日清戦争で戦場となった地域
日清戦争で
戦場となった地域
(黄は陸戦、赤は海戦) 
 
カイゼン視点から見る
日清戦争
The Sino-Japanese War of 1894-95 from Kaizen Aspect

帝国主義の時代とベトナム

フランスによるベトナムの植民地化
攘夷が国を滅ぼした典型例

上 日本陸軍の旅順西方砲撃 下 日本海軍の速射砲砲撃
上 日本陸軍の
旅順西方砲撃
下 日本海軍の速射砲砲撃
(日清戦争写真帳より)
 
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帝国主義の時代
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参考図書・資料

カイゼン視点から見る 第一次世界大戦

帝国主義の当時にあって、植民地化が実際に進行していった事例の一つとして、フランスによるベトナムの植民地化の過程を再確認したいと思います。

フランス侵入のきっかけは、ベトナムの攘夷主義

ベトナムは、帝国主義の時代に攘夷にこだわったことで、かえって植民地化された、という歴史をもっています。以下は、松本信広 『ベトナム民族小史』からの要約です。

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1858年侵入開始、67年までに南部ベトナムを奪取

ベトナムの阮朝は、中国文化を尊崇、儒教的な統治を理想としていた。そのため先祖崇拝を否定するキリスト教に対して好意を持たず、宣教師や信者の殺害投獄を行うなど迫害政策を実施。このことが鎖国主義と相まって、危機を招いた。

フランスは、軍事的示威行動も外交交渉もともに無効なのを見て、武力侵攻の機会をねらっていた。たまたまスペインの僧正がトンキン(北部ベトナム)で処刑された事件を口実に、1858年スペインと連合してベトナムに侵攻作戦を行う。1500名のフランス兵と850名のスペイン兵からなる仏西連合軍は、9月ダナン港を占領、さらに59年2月現在のサイゴン(現ホーチミン市)地域を占領して根拠地とした。

1862年、第一次サイゴン条約(壬戌条約)で、阮朝政府はベトナム国内におけるキリスト教弘布の自由を認めたほか、コーチシナ東部3省(辺和、嘉定、定祥;現在のベトナム南東部)および崑崙島のフランスへの割譲、ダナンなど3港の開港、戦費賠償金の支払などに合意させられた。

フランスの真の目的は、メコン河を遡り中国の南西部にはいる水路を確保すること。メコン河の中流区域はベトナムとシャムの両国に帰属するカンボジアの領土だったが、1864年カンボジアと条約、シャムの勢力を排除して保護国とした。さらに1867年、フランス軍はコーチシナ西部3省に突如侵入して占領。コーチシナ全域(南部ベトナム)はベトナムから失われ、フランスの完全な植民地と化した。

1883年 − フランスは阮朝も保護国化、ベトナム全土を支配

フランスは、1973年にトンキン(北部ベトナム)に派兵して、一時的にハノイほかの都市を占領、このときは撤収して占領地をベトナム側に返還。翌74年3月第二次サイゴン条約(甲戌条約)を締結、フランスはベトナムの主権と独立を承認する一方、ベトナムはコーチシナ全省におけるフランスの主権を承認、ハノイほかを開港、フランスの利益と背反する条約を他国と締結しないなどの合意となった。

1880年代にはいると阮朝政府は弱体化、特にトンキンでは黒旗軍(太平天国の流れを汲む勢力)や土匪が跋扈。フランスは82年3月阮朝政府の第二サイゴン条約の不履行を口実に、約300名の軍をトンキンに派遣、ハノイを占領。阮朝から救援を求められた清朝は中国国境沿いのトンキン諸省に進駐、同時に黒旗軍もフランス軍と対峙して、フランスは750名の兵を増派。黒旗軍がフランス軍指揮官を戦死させたため、フランス本国政府は2000名の遠征軍派遣を決定。

1883年7月阮朝嗣徳帝が死去。権臣の策動でその後1年余りの短い期間に4人もの皇帝が変わる事態。宮廷の動揺と混乱に乗じ、フランス遠征軍は83年8月フエに進軍を開始。阮朝政府はたちまち屈服、第一フエ条約(アルマン条約・癸未条約)が成立、ベトナムはフランスの保護国となることを承認、トンキンはフランス理事官の監督下、アンナン(ベトナム中部)のみは阮朝統治だが対外関係・関税・土木の重要事項は全てフランスの管理。

1884‐85年 清仏戦争で、清国も宗主権を放棄

ベトナム植民地化の実施には、フランスはなお清朝のベトナムに対する宗主権を打ち破る必要あり。清朝は1882年からトンキンに出兵の兵をその後も撤収せず、黒旗軍と連合。仏軍は83年12月清軍と黒旗軍に攻撃を加え、翌年3月までにソンタイ・バクニンから駆逐。フランス軍の連勝により清国内に対仏和平の機運となり、84年5月李・フルニエ協定、清国はベトナムから即時引揚げ、またフランス・ベトナム間の一切の諸条約を尊重する合意となった。

しかし同協定に基づく清軍の撤収中に清軍から攻撃あり、フランスは賠償金を請求、清国は拒絶。これに対しフランス艦隊は福州に停泊中の清国艦隊を急襲して瞬く間に全滅させ、清仏戦争が開始。制海権を獲得したフランス海軍は、台湾を攻撃、中国沿海を封鎖、トンキンでも清軍に痛撃を加えて中国国境方面へと退却させた。しかし地の利を持つ清国軍も態勢を立て直し、翌1885年3月、フランス軍をランソン付近の鎮南関に迎え撃ってこれを敗北させた。その後は膠着状態。和平の機運が熟し、85年6月、李鴻章とパトノートルは天津条約を締結。清国はトンキンから撤兵、フランスのトンキン・アンナンにおける保護権を承認、清国の宗主権は放棄。

1887年 仏領インドシナ連邦の成立

1887年、トンキン・アンナンにコーチシナおよび保護国カンボジアの4者を併せて、仏領インドシナ連邦を形成、総督の下に統治する体制を開始した。さらに93年には保護国としたラオスを、また1900年にはその前年に中国から租借した広州湾を、それぞれ仏領インドシナ連邦に編入した。

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日本の「開国〜明治維新〜日清戦争」の時期に起こった
ベトナムの植民地化

フランスがベトナムへの軍事行動を開始した1858年は、日本が日米通商修好条約を結び開国した年であり、明治維新の前年にコーチシナ全域を植民地化しました。開国から明治維新に進んでいた当時の日本でも、フランスの武力によるベトナム侵入は意識されていたものと思われます。

1880年代に入ると、阮朝が保護国化され、さらに清仏戦争が発生しましたが、この激動は、当然ながら当時の日本でもよく知られていました。フランスが、ベトナム全土の支配を確立したのは日清戦争の10年ほど前、清仏戦争を経て仏領インドシナ連邦を成立させたのは日清戦争の7年前、さらにラオスを保護国化して仏領インドシナ連邦に加えたのは日清戦争の前年でした。まさしく日本が開国から日清戦争にまで至った時期に、インドシナの植民地化が進行していたわけです。

フランスによるベトナム植民地化の特徴 − 武力による圧迫・制圧

上記の経過を見て分かることは、フランスが行ったベトナムの植民地化は、最初から最後まで一貫して、武力による圧迫・制圧がその手段であった、ということです。フランスのベトナムでのやり方は、きわめて乱暴なやり方であったことは間違いありません。満州事変から日中戦争に至る期間の昭和前期の日本軍の中国での行動は、この当時のフランスの行動を真似たものか、と思いたくなるほどのものです。

とはいえ、阮朝側にも付け込まれる余地がかなりあったようにも思われます。フランス軍は大概の戦闘で、たかだか2000〜3000人で勝利を収めています。まずは、当時のベトナム軍や清軍の兵器が、フランスの兵器に比べいかに貧弱であったのか、よくわかります。さらに、サイゴン占拠からベトナム全土の制圧まで、25年かかっているわけですが、その間に阮朝側では、清国に支援を求める以外は、現実に立脚した対仏防衛カイゼン策を行ったようには思われません。

攘夷論は、実態としては亡国の思想

中国とベトナムと朝鮮、この時代のこの3国には一つの共通点がありました。それは、旧来の、中国皇帝を中心とする華夷秩序とそれを支える儒教思想を維持し続けようとした、そのため欧米列強からのアプローチは、出来る限り無視または排除しようとした、という点です。言い換えれば、この3国はどれも、攘夷思想で固まっていた、と言えます。

欧米の思想文物は絶対の邪である、と前提してしまえば、邪を排除する「攘夷」は絶対的に正しい、という議論になります。理念のみで物事を考えれば、そうなってしまいます。しかし、「攘夷」を行うことの現実的な効果、という観点から見ると、「世界の変化を見ない、変化を教えられても拒否する、変化してしまった世界の中で、すでに時代遅れとなった旧来の体制・やり方に固執する、あくまで既得権を守ろうとする」というに等しい考え方です。

すでに環境条件が変化してしまい、旧来の事物ややり方を守ろうとしても無理がある、という状況で、旧来の理念に固執するのが攘夷論である、すなわち外見上はどのように理屈付けがなされていても、実は全く現実への理性的な判断を欠いている、感情論に過ぎない議論が攘夷論である、そう言えるように思います。ただし、感情論であるだけに、特に既得権を持っている側では、攘夷論を強く支持する人が必ず存在する議論でもあります。

攘夷思想の無理がたたって、ベトナムはフランスに植民地化されてしまった、朝鮮は日本に従属させられた、中国は一応独立を維持したものの欧米日の列強に半植民地化されてしまった、というのが、歴史上で実際に起こったことでした。攘夷は、主観的には、今の状況を何が何でも守りたいという強い願望が集約された思想、ではありますが、現実にはその願望とは正反対の結果を生じる亡国の思想、というべきものと思います。外部条件の変化を拒否して、現実的な対応が出来なくなるためです。

多元的構造が、日本を開国論へ転向させた

日本は、ベトナムや朝鮮と異なり、中国皇帝を頂点とし中国を宗主国とする一元的な華夷秩序の中には入っていませんでした。日本は11世紀末以来、天皇のほかに将軍もいて、さらには直接の「主君」である大名などもいるという、多元的な政治構造でやってきた国です。儒教も入ってはいたものの、その多元的な構造に反しない範囲で取り入れられたようです。主君には忠だが幕府には反する、天皇にも中国の皇帝にも無関係、という「忠臣蔵」が受けてきたのは、この多元的構造の故であるように思われます。また、その多元的な政治構造のおかげで、経済的にも、各地方の、そして結果として日本全体の、生産力水準が向上されてきた、と言えると思います。

同時代に、日本もベトナムと同様に列強に植民地化されてしまう可能性が存在していたと思います。日本とベトナムとの大きな相違点は、それまでは攘夷論に立っていた薩摩や長州の変革リーダーたちが、薩英戦争や下関戦争で列強と戦って敗けたとたん、現実を直ちに悟り、攘夷論を捨てて開国論に転向した、ということでしょう。彼らは新政府樹立後も、積極的に海外に出かけて知識技術の吸収消化に努めました。日本の政治構造の多元性が、幕末期には、変革のリーダーたちが攘夷論から開国論にいとも簡単に転向することを可能にした、と言えるように思います。

今もときどき出てくる攘夷論もどき

攘夷の本質は、「自己のおかれた環境の変化を見ない、変化を教えられても拒否する、変化してしまった世界の中で、すでに時代遅れとなった旧来システム・やり方に固執する、あくまで既得権を守ろうとする」ということです。こういう攘夷論もどきの考え方は、今の日本でも、いまだにときどき出くわすことがある、という気がしています。

現状と過去とを比較して、過去は良かったとすれば、あるいは現状と今後起りそうなことを比べて現状の方が良さそうなら、過去に帰りたい、あるいは、できれば変化を拒否して現状のままでいたい、という願望を持つことは、心情的には理解できます。

しかし、願望を心情的に理解できることと、変化を拒否・抑制することを政治やビジネスでの現実的な対策としてしまってよいかどうかということとは、まったく別の問題です。日本では、国政でも企業でも心情重視が良いと思われているところがあり、攘夷論もどきの変化の拒否・抑制がそのまま通ってしまうことも少なからずあるところに、現代でも課題があると思います。

ある変化が生じる時、その変化の結果は、ほとんどの場合、必ずマイナス・プラス両面の影響を生じます。つまり、マイナス影響をより受ける人と、プラス影響をより受ける人とが、出てきます。例えば、幕末期の開港によって、輸入品に対抗できなかった綿作などは壊滅させられました。他方で、貿易活動や、お茶や陶磁器など輸出できる商品の生産に関わった人々は利益を得て、その後の日本が貿易国家として発展していける基礎を作りました。技術の変化という観点では、人力車の発明によって、「駕籠かき」は絶滅しましたが、人力車夫を始めた人、人力車夫に転換した人はその後も、タクシー出現までは飯が食えました。

変化を拒否しようとする議論の問題点は、その変化からマイナス影響を受ける部分だけを議論して、プラス影響側は議論しない、あるいは変化への対応が新しい機会を生みだすことを見ようとしない点にあります。変化の全体像を把握した議論になっていないのです。変化の影響の一部だけを取り出して、その部分の変化は受け容れたくないから、あるいは他人はともかく自分は既得権を失うから反対、というのは、「攘夷論」と本質的に変わることがありません。企業ならその企業が滅ぶ、国なら亡国の議論となってしまいます。こうした攘夷論もどきの議論に陥っていないか、未だに欧米流・外国流は絶対の邪で日本には向かないなどと決めつけていないか、すでに「人力車」の時代になっているのに「駕籠かき」保護論に陥っていないか、ときどき考える必要があるように思います。


ベトナムは、攘夷にこだわった国が、それ故に欧州強国の侵入に妥当な対応策をうつことが出来ず、武力によって植民地化されてしまった事例でした。次は、全くパターンの異なるケースとして、開国策の行きすぎから財政困難になり保護国化されたエジプトの事例を確認したいと思います。

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