6a 大鳥公使時代の朝鮮

 

 

日清戦争の開戦詔勅でも課題として挙げられた朝鮮の内政改革ですが、なかなか上手くは進みません。まずは、日清戦争開戦の直後、朝鮮公使が大鳥圭介であった時期について、朝鮮の内政改革の体制と進捗を確認します。

 

宣戦詔勅で朝鮮の内政改革推進を世界に宣言した日本

朝鮮の内政改革は、日本の宣戦の理由

日本は、成歓の戦いの3日後、1894年8月1日に「宣戦詔勅」を出し、日清戦争の開戦理由を説明しました。詔勅は、開戦の理由を下記のように説明しています (詳しくは、「4 日清戦争の経過 - 4a2 序盤戦② 成歓戦と宣戦詔勅」のページ)。

● 朝鮮は「独立の一国」であるのに、清国は「朝鮮を以って属邦と称し陰に陽にその内政に干渉」している
● 「朝鮮をして禍乱を永遠に免れ治安を将来に保たしめ、もって東洋全局の平和を維持せんと欲し」、清国に朝鮮の内政改革を協同して行うことを提案したが、清国はこれを拒んだ
● 「朝鮮はすでにこれを肯諾したるも」清国が妨害し、「更に大兵を韓土に派し我が艦を韓海に要撃し」たりしている
● 「清国の計図」は、「帝国」(=日本)の「権利利益を損傷し以って東洋の平和を永く担保なからしむるに存する」ことであると疑わざるを得ない
● したがって「公に戦を宣するをえざるなり」。

すなわち、清国が、朝鮮を独立国として認めず、属国扱いし、さらには朝鮮の国政の安定に必須の内政改革も拒否していることが、東洋の平和に反しているので、清国に対し宣戦布告する、との論理となっています。

朝鮮で東学乱のような「禍乱」が発生するのは、その内政に問題があるためだから、内政改革が必要である、という指摘は、それを日本が強制・主導することが妥当だったかどうかを別にすれば、一応筋が通ったものでした。

宣戦の詔勅でその点を主張したわけですから、日本は対外的にも、単に清国に勝利して朝鮮の独立を確保するだけでなく、朝鮮政府の内政改革についても、それを実施して成功に導くよう努力する義務を負った、といえます。そうしなければ、日本は、この戦争について列強からの支持を失い、有利な決着が得られにくくなると思われるからです。

では、実際に日本はどこまで朝鮮の内政改革努力を行ったのか、それを確認していきたいと思います。まずは、朝鮮公使が大鳥圭介であった、開戦から約3ヶ月間、1894年10月までの状況です。

 

1894年7~10月 大鳥公使時の朝鮮内政改革

内政改革が進まぬ一方、閣議で朝鮮の従属国化方針の決定

まずは、日清開戦以後、大鳥圭介公使時代の状況についてです。ここでの記述は、山辺健太郎 『日韓併合小史』 からの要約によります。

7月、日本が朝鮮政府に内政改革を要求

開戦前の7月10日に日本が朝鮮政府に要求した内政改革案。即座に実行にうつすべき事項は、政府と地方の制度では、内外政務と宮中事務の判然区別、格式によらぬ人材登用、売官の悪弊の停廃、官吏収賄の厳禁。財政改革では、国道の拡張・修理、ソウルと港との鉄道建設、全国重要城市間の電信架設、通信往来の便を開く(インフラ整備)。他にも6か月以内に実行にうつすべきもの、2年以内に実行にうつすべきもの、多数の項目の改革案。
7月23日、日本軍は王宮を占領、閔氏の一族は皆逃げ、ここに大院君政権が成立。大院君は元来が保守頑固、もとより内政改革を自発的にやる男ではない。そこで日本側は、親日派の要人をあげて大院君の干渉できない合議体の政府機関、軍国機務処を設立。
軍国機務処の決議した208件にものぼる改革案(これを甲午更張または甲午改革という)の実行はほとんどできず、日本の政策は思うように進まず。8月下旬でもなお、朝鮮国王は日本軍の目をかすめて清国の援助を請い、日本軍の動静、兵力、最高指揮官などについての詳報を送る有様。

日本は、内政改革について、軍国機務処を設立し、そこに親日改革派を集めて改革案を作成する、という進め方を行った、しかし、政権を握る大院君は保守的で改革を支持せず、また、清国が7月25日の豊島沖海戦・29日の成歓の戦いのどちらにも日本軍に負けたに関わらず、朝鮮国王は少なくとも8月下旬までは清国に援助を請うていた、という状況で、内政改革は進んでいなかったようです。

この状況で、日本は、閣議で朝鮮の従属国化方針を決定します。

8月17日、日本の閣議は、朝鮮の従属国化方針を決定

8月17日の閣議で、外務大臣陸奥宗光は、「対韓戦略」を、列強との関係を考えて4案を準備し、閣議の決定を求めた。4案とは、
(甲) 朝鮮を文字通り自由放任する
(乙) 名義上独立国とするが、日本が直接間接に扶植
(丙) 日清両国で朝鮮の領土を保全する
(丁) ベルギー・スイスのような永世中立国。
閣議は、結局乙案をもって当面の対韓政策を決定、事実上、朝鮮を日本の従属国とするもの。
日本政府は8月下旬、朝鮮政府と二つの条約を締結、8月20日調印の「日韓暫定合同条款」で、日本は京釜・京仁鉄道の敷設権を獲得、26日調印の「大日本大朝鮮両国盟約」は、日本側からする一方的な清国に対する攻守同盟にほかならず、朝鮮はこれよりますます日本に従属。

日本は、8月1日の宣戦詔勅により、世界に対しては、朝鮮の独立支援とそのための内政改革推進を宣言した一方、その半月ほど後に、内実としては朝鮮を従属化させる方針を閣議決定したわけです。

「宣戦詔勅」との矛盾の張本人 ー 陸奥外相

陸奥外相の朝鮮内政改革への姿勢について、森山茂徳 『近代日韓関係史研究』 は、以下のように指摘しています。

● 陸奥外相にとって、内政改革は日清開戦のための布石にすぎず、改革を積極的に行う意図はなく、陸奥の対韓政策の最大の目的は、利権獲得をこの際一挙に実現することにあった。
● しかし大鳥公使以下の日本公使館側は、新開化派の政権掌握による日本の地位回復を企図していたため、陸奥よりも制度改革実現により意欲的であった。
● また対韓政策では、松方正義も、朝鮮の開港場の増加、炭鉱採掘権や電信架設および京釜鉄道敷設権などの「実利実益を収むる」ことが目的と主張しており、松方や陸奥の主張が日本政府の代表的意見であった、としています。

「朝鮮の内政改革推進」は、日清開戦のための口実で、本音は朝鮮国内利権の獲得であった、というのは、その道徳的善悪は全く別にして、当時の政治家の本音としては理解できなくはありません。しかし、外務大臣のポジションにある人間が本音の通りに政策を行ってもよいか、といえば、全く不適切であったと言わざるをえないのではないか、と思われます。

それでは、明治天皇の名で世界に示した「宣戦詔勅」の内容に矛盾することになってしまうためです。そうなると、列強からの支持が得られず、日本にとって望ましい結末が得られなくなる可能性が高まってしまいます。外務大臣としては、中期的な方針としての朝鮮の従属国化を決定するだけでなく、短期的にそのステップとして内政改革をどのように実施していくのか、その具体策も閣内の合意を得るのが適切であったと思います。

陸奥は、日清戦争の開戦前は、開戦に向かって内閣を引っ張り、今開戦後は従属国化方針に引っ張り、利権獲得を優先して、世界に宣言した朝鮮の内政改革については力を入れようとはしませんでした。国際関係を考慮することが任務である外務大臣には誠に不適切な人物であった、と思われます。

実際、朝鮮の内政改革と従属国化方針の整合を図る具体策について、このとき政府内での合意を行わなかったことが、後々になって朝鮮の内政改革推進への障害になり、ついには朝鮮への日本の影響力の喪失、すなわち従属国化方針とは真反対の結果につながっていったように思いますが、それは次のページで確認したいと思います。

大鳥公使の更迭

先に大鳥公使の結末を言えば、9月15日の平壌の戦いと9月17日黄海海戦の勝利の後、9月下旬以降、日本政府は大鳥公使は更迭との方針となり、代わりに井上馨が公使として赴任することになります。以下は、藤村道生 『日清戦争』 からの要約です。

井上公使の任命

平壌戦の勝利の後に、大鳥公使を更迭しようという議論。慰問大使として朝鮮に派遣された西園寺公望ら一行が9月22日広島に帰着し、朝鮮の内政改革の難航が判明したため。伊藤首相は、朝鮮の内政改革を幾分かは成功させなければ諸外国から「批議」を招くことになり、「国家の威信に関し、甚だ不安」と述べた。
井上馨内相が自ら朝鮮に赴任して「老後の一腕を試みたい」と希望。伊藤は井上を特派全権弁理大臣として派遣、との考えに。大鳥公使の立場に同情的だった陸奥は、井上を弁理大臣として派遣すれば列強は日本が朝鮮を併合するものと猜疑するから反対、陸奥自身が外相職をなげうち一公使として赴任すると主張。陸奥外相の強硬な反対により、井上は公使に任命された。

伊藤首相は、陸奥外相とは異なり、宣戦詔勅で世界に宣言した朝鮮の内政改革への取組の重要性を、十分に意識していたようです。

では、内政改革が進まない原因が大鳥公使にあったかというと、平壌戦までは、朝鮮政府内も、日本が勝てるのか清国が強いのか様子見だったわけですから、日本が唱導する内政改革が進捗しなくても当然です。平壌戦の直後に帰国した訪朝団の報告に基づいて大鳥公使を更迭した、というのは、大鳥公使への公正な評価であった、とは言えなかったように思います。

ただし、内政改革停滞の原因は、利権獲得優先で改革には不熱心な陸奥外相にもあったわけです。それなのに、陸奥が井上の特派全権弁理大臣就任に強硬に反対し、井上は公使としての赴任になった、というのは、陸奥自身が内政改革に不熱心であったことへの反省が見られない、という印象を受けます。ここで十分な反省を行わなかった結果、陸奥は朝鮮に赴任した井上の足を引っ張り、結局は内政改革にも、朝鮮の従属国化にも失敗することになった、といえるように思われます。

一方、内政改革の実行や三国干渉の防止のためには、陸奥よりずっと経験豊かで国際関係への理解もはるかに深い井上馨を外相に据え、陸奥は一公使として朝鮮に送る、という解決策の方がより成果を出しえた、という気がします。ただ、当時、井上内相は野党から攻撃を受けていたため、その状況での外相横滑りは好ましからず、ということであったのかもしれません。

大鳥公使時代、実際に内政改革は進捗していなかったのか

大鳥公使時代には、内政改革はどこまで進捗していたのでしょうか。

この時期の朝鮮の内政改革(甲午更張)については、上掲の森山茂徳 『近代日韓関係史研究』 に詳しく述べられています。まずは同書から、軍国機務処時代の内政改革の状況について要約します。

内政改革の性格-自律的な側面

日本軍が朝鮮の王宮までも掌握していた状況や、朝鮮側の改革官僚らの親日的な経歴などから考えて、甲午更張が日本の政治的・思想的影響下に行われたという点を否定することはできない。しかし、甲午更張前後の朝鮮における開化運動の展開、軍国機務処の構成や運営、議案の内容などを総合的に検討するならば、甲午更張は、朝鮮の開化派官僚が主導して日本がこれを幇助した改革、すなわち肯定的な意味での自律的な改革であったと解釈できる。

軍国機務処の構成と大院君

軍機処が発足した当時(7月27日)、総裁、副総裁および会議員に任命されたのは18名。いずれも7月23日のクーデター以降、大院君や金弘集あるいは日本公使館の後押しで「特擢」された人物。
大院君は当初は軍機処の創設に賛同し、自派の系列の会議員3名を送り込んで軍機処の改革運動に影響力を行使しようとしたが、これが思うに任せなくなった8月下旬以降、大院君は一連の反日工作に着手、また同時に軍機処の改革事業に対しても露骨に反対。

軍国機務処の改革の内容

7月27日から10月29日までの約3ヵ月間の期間に、軍機処は約210件の制度改革案ないしは政策建議案を議決し、国王の裁可を経て実施せんとした。
うち50余件は、朝鮮政府の政治・行政制度改革に関するもの。日本の宮内府-内閣中心体制に類似したかたちへと改編。日本式の近代的官僚制度の導入、科挙制度を廃止、文官の任用のために選挙条例、武官の選用のために選武条例を制定、官吏の厳格な公務執行と官紀確立のための制度など、近代西洋および日本で一般に用いられている能率的な行政処理方式を導入。一種の地方自治制を実施するよう決議。
一連の平等主義的社会制度改革、班常制度の革罷、奴隷解放、駅人・倡優・皮工など賤人の免賤、寡婦再嫁の許容など。東学農民軍が提起していた改革要求に応える経済改革、中央政府の官吏による公金横領と地方官の上納金着服を厳禁、過去10年間に官によって不当に奪われたり只同然で売却を強要された田・畑・山林・家屋などの財産の回復、田税の再調整、地方官衙などが随時徴収してきた雑税と雑貢をすべて廃止。

対日従属性を示す事項

大鳥は8月4日付けの陸奥あての意見書で、「朝鮮政府は既に改革派の手に帰し、諸事我勧告を容るる傾向ある以上は、我より強硬主義を以って之に対するは不得策なり。…従前清国が朝鮮を取扱ひたる度合に比較して、いっそう朝鮮を利益する事を考えさる可からす。然らざれば朝鮮の君臣は其苦悶に堪えずして終に第三者に依頼するに至るへし」
朝鮮の改革派官僚が着手した甲午更張に対して大鳥公使は9月17日までは不干渉ないし傍観の立場。平壌戦闘での日本の勝利をきっかけに、大院君派・朴永孝派・親日(親閔)派・改革派などの間に激しい政争が繰り広げられ、これを契機に大鳥は、積極的な干渉戦略を注意深くではあるが進言するようになってきた。

大鳥公使の更迭

61歳の大鳥に対して、公使館内からは「経験に富むも活気に乏しく、諸事鄭寧に過ぎた」「老耄」と指弾する声もあがり、朝鮮の「内政改革」が停滞している責任が大鳥に押し付けられた。日本公使館内の官吏と少壮軍人が大鳥に対して抱いていた不満は、8月19日から9月19日までソウルを訪問した枢密院西園寺顧問官や法制局末松長官から政府要路に報告された。日本軍が平壌戦闘と黄海海戦で勝利を収めると、伊藤首相は、この有利な戦局を絶好の機会として、大鳥の更迭と有能で果敢な後任者の抜擢を決心したものと思われる。

すなわち、軍国機務処内での内政改革に関する議論そのものは相当進んでおり、具体的な施策も提案されていたものの、実施となると大院君派が障害で、そこから先に進まなかった、というのが当時の状況であったようです。

 

大鳥公使時代の課題と反省

大鳥公使時代の内政改革の課題と反省について、整理してみたいと思います。

内政改革遅滞の原因分析-大院君対策は確かに必要カイゼン点

大鳥公使は、陸奥外相あての意見書で、
① 諸事勧告を容れる傾向がある以上、強硬主義は不得策
② 清国が朝鮮を取扱ったと比べ朝鮮に有利に
③ そうしないと第三者(他国)に逃げる
と述べたました。

この内容は、日本の防穀令事件での対応や清国代表袁世凱の対朝姿勢などについての反省を踏まえたカイゼン策となっており、また大鳥公使が、朝鮮政府内の討議状況をそれなりに適切に認識していたことを示していると思います。

ただし、内政改革を進めるためには、まずは大院君とその一派を抑制あるいは排除する必要が確かにありました。大鳥公使の大院君派に対する抑制・排除努力が慎重・丁寧にすぎた、というのであれば、それは確かに反省事項でありまたカイゼン対策事項だったと言えるでしょう。

大鳥公使更迭の背景には、日本軍の責任押付もあった

大鳥公使更迭の事情として、内政改革がなかなか進捗していない状況はありました。しかしそれだけではなく、背景には、例えば日本軍からの意見もあったようです。以下は、また森山茂徳 『近代日韓関係史研究』からの要約です。

野津師団長は、内政改革の進捗停滞に、糧食不足の責任を転嫁

朝鮮進駐の日本軍内部においても、改革が戦争遂行に何ら効果をあげていない、という別な形の不満の声が高まっていた。たとえば、第五師団長野津道貫は、改革が実効をみないために人馬徴集や進軍が困難である、と山県有朋に書き送っている。山県はこれをうけて総理大臣伊藤博文に対し、効果的な戦争遂行体制の整備という日本側の当面の目的にそった改革を、早急に実現させるよう訴えた。

「4 日清戦争の経過 - 4a3 序盤戦③ 平壌の戦い」のページで確認しました通り、野津第五師団長は8月19日に漢城に到着し、平壌にむけて行軍していきました。「その行進の困難なる、言辞をもって名状し能わざるものあり」との窮状でしたが、理由は農村が疲弊し現地徴発不可、朝鮮人人夫は確保困難で逃亡も発生、道路は峻嶮で気候も炎暑といったこと。それでも作戦優先で無理をして行軍したため、平壌戦の第一日である9月15日朝、師団主力などには米などなく、携帯口糧二日分があるのみでした。

すなわち、現地の経済事情、道路事情、その時の天候などに原因があり、さらには平壌戦の前で、まだ朝鮮の政府も人民も日清のどちらが勝つか様子見をしていた時期だったわけですから、日本公使館が内政改革をサボっていたため、では全くありません。

糧食の不足は、現地の経済情勢等に対し軍側が準備不足であったのに、作戦遂行の時期にこだわって無理をしたことが原因でしたが、そうした本質的な課題には着目せず、反省もカイゼンも考えずに、公使館に責任を転嫁する発言を行った野津師団長と、その意見を真に受けた山県司令官の方が、日本軍の統率上大いに問題があった、と言わざるを得ないように思います。

大鳥公使の更迭には、日本からの資金問題もあった

他方、陸奥宗光は、『蹇蹇録』 のなかで、大鳥公使の更迭に関し以下のように言っています。現代語化した要約です。

陸奥の語る大鳥公使更迭の事情

朝鮮内政の改革と牽連して、日本による朝鮮での鉄道および電信の建設の利権確保が、日本の官民の重要問題とされてきた。これについて大鳥公使は、「日韓暫定合同条款」で外交上は確定させた。
ところが、いざ実行の段になり、費用の日本の国庫からの支出は軍事費優先で認められなかった。そこで豪商巨族の有志者で朝鮮鉄道の必要を主張していた人々に声をかけたが、最初の熱心にも似ず逡巡し、日本政府から損害補償の担保を得たいとか、特別の補助金を得たいなどとして、自分でリスクを取って事業を企てようという人はいなかった。
朝鮮内政改革の事業は、朝鮮内の事情の錯雑極まりないことと、日本が外面からこれを誘掖援助する方法が困難甚だ多きことにより、国民の期待通りに進まなかったのは当然の結果であったのに、その原因を研究せずに、大鳥公使を非難する声が高まった。自分は大鳥公使の更迭は得策にあらずと反対したが、更迭せざるをえない事情となった。

陸奥自身は、もともと内政改革を重要視しておらず、むしろ日本がその望む利権を確保することの方が重要、という考え方であったことはすでに確認しました。

陸奥からすれば、朝鮮は国内のさまざまな事情があって日本の言うことがすぐに通る国ではなく、朝鮮の内政改革が簡単にうまく進むはずはなかったし、日本利権の拡張がうまく行っていなかったことには、日本国内にもその原因があった。ところが、そうした原因が冷静に追及されることはなく、責任が大鳥公使に押し付けられたのは間違いだ、ということだったでしょう。

陸奥外相自身も、内政改革・利権確保が進捗しない原因の究明が不足

順調に進まないことについて原因の研究が不十分であったことは、陸奥の言う通りでしょう。ただ、「豪商巨族の有志者で朝鮮鉄道の必要を主張していた人々に声をかけた」程度で済ませていた陸奥にも、対策不足が明らかです。「自分でリスクを取って事業を企てようという人はいなかった」と、人を批判して陸奥自身の対策への反省がないところは、多いに問題があった、と思います。陸奥自身も含めて、責任感に欠ける評論家的判断がなされただけで、当時の日本には、冷静に原因を追究する適切なカイゼン意識が欠けていたように思われます。

陸奥は、鉄道が出来ない原因を、日本の「豪商巨族」に押し付けているようにも読めますが、朝鮮の当時の経済発展度の低さ・投資リスクの大きさを考えますと、「豪商巨族」の反応の方が妥当であったと思います。

日本国内の鉄道事業なら、当時すでに産業革命を開始していた日本の経済力を基盤にして、民間事業としても成り立つものであったでしょう。しかし朝鮮は、はるかに自給自足的で商品経済の発達もまだまだの状況でした。日本国内と同等の運賃では利用客・輸送物量が集まらず、運賃を低くすれば採算が悪化するので、日本国内ほどには事業として成り立たないたない、という判断は妥当だったと思いますし、それでも事業の実施を要請されるなら、政府からの損害補償や補助金を要求しようとしたのも当然です。

陸奥外相自身が、朝鮮の経済発展度の低さを認識できていなかったように思われます。その状況では、「鉄道を作れ、金は政府は出さない、民間でなんとかせよ」は手法として明らかに無理でした。つまり、「費用の日本の国庫からの支出は軍事費優先で認められなかった」ことに一番の問題があったのです。

ところが、陸奥には、民間からの資金提供は無理だという経済水準の理解ができておらず、さらに、政府予算の確保に関しては、政府の当事者としての自分自身の責任を棚上げしてしまっているのです。こうした問題点について、陸奥自身には全く反省・カイゼンはなかったようです。

陸奥には、農商務相の経験があり、またカミソリと言われるような頭の良さがあったにせよ、井上馨などとは大違いで、実は経済が分かっていなかったのではないでしょうか。財政にも企業経営にも強い井上馨なら、民間からの投資を促進する具体策への工夫を考えたのではないかと思われます。陸奥には、井上馨ならやったであろう工夫はなかった、そこまで経済が分かっていなかったので発想もできなかったのではないか、という気がしますがいかがでしょうか。

従属国化方針の具体策についての討議が欠けていたことの影響が、この大鳥公使の更迭問題にも現れていた、といえるように思います。

 

 

こうして大鳥公使は帰国し、代わって井上馨が公使として着任することになりました。井上馨は、朝鮮の内政改革を実際に推進しますが、最後は日本政府が資金援助を行わず、結果として内政改革にも朝鮮の従属国化にも失敗することになります。次のページでは、その経過を確認します。