8j 明治日本の外交政策と対外硬

 

このページでは、明治維新以来の日本の政治状況、日本政府の対アジア政策、対外硬派などについて、本ウェブサイトが参考にした書籍・研究書等を挙げています。

政治分野の中で、は、以下を参考にしています。

 

明治維新以来の日本の政治状況と、明治政府の対アジア政策

色川大吉 『近代国家の出発 (日本の歴史 21)』
中公文庫 1974

色川大吉 近代国家の出発 カバー写真

通史のシリーズ本の1冊で、西南戦争後から日清開戦に至るまでの期間を扱っています。著者は、民衆思想史の研究者だけに、自由民権運動に関する記述は豊かです。また、一般読者向けであるので、大変に読みやすい文体で書かれています。

日清戦争に至るまでの時期について、日本の政治的・経済的な状況はどのようなものであったのか、基本知識を持つには役立ちます。初期議会や対外硬運動についても、記述されています。

筆者は、たまたま所持していた本書を活用しただけですので、同じ目的を果たすのに、今はもっとよい本があるかと思います。

本書からは、本ウェブサイト中の以下のページで、引用等を行っています。

2 戦争前の日清朝 - 2a1 日本① 内閣と議会

同 2a2 日本② 対外硬派

 

 

 

毛利敏彦 『台湾出兵-大日本帝国の開幕劇』
中公新書 1996

毛利敏彦 台湾出兵 カバー写真

本書は、「日本が近代国家となってから最初の海外への武力行使」であった1874(明治7)年の台湾出兵に関する、政治外交史についての研究書です。

著者はその「まえがき」の中で、本書は、「そもそも日本政府が出兵を敢行したのはなぜか」、「台湾出兵を契機に清国の対日方針は強硬路線へと急展開したが、なぜそうなったのであろうか」という、二つの根本疑問を解明するための試みである、として、日本の台湾出兵は、もともと台湾の蕃地領有を意図していたものであったこと、この出兵が清国には、華夷秩序への重大な挑戦と受け取られたことを論証しています。

台湾出兵は、国際的影響を顧慮することなしに、日本が自国独善主義で行ってしまった軍事行動の「走り」であった、と言えるように思います。

本書からは、本ウェブサイト中の以下のページで、引用等を行っています。

2 戦争前の日清朝 - 2b 清国 対日・対朝の政策

4 日清戦争の経過 - 4d 台湾征服戦

 

 

 

 

藤村道生 『日清戦争前後のアジア政策』
岩波書店 1995

日清戦争の総合的研究書分野での名著、『日清戦争 - 東アジア近代史の転換点』 の著者による、維新政府成立から日露戦争・韓国併合までの時期の、明治政府の外交および対朝鮮政策に関する、論文集です。

本書からは、本ウェブサイト中では特に引用などは行っていないものの、本書中、特に下記の3つの論文は、筆者が当時の状況を理解するのに非常に役立ちました。

● 「万国対峙論の登場 ―維新外交の理念―」
● 「日清交渉先議論―朝鮮問題解決の手段として―」
● 「朝鮮侵略の発端―釜山日本租界の起源―」

 

伊藤之雄 『山県有朋-愚直な権力者の生涯』 文春新書 2009

伊藤之雄 山県有朋 カバー写真

山県有朋の評伝です。これまでの他の評伝と比べ、同時代の手紙や日記など公刊・未公刊の一次史料を活用しています。

それによって、以下を明らかにした点に特色があるとしています。
① 山県は出世の過程で、何度も失脚の危機にさらされた
② 維新から明治憲法制定までは、陸海軍の統制について、大久保らや、伊藤・井上といった文官が相当の実権を持っていた
③ 山県が築いた日本陸軍が、太平洋戦争へ導いた日本陸軍に直接つながるわけではない
また山県の人柄は、「狡猾」「陰気」とされてきたが、「愚直」がもっともふさわしい、としています。
(以上、本書の「おわりに」)。

初期議会の裏側で存在した伊藤と山県との対立の状況については、本書がある程度参考になります。近代国家建設の上で議会制・政党の発展が必須と認識している伊藤と、議会をできるだけ抑制したい山県との差異があり、それが初期議会以後の政治の各局面での両者の具体的な対立となったことが書かれています。

ただし、日清戦争の開戦に大きな影響のあった、直前の対外硬運動、特に山県系である品川らの動きへの山県の関与については何も触れられていない点には、不満が残ります。

山県は、欧州に長期出張しても通訳付きで済ませ、伊藤や井上のように外国語を学ばず、欧州理解が表面的にとどまった、とか、山県の外交上の提言は現実から遊離していることがあり、伊藤に比べ列強認識の点で劣っていた、とか、戦争の具体的な作戦指導で後進の軍人との対立があった、などという点は指摘されているものの、そうした山県の問題点の具体的な悪影響については、あまり記述されていません。そのため、全体に山県を正当化しすぎ、弁護しすぎという印象を免れないように思います。

本書を読んで筆者は、本書の著者の意図とは全く異なると思いますが、山県について、下記の印象を持つに至りました。

…伊藤のような幅の広い近代化観を欠いており、優秀だが視野が狭い、本来なら軍や内務省の能吏程度の人物であった。しかし明治政府の建設期にあって、たまたま日本陸軍のトップとして長きにわたり君臨し、結果的に国政全体への大きな権力を得てしまった。その結果、適切な全体観を欠いたままで軍に予算を重点配分する部分最適を行ってしまい、日本の資本主義の発展の道を歪めてしまった。…

やはり山県は、長生きをていしない方が良かったように思います。

本書からは、本ウェブサイト中、「2 戦争前の日清朝 - 2a2 日本② 対外硬派」のページで引用等を行っています。

 

征韓論から対外硬論へ

井上泰至・金時徳 『秀吉の対外戦争-変容する語りとイメージ』
笠間書院 2011

井上泰至・金時徳 秀吉の対外戦争 表紙写真

征韓論の源流の一つは、豊臣秀吉の朝鮮攻略まで行きつくようにも思われます。

本書は、豊臣秀吉の朝鮮攻略について、事実がどう捉えられたか、どう記憶され、語り継がれたかを、江戸時代から日清戦争までの軍記・軍書の記述を通して確認する、という、ユニークな取り組みを行った書です。

秀吉時代の反省・批判に立って朝鮮との外交関係を復活した江戸期でしたが、幕末になると、体制が弛緩し、徳川の敵だった秀吉も見直されだし、吉田松陰すらその朝鮮攻略を高く評価したことを、本書は指摘しています。

幕末期には、朱子学儒教的な観念論だけが膨れ上がっていて、そうした立場からは経済的な見方が出来ず、そのため国威・国力とは何かも適切には理解されていなかった、という時代性があったと考えればよいのでしょうか。

本書は、本ウェブサイト中、「2 戦争前の日清朝 - 2c1 朝鮮① 秀吉の朝鮮侵攻」のページで、引用等を行っています。

 

 

 

吉野誠 『明治維新と征韓論-吉田松陰から西郷隆盛へ』
明石書店 2002

現代の我々からすると理解しがたいような、日清戦争当時の日本の対外積極論を理解するには、どうしても幕末維新期の「征韓論」までさかのぼって見ておく必要があるように思われます。その点で本書は読むに値する研究書であり、幕末の吉田松陰の征韓論から始めて、江華島事件での万国公法論に基づく日朝修好条規の締結までの過程を確認しています。

吉田松陰は、「天皇を中心とした日本の国体にとって、朝鮮の臣属は不可欠の一環」として「征韓論」を位置づけたこと、「征韓論は王政復古として実現する明治維新の理念と不可分の関係にあり、この時期に昂揚するのは必然的なこと」、しかし江華島事件では、「万国公法に基づく日朝修好条規を締結」して「征韓論の時代は終焉した」こと、しかし明治国家の国是として「逸早く侵略主義が形成されるにおいては」「征韓論が決定的な役割をになった」ことを、著者は本書で論証しています。

筆者としては、征韓論なしでも王政復古は理論化できていたと思うのですが、松陰は征韓論を理論に入れ込んでしまいました。「近代」国家づくりの基盤思想に「古代」が入れ込まれてしまった影響は、甚大でした。松陰という人は、坂本龍馬などとは異なり、欧米の近代化の本質が、産業革命による経済発展を基盤とした、国民の生活水準の向上にあることを、理解できなかったのであろうと思います。

本書は、本ウェブサイト中、「2 戦争前の日清朝 - 2c2 朝鮮② 開国~甲申事変」のページで、引用等を行っています。

 

酒田正敏 『近代日本における対外硬運動の研究』
東京大学出版会 1978

本書は、日清戦前から日露戦争期にかけての、日本の対外硬運動についての研究書です。対外硬運動を担ったさまざまなグループについて、また議会の外の議論も議会の中での議論も取り上げられ、検証されています。

当時の対外硬運動を理解するためには、必読書と思われます。

本書は、本ウェブサイト中、「2 戦争前の日清朝 - 2a2 日本② 対外硬派」のページで、引用等を行っています。

 

黒岩比佐子 『日露戦争 勝利のあとの誤算』
文春新書 2005

黒岩比佐子 日露戦争 勝利のあとの誤算 カバー写真

本書は、日露戦争が終わって100年というタイミングに合わせて出版された、ノンフィクション・ライターによる作品ですが、記述の各所に典拠が明示されていて、学究的な姿勢が明確な著作と言えるように思います。

内容は、日露戦争の講和会議からはじめて、二日間の「帝都大騒擾」の詳細、戒厳令下の政府対新聞の対立とその後までが書かれています。

著者は、「あとがき」の中で、「日露戦争の勝利のあとに起こったこの民衆の大暴動こそ、近代日本の一大転換期だった」としています。

筆者は、「転換」の根元は日清戦争にあったと思います。日清戦争時に示された、当時の日本人の海外領土獲得への熱意、そして日清講和によって生まれた戦争ビジネスモデルへの期待が、いかに大きいものであったかが、日清戦争から10年経ってまた戦争に勝った時の、「帝都大騒擾」の激烈さとなって現れたように思います。

本書は、本ウェブサイト中、「7 日清戦争の結果 - 7b 戦争ビジネスモデル幻想」のページで、引用等を行っています。

 

 

 

谷干城・三浦梧楼と、福沢諭吉

小林和幸 『谷干城-憂国の明治人』
中公新書 2011

小林和幸 谷干城 カバー写真

谷干城は、対外硬運動の中で「日本グループ」を率いた人物でした。ただし、「対外硬運動」は、上掲の酒井氏著書が明らかにしているとおり、政府反対派が幅広く参加した運動であったため、対外硬運動家が皆対外積極論者であったわけではありませんでした。

本書は、谷干城の研究者である著者による、谷干城の伝記です。

谷干城は、当時、欧州を知り、「近代」の何たるかを適切に理解した、数少ない日本人の一人であり、それゆえに「対外武力進出に頼らない日本の近代化」、という近代化のもう一つの道を追求しようとした人物であったように思います。

谷干城という人について、あるいは、谷干城を通して、明治期の日本の発展の可能性は多様であったことが、もっと研究されても良いのではないか、という気が致します。

本書からは、本ウェブサイト中、以下のページで、引用等を行っています。

1 帝国主義の時代 - 1d 英のエジプト保護国化

2 戦争前の日清朝 - 2a3 日本③ 谷干城の意見

 

 

 

三浦梧楼 『観樹将軍回顧録』
政教社編・発行 1925 (中公文庫版 1988)

谷干城と同じく、陸軍の反主流派将軍の一人であり、後に閔妃殺害事件をおこした三浦梧楼の回顧録です。

偉い人の回顧録によくあるパターンの一つですが、全体に自慢話の羅列、という印象は免れません。しかし、かなり合理的な思考をする人であったことは、よく分かります。長州出身ながら「薩長の情実の打破」では生涯一貫していて、それが陸軍の反主流派となった原因でした。木戸派で、反山県という点も一貫していましたが、必要とあれば山県ともそこそこに話合いをする人であったようです。

閔妃殺害事件について、意味のある告白は何もしていません。全体として、「彼自身の政治的、思想的な立場となると、今一つよく判らない」(佐伯彰一による中公文庫版の「解説」)というのは、まことに妥当なコメントであると思います。

政教社編・発行のこの回顧録の中で最重要の個所の一つは、三浦梧楼が日清戦争の5年前、1889(明治22)年に有志に頒布した 『兵備論』 が収録されていることです。この 『兵備論』 は、当時の日本の財政力に見あった、防衛優先の「経済的軍備論」を具体的に展開したものであり、陸軍が実際に行った軍拡路線とは異なる軍備モデル論が、当時の日本に現に存在していたことを示しています。ただし中公文庫版では、『兵備論』 は、何の断り書きもなく、割愛されてしまっています。

中公文庫版ではさらに、閔妃殺害事件後に、明治天皇が三浦梧楼について「遣る時には遣るナ」と言ったことも、同様に何の断り書きもなしで割愛されています(この点は金文子 『朝鮮王妃殺害と日本人』 に指摘あり)。中公文庫は、本書については、重要箇所2点を何の説明・注記もなく割愛しており、出版社の倫理にもとる編集を行った、といわざるをえないように思います。

なお、『観樹将軍回顧録』 の原著である政教社版は、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されていますので、全体は現代語表記の中公文庫版で読んでおき、『兵備論』と「朝鮮事件」だけを、原著で読む、というやり方が便利かもしれません。

本書は、本ウェブサイト中、下記のページで引用等を行っています。

2 戦争前の日清朝 - 2a3 日本③ 谷干城の意見

同 2b 清国 対日・対朝の政策

6 朝鮮改革と挫折 - 6c 三国干渉後の井上公使退任

 

平山洋 『福沢諭吉の真実』 文春新書 2004
平山洋 『アジア独立論者 福沢諭吉: 脱亜論・朝鮮滅亡論・尊王論をめぐって』 ミネルヴァ書房 2012

対外硬運動に関連しては、当時の言論の雄の一人であった福沢諭吉の考え方を見ておくことも、当時の状況の理解に役立つと思います。

ところで、福沢諭吉の清国・朝鮮に対する考え方が、具体的にどのようなものであったのかについて、従来の学説は、福沢が発行していた『時事新報』 の無署名論説は、すべて福沢自身のものであるとの見方でした(典型的には、安川寿之助 『福沢諭吉のアジア認識 - 日本近代史像をとらえ返す』 高文研 2000)。

それに対し、日清戦争期には福沢はすでに 『時事新報』 の編集から離れ、口出しをしておらず、本来の福沢の見解と 『時事新報』 の論説にはズレが生じていたことを論証したのが平山洋の 『福沢諭吉の真実』 であり、さらに、福沢自身の思想であることが明確な著作論説に基づいて、福沢のアジア論を具体的に詳論したのが、『アジア独立論者 福沢諭吉』 です。『アジア独立論者 福沢諭吉』 の方は、壬申事変への福沢の関与がどこまであったのかについても、論証しています。

安川・平山論争を見てみると、資料の読み方について安川の主張には無理があり、平山の読み方の方がはるかに説得力があるように感じられます。

なお、安川の 『福沢諭吉のアジア認識』 は、『時事新報』 論説の資料として、当時の対外拡張論者の(福沢とは異なる)主張への論評として読むのであれば、今も多少の価値はあると言えるかもしれません。

上記2書のうち、『アジア独立論者 福沢諭吉』 は、本ウェブサイト中、「2 戦争前の日清朝 - 2c2 朝鮮② 開国~甲申事変」のページで引用等を行っています。

 

 

次は、産業革命期に突入していた当時の日本経済の状況についての参考図書です。