4 日清戦争の経過

 

いよいよ日清戦争の開戦です。この章では、戦争の経過を具体的にたどることが中心の課題となります。そのさい、戦争のそれぞれの局面で、どんなカイゼンの課題があったのか、戦争が進行するにつれて、その課題にはカイゼンがなされていったのか否か、を再確認していきたいと思います。

 

この章で引用している主要文献と地図・写真

戦争の経過については、特に注記をしていない限り、下記の本に依って要約・引用を行っておりますこと、あらかじめ申上げておきます。

要約・引用文献
● 陸戦は、原田敬一 『日清戦争』を主として、必要により旧参謀本部編 『明治二十七八年日清戦史』 からも補足
● 海戦は、原田敬一 『日清戦争』 に、戸高一成 『海戦からみた日清戦争』 も参照して総合
● 必要によりさらに、斎藤聖二 『日清戦争の軍事戦略』藤村道生 『日清戦争』山辺健太郎 『日韓併合小史』原田敬一 『日清・日露戦争』野村実監修・太平洋戦争研究会 『図説日本海軍』 の内容を追加

地図も多用しています。これも特に注記をしていない限り、全て筆者が作成したもので、GoogleまたはYahooの現代の地図または航空写真図に、参謀本部編 『明治二十七八年日清戦史』 の付図のデータ、または原田敬一 『日清戦争』 に記載の情報を、載せ替えてみたものです。

写真も多数載せていますが、これも特に注記をしていないかぎり、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されている、『日清戦争写真帖』 に含まれている写真です。

 

この章の内容構成

ここでの内容は、以下の通りです。

4a 序盤戦 - 朝鮮内での陸戦と周辺海域での海戦

日清戦争の最初の2ヶ月間、開戦となった1894年7月25日の豊島沖開戦、7月27日の成歓の戦い、9月15日の平壌の戦い、9月17日の黄海海戦の、海陸4つの戦いについてです。

4a1 序盤戦① 豊島沖海戦

1894(明治27)年7月25日、日本連合艦隊の第一遊撃隊が、清国軍の駐屯地である牙山に近い海域で、清国軍艦とそれに護衛され増援部隊を乗せた輸送船を発見、襲撃・勝利して、清国陸軍部隊の増援を阻止します。日清戦争の開戦となった、豊島沖海戦です。

 

4a2 序盤戦② 成歓の戦いと宣戦詔勅

豊島沖海戦から2日後の7月27日、日本陸軍の攻撃隊が、ソウル南方の成歓で清国軍部隊と交戦・勝利し、清国軍を逃走させます。成歓の戦いです。豊島沖と成歓の二つの戦闘の後の8月1日に宣戦詔勅が出されます。

 

4a3 序盤戦③ 平壌の戦い

成歓の戦いから約1か月半、日本軍は、平壌に集合していた清国軍と交戦するため、各部隊を平壌に進め、9月15日に戦闘、清国軍に勝利します。これにより、朝鮮国内にいた清国軍は、すべて放逐されます。

 

4a4 序盤戦④ 黄海海戦

平壌の陸戦の2日後の9月17日、連合艦隊は鴨緑江河口に近い海域で清国の北洋艦隊を発見、一大海戦が行われます。黄海海戦です。連合艦隊はこの海戦に勝利し、黄海と渤海湾での制海権を獲得します。

 

4b 中盤戦 - 清国領内での戦い

序盤戦で宣戦詔勅に宣言した目的を達してしまった結果、日清開戦後3ヶ月目の1894年10月からは、実は戦争目的が変わってしまいます。戦場も朝鮮から清国領内に移ります。九連城の戦いから、翌95年3月の遼河平原制圧戦まで、中国本土内の攻撃についてです。

4b1 中盤戦① 戦争目的の転換

日本は、平壌の戦いと黄海海戦との勝利によって清国による朝鮮の内政改革妨害は排除でき、宣戦詔勅に宣言した開戦目的が達成されました。列強は講和への干渉を開始します。しかし、日本は戦争目的を転換して戦争を継続します。

 

4b2 中盤戦② 九連城より清国内へ

平壌の戦いと黄海海戦により、日本軍は、清国軍は朝鮮から駆逐し、制海権も獲得しましたが、戦争は続行されます。朝鮮を北上した第一軍は10月24日、中朝国境の鴨緑江をわたり、九連城を攻撃して勝利します。その後も鳳凰城や岫厳へと侵攻していきます。

 

4b3 中盤戦③ 金州・旅順

遼東半島の軍港である旅順口を攻撃するために編成された第二軍は、第一軍が鴨緑江を越えたのと同じ10月24日、遼東半島に上陸を開始、金州から旅順口を目指し、11月21日に旅順口も陥落させます。

 

4b4 中盤戦④ 旅順虐殺事件

旅順口の攻略では、日本軍の一部の部隊が、「旅順虐殺事件」として知られることになる、市民への虐殺事件を引き起こしました。この事件の内容と日本の対応を確認します。

 

4b5 中盤戦⑤ 海城・蓋平

第一軍は厳冬期も作戦を続けます。12月13日に海城に進出して占拠。海城は、これ以後2月末までに、清国軍から4回の攻撃を受け、撃退します。年が明けた1895年1月10日には、第一軍の要請を受けた第二軍の混成旅団が蓋平を攻撃・占拠。

 

4b6 中盤戦⑥ 威海衛

一方、第二軍は連合艦隊と共同して、直隷決戦に先立って制海権を完全掌握するため、山東半島の威海衛の攻略に着手します。1月20日に山東半島東端に上陸を開始、1月30日に、陸軍は威海衛の南岸にある清国軍の砲台群を攻撃、連合艦隊も湾内にへの水雷艇攻撃を実施して戦闘を開始しました。2月12日に清国北洋艦隊丁汝昌提督が降伏して、日本軍が勝利しました。

 

4b7 中盤戦⑦ 遼河平原制圧と占領地行政

第二軍による威海衛攻略後の3月上旬には、第一軍は、鞍山站、牛荘、営口、田荘台と攻撃を進めて遼河平原を制圧、日清戦争での中国本土内の攻撃が終了しました。

 

4c 終盤戦 - 澎湖島攻撃、直隷決戦準備と撤兵

中国本土での戦闘終了後、1895年3月に行われた澎湖島上陸、同時に進められた直隷決戦の準備と、その後の派兵先からの撤兵についてです。

4c1 終盤戦① 澎湖島

威海衛攻略が終わると、日本軍は次の目標として、台湾攻略の前提として、澎湖島への攻撃を実施します。澎湖島への上陸は3月23日、25日には制圧します。この作戦で日本軍は、将兵の中に、1000名を上回るコレラによる死者を出してしまいました。

 

4c2 終盤戦② 直隷決戦準備から撤兵へ

他方、軍は当初からの「作戦大方針」通り、直隷決戦の準備を着々と進め、日本からの派兵も続行していました。これは、清国側への講和の圧力にもなりました。講和後は、日本から出征した全7個師団が帰還、そのとき全将兵への検疫が行われました。

 

4d 台湾征服戦

4d 終盤戦③ 台湾征服戦

日清戦争の講和後により、日本は、戦争中には派兵すら行っていなかった台湾の割譲を得ました。台湾引受けのために近衛師団が5月末に台湾に進駐すると、割譲を拒否する住民と間で戦闘が開始されました。台湾平定のための戦闘は、この年の11月まで続きました。台湾でも、かっけやマラリアなどにより、多数の戦病死者を出すことになりました。

 

4e 日清戦争の戦費と戦死者

4e 総括 戦費と戦死者

1年数か月に及んだ、日清戦争とそれに関連する戦闘が、すべて終了しました。この日清戦争に、日本はどれだけの戦費をかけ、どれだけの人数を動員したのでしょうか、そのなかで戦死者や戦病死者などの数はどれほどであったのでしょうか、また、なぜ戦死者よりもはるかに戦病死者の方が多かったのでしょうか、戦史の総括では課題はなかったのでしょうか、全体を総括して確認します。

 

 

まずは、日清戦争の緒戦となった、豊島沖海戦からです。