7a 東アジアの不安定化

 

 

日清戦争の講和談判で、日本は、それまでの列強の対清戦争の結果からすればきわめて法外な領土の割譲要求を行い、清国から台湾と遼東半島の割譲を得ましたが、遼東半島については三国干渉が起こり清国に返却させられました(「5 講和と三国干渉」)。

日本のこの法外な領土割譲要求が、列強による中国分割競争の引き金となり、世界史的には日清戦争は日露戦争より重大な影響を生じた、と言われています。結果として、日本にとって、東アジアは日清戦争前よりもかえって不安定化していくことになりました。

このページでは、日清戦後の列強による中国分割競争の状況を確認します。

 

世界史的にも重大であった、列強による中国分割の開始

列強各国の獲得利権と極東での軍備増強

日清戦争後、列強は、清国からどのような利権や租借を獲得したのでしょうか。また、列強は、どのような軍事力を極東に持ち込んだのでしょうか持ち込んだのでしょうか。以下は、藤村道生 『日清戦争』 からの要約です。

日清戦後、義和団蜂起までの、列強による清国からの利権・租借の獲得

日本への償金2億3千万両支払いのための露仏借款4億フランと、翌年それに対抗して貸付けられた同額の英独借款、借款のあとからは利権と租借の大進軍が続いた。
● 露清銀行の創立、露清密約と東清鉄道協定
● ビルマ鉄道の雲南延長
● ドイツの膠州湾占領とその租借
● ロシアの旅順軍港占領、旅順、大連湾租借
● イギリスの威海衛租借

日清戦争の講和で日本が巨額の賠償金を獲得 → その支払のため清国は列強から借款 → 借款の条件として列強は利権や租借を獲得、という構図です。間違いなく、列強による中国分割の原因者は日本でした。

列強各国は極東での軍備を増強

極東は帝国主義対立のもっとも重要な焦点となり、各国は続々と艦隊を送り込んだ。
● ロシアはそれまでの18隻4万トンに戦艦6隻を増派して10万トンの大艦隊
● フランスは9隻2万トンの極東艦隊を派遣
● ドイツは7隻2万2千トンの東洋艦隊を派遣
● イギリスはこれに対抗して31隻7万トンの艦隊を配備

列強による清国からの利権獲得と軍備増強、結果としての東アジアの不安定化が、ここまで急速に進んでいったことは、伊藤博文や山県有朋をはじめとする当時の日本の指導者の想像力を越えたものであったのではないか、と推測します。

日清戦後の清国の分割・半植民地化の具体的な進行の経過

上に総括されている清国の分割・半植民地化が、具体的にどのように進んでいったのかについては、戴逸・楊東梁・華立 共著 『日清戦争と東アジアの政治』 に、わかりやすく記述されています。以下は、同書からの要約です。

1896年6月 露清密約

ロシア政府、極東での戦略および経済的地位を強固にするため、シベリア鉄道を中国東北部の領土内を貫通させて、ウラジオストックまで延長することが急務。1896年5月、ロシア皇帝ニコライ2世の戴冠式。戴冠式祝賀のための使節、ロシア側が李鴻章を指名。ヴィッテは、李鴻章を先ず丁重に待遇、言葉でその心を動かし、巨額の賄賂を贈って、ついに希望を実現した。露清密約、1896年6月3日調印。日本に対する相互防衛援助、ロシアによる東清鉄道敷設。

1897年11月 ドイツによる膠州湾占領、98年3月 膠州湾租借条約

1896年11月29日、ドイツ皇帝ウィルヘルム2世は、膠州湾〔山東省青島〕占領を決定。ロシアとイギリスの黙認を得て、あとは口実を探すだけ。97年11月4日、二人のドイツ人宣教師が山東省で殺された。11月14日、ドイツ海軍の軍艦3隻が膠州湾に侵入、直ちに上陸して港を占領。98年3月6日、膠州湾租借条約、99年間。ドイツによる、膠州から済南まで2本の鉄道の敷設、鉱山開発。

1897年12月 ロシアによる旅順・大連の占領、98年3月 租借地条約

1897年11月26日、ロシア、武力で旅順や大連を占領することに決定。12月14日、ロシア艦隊は旅順港に入港。98年3月3日、ロシア皇帝政府は、清国に旅順・大連の租借と、東清鉄道の黄海海岸までの支線敷設を強引に要求。3月27日に「旅大租借地条約」、5月7日に「改正続編旅大租借地条約」に調印、25年間。

1898年4月 フランスによる中国南方権益要求、99年11月 広州湾租借条約

ドイツが膠州湾を強行占領し、ロシアが旅順大連を強引に占拠すると、フランスも遅れをとるわけにはいかなかった。98年4月10日清朝廷は、ベトナムに隣接する雲南・広西・広東3省のフランス以外への不割譲、ベトナムから昆明までのフランスによる鉄道敷設、広州湾の租借99年、に同意を迫られた。99年11月16日、フランスはさらに清朝と広州湾租界条約を締結、租界の内部はすべてフランスの管轄、同時に広州湾の赤坎から安舗までの鉄道敷設および電線架設権。

1898年4月 イギリスによる威海衛の租借

ドイツとロシアが中国で海軍基地の占拠を強行すると、イギリスは直ちに反応。1898年4月3日、清国政府は、イギリスに威海衛の租借を認め、期限は、ロシアが旅順口を中国に返還するときまで

本書の中で、中国駐在フランス公使ジェラールの、「ドイツが口火を切り、さらに中国が意気地の無い態度を示したことによって、あらゆる強国がこの獲物に向かって飛びかかった。特に肝心なのは、その中の三国が下関条約以後の中国領土の保全維持に参加した国だったこと」、という言葉が紹介されていますが、まさしく三国干渉は、それを行った各国自らが中国の領土分割に参加する権利を得るために行った、と言えるようです。そして、その原因を作ったのは、それまでの国際常識にまったく反する法外な領土要求を行ってしまった日本でした。

列強が清国分割を行うための手段とした、清国への借款供与

時間軸が前後しますが、こうした領土要求を通せた背景に、日清戦争の講和によって清国が巨額の賠償金支払い義務を負わされ、それを果たすには列強からの借り入れをせざるを得なかった、という事情がありました。

再び、戴逸・楊東梁・華立 共著 『日清戦争と東アジアの政治』 からの要約です。

清国の賠償支払い義務

下関条約、中国は2億両の巨額賠償金を8回に分けて支払い、うち初めの2回は条約批准交換後1年以内(第一次賠償金5千万両を支払い終わった後、残額について毎年5%の利息)、その上に3千万両の遼東半島買い戻し金を半年以内に全額支払う。当時清国政府の財政収入は8千9百万両足らずで、唯一の方法は外債に頼ること。

列強各国からの借款供与競争の結果、1895年、まず露仏からの借款

1895年7月6日、ロシアとフランスによる「四厘借款契約」。借款総額4億金フラン、年利4厘、36年償還。ロシアが1.5億フラン、フランスが2.5億フラン。
1895年12月、ロシアとフランスは、総計600万ルーブルで、あたかも中国の国家銀行を自ら任じる露清道勝銀行を設立、サンクトペテルブルグに本店、その後、上海、北京、天津に支店。中ロ合弁の看板を掲げられるよう、1896年清国政府からも白銀5百万両を出資させたが、銀行の董事会に中国人は一人も居らず、清国政府には何ら発言権なし。

1896年 英独からの借款

1896年3月7日清朝廷は、「英独洋款契約」に調印。借款合計は1600万イギリス・ポンド。年利5厘、36年。さらには「今次の借款が返済されないうちは、中国は税関業務を現行の規則に基づいて処理すること」と規定。清国政府がこれ以上ロシアとフランスから借款する道を塞ぎ、また税関の行政権をイギリス人が掌握することを保証。

1898年 英独民間融資の受入れ

清国政府は、二つの巨額の外債(白銀換算約2億両)を借入れたが、リベート、謝礼、官僚たちの汚職、浪費、流用などがあって、実際に賠償支払いに使われたのは1億5千7百余万両、日本への支払いにはなお7千余万両不足、さらに借款への元利返済などの支出で毎年増加する費用は2千万両を下らず。このような状勢下で、清国政府は、再び巨額の外債借入を考慮せざるをえず。イギリスとロシアは、新借款供与の激烈な競争。清国政府はどちらにつくことも難しく、ついに1898年2月両国から借款しないと決定。
賠償金支払いの期日が迫り、清国政府は、イギリス人総税務司のハートが提案した匯豊銀行からの民間融資を受け入れ。イギリスは、ドイツや日本の支持を受けて、またハートの背後活動に助けられ、1898年3月1日、正式に「続借英独洋款合同」締結。借款総額は16百万イギリス・ポンド(白銀約1億両)で、年利4.5厘、45年。

1895~98年の列強との鉄道借款

1895年から1898年までの3年間に、イギリス、ドイツ、ロシア、ベルギーなどの国々は、清国政府に7件の鉄道借款を提供。1897年7月、ベルギーはロシアとフランスの支持の下、清国政府と盧漢鉄道(京漢線の一部、盧溝橋・漢口間)借款契約を締結。中国を南北に貫通する鉄道。イギリスは盧漢線に平行する鉄道(津鎮線)の敷設及び支配権を取得。
1898年9月、イギリスとドイツは中国の鉄道利権を分割する協定。1899年4月、イギリスとロシアも照会を交換、イギリスは勢力を長城以北の地まで伸ばさないことを承諾、その代りロシアは長江流域には手をつけないことを保証。「中国の鉄道はすべて西洋人の鉄道となり、そのような鉄道が出来てしまうと、中国は国家として存在しなくなる」

本書は、「日清戦争後の数年間に、中国は半植民地の深淵に落ち込んでゆき、空前の民族危機が出現した」と結論していますが、時系列的にはまず借款が先行し、次に租借となったこと、さらに列強は、銀行・鉄道など、経済の根幹を押えるようとしたことがよくわかります。

日清戦争の講和で、日本は、短期的には利益、中長期的には国益への重大な脅威

元はと言えば、日本が巨額の賠償金を清国に飲ませたために、清国は列強からの借款が必要となったのです。言い換えれば、清国を列強に依存せざるをえないように追い込み、さらに列強が清国の分割競争を開始したことの原因を作ったのは、日清講和での日本側の要求であった、ということになります。

列強による清国分割競争は、欧米列強の東アジアでのプレゼンスの拡大をもたらしますから、結果として、日本の国益への重大な脅威を生じました。

下関の講和談判で日本が清国から巨額の賠償金を得たのは、短期的には日本の国益に大きく貢献したように見えても、中長期的にはむしろ国益への重大な脅威を生じさせた、というのが実情であった、と言えます。短期的利益と中長期的利益が相反することは、よくあることです。日清戦争の講和条件も、そうした事例の一つといえるように思います。

三国干渉の惹起も、清国分割競争の開始も、その根本原因は日本の要求にあったことを、当時の日本の指導者層はどれだけ認識していたのか、大変に疑問です。気がついていても、その反省を発言しなかったのかもしれません。谷干城などのきわめて少数の例外を除き、当時の日本の指導者層には、中長期的な視点からの国益を想定して政策を提言する人がきわめて少なかった点は、まことに残念なところです。

経済力を使った列強と、軍事力のみに頼った日本との、大きな差

日清戦争での日本の手法は、つぎのようなものであったと言えるように思います。
● とにかく武力一点張りで戦線・占領地域を拡張
● その結果に基づいて、強引で法外な領土要求

それと比べると列強の手法は、以下のようなものであり、大きく異なっていました。
● まずは清国の窮状に付け込んで恩義を売る
● その代わりに、領土要求は港湾地域に限定したうえで、鉄道など経済の根幹を押える
● それを得る根本的な手段は、軍事力ではなく、借款の供与、すなわち経済力
● 軍事力は補助的に使用

当時の日本は、帝国主義の時代を誤解して見ていたのではないでしょうか、表面の軍事的側面だけを見て、その本質である経済的側面を理解できる人が少なかった、と言わざるを得ないように思います。その誤解から、巨額の賠償金にこだわり、また法外な領土割譲要求が起こり、結果として三国干渉と、列強による中国分割競争が引き続きました。

日清戦後の清国が半植民地化していった事実は、エジプトと同様に、列強が利権もしくは影響力を手に入れるための現実的な手段は借款供与であった、ということを明解に示しています。

2010年代に習近平の中国が開始した一帯一路政策の中で、中国が相手国に巨額の借款を与え、相手国が返済できなくなると中国がその国の港湾等の使用権などを獲得しているのは、まさしくこの帝国主義時代の列強の手法の再現です。中国は、百数十年前に自国がやられたことをやり返している、とも言えますし、21世紀、習近平が権力を得てからの中国は、19世紀的帝国主義国家に逆戻りした、とも言えるように思います。

日清戦後の日本はといえば、朝鮮で借款供与をケチったために影響力を失なってしまいました。列強が借款供与により清国から領土の租借や利権を得たことは、あらためて、朝鮮における井上馨の判断の適切さ、陸奥宗光らの誤り・失敗を示しています。残念ながら、当時の、またその後の日本政府は、この点を列強から学習してその後のカイゼンに役立てた、とは言えないように思います。いかがでしょうか。

東学乱の状況を活用して日清開戦に強引に持ち込み、戦勝によってせっかく手に入れかけた朝鮮への影響力は借款供与をケチって喪失し、講和では法外すぎる領土割譲要求を行って三国干渉を招き、朝鮮の利権獲得を急いだために列強から朝鮮への干渉も招いたのは、陸奥宗光がそのすべてで主要な原因者でした。陸奥の誤り・失敗の根本理由は、井上馨や谷干城らと異なり、陸奥の帝国主義への理解が皮相にとどまり、その本質を理解していなかったこと、帝国主義競争での最重要手段は、決して軍事的膨張ではなく、本質的な経済力・産業力の拡大向上が優先的に目指されるべきであったこと(「富国」→「強兵」の順序)を、正しく理解してはいなかったところにあるのではないか、という気がしています。

 

日清戦後の日本にとっての日清戦争のプラス・マイナス

日清戦争は、日本にとって、プラスよりマイナスの方が大きかった

これまで確認してきたことを、筆者なりにさらに要約して言い換えてみると、日清戦争の結果は、下記のようになるかと思います。

<日本の独立には、プラスに働いた>
戦勝により、日本は欧米列強と対等な地位を確立、また国内では日本人の国民意識を成立させた。

<日本の外部状況には、マイナスに働いた>
外からは列強が清国の分割を開始する一方、内側では清国・朝鮮の民族運動を刺激した。日清戦争は、日本の主観的願望とは反対の結果を生じさせた。すなわち、東アジアの状況は、日清開戦前よりも不安定化し、東アジア地域内での利害衝突リスクは格段に高まった。

<日本の進路には、マイナスに働いた>
戦勝により、日本は軍事国家であることに自信を持ち、アジアへの勢力拡大を当然とする意識を持ってしまった。東アジアの不安定化という外部要因もあり、日本は軍拡路線への傾斜を高めたため、財政力にまだまだ制約が大きかった日本の国家予算の大きな部分が、民生分野にではなく軍事分野に向けられてしまい、日本の資本主義の発展は歪みをもつことになった。

日清戦争の戦勝によって、日本が欧米諸国とおおむね対等な地位を確立できたことは、日本にとって結構なことでした。しかし、日清戦争は同時に、極東地域を不安定化させ、また日本国内では軍拡路線に傾斜してしまうという副作用も持った、と理解するのが妥当であるように思います。

日清戦争をせずにいたなら?

結果として生じたことのプラスマイナスの両面をはかりにかければ、マイナス面のほうがむしろ大きかったといえるので、そもそも日清戦争はやらないほうがよかった戦争であったように思われます。

日本の地位確立には、戦争が手っ取り早かったことは事実かも知れませんが、それ以外に方法がなかったとは言えません。日本の経済力・産業力の地道な強化、という手段がありました。

日清戦争とその後の軍備拡張につぎ込んだ巨額の資金を、日本経済のインフラ整備と産業振興に投入していたなら、日本は間違いなく迅速な経済成長を達成し、それによって欧米列強から高い評価をかち得ていたであろうと思います。また日本の資本主義のより健全な発展を実現していたでしょうから、昭和前期の日本の大失策・悲劇も回避できていたと思います。

日清戦争を開戦しても、途中で止めていたなら?

あるいは、日清戦争を開戦しても、平壌の戦いおよび黄海海戦までの時点で停戦しているのが、次善の策であったように思います。

日本の独立にプラスとなった欧米列強からの日本への評価の転換は、平壌戦および黄海海戦での勝利によってすでに達成していました。それどころか、そこで止めていれば、宣戦詔勅で対外的に宣言した通りの公約を実現したところで停戦することになったわけですから、欧米列強からの警戒心を呼び起こすこともなく、逆に信頼度が一層高まっていたでしょう。

そこで止めていれば、日本は清国領にはまだ進攻しておらず、領土要求を持出すことはなかったでしょうから、三国干渉も発生していなかったでしょう。また、賠償金要求額もさほど巨額にはならなかったでしょうから、列強による清国分割競争もまだ開始されなかったでしょう。加えて、清国から取った賠償の一部を朝鮮に恵与して朝鮮の財政安定化に役立てていたなら、朝鮮に対する強い影響力も確保でき、日清戦争の本来の戦争目的も達成していたように思われます。

そもそも戦争をしない、あるいは戦争しても清国勢力を朝鮮から駆逐した時点で止める、これが、当時の日本にとって、日清戦争の結果生じたプラス面を確保するとともに、マイナス面の発生を予防する、ベストシナリオであったように考えられるのですが、いかがでしょうか。

 

 

日清戦争は、日本の国内の思考法に一つの歪みをもたらします。日清戦争の結果、日本の社会に「戦争ビジネスモデル」幻想が成立してしまったのです。次は、この点を確認します。