日清戦争で戦場となった地域
日清戦争で
戦場となった地域
(黄は陸戦、赤は海戦) 
 
カイゼン視点から見る
日清戦争
The Sino-Japanese War of 1894-95 from Kaizen Aspect

日清戦争の戦史 中盤戦 @

九連城など
清国領内への侵攻

上 日本陸軍の旅順西方砲撃 下 日本海軍の速射砲砲撃
上 日本陸軍の
旅順西方砲撃
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(日清戦争写真帳より)
 
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中盤戦C 威海衛
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終盤戦A 直隷決戦準備
終盤戦B 台湾征服戦
総括 戦費と戦死者

講和と三国干渉
戦中戦後の朝鮮
戦争の結果
参考図書・資料
カイゼン視点から見る 第一次世界大戦

1894年9月15日の平壌の戦い、その2日後9月17日の黄海海戦のどちらにも勝利して、日本軍は、清国軍を朝鮮から駆逐し、また黄海の制海権を確保しました。

制海権掌握の場合、陸軍の首力を渤海湾頭に輸送し、直隷平野で大決戦を遂行する、というのが、日本軍が8月初めに立てた「作戦大方針」でしたが、いよいよその大方針に沿って清国領への侵攻に踏み切ります。

清国領への侵攻は、第一軍による鴨緑江を渡河しての作戦と、第二軍による旅順半島攻略作戦の2方面から行われました。このうち、第二軍による旅順半島作戦こそ、「作戦大方針」が目標とする、直隷決戦に向かう根拠地を占めるための根幹的な作戦であり、第一軍はそれを支援するために、清国軍を牽制するのが役割でした。

ここでは、第一軍による、鴨緑江を渡河しての進軍の経過を見ていきたいと思いますが、その前に、一つ確認したい問題があります。この時点で、日本はすでに当初の開戦目的を達成してしまっていた、という点です。まずはこの点を確認しておきたいと思います。

開戦目的を達成したため、これ以後は戦争目的が実質的に転換

平壌の戦いと黄海海戦の勝利によって、日本は当初の戦争目的を実質的に達成してしまっていました。

「序盤戦A 成歓の戦い」で確認しました通り、日本は宣戦の詔勅の中で、清国が朝鮮を独立国として認めず属国扱いし、さらには朝鮮の国政の安定に必須の内政改革も拒否していることが東洋の平和に反しているので、清国に対し宣戦布告する、と宣言していました。

平壌の戦いでの勝利により清国軍が朝鮮から駆逐され、黄海海戦によって北洋艦隊も黄海での制海権も失った時点で、清国は、朝鮮に介入できる軍事的な能力を完全に喪失しました。したがって、この時点で、日本は戦争の目的を実質的に達成していた、と言えるように思います。

列強もそう認識し、イギリスが日本への干渉を開始します。以下は、藤村道生 『日清戦争』からの要約です。

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1894年10月 イギリスからの講和条件の打診

平壌と黄海における清国の敗北は列強に衝撃をあたえた。日本の勝利のつたえられた9月22日、ロンドン発行の『エコノミスト』は「日本が十分勝利を得るときは、中国の未来に最も恐るべき結果を生ずべし」と警告。

10月6日、イギリスは独仏伊露米5国にたいし日清戦争の講和を連合して勧告することを提議。イギリスの提示した条件は、朝鮮独立の列国による保証および、清国の日本にたいする戦費賠償の2項目。8日、駐日公使トレンチは日本政府に右の2条件による講和について意見を打診。

日本政府からの回答は、「条件発表の見合わせ」

このとき、日本政府は講和条件の準備なし。陸奥外相は、甲乙丙3案を起草して伊藤首相の意見を求めた。― (甲)賠償のほか、旅順口・大連湾の日本への割与と日本への特恵条約締結、(乙)各強国が共同で朝鮮の独立を担保、日本には旅順口・大連湾ではなく台湾の割与、他は甲案と同じ、(丙)日本の回答の前に清国政府の意向の提示の要求。

陸奥外相は、「外国の干渉余り面倒ならざる以前に」どの地方でもよいからできるだけ広範囲を占領しておくことが必要になったと指摘して、甲案を講和条件とするためには第二期作戦を速やかに実行することが絶対的必要条件と力説。伊藤首相はイギリスへの回答は旅順、大連の攻略後までにひきのばすべきだと考えた。最終的に、「戦争を終結する条件如何に関し、その意思を発表することを見合わす」との回答を23日にイギリス公使に伝達。これによって全世界は日本の戦争目的が、たんに朝鮮の領土保全と戦費の賠償にとどまるものでないことを知った。

イギリスの調停失敗

イギリスの調停が、このとき失敗に終わった理由は、イギリスの世論が清国から日本に移りつつあったこと、また列強がイギリスの連合干渉提議に応じなかったから。

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宣戦の詔勅に照らせば、ここで止めるべきであった戦争

日本は本来、黄海海戦に勝利した時点で、戦争を自発的に止めることを考えるべきであったと思います。そうしていれば、まずは日本政府に対する国際的な信用力が非常に高まったように思います。また結果として東アジア情勢を激変させることはなく、三国干渉も起らず、日本の朝鮮への強い影響力が簡単に失われることはなかったでしょう。しかし、日本の国内でも、清国でも、停戦論が生じることなく、戦争が続行されてしまいました。

すると、イギリスが調停を仕掛けてきました。情勢を外側から見ている列強の判断の方が客観的だったと思います。ですから、その時点で日本がイギリスからの調停に乗る、という手も充分にあったと思います。停戦が自発的ではない点、日本の信用力への高まりは低くなるでしょうが、東アジア情勢を激変させず、日本の朝鮮への影響力も失われない、という効果があったように思います。

戦争を止めず、イギリス調停も断ったことで、戦争目的が転換

日本がイギリスの調停を断ったことは、日本の戦争の遂行の目的が、宣戦の詔勅での宣言から外れること、そしてこれ以後の日本の戦争目的は、清国から割譲させる領土を拡げることに転換されたこと、を意味していました。

このウェブサイトで、黄海海戦までを「序盤戦」、以後を「中盤戦」「終盤戦」として区別しているのは、序盤戦と中盤戦以降の間で、戦争目的の転換がなされてしまったから、というのが理由です。この戦争目的の転換の結果として、戦地も、朝鮮国内とその周辺海域から、清国領内に移りました。

なお、この戦争目的の転換が妥当なものであったのか、と言えば、最終的には日本は欲張り過ぎて失敗した、だから妥当なものだったと評価するわけにはいかない、と言わざるをえません。とりわけ、日本の政府と軍との間で、領土要求はこの範囲までと限定する、それを達成するために戦線はここまで拡大するが、それ以上の割譲要求も戦線拡大も行わない、という方針の議論を行うことなく済ませてしまったことが、最終的な失敗につながったように思いますが、いかがでしょうか。

清国の失策は、敗けを宣言しなかったこと

他方、清国側では、何か手を打てなかったのでしょうか。序盤戦は、作戦ミスもありましたが、完敗でした。しかも日本側がさらに清国領内に進攻してくる可能性を考えざるを得ない情勢でした。であれば、ここで敗戦を認め、清国は今後朝鮮の独立を尊重し一切干渉しない、と宣言してしまう手もあったのではないか、と思いますが、いかがでしょうか。そうしていれば、日本が戦争を継続する正当性は失われ、列強もより強力な調停が出来ていたのではないか、と思われます。

清国側がなぜそうしなかったのか、研究書にはその点を論じたものが無いように思われますので、止むを得ず、小説ですが史料をきっちり確認して書いているとされている、陳舜臣 『江は流れず−小説日清戦争』に頼ります。陳舜臣は、当時、西太后は戦争を早く終結させることを望んでいたこと、また軍機大臣は、「陸海における敗戦直後の和議は、清国の面目にもかかわるし、有利な条件は望めないので、絶対に反対」であり、「戦線で少しでももり返してくれなければ和議を進めるべきではない」、との意見であったことを紹介しています。

この清国側の「戦線で少しでももり返してから有利な条件で和議」という方針が事実であるのなら、昭和前期の日本の対米戦争の末期に、当時の日本の軍部指導者たちが使った論理はそれと同じであったと言えます。戦争を継続することは負け続けることである、という客観的な条件を冷静に検討しようとしない、なんとか少しぐらい勝つ局面があってほしいという、メンツと主観的な願望のみに基づく論理であった、と言わざるを得ません。

客観的な条件が適合していないのですから、清国も昭和前期の日本も、主観的期待に反し、どちらもその後さらに負け続け、死者の数を増やしただけでなく、講和の条件が一層厳しくなりました。すなわち、メンツを優先させて重大な判断ミスを行い失敗した、と言えるように思います。昭和前期の日本がこの時の清国の経験から学ばなかったことは、誠に残念なことでした。

敗北情報が上がらず、また上がっても公表できなかった清国

上記のように書いた後、S. C. M. Paine "The Sino-Japanese War of 1894-1895" (サラー・ペイン 『日清戦争』)を読み、筆者は自分の認識が間違っていたことを知りました。本書では、「北京の中国高官も戦地の司令官も、隠せるはずのない情報に関してウソをつこうとした。戦争中、中国政府は、どの戦いも中国側の勝利だと報じた」と指摘しています。

清国側では、そもそも戦地の指揮官は死刑を恐れて敗北情報は上げず、勝利の虚偽報告さえまかり通っており、また清朝は満州族による少数支配であったため、清国軍敗北の情報を公表することは清朝支配の維持を危うくする恐れがあったようです。以下は、本書からの要約です。

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清国軍の戦場からの虚偽報告は常態

前線からの虚報には理由があった。清国ではしばしば、戦闘での敗北は、その責任のある司令官の斬首刑を意味したから。このことが、現実の軍事的状況を宮廷に隠す強力な誘因となり、その結果、宮廷は、前線で何が起こっているのか一切判らず。

平壌の戦いでは、左宝貴将軍の名前で、日本軍の攻撃を押し返したとの戦闘報告が出ているが、内容が虚偽であっただけではない。左宝貴将軍は戦死していて、報告を出すことができなかったことは、数週間後にはじめてわかった。

黄海海戦では、戦場から受け取った説明の正確さについて、北京では、深刻な疑惑。10月の末、光緒帝は、北洋艦隊の外国軍事顧問長の、ハイネッケン最高監察官を謁見に召還するという、前例のないことを行った。光緒帝は実際に何が起こったか彼から直接知りたかった。皇帝がその部下を信頼できず、事実を知るために外国人を呼び入れなければならないのは、悲劇的なこと。

清朝維持のための虚偽宣伝

中国宮廷は戦勝報告が虚偽だと分かってからも、不正確な報告を出し続けた。嘘をつく政策は、国内の王朝維持の目的。漢族の知識階級の大部分は、中国の敗戦の程度を全く理解できなかったから、戦争の最末期にすら滑稽な政策提言が皇帝への建白書に見られた。満州王朝は、漢族に転覆される危険が迫っていた。権力の座に居続けるために、満州王朝は、国内の感情を操作しなければならなかった。

あまりに明白な虚偽宣伝で、清朝は国際的に信用を喪失

国際的には、情報歪曲はあまりに明白で、中国政府の信用力の痕跡すら破壊。中国の敗北が時間の問題だと思われるようになった1894年12月でも、中国の司令官たちは、依然、宮廷に神秘の勝利の報告。外国社会からは中国は頭が異常だと思われた。外国からの嫌悪と、中国の軍事的敗退とが合わさって、外国からの帝国主義の歯止めを解いた。

戦争が続くにつれ、より多くの新聞が中国の情報源を捨て、日本の公式戦争報告に頼るようになった。この過程で、日本は正確さと効率の良さで評価を獲得、他方西洋の見方からすれば、中国は彼等自身の騙しのぬかるみにさらに沈み込んだだけ。

ただし、日本の報告の信用性も疑われた。その一つの理由は、日本の検閲政策にあった。検閲を意図的に使おうとしていないなら、なぜ検閲政策を行っているのか?平壌と黄海での二つの大勝利の後、日本政府は、外国特派員が日本軍に従軍することを許可、軍部は外国の公使館付き武官にも従軍させることを決定。当時の西洋流の観点からすれば、これで現場に白人がいることになり、その観察は西洋の報道機関が信用できる。

中国軍には外国人は絶対に従軍できなかった。The Peking and Tientsin Timesの記者が指摘しているように、「誰も中国部隊に従軍する外国人の安全を保証できなかった」。

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清朝政府自身が、どこまでひどく負けているのかつかめていない状態では、確かに、負けを宣言するようなことはできなかったでしょう。さらに相手が、華夷秩序からすれば東夷の一国に過ぎない倭人の日本であれば、負けを認めることもできなかったかも知れません。とすると、清国には、戦争を続けて更にひどく敗北させられるという選択肢しかなかった、と言えるのかもしれません。

やはり、事実を正しく知ることが健全な判断の基盤であり、まずは事実がわからないと、あるいは事実が分かっていてもメンツ等によって判断に歪みが生じると、適切な解決策を取れなくなってしまう、という不幸な実例であった、と言えるように思います。

なお、中国の政府は、現代に至っても、虚偽報告と強いメンツ意識から抜け出しきれていないところがある、と言えるように思います。日清戦争の教訓を学び直す必要があるのは、日本だけではないかもしれません。

平壌の戦い後、第一軍の北上は遅延

黄海沖海戦に勝利し、制海権を確保したのち、清国領への侵攻作戦が開始されました。第一軍は、10月24日に、朝鮮と清国との国境である鴨緑江を渡って清国領に進攻していきます。以下にその経過を再確認します。

まずは、平壌の戦いの後、第一軍が北上して、清朝国境地帯に集結するまでです。

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平壌の戦いの後

日清戦争の地図 平壌から義州へ

平壌の北の定州にいた清国盛字軍、9月17日に平壌の敗報を聞き、つづいて敗兵が続々と逃げてくるのに出会う。葉志超が敗兵を放置した結果で、そのため17日から20日にわたる間、安州から義州までの道路は、ひっきりなしに敗兵が通り、沿道の民家に入り込んで、掠奪・放火・暴行と悪事の限りを尽くす、朝鮮人はこのありさまを見て清国に対する依頼心を一掃したという。

第一軍司令官大将山県有朋は、平壌の戦いに先立つ9月12日に仁川へ上陸していたが、平壌の攻撃は第五師団長に任せ、25日戦闘後の平壌に到着。第五師団、退却する清軍を追って23・24日に平壌を出発したものの、清国軍の退却にあたって散々に掠奪を受けた沿道の地方は、至るところが荒れ果て糧食を得られず、その後当分の間、安州および平壌にとどまるほかなくなる。海上輸送は仁川・大同江間は可能となっていたが、大同江以北は情勢が明らかでないため海上輸送ができず。

山県司令官には、清国軍の鴨緑江集結の情報。事態は切迫、給養上の配慮から第三師団の半分を黄州付近に残し、他は10月3日から順次前進開始を決定。

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清国軍の平壌からの敗走の結果は、掠奪による地域の荒廃を生じ、日本軍の北進の日程にも影響を与えたようです。

清国軍の問題点の一つは兵站の欠如

日本軍の北進にも影響を与えた清国兵による略奪は、清国軍の問題点のひとつであったようです。再び、S. C. M. Paine "The Sino-Japanese War of 1894-1895" (サラー・ペイン 『日清戦争』)からの要約です。

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清国軍は兵站なく、現地掠奪主義

清国陸軍は、組織上で、工兵隊・兵站部・輸送サービス・医務部を欠いていた。兵站部が無いことは、戦場に派遣された部隊は自分たちの糧食を発見しなければならないことを意味する。住民は、清国軍を支持するどころか、軍の到着を恐れている、軍が銃で脅して一般民から糧食を獲得するから。

The New York Timesの記事、「逃亡兵は山賊の役を演じた。村人は掠奪されそのあと放火された。…強盗に抵抗した朝鮮人は容赦なく殺された」(1894年10月3日付)。「清国の部隊は、すでに朝鮮に大きな重荷になっている。強奪と暴力が彼らの進路を跡付けている。良い清国人は誰も軍隊に入らない、そして外国人から訓練を受けた数千人の部隊を除いては、大多数の勇軍兵は掠奪者の群れである、という悪評が轟いている」(10月27日付)。

清国兵は、掠奪するか、飢え死にするしかなかった。彼らには兵站がなく、給料はものすごく少なかったから。清国は、傭兵によって戦われる戦利品を求める戦争という、伝統的な様態にとどまった。

対照的に、感心された日本軍

日本が最初に部隊を動員したとき、上海発行のThe North-China Heraldの編集者たちすらが感心した。「日本人がその動員を実施した能力と完璧さ、準備の完璧さは誰もが称賛せざるをえない、清国のそれとは全く対照的である」(7月20日付)。

日本軍はその必需品を携えてきた。それが不足していれば、その時の物価で現地購入したとの評判だった。西洋の観察者たちは、大変な相違に驚いた。

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日清戦争における清国軍対日本軍の戦いは、前近代軍対近代軍の戦い、と言える側面があったようです。

マーチン・ファン・クレフェルトの『補給戦』は、軍の補給組織の発展の歴史を記述した著作ですが、それによると、

  1. ヨーロッパでも、軍隊は、16世紀後半までは「武装したならずものの掠奪集団」であり、駐屯地を離れて前線に出れば、現地での略奪が当たり前であった
  2. 17世紀中葉のフランス軍は、軍需品倉庫制度を確立、兵士への食糧供給を開始したが、前線では略奪していた
  3. 19世紀に入ってナポレオンは、前線支配地域での徴発と、後方からの補給部隊の組み合わせ。特にロシア進攻時には、食糧生産の乏しい地域を行軍することになったため、大規模な輸送隊が後方から補給。現地徴発では専門の常設機関も設置。
  4. 19世紀後半の普墺戦争や普仏戦争でのドイツ軍では、輸送部隊が食糧・軍需品を供給する役割が振られていたが、進軍のスピードに補給部隊が追い付けず、結局現地徴発に頼った。20世紀に入って第一次世界大戦初期の電撃戦でも、同様の結果となった

とのことです。すなわち補給について、ヨーロッパの基準と比べてみれば、日清戦争時の清国軍は、現地掠奪に頼った16世紀の軍隊のレベルでしたが、日本軍は補給部隊と現地での有償徴発を組み合わせており、同時代(19世紀後半)のヨーロッパ基準に到達していた、といえるようです。

反日感情緩和の機会を逃した日本軍

日本軍は、10月に入ってから、清国軍敗残兵に荒らされた義州街道沿いの地域を見ながら北上していきました。もしもそのさい、清国兵に荒らされたこの地域への支援策を日本軍が提案し、その結果として何らかの支援が実行できていたなら、朝鮮の反日感情を大きく和らげて、当時の日本の対朝鮮政策に相当の貢献が出来たようにも思います。

この時の日本軍は清国軍と戦うのが役割だったとは言え、自分たちの軍事行動を行うことだけに集中してしまっていたのは残念なことです。

清国軍の国境結集と、日本軍の義州進軍

日清両軍は、鴨緑江をはさんで、集結します。

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清国は国境線の防衛強化

9月15日の平壌の戦いで敗れた清国には、日本軍は北京攻撃を図るとも、瀋陽(奉天)を襲う計画があるともいう各国からの情報。清朝国境は、義州と鴨緑江を挟んで5キロ西の九連城が防御拠点であり、ここに増兵。10月中旬には鴨緑江防衛のため、3万4千人、火砲90余門が集結。長甸河口付近から安東県に至る約5、60キロの間を左右に区分して防禦配備を整える。右翼、総指揮官 提督宋慶、九連城など。左翼 総指揮官 将軍依克唐阿、安平河口など。当時は九連城付近の一部以外は防備工事を完了せず、虎山は陣地の左翼前に孤立。ただし牙山や平壌からの敗軍将兵約1万人を含み、「士気大いに低落」の状況。

第一軍は「前面の敵を牽制」する任務

第一軍の先遣、混成立見旅団は、10月10日から17日までの間に義州を占領、24日第一軍の諸隊はすべて鴨緑江畔に到着。10月15日、第一軍司令部は安州に到着、そこに大本営からの電報、第二軍は旅順半島占領を任務とするが、第一軍は「その前面の敵を牽制し、間接に第二軍の作戦を援助する」こととの指示。

第一軍の日本軍は、第三師団・第五師団とも朝鮮半島を陸路北上。鴨緑江にたどりつくまでは拙速主義、周辺地域からの徴発を強化してしのぐなど、補給が不完全でも進められてきた。鴨緑江を渡河してから一転して十分練られた作戦に。師団司令部の判断から変わり、上級で充実した参謀部(参謀長・小川又次少将)を持つ第一軍が作戦を立てる。砲兵隊の掩護の下での歩兵隊の攻撃と突撃、という作戦の基本に忠実になる。

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第一軍の役割は、前面の敵を牽制して、間接に第二軍を支援することである、と明確に規定されたのは良かったと思います。ただし、後日、この役割規定に反した行動をとろうとする問題を生じましたが。

1894年10月24日鴨緑江を渡河、九連城の戦い

平壌の戦いから約40日を経過し、いよいよ第一軍は、九連城の攻略を目指して、鴨緑江の渡河を開始します。

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虎山の戦い

日清戦争の地図 虎山の戦い

清軍は、鴨緑江右岸の九連城と安東県付近に陣地、虎山付近に前進哨、一部の兵で安平河口から長甸河口に至る間を守備。山県軍司令官の作戦、24日に一支隊が鴨緑江渡河、同日夜ひそかに架橋、第三師団は25日未明に渡河し払暁から虎山地方を攻略、第五師団は必要となれば直ちに渡河、26日全力をあげて九連城の攻撃に決す、というもの。

日清戦争の写真 義州より虎山 日清戦争の写真 鴨緑江 船橋
左 <義州統軍亭より虎山を望む>、 右 <鴨緑江船橋>

佐藤支隊、24日11時10分頃から渡河開始、清軍砲台からの砲撃もあったが、渡河を終え安平河口両岸の高地を占領、安平河口の砲台にいた清軍は退く。架橋は24日夜6時から着手、材料の鉄船が長途の行軍のためにゆがんでいたり、寒さが相当厳しく手足は凍えるなどではかどらず、25日午前6時予定より2時間遅れで完成。軍橋が脆弱なため通過にも時間を要す。他の部隊は24日午後11時30分から夜陰に乗じ船3隻を用いて密かに渡河、虎山の東方約2000メートルの地に集合、25日午前5時30分渡河終了。

25日6時10分頃、砲兵隊は虎山鞍部の清軍砲兵台めがけ野砲の射撃開始。虎山鞍部の清軍守備隊は日本軍の渡河に気づかず、虎山の清軍歩兵が渡河した日本軍部隊に射撃を始めたのは6時50分頃。日本軍部隊は前進、野砲も集中砲撃。7時50分頃清軍の砲火が沈黙、退却の気配。午前8時、日本軍は一斉に突貫攻撃、清国陣地を奪う。

8時から8時35分ごろ、清軍の精鋭部隊約3、4000が栗子園方面から、約3000が九連城方面から虎山に迫り、また九連城北方山上の砲台から虎山日本軍を砲撃。このときが日本軍の危機。増援、突貫攻撃、清軍はついに10時30分ごろまでに退却。午前9時40分艾河尖を占領、午前11時楡樹溝高地を二か所占領、午後1時葦子溝陣地を占領。夕刻から夜半まで、九連城北方山上の清国軍陣地からの砲撃が続く。虎山攻略戦での死傷者149名(うち戦死34名)。

九連城・安東県の占領

山県司令官は、虎山付近の戦闘で敗北した清軍の大部分が九連城入りと知り、計画通り翌26日は九連城攻撃に決す。しかし清国軍は25日夜のうちに九連城から退却、26日無血占領。25日夜右翼総指揮官宋慶は毅字軍を引き連れ鳳凰城に逃走、これを見た付近の清国兵がおおいにあわてて支離滅裂になり、全軍が逃走したもの。安東県からも清軍は撤退、26日午後5時には渡河完了し、戦わずに占領。

日清戦争の写真 九連城 日清戦争の写真 九連城 清軍砲塁内部
左 <九連城>、右 <九連城 清軍砲塁内部>

九連城の戦いは、日本軍歩兵1万3千人、清国軍総員1万9750人(多少の非戦闘員を含む)。九連城付近の天嶮に防御工事を施し且つ優勢の兵力だったにもかかわらず、虎山付近の敗戦に忽ち全軍の志気を喪失した、というのが『日清戦史』の判断。その背景には清国軍諸将間の不統一。なお、第一軍は安東県に民政庁を設置、小村寿太郎を長官とした。軍事占領のため民政庁を置く最初の例となる。

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兵力も優勢なら、陣地の防御も強化していた清国軍が、なぜここでも簡単に日本軍に負けてしまったのか、不思議です。日本軍は鴨緑江を渡河しないと、作戦行動ができません。そこに日本軍の弱点があったことは明らかです。陣地の防御強化というハード面では対策を打っても、人を動かして渡河を発見通報するソフト面での対策が抜けていた、ということなのでしょうか。

日本軍による安東県での民政

他方、日本軍側ですが、敵国ではない朝鮮領内で戦闘を行ってきた今までとは変り、敵国領内で戦勝したため、占領地行政、という新しい課題にも向き合うことになりました。最初の民政長官に任命された小村寿太郎が、どのような民政を実施したのでしょうか。以下は、外務省編 『小村外交史』からの要約です。

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民生庁の開設

10月30日、山県第一軍司令官は第一軍管民生庁の組織及び権限を定め、同日小村を民生庁長官に補した。翌11月1日、小村以下新たに民生庁付を命ぜられた者は安東県に着任し、直ちに事務を開始した。

当時住民多くは市邑を去って山野に避難し、沙河鎮の如きは1700戸を有する一要村なるも、残留者僅かに20〜30名に過ぎなかった。加うるに盗賊昼夜俳諧し、空家に入りて物品を奪去する者日に絶えなかった。

住民の帰還と徴発購買の容易化

市邑の吏員の過半は他に逃げ去ったため、その帰来復職を促した。そして帰任した吏員らを民政庁に召集して親しく開庁の趣旨を懇説し、力を帰順奨励に尽さしめた。別に通訳憲兵巡査をして日々近村を巡回し、各々堵に安んじてその業に就くべきを諭さしめた結果、彼等は漸く我が真意を解し、遠く離散した者も安堵して陸続家に帰り、数日を出でずして敵前既に市の開けるを見るに至った。帰来した者には、通行券・住居券を付与して、市邑著しく平穏に帰した。

当時我が軍の最も苦心したのは徴発であった。小村は既に必要の諭告を発したが、長年官兵の誅求掠奪に遭って来た地方人民は、我が徴発の趣旨方法を解しないで、往々強奪ではないかと疑うので、小村はさらに諭告を発し、重ねて我が真意を民人に懇説した。それ以来馬の徴発、糧食の購買は次第に容易となり、軍の行動はために少なからず便宜を得た。

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平壌の戦いのところで触れましたとおり、小村は平壌で、「満州に入れば、よく金を与え、生命を安全にし、この二者に安心を与えさえすれば、敵地なりとも兵站の輸送、物資の徴発、意の如くなる」と言いました。それを文字通り安東県で実践したわけです。

しかも、住民を強権的に押え付けたのではなく、これまでの吏員を信用して彼らに任せるべきところは任せ、また直接コミュニケーションを取るべきところは日本人が顔を出して「懇説」した、ということでした。すなわち、方針が適切であっただけでなく、実行においても相手に信用され効果が上がる手段を選択した、と言えるように思います。

小村寿太郎は、この時、第一軍司令官だった山県有朋や、第三師団長だった桂太郎に高く評価され、後に外相にまで出世するきっかけとなりました。

小村が安東県民政庁長官であったのは1ヶ月足らずで、外務省の本省に呼び戻されてしまい、11月28日には外務省政務局長に就任します。このため、安東県民政庁長官職は、軍人(福島安正中佐)に引き継がれたとのことです。

後任となった福島安正は、軍人とはいっても、語学の達人であり「公金を使ってほうぼうを歩いた」人で、このときまでにアメリカ・清国・朝鮮・インド・ヨーロッパに行っていて、日清戦争の前年には単騎シベリア横断までやっています。「天才的な語学力を駆使して列強の国情を探り、軍人外交を展開」する能力から、最後は陸軍大将にまで昇進した人ですが、部隊勤務や攻城野戦の経験はほとんどないという、陸軍では異例の人物だったようです(半藤一利他 『歴代陸軍大将全覧 大正編』)。少なくとも占領地行政の出だしにおいては、日本陸軍も、軍事知識しかない典型的な軍人には、任を委ねようとはしなかったことがわかります。

小村式の民政方針と実践方式は、小村の帰任後も維持されていたのかどうか、他の地域や年月を経ても引き継がれていったのかどうか、などについて、筆者は大いに関心を持っていますが、不勉強で、この分野の研究書をまだ読んでおりません。ご存じの方がおられればぜひ教えていただきたいと存じます。

第五師団は奉天街道方面へ、 10月31日 鳳凰城を占領

九連城と安東県を占領した第一軍のうち、第五師団は、奉天街道を内陸へ、湯山城・鳳凰城、さらには草河城・連山関へと進んでいきます。また第三師団は、遼東半島の海岸沿いに西方に、大東溝から大孤山、さらには岫厳へと進んでいきます。

日清戦争の地図 遼東半島内部へ

まずは、奉天街道を北上した第五師団の戦闘経過についてです。

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10月末までに湯山城 〜 鳳凰城への進攻

九連城攻略後はどこまで清国東北地方に侵入するのか、大本営の計画なし。第一軍司令部の作戦計画は、しだいに「牽制作戦」から、本来の計画である北京攻略のための東北地方制圧に傾いていく。

第一軍はまず、もう一歩進み、敗走する清軍を追って、40キロ西北にある清国軍の拠点鳳凰城攻略を計画。10月28日、九連城と鳳凰城の中間地点、湯山城を占領。29日に鳳凰城に接近すると清国城兵は退却を開始、主力は31日午前鳳凰城入り。清国軍の宋慶は、鳳凰城を捨てて摩天嶺に陣を占めこれによって奉天省を守ることに決心、盛字軍の一部を第一線として連山関を守らせ、他の軍は第二線として摩天嶺におき、防禦陣地の構築を急ぐこととしていた。なおこの頃はまだ第五師団の補給しばしば困難。最初に朝鮮に派遣されたときの急速な編成が原因、輜重輸卒や軍夫が不足。改善されたのは兵站糧食縦列が到着した11月中旬。

11月に入り、さらに連山関へ

11月11日、鳳凰城から80キロ、奉天街道途上の連山関を占領、22日連山関から後退し草河口防衛線を強化、11月25日草河嶺で清国軍との戦い。29日〜30日も戦闘、凍傷患者多数。12月12日、清国軍、草河城と鳳凰城に二分された状態を掴み逆襲を計画、14日夜明け前から交戦、守備隊が撃退勝利。

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鳳凰城まではともかくも、この段階で、連山関・草河口までの進出することが本当に必要なことだったのかどうか。無駄に補給線を長くし、また意義が乏しいのに凍傷患者を発生させたように思われるのですが。

第三師団は遼東半島方面へ、10月27日 大東溝を占領

次は、遼東半島の海岸沿いに西進した第三師団の行動の確認です。

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大東溝から、11月には大孤山、さらに岫厳へ

安東県に入った第三師団は、10月27日鴨緑江河口の大東溝攻略のため出発、大東溝の清軍約500名は支隊前衛の突入を防ぎきれず逃走、午後8時15分前衛部隊が占領、28日に本隊も大東溝に入る。清軍は前夜のうちに、大東溝西方海岸55キロの大孤山へ退却。

山県第一軍司令官は、第二軍及び海軍との連絡を確実にし、また海運による補給路を確保するため、大孤山地方の占領を命令。大弧山に進軍する途上、清軍はさらに岫厳州方面へ退却したことを知る。大孤山は11月5日戦闘なく占領。11日大孤山に兵站支部開設、食糧弾薬輸送の中心となる。

11月17日、交通の要衝で大孤山西北55キロの岫厳州を攻略、清軍は海城・蓋平方面へと後退、18日朝岫厳を占領。

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この第三師団方面でも、大孤山までは戦略的な必要性が明確ですが、岫厳までどうしても進出しておく必要があったのかは、理解が困難なところです。

第一軍は、「前面の敵の牽制・第二軍の支援」の役割を果たしたか?

10月24日、第二軍の上陸開始と同日に、鴨緑江を渡河して清国領内の別方面で戦闘を開始したことには、牽制の意味が充分にあり、10月31日の鳳凰城、11月5日の大孤山の占領までは、第一軍は与えられた役割を適切に果たしていたと思います。

問題に思われるのは、それ以後です。第一軍が大孤山を占領した翌日、11月6日には、第二軍はすでに金州を占領していました。すなわちその時点で、旅順口はすでに袋のネズミ状態になっていますから、第一軍による大きな軍事行動、特に長距離の進出は、牽制という観点からはあまり必要がなくなっていたのではないでしょうか。

第五師団・第三師団を遊ばせておかず、それぞれに新しい課題をあたえて実行させた、という側面はあったものと思われます。しかし、作戦地域は、日本と比べれば格段に冬が厳しい地域です。最低気温がしばしば氷点下となりだす11月の課題として、それが妥当な課題設定であったかどうか、疑問が残ります。連山関・草河口や、岫厳への進出は、地図を見ても敵陣に突出しており、むしろ攻撃を受けて損害を出すリスクを高めただけのようにも思われますが、いかがでしょうか。

次は、第一軍の鴨緑江渡河開始と同じ日に、遼東半島への上陸を開始した、第二軍による旅順口攻略の経過を確認したいと思います。

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