園寺外相が、例えば、「日本の議会制度の制約から、資金恵与は実行まで半年ほど待ってもらわざるをえないが、必ず実行する、というベースで折衝してかまわない」、という指示を出していたなら、ここまで急速に日本の影響力が失われることはなかったように思われます。そうしていたなら、あるいは反対に、「資金恵与を当面コミットできない以上、日本の影響力縮小・利権喪失はやむを得ない、対策は取らず放置せよ」と明言していたなら、閔妃殺害事件は発生していなかった可能性があるように思われますが、いかがでしょうか。

「朝鮮宮中による改革の猛烈な破壊」は井上の失敗を明示

この「朝鮮宮中による改革の猛烈な破壊」を別の観点から見てみると、井上が過去1年近くにわたって行ってきた努力が短期間に完全に否定される事態が、井上の帰国直後に生じた、といえます。すなわち、井上が、公使としての課題に、結局は完全に失敗したことを明示する事態であった、と言ってよいようにも思います。

井上の失敗の根本は、現在の財政危機は現王政の危機であること、朝鮮の現王政を維持するには財政再建のための内政改革が必要であること、そして国王・王妃の権限を制限することがむしろ現王政の維持につながることを、高宗・閔妃に納得させることができなかった、という点にあったと思います。それが多少でもできていたなら、高宗・閔妃による改革の手直しはあっても、ここまでの改革の破壊は生じていなかったのではないか、と思われます。

現実には、朝鮮の現王政は財政危機にあり、東学乱を自力では鎮圧できず、日本や清国などからの支援がなければいつ倒されてもおかしくないという状況にありましたから、改革は必須でした。また、危機状況が生じたそもそもの原因が、高宗・閔妃の失政にあったわけですから、自らの権限を制限する改革も必須であったと言えると思います。

逆の観点から見れば、国王・王妃の権限を回復するために「改革の猛烈な破壊」を行ったことで、高宗・閔妃は、やがては体制が覆され自らの地位を喪失してしまうことをほぼ確実にした、とも言えるように思います。ただし、だからといって閔妃殺害が肯定されることには、断じてなりません。

閔妃殺害の決意と計画立案

日本政府の「影響力維持方針」について変更がないのにかかわらず、こうして実際に日本の影響力が急速にしぼんでいく事態に、現地側が強く反応して、閔妃殺害を急遽決意した、ということがありえたようにも思われます。

その状況で、三浦公使は何をしていたのか、以下は角田房子 『閔妃暗殺』からの要約です。

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三浦公使に閔妃暗殺への決意

三浦は公使館の2階の居室にひきこもり、読経に明け暮れる日々を過ごして、周囲から“読経公使”という綽名。外出もせず、政府要人や各国外交官とも会わず、日本公使としての職責はいっさい放棄した生活ぶり。

日本の三百万円は空手形、が知れわたると、閔妃派はいっそう勢力を強め、9月28日、駐米公使を閔氏一族から任命、29日には朝臣の服装を元通りの韓式に。三浦公使はどんな報告を受けても「そうか」と答えるだけ。

着任したソウルで、三浦公使は、杉村書記官らを通じて、朝鮮の現状、日本勢力の衰退、朝鮮側が日本へ示す軽侮、に対する在留邦人の憤懣の激しさを知る。三浦には、日本勢力挽回の突破口としての閔妃暗殺への強い信念。

閔妃殺害の計画立案

三浦の初めの計画は、大院君に決起を促し、解散寸前の危機に追い込まれていた訓練隊が大院君を担いでクーデタを決行、日本側は裏面工作をやるだけ。具体案を練るうち、実行の全てを朝鮮側に任せてはとうてい成功の見込みはない、との結論。そこで、日本守備隊を主力とし、公使館員、領事警察、在留邦人、訓練隊を加え、一丸となって実行にあたることに。表面はあくまでも「大院君と訓練隊のクーデタ」の形、夜陰に乗じて決行、実行隊のほとんどは日本人、決行は11月予定。

三浦の計画を最も早い時期に打ち明けられたのは、杉村書記官、岡本柳之助、楠瀬公使館付武官、安達『韓城新報』社長など。9月21日三浦は安達に「狐狩り」発言。10月を迎えた直後、三浦は閔妃暗殺決行の日を10月10日と早めた。周囲の状況の緊迫化と、予定通りの11月決行では計画が漏れるおそれ。10月2日、三浦は楠瀬中佐と軍隊動員について協議、守備隊長馬屋原少佐と具体的動員計画。領事警察の動員は、三浦公使と杉村書記官が直接指示。民間人の動員は安達社長。

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「朝鮮宮中による改革の猛烈な破壊」の進行に合わせ、閔妃殺害の計画も進行していったようです。

10月8日未明に繰上げ、閔妃殺害計画を実行

閔妃殺害は、実施日が急遽更に繰り上げられて、計画が実行されます。閔妃殺害事件の詳細は、朴宗根 『日清戦争と朝鮮』も詳しいのですが、ここでは、また角田房子『閔妃暗殺』からの要約です。

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訓練隊の解散決定に伴い、計画の急遽繰上

10月7日朝、「明日訓練隊を解散することに決定」の連絡。訓練隊が解散され武器を取り上げられては、クーデタの偽装が成り立たなくなるので、今夜直ちに行動し明8日未明までには事を決してしまうことで三浦と杉村の相談がまとまる。

大院君説得役の岡本柳之助を中心に荻原警部と6人の巡査、それに安達が率いる約40人が一団となって、竜山から出発したのは10月8日午前零時半ごろか。「大院君はなかなか出て来ない、ぐずぐずしていると夜が明けるので、…無理矢理に大院君を引っ張り出し、真っ先に守り立てて王宮に向かった」。大院君の出邸は午前3時ごろか。

計画の齟齬 − 実行時間の遅れ

決行日を急に早めたための無理、南大門に待機しているはずの日本守備隊がいない。一時間近くたって、西大門に至る大路の漢城府庁で訓練隊と合流、その場で日本守備隊の到着を待つ。その間に、東の空が白み始めた。10月8日のソウルの日の出は午前6時33分頃。王宮侵入は午前4時と予定されていたが、実際に大院君の輿が光化門を通過したのは7時近く、あるいは7時になっていたかもしれない。一団は、王宮内に突入。

暁の惨劇には多数の目撃者

侵入隊は、第二の中門をくぐり、康寧殿のそばに大院君の輿をおろす、閔妃殺害まで、大院君はここで「国王の允許を待つ」。一部の日本兵が大院君護衛のために残り、他の将兵は王宮の奥を目指す。右の間道を進んだ民間人の一団は荻原警部を先頭にほとんど抵抗を受けず、本道で侍衛隊の抵抗を受けた日本部隊より先に乾清宮に到達。

日韓両国の資料を読み比べてみると、「閔妃は日本人によって殺害され、遺体は庭園で焼却された」という基本では完全に一致。閔妃は「夜を徹しての宴会が好きで陽が昇ってから寝所にはいることが多かった」と伝えられていて、王は不眠症の閔妃に都合のよい就寝時間が来るまでつき合う習慣。

侍衛隊のアメリカ人教官ダイとロシア人技師サバチンの二人は乾清宮の前庭に立って、日本人集団の暴行を初めから目撃。「この二人は国王の居室からわずか三、四十間の所に宏大な洋館を建てて住んでいたから、すぐに出てきて、この紛争を目撃」

朝鮮側の調査資料、広島裁判の記録、内田領事の報告書などを突き合わせてみると―。乾清宮の神寧閣には、多数の宮女。暴徒たちは、容貌、服装の美しい二人を斬殺。さらに一人を隣室の玉壺楼で殺害。しかし、誰も閔妃の顔を知らず、女官と王太子を連れてきて首実検、玉壺楼で殺された最後の一人が閔妃と確認。

閔妃殺害後の後始末 − 退出時にも多数の目撃者

三浦公使が高宗に呼ばれて、杉村書記官と共に王宮に向かったのは午前8時ごろ。待機していた大院君の許へ勅使が派遣され、「速やかに参内すべし」と伝えたのは10月8日午前8時30分頃。高宗、三浦公使との三者会談。三浦が日本守備隊までを動員して王宮を占領した目的は、閔妃暗殺だけではなく、そのあとの親日政権樹立。

暗殺実行隊の民間人は三々五々王宮から退出。そのころ光化門付近には王宮の事件を知った大衆が群がり、この広場に通じる道路はさらに押し寄せる人々で雑踏。王宮から出てきた日本人暴徒らは、その異様な姿を見物人の視線に。また事変を聞いて参内するロシア公使とアメリカ公使とが、その途上の道や王宮内で、引揚げ途上の民間人の暗殺実行隊と顔を合わせた。よくこうまで不用心なことをしたものと、あきれるほかはない。

三浦公使が景福宮から公使館に帰ると、待ちかねていた内村領事が「大変なことになりましたね」。しかし三浦公使は上機嫌で、「いやこれで朝鮮もいよいよ日本のものになった」

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かくして、閔妃殺害そのものには成功したものの、当初計画の意図に反し、決行時間が遅くなって夜が明けてしまい、多数の人々が実行犯は日本人であったことを目撃してしまいました。こうなると、「暗殺」ではなく「公然殺害」であり、当然のことに外交問題となっていきます。

閔妃殺害事件自体についての二つの問題

ここまでのところで、カイゼン視点からみて、閔妃殺害事件については、二つの大きな問題があったように思います。

@ 閔妃殺害という方策は、状況の解決にとって、妥当な選択であったのか
A 閔妃殺害の計画とその実行は、妥当なものであったのか

閔妃殺害に関する研究書で、Aの点について論じられたものはありますが、@の点についてはあまり論じられていないように思います。

閔妃殺害は、状況の解決策として、妥当性を全く欠いていた

三浦公使が、事件前から「狐狩り」と言い、事件直後には「これで朝鮮もいよいよ日本のものになった」と発言したことからすると、事件の首謀者は上記の状況で、単に日本の影響力を回復するだけでなく、一気に従属国化まで図ることを目的に閔妃殺害を図った、と理解できるように思います。

三国干渉以後、井上馨も日本政府も、従属国化という課題は成り立たなくなったし、日本主導の内政改革も困難となった、あとは影響力確保がある程度可能なのかどうかが問題だ、と見ていたことからすると、事件首謀者である三浦梧楼は、明らかにズレた目標設定を行ったように見えます。すなわち第一に、目標設定自体が、状況に対して妥当ではなかった、と言えるように思います。

第二に、従属国化という目標設定は検討の前提条件と考えるとしても、その目標実現に閔妃殺害が妥当な方策といえるものであったのか、という問題があります。この事件では、閔妃殺害が中心課題となっていました。しかし、とにかく高宗・閔妃から王権を奪取すれば目標には近づいたのですから、例えば、大院君・李呵Oに政権を移すことを中心課題とし、閔妃の処分は大院君・李呵Oに委ねる方が、まだしも妥当な方策であったように思われます。

ただし、たとえ大院君・李呵Oへの王権交替が出来ていたとしても、背後に日本がいることは明らかにならざるを得なかったであろうこと、および、大院君・李呵O体制が日本が望むように安定するにはやはり日本からの資金援助が必要であったこと、そうなると結局ロシアをはじめとする列強の介入は免れなかったことからすれば、この状況で王権奪取の謀略を行ったことは、妥当性を全く欠いた策であった、と言えるように思いますが、いかがでしょうか。

閔妃殺害は、計画も実行も杜撰だった

閔妃殺害計画そのものとその実行は妥当であったのか、ということが次の問題です。

計画について、第一には実行体制の問題があったように思います。前回、1894年7月23日の王宮襲撃事件は、日本公使館と混成旅団が事前に十分な協議を行い、軍事行動は旅団を挙げての組織的行動でした。それにひきかえ、この閔妃殺害事件では、計画の全貌を知るのは三浦公使だけ、他の中心メンバーは杉村にしても計画の一部しか承知していない状況であったように思われます。大きな謀略を仕組んで実行しようというのですから、少なくとも何人かの参謀チームを作り、三浦とその参謀チームの協議によって全体を管理するようなやり方が必要であったように思います。明らかに体制が貧弱、かつ実務的ではなかったため、失敗は当然であったように思います。

第二には、日本人中心の行動と計画したことに問題がありました。これも前回との相違点ですが、三国干渉後は、とにかく列強から干渉を受けるようになり、それがさらに強まりつつありました。前回は旅団が動いても特に列強からの干渉はなかったのですが、今回はそういうわけにはいかないことは明白でした。日本人が少しでも表面に出る計画は立てるべきではなく、日本人が表面に出ざるをえないのなら、そういう計画は成り立たない、実行できないと判断すべきでした。

S. C. M. Paine "The Sino-Japanese War of 1894-1895" (サラー・ペイン 『日清戦争』)も、次のように指摘しています。「欧州諸国は戦時にはお互いの市民をいつも屠殺しあっているが、一般に、責任ある君主を傷つけることは控えている。国王殺しはその国民の犯罪であって、外国人の犯罪ではない。閔妃殺害によって、日本はこの通常のやり方を壊した。国際的な圧力と朝鮮人の憤慨が日本の陰謀の崩壊をひきおこした。」

第三に、実行上の問題もありました。当初計画は、「夜陰に乗じて暗殺を決行」であったのが、実行時間が大幅に遅延し多数の目撃者を作り出し、公然殺害になって現に外交問題化しました。

そもそも夜陰に乗じることが不可能と判明した時点で、決行を止めるべきでした。途中で決行を止めても、目撃者多数の公然殺害よりははるかに軽い影響で済んでいたと思われます。実際の経緯を考えると、そもそも大院君引き出しに出発する時間が計画より1時間以上遅れましたから、その時点で無理をせずに中止すべきであった、と思われます。

宮廷内でも犯行を止めるタイミングはありました。犯行グループは、宮中の女官らやアメリカ人教官・ロシア人技師など、多数の人が目撃している前で犯行・殺害を行っています。宮中に入って、遅くとも目撃者が多数いると分かった時点までに、犯行は回避すべきとの判断を行うべきであったと思います。まことに不適切です。

また、これも計画の問題になりますが、閔妃の当時の習性、すなわち、陽が昇ってから寝所に入ることが多かったことについて、対策が考えられていなかった点にも、非常に大きな問題があったように思います。高宗・閔妃が起きていれば、周りの女官や担当官なども皆起きているのが当たり前でしょう。現に、内田領事は殺害当日の午前2時に国王に拝謁(角田前掲書)していたぐらいですから、国王・王妃の夜更かしの習性が、公使館内で広く知られていなかったはずはありません。すると、たとえ夜明け前でも、宮中の多数の人の目撃が避けられない環境にあったのであり、目撃者なしに犯行を行うには何らかの工夫が絶対に必要な状況だったということだと思います。

また王宮に乗込むときは「夜陰に乗じて」いても、王宮から出てくる時間は夜が明けていた可能性がそもそも考えられているべきでした。王宮から出てくる際には必ず朝鮮服に着替えるなど、その点でも何らかの対策が採られているべきであったように思います。

閔妃の殺害は、このように、計画においても実行においても余りにも杜撰だった、と言わざるを得ないように思いますが、いかがでしょうか。

閔妃殺害を計画実行した三浦梧楼および関係者は、目的の設定を誤り、手段の選択でも根本的に間違った発想を行い、しかも、その具体的な計画においても実行においてもとんでもなく杜撰であり、結果として、朝鮮をさらに反日に走らせて日本の国益を害したわけですから、弁解の余地は全くなく、徹底的に批判されているべきであった、と思われます。

事件後の日本政府の対応

事件に対し、日本政府にはどのように報告が行われ、日本政府はどのように対応したのでしょうか。再び、角田房子の前掲書の要約です。

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日本公使館から日本政府への直後の報告は、日本人関与を隠蔽

日本政府がこの事件を知ったのは、楠瀬中佐から川上参謀長あての、10月8日午前8時50分発の電報、「大院君が訓練隊を率いて王宮に入った」。9時20分新納在韓公使館付武官から伊東海軍軍令部長あて、「国王無事、王妃殺害せられしとのことなり」。午後1時30分、西園寺外務大臣臨時代理は三浦の午前11時発の電報を受け取る、「大院君のクーデタ」、「王妃は行方不明」。午後3時30分、三浦から西園寺、「王妃の所在はいまだ詳らかならず。多分殺害せられたるならん。日本人の之に加わりたるや否やは取調中なり」。

外交問題化で、日本政府は小村調査団を派遣

この日午後3時半ごろ、ロシア公使ウェーベルをはじめ駐韓各国公使が日本公使館を訪れ、今朝の事変について三浦公使を詰問、三浦公使は意気消沈。

三浦から西園寺へ、午後10時30分発の電報、「今朝の事変…裏面には多少日本人相加わり、しかして本官の黙視したることなり」。さらに午後11時55分発で、外国公使たちの来館の顛末を詳しく報告、いずれ外交ルートで日本に知れると観念。政府は翌10日、事件調査のため外務省政務局長小村寿太郎のソウル派遣を決定。

訓練隊によって軟禁同様の状態におかれていた王は、毒殺を懸念して外国公館から差し入れされる食物以外は口にせず。10月12日、きわめて親日色の強い第4次金弘集内閣成立。

小村寿太郎率いる調査団、10月15日ソウル到着。17日、小村は西園寺へ電報で報告、「この事件の使嗾者は三浦公使」。同じ17日、三浦公使の解任と日本召喚が決定、小村が後任公使に。10月18日に民間人に朝鮮退去令、22日には杉村、堀口ら官吏も。日本政府は各国駐在の日本公使に電訓、閔妃事件が日本政府の方針に出たものでないこと、嫌疑者は退韓させ、官民の別なく犯罪の証拠がある者は法に照らして処分することを、任国政府に内告。

広島での事件関係者への裁判 − 軍人は無罪、それ以外は免訴

退韓命令を受けた人びとの帰国風景、「あたかも凱旋将軍を迎うるの光景」、48人が直ちに収監、広島地方裁判所の予審尋問開始、楠瀬中佐ら軍人を裁く第5師団軍法会議も開始。広島地裁の予審進行中に、朝鮮政府は、“閔妃殺害の下手人”として、朝鮮人3人を逮捕、全員に絞首刑の判決。でっちあげ。12月28日処刑。半月後の1896年1月14日、第5師団軍法会議、全員無罪、1月20日広島地裁予審、全員が免訴。釈放された三浦梧楼はまたも凱旋将軍のような扱い。

全員無罪の背景、まず1895年11月28日の「春生門事件」、親露、親米派の人々が、国王の遷宮と金弘集内閣打倒を企図して行動を起し失敗に終わった事件、背後にはロシアなど外国勢力があったという点が強調され、日本が起こした事件への非難の矛先を鈍らせる結果。次に、日本政府および小村寿太郎の事件処理が功を奏し、諸外国の了解をかなりの点まで取り付けることができた。さらに、朝鮮当局が閔妃暗殺の下手人として3人の自国人を処刑したことが、日本の立場を非常に楽にした。

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閔妃殺害事件の関与者は、とにかく杜撰な計画を立て、しかも実行はさらに杜撰でした。そして彼らの主観的願望とは正反対に、日本の国益を現実に害しました。彼等が帰国した時、本来はそうした杜撰さへの徹底的な批判がなされるべきであったと思います。

実際には、あたかも凱旋将軍を迎える如くであった、という状況は、その当時、一般に対し正しい情報提供が全くなされていなかったことを示すものだと思います。しかし、同時に、事件関与者に反省を迫る機会を逃がしてしまうことになり、結果的に、失敗から学ぶせっかくの機会を逸してしまった、と言えるように思います。

なお、「春生門事件」というのは、親露・親米派が計画したクーデタで、閔妃殺害の目撃者となったダイをはじめ何人かのアメリカ人も関与して実行されたものの、事前に情報を入手していた日本側が親衛隊を使って即座に鎮圧した、というものだったようです(木村幹 『高宗・閔妃』)。米・露側も、閔妃事件からの学習が不十分で、杜撰な計画だった、と言わざるをえないように思います。

広島予審終結決定書は、日本人関与を実質的に認定

杉村の回顧録 『明治廿七八年 在韓苦心録』には、「外篇」として「広島予審終結決定書」が収録され、それに対する杉村の見解も付されています。

「終結決定書」は、冒頭から全体の5分の4ほどの分量を使い、杉村ら公使館関係者が事件にどう関与したのか、日本人壮士たちが兇器を持って王城内に入り後宮にまで到った事実をひとつひとつ列記し、ちゃんと認めています。ところが、最後の5分の1ほどの部分では、肝心の閔妃殺害そのものについて事実関係の言及が全くないまま、突然、被告人中の誰が殺害を実行したのか「証拠が十分ならず」、という理由で「免訴」という結論を出しています。

そこまで事実を認めておいて最後をウヤムヤにする非常に不思議な論旨であり、論理的に面妖なのですが、その分、これが政治的な判断であることを明確にしている、とも言えるように思います。また、「証拠不十分で免訴」であって、「事実がなく無罪」ということでない点は、正直であるとも思います。

ただし、証拠不十分で免訴と結論づけたことによって、閔妃殺害事件が、その後現在に至るまで、一部の冒険主義者が勝手に起こした犯罪ではなく、背後に日本政府がいて実行された国家犯罪である、と誤解される余地を残してしまったように思います。

広島予審の終結決定は1896年1月20日のこと、その約3週間後、2月11日に露館播遷が起こりました。もしも順序が逆で、露館播遷が予審の終結決定の前に起こっていたら、どうなっていたでしょうか。ロシア公使館から声高に日本人主犯が叫ばれている中で決定を出さざるを得ない状況だったなら、殺害の実行犯を実際に有罪としていた可能性もありえたのではないでしょうか。その後の日本の歴史のためには、その方が良かったようにも思われますが。
 

閔妃殺害事件のネガティブ・インパクト − 対日感情の悪化

この事件の結果として、当然ながら、朝鮮では対日感情が悪化しました。以下は、再び角田房子 『閔妃暗殺』からの要約です。

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朝鮮国内の対日感情の悪化

朝鮮民衆の対日感情はこの事件によってさらに悪化の一途。事件当日、王宮に乱入する日本の軍民を目撃した市民は多く、王宮から刀を手に出てくる暴徒を見た者はさらに多かった。自国の王妃が日本の暴挙によって抹殺されたことへの国民としての怒り。しかも閔妃の死は秘されたままに、「廃后の詔勅」。これに激怒した官吏の職場離脱が相次ぎ、「詔勅」の取り消しを求める声は各地に満ちて国中が騒然となった。

こうした反日、反政府の機運を一挙に燃え上がらせたのが、12月30日に公布された「断髪令」、ソウルの四大門に巡検が出張して通行人の髪を容赦なく切るという強行ぶり。またも日本によって民族の伝統を踏みにじられたという憤激が全国に渦を巻き、義兵運動。閔妃事件の翌年4月までに、朝鮮人によって殺された日本人は43人。

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結果として、国益阻害の状況が生じ、日本人の生命まで脅かされる事態に立ち至ったわけです。非難されるべきは、必ずしも義兵運動側ではなく、その原因を作った、閔妃殺害事件の当事者であるべきであった、と思います。

さらに露館播遷で、日本は影響力を喪失

閔妃殺害事件から約4か月後の1896年2月11日、高宗は王宮を出て、ロシア公使館に逃げ込み、その結果、日本は影響力を発揮することが全くできなくなってしまいます。以下は、山辺健太郎 『日韓併合小史』からの要約です。

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反日運動の激化と朝鮮国王の「露館播遷」

アメリカ公使館やロシア公使館にのがれた親露派らは、11月28日に、親日派内閣を倒そうとしたが失敗、ふたたびアメリカ・ロシアの公使館にのがれる。新政府反対の全国的運動、各地で約30名の日本人が殺された。

この全国的な反日暴動を利用したのがロシア公使ウェーバー。ロシア公使館護衛という名目で、仁川に停泊していたロシアの軍艦から百名の水兵をソウル市内にいれて示威運動、同時に親露派で閔妃派残党の李範晋と打ち合わせ、1896年2月11日、国王とその世子とをロシア公使館に連れ込んだ。これが近代朝鮮史上で有名な露館播遷。同時に、李範晋らは国王を擁して親日派を捕え殺害、逃げた者は日本に亡命。李範晋らはロシア公使館内で新内閣を組織。以後1年間、朝鮮国王と王世子はロシア公使館に滞在しここで政務をとった。

日本が失った地位はロシアに

ロシアは、2名のロシア人顧問を入れ朝鮮政府の財政軍事を監督、士官20名に朝鮮軍隊の訓練、ソウル市内にロシア語学校。96年3月〜97年3月には、京仁鉄道施設権はアメリカに、など各種利権の譲渡により欧米資本の導入。これ以後日本は、ロシアと協調せずに朝鮮におけるその地位を保てず。

原敬の上申書、排日は内政干渉の反動と王妃殺害が原因

特命全権公使としてソウルに来た原敬の上申書、1896(明治29)年8月19日付。「概括的に朝鮮の現状を陳述致し候わば、官民一般はもちろん、在留外国人に至るまで、排日の風潮頗る盛んにして、我が行為にはそのことの何たるかを問わず皆反対を試むるの情勢にこれあり候、これ申すまでもなく、一両年来内政干渉の反動と、昨年10月8日王妃殺害事件とに原因致し候。」当分の間は静観するほかないとの意見。

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なお、朴宗根 『日清戦争と朝鮮』は、露館播遷について、前年11月には噂が出ていて、日本側もその情報は把握して警戒していたのに、実行されてしまったと指摘しています。

同書はまた、この閔妃殺害と断髪令の後、1月12日の原州蜂起から義兵運動が発展、露館播遷後も鎮静するどころかかえって盛んになり、4−5月ころになって政府軍の鎮圧作戦によって次第に敗退していったこと、この間に、開港地は警備を強化されたものの、襲われて殺害されるの日本人もあり、実質的に休業せざるをえなくなって、日本商人が店頭を鎖しにわか帰国の途に就く者が多かったことなどを詳述しています。

閔妃殺害事件は、当事者の日本の影響力回復強化の主観的願望とは正反対の、日本の国益の深刻な阻害に結果したわけです。本件も、下関での李鴻章襲撃事件と同様、一国利得主義に基づく冒険主義は、国益をいかに標榜していようとも、実態としては国益を阻害する結果をもたらすものである、という典型例になってしまいました。

日清戦争の開戦目的と、現実の結果

日清戦争での日本の開戦の目的は、朝鮮において清国勢力を排除し、日本の影響力を確立することでした。ところが、これまで確認して来ましたように、日本は戦争そのものには勝利したものの、開戦の目的であった朝鮮での影響力確立を達成することが出来ませんでした。それどころか、反日感情を著しく強めて、かえって影響力を低下させてしまいました。日本は、日清戦争の開戦目的の達成に、明らかに失敗したわけです。

そして、その失敗の原因は、表面上は三国干渉にあったように見えますが、実は日本側にありました。

  • 日本は、朝鮮の内政改革支援において必要だった資金供与について、金額をケチり、時機を遅らせ、不必要な条件をつけて、その推進をむしろ阻害しました。
  • 清国との講和では、過去の事例からみてあまりにも法外な領土割譲要求を行ったために、三国干渉を招きました。
  • 日本の朝鮮に対する利権要求が過剰であったことから、列強の朝鮮への介入も招きました。
  • 三国干渉後も、朝鮮への影響力を維持するため資金恵与が必要であったのにかかわらず、資金恵与のコミットを引っ込めて、影響力の縮小をやむなくしました。
  • そして、最後には閔妃殺害事件まで発生させてしまい、朝鮮における対日感情を決定的に悪化させました。

さらには、こうした失敗がそれぞれ適切に反省されることがなく、そのために日本は貴重な失敗経験をカイゼンに活かすことができませんでした。誠に残念なことであったように思いますが、いかがでしょうか。


これで、日清戦争の開戦目的であった朝鮮が、日清戦争の戦中から戦後にかけて、どのようになっていったのか、確認を終わります。

最後に、日清戦争が、日清戦争の戦後の日本に与えた影響を確認したいと思います。次は、「戦争の結果」です。

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