1d 英のエジプト保護国化

 

 

債務超過から保護国化されたエジプト

近代化を急ぎ過ぎたエジプト

帝国主義の時代の植民地化のもう一つの事例として、イギリスによるエジプトの保護国化について、確認したいと思います。

エジプトが公式にイギリスの保護国となったのは、1914(大正3)年、第一次世界大戦中のことでした。しかし、そのはるか前、1876(明治9)年からは英仏二列強に共同管理された状況となり、さらに1882(明治15)年からは、実質的にイギリスの保護国となっていました。

攘夷にこだわったために植民地化されたベトナムとは正反対で、エジプトは、近代化を急ぎ過ぎたために財政困難となり、保護国化された、という事例です。

エジプトの保護国化には、明治政府も強い関心

同時代に、同じように欧米に倣って近代化を進めていく立場の国に起こったことですから、明治政府が強い関心を持ったのは当然のことでした。明治政府は、エジプト保護国化の事例から、列強からの借款が膨らむと列強に保護国化されかねないので、独立を守るためには、近代化プロジェクトの実施は自己資金に見合った範囲に制限しなければならない、ということを学びました。

時代が進み日清戦争の時代にも、日本は再びエジプトに注目しました。日清戦争期に駐朝鮮公使であった井上馨は、対朝鮮政策で、イギリスがエジプトを保護国化した手法を参考にしようとしました。すなわち、エジプトは、日本が植民地化される恐れがある段階と、日本が朝鮮の植民地化を目指そうとする段階との二つの段階で、明治政府が関心をもって研究しようとした事例である、と言えるようです。

明治政府も関心をもって研究したのですから、エジプトが具体的にどのように保護国化されたかを確認しておくことは、重要であると思われます。

 

エジプト近代化と国際管理化への過程

このページでは、山口直彦 『新版 エジプト近現代史』 の要約をご紹介します。分厚い本ですので、ご紹介できるのは、ごく概略になってしまいます。まずは、欧州列強の支配に組入れられる前のエジプトはどういう国であったか、そして、エジプトの近代化を開始したムハンマド・アリー朝の成立とその近代化政策、そして財政悪化から国際管理に置かれるまでにの過程について、です。

19世紀初頭、近代化を開始したエジプト

16世紀以来、エジプトはオスマン帝国の属州

エジプトは、元はオスマン帝国の一部でした。

1517年、マムルーク朝はオスマン帝国によって滅ぼされ、エジプトは一属州の地位に。オスマン帝国は、中央政府から総督と若干の行政官、駐留軍を派遣して統治。

19世紀、ムハンマド・アリー朝の開始と近代化政策

19世紀になると、ムハンマド・アリーが、実質的な独立王朝を打ち立て、近代化政策を開始します。

● 1805年、アルバニア人不正規部隊の司令官ムハンマド・アリーがエジプト新総督に就任。以後、オスマン帝国の名目的な宗主権のもと、実質的な独立王朝となる。
● 1822年からエジプト農民の徴兵制。フランスから軍事顧問。また、1800年代後半からアレキサンドリアなどに海軍工廠など、近代化を開始。27年、ギリシャ独立戦争の敗戦後も、エジプトはすぐに経済と軍を再建。29年にアレキサンドリアに近代的な海軍工廠。陸軍もあらたな徴兵によって再建。経済再建は、政府会計への複式簿記の導入など、当時の中東では画期的な財政改革の試み。

近代化によって力をつけたエジプトは、オスマン領を奪って領土を拡張しますが、その結果イギリスからの干渉を受けるようになります。

● 1831年、第1次シリア戦役でエジプトがオスマン軍に大勝し、シリア、アダナ(アナトリア南東部)、クレタ諸島を領有。1838年には、アラビアを鎮圧、ペルシャ湾岸まで進出、イエメンの紅海沿岸も制圧。
● 当時の中東における「英国の国益」はオスマン帝国の現状維持によるインド・ルートの安全確保。第一次シリア戦役の結果、英国はムハンマド・アリーを「英国の国益」に対する明らかな脅威と見なした。
● 1839年、シリアでオスマン側からエジプトに開戦、エジプト軍勝利。英国は、オスマン帝国の実質的な解体が自国の国益への重大な障害になると判断、他の列強諸国とともにエジプトに干渉、英国・オーストリア・オスマン帝国連合軍は、シリア沿岸都市を次々と制圧しエジプト軍敗北。
● ムハンマド・アリーは獲得領土(スーダンを除く)の放棄のほか、兵力縮小、海軍艦艇建造や将軍以上の任免での宗主国オスマン帝国による事前承認、主要産品の政府独占・専売制の廃止、低率の関税や治外法権の適用などに同意。そのかわり、オスマン帝国の宗主権のもと、ムハンマド・アリー家のエジプトおよびスーダンにおける総督職の世襲が承認された。

この時期、ムハンマド・アリーが進めたエジプト近代化の内容です。

ムハンマド・アリーは、経済自立・工業化の画期的な試み。
◆ 政府任命の官吏が直接徴税。
◆ 農地は国家の一元管理、農産物の専売制度、ヨーロッパへの小麦輸出。
◆ 中央・地方の行政機構の整備、官僚の綱紀粛正。
◆ 先進技術の導入、お雇い外国人、国費留学生の派遣。
◆ フランス式初等教育制度、各分野の専門学校。
◆ 運河や堤防、用水路、排水路などの再建整備、新しい灌漑設備、農地改良、耕作地の大幅拡大、新種の農産物の導入や品種改良、利幅の大きい綿花栽培に注力。
◆ 農産物輸出のためのインフラ整備、アレキサンドリア港整備、ナイル川との運河開削。
◆ 各地に造兵廠、様々な分野の国営工場、近代的な海軍工廠。
通商産業政策、とりわけ工業化政策に関しては、結果的には総じて失敗に終わった。最大の原因は敗戦、つまり外的な要因。

日本の明治維新後の近代化より数十年早く、エジプトは行政・産業・技術の広範な近代化に取り組んでいたことが分かります。

ムハンマド・アリーがエジプト総督となった1805年は、日本では第十一代将軍家斉の時代、文化文政時代の初期でした。日本では徳川幕府がこれからまだ半世紀以上も続く、という時代に、エジプトがこれだけの近代化を手掛けて、軍事的にもオスマン帝国を破る程の地域強国になっていた、というのは、本書を読むまで筆者も全く知りませんでした。

19世紀中葉、ムハンマド・サイードによる近代化の拡大・スエズ運河プロジェクト開始

英国の軍事介入で敗戦したからと言って、エジプトが即座に保護国化の危機に陥ったわけではありませんでした。スエズ運河の建設を開始して財政危機に陥ったことが、保護国化の引き金となりました。以下は再び山口直彦『新版 エジプト近現代史』から、次は保護国化に至るまでを確認します。

ムハンマド・アリーの死後、エジプトの近代化路線は、一時的には後退します。

ムハンマド・アリーは1849年逝去。その孫でムハンマド・アリーに強い反感を抱くアッバース・ヒルミーは、近代化を後退させた後継者。しかし、まがりなりにも「新興国家」の自立を保った。54年宮殿の一室で何者かに絞殺される。

しかし、ムハンマド・サイードが継承すると、近代化路線に復帰、スエズ運河の開削も開始します。

● エジプト総督を、ムハンマド・アリーの子、ムハンマド・サイードが継ぐ。エジプトは再び積極財政路線。
● 鉄道建設は、1855年カイロ・アレキサンドリア間、58年にはカイロ・スエズ間が開通。農地の私有化。各種近代化政策も再開。開明君主、アラブ系エジプト人への差別待遇も改める。
● 巨大プロジェクト、スエズ運河の開削もスタートさせた。運河開削権を得たフランス人レセップスは、少年時代のサイードの家庭教師。

このスエズ運河の開削プロジェクトが、エジプトの足を財政的に引っ張ることになります。

● 運河はエジプトにとって著しく不利な条件。運河会社の44.4%の株式引受け、総工費の7割以上を負担、運河そのものとその両岸200メートルの土地も運河会社に無償提供。運河会社側は、開通後99年にわたり運河を管理し、その後所有権をエジプト政府に委譲する。
● 莫大な運河の建設コストはエジプトの財政を圧迫。1860年には、フランスの金融機関から初の対外借款、2800万フラン。運河の開削工事にはのべ200万人のエジプト人農民動員、そのうち12万人が苛酷な労働で落命。
● サイードは63年、40歳の若さで死去、そのあとには329万ポンドの対外債務。

19世紀後半、イスマーイールの積極的欧化政策と財政悪化

ムハンマド・サイードの後を継いだイスマーイールは、更に積極的な欧化政策を進めます。

● ムハンマド・アリーの孫、イスマーイールが継ぐ。宗主国オスマン帝国への宮廷工作により、「総督」に代わり「副王」の称号、広範な自治権。軍の増強・近代化、8万人兵力。
● エジプトを「アフリカではなくヨーロッパの一部にする」ことを目的に猛烈な勢いで各種インフラの建設。鉄道・港湾・灌漑用水路・電信線・製糖工場・学校・道路・首都カイロの大改造。
● 1869年スエズ運河開通、欧化政策の頂点。

この積極的欧化政策が、エジプトの財政状況を更に悪化させました。

● イスマーイールの統治前期、エジプト経済は綿花等農産品輸出の拡大と無制限ともいえる外資の流入で空前の活況。米国南部からの供給急減で価格が急騰した「綿花バブル」は1865年の南北戦争終結とともに終わり、エジプトの輸出収入も減少。
● しかし積極財政路線を継続、資金は海外の金融機関からの高利の借入。実際上の利率は多くが10%超、利払いのためにまた新たな借金。63~73年の借入総額は実に6520万ポンド、歳入がおよそ800万ポンドの財政にとって、とうてい担いきれない負担。
● 国内から半ば強制的な借入、税率引上げ、農村の疲弊、経済活動の委縮。イスマーイール自身の所有地拡大は全国の農地のおよそ2割、その分地租税収無く財政をさらに圧迫。土地を手放す農民の増加、富裕層への土地の集中。大地主層は政治的経済的影響力を駆使して徴税逃れ、税収の落ち込み、政府はさらに増税の悪循環。
● 1875年秋、エジプトの財政危機が表面化。返済資金調達のため、スエズ運河会社のエジプト政府持株を、397万ポンドで英国政府に売却、英国政府は、運河会社の筆頭株主に。英国政府の財政調査団の調査の結果、エジプトの財務状況はまさに悲惨、64年から75年までの歳入が9428万ポンド、支出は1億4821万ポンド、76年初めの累積債務総額は7757万ポンド。

1876年、エジプトの国際管理、実質的な保護国化の開始

財政悪化したエジプトは、ついに国際管理下に置かれることになります。債務超過で債権者の管理下に置かれたのは当然のこととも言えるわけですが、債権者が外国の金融機関であったので、国際管理ということになりました。

● 1876年4月8日、ついにイスマーイールは実質的な債務不履行に。以降エジプトの財政は、二大債権国である英仏による「二元管理」。
● 1878年、イスマーイールは副王資産を国庫に返納、内閣に相当する「閣僚評議会」を組織。英国人ウィルソンが財務大臣、フランス人ド・ブリニエールが公共事業大臣として入閣、「ヨーロッパ内閣」の誕生。歳入は英国人に、歳出はフランス人に直接、管理されることになった。イタリアは会計検査院長官。エジプトの歳入の6割以上を債務返済に。
● イスマーイールは1879年、ヨーロッパ内閣に対する国内の不満の深刻化を理由に、ウィルソンとド・ブリニエールを解任。これに対し英仏両国は、オスマン政府に要求してイスマーイールを廃位させる。
● イスマーイールは「エジプト破滅の元凶」。しかし投資のほとんどは必要かつ有効なもの。〔その後の〕英国のエジプト財政再建の成功もイスマーイールが築き上げたインフラに多くを依存。産業政策には問題、綿花モノカルチャー経済、富裕層への農地の集中。最大の失政は支配階級の「モラルの破綻」、イスマーイールの統治期、エジプトは「貧官汚吏の巣窟」。

ムハンマド・サイードとイスマーイールの二人は、開明君主ではあったが名君主ではなかった、というところでしょうか。スエズ運河の建設やその他の近代化政策それ自体が間違っていたとは思いません。うまくやっていれば、どれもエジプト財政にコンスタントに貢献していた可能性は十分にあったように思います。

経営の方向性は良かったのだが、プロジェクトをやり過ぎで管理も放漫、不況という時期の悪さにも遭遇し、大赤字が続き借金が膨らんで、ついに銀行管理になってしまった企業のようなものです。

「ヨーロッパ内閣」という状態は、会長(副王)・社長(首相)はやらせてもらっているが、会社の業務はすべからく、銀行から派遣されている二人の専務に話を通してOKが得られないと一つも進まない、銀行に反抗しようとしたら、会長まで首をきられてしまった、というのとほぼ同じでしょう。

エジプトの失敗から学んだ明治政府

このエジプトの状況と、日本の明治政府を比較して、本書 『新版 エジプト近現代史』 の著者は、次のように総括しています。

オスマン帝国やエジプトの失敗を知っていた明治政府は、外債依存にきわめて慎重。日露戦争中に外債発行を余儀なくされた際も、将来の関税収入を担保として、その規模や利率は返済能力を踏まえた現実的なものであった。

明治の日本のリーダーたちは、間違いなく、外国の経験から学び、カイゼンを進めていく姿勢が強かった、と言えるように思います。その後の昭和前期のリーダーたちが、もはや日本が外国から学ぶことはない、と謙虚さを失い、むしろ日本流を貫くのが良いとする自尊主義に陥って大失敗をしたのとは、大きな差がありました。

 

イギリスによるエジプトの保護国化

イスマーイールが廃位されてしまったエジプトは、この後、さらにイギリスによる保護国化に進んでいきます。また山口直彦 『新版 エジプト近現代史』 からです。

タウフィークの副王即位 ~ 第1次エジプト革命 ~ 英国による軍事占領

● イスマーイールの廃位後、その嗣子ムハンマド・タウフィークがエジプト副王に。即位にあたりオスマン帝国は、エジプト軍縮小を要求、4万5000人から1万8000人に。
● そのさい軍リストラのしわよせをアラブ系士官に集中したことから、1881年、アフマド・オラービー大佐によるオラービー革命(第1次エジプト革命)、宮殿を包囲して内閣の更迭と国会の召集、憲法の制定などを要求、タウフィークは完敗。

日本でも、明治維新による武士身分の廃止・秩禄処分の結果として、西南戦争が起こりましたが、軍人のリストラは革命・反乱のリスクがあるようです。

● 副王の急速な弱体化は英仏両国の懸念、1882年1月、英仏両国は一致してタウフィークを支持を表明したが、2月民族主義内閣の発足、反ヨーロッパ感情が急速に高まり、各地で外国人に対する排斥運動。
● 6月11日、アレキサンドリアで反外国人大暴動。要塞の修復に対し英国艦隊の砲撃。エジプト側は英国に宣戦を布告。
● 英国は各国に共同行動を打診したが、フランス・イタリアが断り、やむなく単独での軍事介入。スエズ運河地帯を占領、テル・エル・ケビールでエジプト軍を撃破。タウフィークは、その後英国の占領当局と協調しながら、エジプトを復興の軌道に乗せるのに少なからぬ貢献。

民族主義と外国人排斥は、要するに攘夷、と言えます。国家が巨額の対外債務で財政の著しい悪化状態にあるとき、やはり攘夷では何も解決できません。

● 1882年9月にカイロを軍事占領した英国は、以後、第一次世界大戦勃発後の1914年12月に保護国化するまできわめて特異な形態でエジプトを統治。
● この間、エジプトは、名目的にはオスマン帝国の一属州、独立国家とほぼ同等の自治権を持つ世襲制の副王。しかし、エジプトの実質的な支配者は、スルタンでも副王でもなく、「総領事兼代表」という地味な肩書を持つ英国人官吏。

この時点で、エジプトは、形式的にはオスマン帝国の一部なのに、支配者がイギリス人、という特殊な状態になります。ベトナムで、フランスは清仏戦争を起こし、清国からベトナムに対する宗主権を放棄させましたが、イギリスは、エジプトを、オスマン帝国の一部という形式のまま、実質的に支配することになりました。

 

クローマー卿による統治と財政再建

エジプトの実質的な支配者となったイギリス人、クローマー卿

ここで、クローマー卿が登場します。

● 1883年から1907年まで総領事兼代表の任にあって辣腕を振るったのが、クローマー卿。
● 国内の治安回復のため、英軍駐留。
● 「閣僚評議会」のほか、諮問機関として「地方評議会」「立法評議会」、「国会」が設置されたが、実質的な権限は総領事権代表を筆頭に各省庁に「アドバイザー」として配置された英国人官吏が握った。

クローマー卿による財政改革

エジプト政府の各省庁の中に、アドバイザーとしてイギリス人官吏が入り込み、そのアドバイザーがエジプトの財政再建の実務を主導する、という形式であったようです。

● クローマー卿は着任後、まず各省庁の歳出にシーリングを設けるなどの財政改革、農地の質に応じて税率を見直すなどの税制改革、財政基盤の強化のため、灌漑設備の建設、拡充など大規模な農業開発に着手。
● 英国政府が、アレキサンドリア大暴動の損害賠償を条件に各債権国を説得して、900万スターリングポンドの新規融資、うち100万スターリングポンドが大規模灌漑プロジェクトに割り当て。
● 1902年アスワン・ダムが完成。エジプトの作付面積は、1880~84年から1905~09年に3割拡大、綿花の年間生産量は約2.5倍に。品種改良や農法の普及、農産物の効率的な輸送のための軽鉄道や農業道路の建設も。この農業開発はエジプトの国民各層から非常に高く評価された。
● 一連の政策が功を奏し、1891年には財政収支は黒字に転換、96年までにはエジプトの財政再建は完了。同年からは大規模な減税も実施。

クローマー卿は、エジプトの財政再建を成し遂げました。クローマー卿のリーダーシップの下で、イギリス人スタッフとエジプト人官吏、双方が意思疎通を良くし、よく協力し合った、ということであったろうと思われます。

クローマー卿改革の限界と、民族主義の強まり

クローマー卿は、1896年には財政再建を完了しましたが、その後も、1907年まで、エジプトの総領事兼代表の任にとどまりました。その間、クローマー卿の政策が「エジプトのため」を常に優先できていればよかったのでしょうが、残念ながら、本国イギリスの利害も考慮せざるを得ず、その結果として、エジプトのイギリスへの反発が増加していったようです。

● クローマー卿はまた、汚職腐敗、強制労役、鞭などを使った強引な徴税、の根絶にも注力。しかし、農地所有の不平等には手を付けず、富裕層への農地の集中はむしろ進行。
● 経済政策はあくまで英国にとっての利益を前提、工業化には着手せず、エジプト経済の綿花モノカルチャー化はさらに進展。
● 当初、早期の撤退を目指していた英国政府の政策は、いつのまにか「既得権益」を保持する方向に転換。時が経つにつれて英国人官僚の数は増加、エジプト人官僚はいつまでも実質的な権限が委譲されないことに不満、新たな民族運動と結びつき、次第に英国の統治を脅かすようになっていく。

日本の企業でも、日本の本社が海外の子会社に、現地事情を考慮せずに本社方針を押し付けてくることは、よくあることだと思います。現地事情と本社方針の間に矛盾がある際に、現地事情優先を基本とするなら良いのですが、本社方針優先となると、現地子会社側に不満が発生し、現地側子会社運営がおかしくなっていくのはよくあることです。

クローマー卿時代の後半は、実質的な保護国状態の継続そのものが目的化

クローマー卿による統治の後半は、当初の目的であった財政再建に成功してしまっていたので、英国による実質的保護国化の継続そのものが目的とされるように、変わってしまったようです。この点で、クローマー卿統治時代に前半と後半を区分して考える必要があるように思われます。

財政再建段階ではエジプト側とも利害がある程度一致していましたが、それが終われば、利害のぶつかり合いになって当然です。今まで被保護国に利益のある優れた実績をどれだけ上げていても、支配され続ける被保護国側には強い不満・反発・憎しみを生じ、その体制がもはや維持できなくなる、という展開の典型例にもなっているように思います。

理想を言えば、財政再建を果たしたところで、既得権益は条約等で存続の保証を取りつけ、統治そのものについてはエジプト側に返還してしまうのが、英国の国益の保持を図りつつ費用の最小化を行い、さらにより長期的に友好的な関係を続けるための最善の方策であったようにも思われます。

各国が参考にしたクローマー卿の統治

クローマー卿のエジプトでの経験は、各国で大いに参考にされたようです。

● クローマー卿はエジプトから帰任した翌年、そのエジプト統治を 『近代エジプト(Modern Egypt)』(1908年)という1冊の本にまとめたが、この本は英国の植民地統治のノウハウを学ぶ参考書として各国で翻訳された。
● 朝鮮併合後間もない日本でも、『最近埃及』 として1911年に刊行。大隈重信は同書に寄せた序文で、「卿の埃及における経営は我韓国に於ける保護政治の上に参考すべきもの多きを思い、之を当時の統監伊藤候に送りたることあり」と記している。

イギリスで1908年に出た本に大隈が気が付き、それを伊藤に送った、ということであったようです。大隈・伊藤は、二人とも英語で読めるので問題ないのですが、当時の日本の政府・軍の指導者層で英語の原書を読んで理解できる人は少なかったのではないか、と思います。

日本語への翻訳が出て、英語の原書が読めない政府・軍の指導者層でも読んで理解できるようになったのは1911年で、日本が韓国を無理やり併合するという悪手を打ってしてしまった後のこと。クローマー卿の本の翻訳が出たタイミングが少し遅かったようです。

他の国を実質的な保護国とするには何をしなければならないか、反発を減じるためには何に注意すべきか、『最近埃及』 は、伊藤博文のような、もともとある程度「分かっている」人によりも、それをよく分かっていない人々、例えば当時の日本の陸海軍の幹部すべてに学習させて、共通認識化させているべきであったように思います。そうしていれば、いずれ最終的に失敗するにしても、もう少し「まし」な統治ができていて、支配された側からの怨みが少しでも減らせた可能性があるように思われますが。

 

クローマー卿による財政再建への日本からの関心

債権国代表による、財政再建を目的とした、エジプトの統治

クローマー卿の立場は、債権者(銀行)から債務超過で倒産寸前の企業に送り込まれて、会社再建を果たす経営者の働きを行ったようなもの、と理解するのが妥当でしょう。

そのため、クローマー卿が一時的にエジプトの実質統治者となることを、過大債務国側のエジプトは拒否できない状況にありました。さらにエジプト側にも、悲惨な現状から救出してもらえるメリットが明白でした。そのため、エジプト人官吏もクローマー卿の指示にそれなりに従い、結果として期待以上の成果を達成した、と言えるのではないでしょうか。

クローマー卿は、財政破綻状態のエジプトを再建するのに、
①支出の抑制
②収入増加のための税制改革と産業振興
③収入増加策の実施にどうしても不足する資金のみ新たな借款で手当て
という対策を行いました。

現在からすれば至極当たり前の方策です。勤倹節約・緊縮財政だけでは財政再建は困難、収入の増加も図る必要があるが、収入増にはそれなりの資本投下による設備投資等が必要、ということです。

ただし、基本原則が分かっていても、誰にでも財政再建ができる、ということではありません。具体的な再建策の立案にあたっては、何をどこまで削るか、何は削ってはいけないか、どの分野・手段で収入増加を図るか、収入増加を得るには何をどのように整備すればよいか、どのように資金手当を行うか、といった課題のそれぞれに適切な判断を行う必要がありますし、実施段階では、膨大な数の関係者に再建策への理解と協力を得る必要があります。当時としては国家財政再建の実例が少なく、そのため教科書になった、ということでしょうか。

谷干城によるエジプトの立場からの観察、井上馨によるイギリスの立場からの参考

1885(明治18)年12月、日本で最初の内閣である第一次伊藤博文内閣に農商務相として入閣した谷干城は、翌86年3月から、農商務相在任のまま1年3ヶ月に及ぶ欧米視察に出かけ、その詳細に日記に残しました。エジプトは、まさしくクローマー卿が財政再建に取り組んでいた時期です。

谷はエジプトについて、欧米の文化を無自覚に摂取し、国力を越えた外債により過度に欧化、外債発行が英仏の介入や支配を招き人民はその「奴隷」になった、と記しているとのことです(小林和幸 『谷干城-憂国の明治人』)。クローマー卿に実質統治された状態を、人民の奴隷化と見て、日本にとっては反面教師としてエジプトから学習する必要を感じたようです。

他方、1894(明治27)年から95年の日清戦争期には、日本の公使井上馨が、83年からクローマー卿がエジプトで行ったことを参考にして、やはり財政危機状態にあった朝鮮の内政改革を実行しようとしました。

井上は、①支出の抑制を行うだけでなく②収入増加を行おうとし、そのための③の不足資金の借款による資金手当の段に進もうとしたものの、なぜか日本政府側の支援が得られず、失敗に終わりました。この点は別途、朝鮮の内政改革に関連して、確認したいと思います。(「6 朝鮮改革と挫折 - 6b 井上馨による朝鮮内政改革」)

 

クローマー卿後のエジプト ー 公式保護領化へ

公式保護領化に至るまで、ゴーストとキッチナー

これから先は、このウェブサイトがテーマとしている日清戦争よりも後の時代になってきますが、エジプトが、イギリスの実質的保護国から公式の保護国に変わり、さらに独立を果たすまでを、再び山口直彦『新版 エジプト近現代史』から、簡単にみておくことにしたいと思います。

● 1892年タウフィークの急逝に伴い、嗣子のアッバース・ヒルミー2世がエジプト副王に。
● 1907年クローマー卿が退任、後任に民族運動にも理解のあったエルドン・ゴースト。アッバース・ヒルミー2世とは協調関係。
● しかし宥和的なゴーストは、エジプト側には「弱さの現れ」。専制志向の副王との接近に、民族主義者から反発、首相はじめ親英派の政治家や官僚も離反。
● 1910年ガーリ首相の暗殺で宥和政策は完全に破綻、ゴーストはその翌年死去。
● ゴーストの後任の総領事兼代表に、初代スーダン総督でより強いカリスマ性と指導力を持ったキッチナー。
● 強力な指導力で英国当局の権威を再確立させる一方で、民主化に向けた措置を実施することで、反英民族運動の鎮静化に成功。
● アッバース・ヒルミー2世とキッチナーの関係は急速に悪化。

ゴーストの単純宥和は、副王との関係は良くても民族主義者からは反発、キッチナーのより強力なリーダーシップは、反英民族運動は沈静化できても、専制志向の副王との間は悪化、と片方の課題を解決すると別の課題が浮上する、という状態であったようです。

英国によるエジプトの公式保護領化

欧州大戦の勃発を契機とした、イギリスによるエジプトの保護領化

1914年の欧州大戦(第1次世界大戦)の勃発は、イギリスによるエジプト統治にも影響を及ぼします。

● 1914年7月第一次大戦が勃発、10月29日にオスマン帝国がドイツ・オーストリア側に立って参戦すると、アッバース・ヒルミー2世はエジプト国民に英国支配に抗して立ち上がるように呼びかけ。
● これに対し、英国は12月18日エジプトを保護領化、アッバース・ヒルミー2世を廃して、叔父のフセイン・カーメルを、「スルタン」と改称されたエジプト君主の地位に。
● 英国の「総領事兼代表」は「高等弁務官」に格上げ、キッチナーに代わり、インド政庁の要職を務めたヘンリー・マクマホンが就任

エジプトの宗主国であるオスマン帝国がドイツ側についたため、イギリスはエジプトの敵になってしまいました。

欧州大戦中のエジプト

イギリスは、欧州大戦の勝利のために、エジプトをイギリスの都合で活用しまくったようです。

● エジプトは連合軍の重要な作戦・補給拠点となり、最盛期には20万近くが駐留。
● 軍需用に大量の食糧徴発、1917年の末頃から食糧不足も深刻に。さらに農民の軍役夫としての徴用、最盛期はおよそ25万人、外国の戦地で塹壕の掘削や軍需物資の輸送などに従事。
● 大戦中、英国当局は当面の戦争の勝利を優先するあまり、エジプト統治への配慮が不十分、マクマホンがエジプトでの経験を全く持っていなかったことから英国当局とエジプト人官僚との断絶がさらに深刻に。英国人官僚が著しく増加し主要なポストをほとんど独占。
● 英国政府は1916年末にマクマホンを解任、長らくエジプト・スーダン行政に携わってきたスーダン総督のレジノールド・ウィンゲイトを後任に。一度深まった断絶は解消されず。

本国側だけが得をする、日本の親会社側だけが得をする、という状態では、関係が悪化して当然です。

 

エジプトの独立

大戦終了後のエジプトでの反英運動の激化、第2次エジプト革命

欧州大戦終了時のイギリスは、ドイツ・オーストリア・オスマン帝国側の旧支配地域には「民族自決」を認める一方、自国の支配地域ではそれを否定する、というダブルスタンダードを行い、イギリス・エジプト関係はますます悪化、エジプトは独立に向かって勢いを強めます。

● 英国は大戦中、戦後のアラブの独立やトルコ内諸民族への自由を約束。
● しかし、エジプトには、1918年11月独立交渉のための代表団(ワフド)の渡欧の要請を拒否し、ワフド指導者を逮捕。これは英国の最大の失策、19年3月9日のデモが発端で全国規模の民衆蜂起、第二次エジプト革命の始まり。カイロは一時完全に孤立。
● 驚愕した英国政府は、ウィンゲイトを更迭し、強い統治者、パレスチナ戦線の凱旋将軍、エドモンド・アレンビーを任命。
● アレンビーは1919年3月25日に着任すると、直ちに暴動を鎮圧、本国政府に政策転換の必要性を説き、4月7日にはワフド指導者を釈放。だが、民衆運動は終息するどころか、より組織的なものに発展、ゼネスト、公共サービスは完全に崩壊。
● ことここに至っても英国は問題の先送りを図り、1919年12月にミルナー調査団を派遣、エジプト側の協力をほとんど得られないまま翌年3月帰国。
● ミルナー調査団は英国に良識があることを証明、帰国後の報告書の中で、政府の方針に反して、英国のエジプト統治がそもそもオラービー革命(第1次エジプト革命)後の混乱収拾の暫定的なものだったこと、エジプト人の独立への願望が妥当かつ全国民的なものであることを認め、保護領制度の廃止とそれに代わる二国間条約の締結を提言。

ミルナー調査団報告書のように、事態を客観的に分析し、政府方針が適切ではないと判断すれば、政府方針を批判する報告書が出てくるところが、イギリスやアメリカなどアングロサクソンの国の良いところだと思います。ミルナー調査団報告書は1919年、日本は、この点ではアングロサクソンの国に100年以上遅れているかもしれません。

エジプトの独立

ミルナー調査団の結果、イギリス政府は方針を大転換します。

● 英国政府は方針を転換、1922年2月28日にエジプトの保護領制度の廃止と独立を一方的に宣言。ただし、英軍の駐留の継続、英国による実質的なスーダン統治の継続、などの留保条件つき。
● エジプトはどのような形であれヨーロッパ列強によって植民地化された中東・アフリカ諸国のなかでは初めて独立を達成、大戦中に病没したフセイン・カーメルのあとを継いでスルタンに即位していたフワードは、3月15日、独立エジプトの初代国王に即位。

イギリスがエジプトを公式保護領に置いていたのは、わずか8年間だった、ということになりました。

 

エジプトと朝鮮

エジプトと朝鮮、両国の独立運動は同時進行

1922(大正11)年にエジプトが独立を果たしたきっかけとして、1919(大正8)年3月9日の第2次エジプト革命の発生があったようですが、朝鮮でも、全く同じ時期、1919年3月1日に、日本からの独立を求める三・一運動が発生しています。

同年4月にかけて、運動参加者は約50万名(朝鮮側の数字は202万名)、死者357名(同7509名)という全国的な騒擾に発展、逮捕されて起訴された総数は2万6865名という大規模な騒擾でした。当時の原敬内閣は、同年8月、朝鮮総督長谷川好道を更迭し後任に斎藤実を任命、斎藤がその任にあった31年6月までの約10年間、「文治政治」と呼ばれる植民地支配の立て直しが行われました。この三・一運動の結果、それまでの強硬策(暴力)一本やりから、強硬策(暴力)と柔軟作(懐柔)の組合せに変わったようです。(以上は姜在彦 『朝鮮近代史』 による)

エジプトが公式にイギリスの保護領とされてからわずか8年程での独立は、被支配国民からの支持がない保護国体制は長続きするものではないことを示す、典型的事例であると思います。しかし、大正時代になっていた当時の日本がその経験から十分に学んだようには思われません。

さらに昭和前期になると、エジプトの事例から何かを学ぼうとしたことがあったのかどうか。日本は1931(昭和6)年に満州事変を起こして植民地拡大を進めています。自信過剰になりすぎて、課題を一つ一つ前向きにカイゼンしたり、そのために海外での事例から学んだりする姿勢を、全く無くしてしまっていたのではないか、という気がしています。

エジプトと朝鮮半島 - 100年後の現実

1919年に同じように独立運動が発生したエジプトと朝鮮のうち、エジプトだけが間もなく独立を達成しました。しかし、当時から100年近くが経過した現在の姿を見てみると、歴史の展開は単純ストレートに進むものではない、ということもよく分かります。

もともとエジプトは、著しい財政危機に陥っても20年間で財政再建ができる程の経済力も持っていて、早くも1922年に独立しました。しかし、その後の経済成長が順調であったとは、とても言えないように思います。2010年代には、「アラブの春」によって大きな政治的変革が生じましたが、その後も政治的な混迷が解消されたわけではなく、安定しているとは言い難い状況にあります。経済的にも、2011年のGDPは2461億ドル、一人当たりGDPは2,932ドルに過ぎません(GDP数値はJETROのデータを使用)。

それに対し、朝鮮半島は、1945年に日本が敗戦するまで日本の支配下に止め置かれ、さらに、すぐ後に起こった朝鮮戦争期には、ほとんど全土が戦場となって破壊され、荒廃しました。ところが、半島の南半分の韓国は、その後著しい経済発展を遂げ、デジタル機器などでは世界トップの座を争うまでに成長しています。同じ2011年の韓国のGDPは1兆1164億ドル、一人当たりGDPは22,424ドルでエジプトの7.6倍もあります。(2021年には、韓国のGDPは1兆8102億ドルで、4020億ドルのエジプトの4.5倍、韓国1人あたりGDPは34,984ドルで、3,926ドルのエジプトの8.9倍と、差は拡大しました。)

朝鮮半島の北半分は、といえば、大戦後に朝鮮人民民主主義共和国と称する国家体制となり、その後は、実態的には絶対専制の金王朝とでも言うべき政治体制が継続していて、経済的にも後退し、GDPの推計値は292億ドルしかありません。一人当たりGDPの推計値はわずか1204ドルと、エジプトの半分以下、韓国に対しては20分の1でしかなく、明確に東アジアの最貧国です。

それぞれの国の現在の状況は、独立を如何に早く成し遂げたか、ではなく、独立後の過程と努力こそが決定的な要因となっていることを示す、的確な例でしょう。その結果において、かくも大きな差が生じていることに驚きます。韓国については間違いなく、素晴らしい努力、カイゼンの積み重ねの結果、見事な成果を得た、と言えるように思います。

 

 

19世紀、帝国主義の時代の時代背景を見てきました。次は、日清戦争の当事国、およびその両国の争いの対象になった国、すなわち日清韓三国の戦争前の状況について確認します。