日清戦争で戦場となった地域
日清戦争で
戦場となった地域
(黄は陸戦、赤は海戦)
 
 
カイゼン視点から見る
日清戦争
The Sino-Japanese War of 1894-95 from Kaizen Aspect

このサイトの主題

「カイゼン視点」とは?
さらに良くできないかを常に考える

上 日本陸軍の旅順西方砲撃 下 日本海軍の速射砲砲撃
上 日本陸軍の
旅順西方砲撃
下 日本海軍の速射砲砲撃
(日清戦争写真帳より)
 
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「カイゼン視点」で見る意味、とは?

筆者は、1945年から現代に至る時代こそが、日本の歴史の中で最も誇りにできる時代である、と考えています。

日本はこの時期に、敗戦直後の荒廃から国を再生させ、著しい経済成長を成し遂げ、国民の生活水準も、世界的にみてかなり高いレベルにまで向上させました。国際的にも、日本は家電や自動車をはじめとするさまざまな産業分野で、品質・価格で国際競争力がある製品を送り出して、世界中から感謝されるようになりました。昭和前期の戦争期などとは異なり、軍事力による威嚇恫喝などとは無縁な、平和な手段で世界から尊敬を受けるようになったのです。

筆者は、この我々が最も誇りにできる時期の、日本経済の向上進化を成し遂げる原動力となったものの一つに、企業の「カイゼン」活動がある、カイゼン活動は、日本経済が成長を続けることに、大いに寄与してきた、と考えています。

そう考えるのは、筆者が職業的な歴史研究者では全くなく、定年まで製造業分野の一般企業に勤務していた人間であるためだろうと思います。そういう企業に長年勤務していると、コストを1円でも安くし、製品の品質を安定・向上させ、企業の業績を少しでも良くするために、ものごとをカイゼン視点から見る、というクセがついてしまいます。 さらに、単にカイゼン視点から見るというだけでなく、実際にカイゼンを進めていく、その過程で何かに気が付けば、さらに現状を前向きに反省して、カイゼンを積み重ねていかないと気が済まなくなります。

進歩をさらに積み重ねていくために、過去の経験からあらためて学べるものは学ぶ、ということもカイゼンの手法の一つです。日本の経済成長の速度が鈍化している今、したがって、カイゼン視点で歴史的事実を再確認し、歴史から何か学べることを探す試みをする、ということは意味があるように思います。

「カイゼン視点」では、常に、さらに良くできないか、考え実践する

カイゼンの目的とは、今より少しでも業務効率を高く、コストを低く、品質を良くすることです。したがって、カイゼンを工夫し実行していくための前提となることは、まずは、過去から行ってきたやり方が最善のやり方であるとして満足してしまわない、現在のやり方は決して最善ではなく、もっと良いやり方があるはずだ、と考えることです。

今のやり方が過去と比べればいくら向上していようとも、現にそれなりにうまく行っているとしても、さらに効率良くできる方法があるのではないか、と考えるところから、カイゼンは生まれます。

別の見方で言えば、過去から現在に至るまでの成果も、あるいは上司や偉い人がかつて達成した方式でも、あくまで建設的にですが、必ず否定・批判されなければならず、そうでないと、さらに良いものを生み出すカイゼンは、出てこないのです。

トラブル発生はカイゼンの重要ポイント、進歩のネタ

一般的なものの見方とカイゼン視点とが特に異なるところは、失敗・クレーム・トラブル・不祥事などへの見方かもしれません。失敗・クレーム・トラブル・不祥事は、もし発生すると、一般的にはネガティブに見られることが多いように思います。企業のトラブルの記者会見などでは、企業側は、ご迷惑をおかけしましたと言って、常に頭を下げまくっています。

しかし、カイゼン視点から見ると、失敗・クレーム・トラブル・不祥事などは、カイゼンすべき重要ポイントがここにある、と気付かせてくれるものでもあります。トラブルで迷惑をかけた方々には申し訳ありませんが、その結果として進歩の重要なネタが判明してよかった、おかげで製品を改良でき、もっと多くの方々に喜んでいただけるようになる、と言えるものなのです。

トラブルをネガティブにしか見ないと、隠蔽したいとか、早く忘れ去りたいなどという意識がどうしても強くなって、物事の進歩を止めかねません。ポジティブな側面も持っていることに気が付けば、向上・進歩を生み出せます。

歴史から何かを学ぶ上では、カイゼン視点をどう活用できるでしょうか。トラブルや不祥事の発生のない歴史はあり得ません。そのとき、例えば、歴史上のトラブルや不祥事そのものをネガティブに評価して終わりとせず、実際にそこからカイゼンが生み出されたか否かも確認して総合評価する、というのが、カイゼン視点から歴史を見る、ということであると思います。

深刻なトラブルや不祥事であっても、歴史の結果においてカイゼンがなされていたならポジティブに評価し、逆にカイゼンが無かったならば、トラブル自体よりも、むしろカイゼンのなかったことを重大だと考えて反省する、ということであると思います。そのように考えてみることによって、過去の歴史的経験を活用でき、現在起っているいろいろな出来事を考えるときにも、よりよい判断をできる可能性が高くなるように思うのです。

カイゼン視点は、定量評価最優先の視点

カイゼン視点がもうひとつ、一般の視点と異なるところは、カイゼンでは定量的な評価が徹底的に優先されている点であろうと思います。

カイゼンによって、今より少しでも業務効率を高く、コストを低く、品質を良くすることは、生産性や必要工数や残業時間、原価や利益、製品不良率や製品性能など、評価の指標はさまざまですが、ほぼすべて定量的に評価することができます。定量的に評価が出来ることの最大のメリットは、現に効果があったのか、どの程度あったのかが、数字で納得できることです。

企業内では、提案制度や小集団活動などの、いわばカイゼン・コンテストが行われているケースが多いと思いますが、そのさい、カイゼン策の優劣は、数字で評価できます。議論は、計算の前提や計算式に誤りはないか、別の条件を追加する方が結果をより良くできるのではないか、などといった実務的なポイントに集中できますので、健全で前向きになります。また、結果をフォローする場合にも、当初の数字との比較を行えばよく、パーフォーマンスの評価が容易です。

ところが、政治や官僚の世界では、企業社会と違い、主観的で特定のものの見方を前提にした正邪論で方策が決定されてしまったり、やたら定性的な評価ばかりが強調されたり、あるいは定量的な評価が行われる場合でも現実離れした数字が使われていたり、などということが多いように感じています。

場合によっては、全く主観を異にする別々の正邪論が対立を始めることがあります。例えば、私は甘いものが好きだ、いや私は辛い物が好きだ、なら単に趣味の言い合いですが、甘いものが正しい、いや甘いものこそ邪だ、などという正邪論の議論になってしまえば、絶対に折り合いがつけられない、原理主義同士の不毛な争いとなります。

常にカイゼン視点から見るようにすること、すなわち、定量的なものの見方、定量的な評価を心がけることは、不毛な争いを避けて健全な議論を行うための方策でもある、と思います。

カイゼン視点では、具体的には何が評価の重要項目か

歴史的な事柄について検討する場合でも、企業現場でのカイゼンと全く同じように、まずは何が事実であったのか、欲目でもひいき目でもなく、冷静・客観的に確認することが重要です。事実を客観的に確認するための手段として、定量的なデータが存在しているなら、あるいは利害関係のない第三者による観察があるなら、それが主観的にはいかに不都合なデータであろうと、絶対に尊重されなければなりません。

そうして事実を確認したあとは、できるだけカイゼン視点から評価するように心がけたつもりです。評価を行う時の重要項目は、具体的には、以下のようなことがらとなっています。

  • 何か行うとき、その目的は何であったか
  • その目的の設定は、当時の状況からみて適切・妥当であったか
  • その目的を達成するのに、手段の選択は適切・妥当だったか
  • 当時の知見や技術の中で、他にもっと効率の良い手段はなかったか
  • 実行段階で判明した課題はなかったか、適切・妥当な対策は打たれたか
  • 結果として目的は達成できたのか、課題が残ったのか

具体的な判断では、データが見つかるなら定量的に比較出来そうな、そういう判定基準を優先して考えるように心がけたつもりです。

また、定量化が困難で定性的な評価を行わざるを得ない場合でも、正邪論や善悪論、すなわち最初から、あることは絶対的な善であるとか、その反対に絶対的な悪であるとかを前提として議論を組み立てること、は排除しました。目的の善悪は別にして、目的の達成により適合した結果を引き出すことに寄与したかどうか、という評価を心がけました。

カイゼン視点の正反対は、メンツ・体面、正邪論・善悪論

カイゼン視点は、定量評価優先の論理であると申し上げました。これに対立する見方は、徹底的な定性評価、あるいは、定性評価を前提としたものの見方である、といえます。

定性評価そのものは、評価方法として必要なものでもあります。しかし、定量評価と組合せなかったり、定量評価より定性評価を優先してしまうと、ものの見方が歪むことになります。

企業の現場で起こるかもしれないことの一つは、あるカイゼンが、その企業内の誰かエライ人のメンツや体面に問題を生じるから、あるいは、その企業がこれまで外部に説明してきたことと矛盾してしまうから、そのカイゼンは行わない、というようなケースです。

メンツや体面といった、ある特定のものの見方、あるいは定性的な判断が優先されてしまっているために、定量的には効果がより高いと分かっていることが実施できない、という結果を生じてしまいます。定性的な判断しか行わない正邪論や善悪論を排除するのは、それがカイゼンを抑圧し、進歩を阻害することになるからです。

「兵は一流、将校は二流、将官は三流」といわれた昭和前期の陸軍
今も、企業現場は一流、企業経営者は二流、政治は三流

昭和前期の陸軍について、対戦した米軍などから、日本兵はよく訓練されていて 一流だが、上になるほど出来が悪くなると評されていた、といわれています。戦争に負けた理由の一つでした。

ところで、現在の日本にも似た傾向があるように思われます。カイゼン意識が徹底している企業の現場は、非常に力があります。なにしろ、現状を最善だなどと決め込まずに、カイゼンをさらに積み重ねているのです。しかし、企業の経営層になると、中には、残念ながら、事業のカイゼンより経営者のメンツのほうが重要と考える人が少なからず混じっているような気がします。つまり、トラブルをカイゼンのネタと見てポジティブに向き合うことをせず、むしろトラブルは自分のメンツにネガティブな影響を及ぼす事象と見る、そのためトラブルを敬遠する、そういう人が経営陣の中にときどきいるように思います。

甚だしい事例に至っては、トラブルの隠蔽に精を出し、隠蔽しきれなくなるとその情報を漏らした人間の探索や他人の責任追及ばかりするような経営陣すら、ときどきテレビや新聞などをにぎわせています。いや、自分のメンツなど気にしていない、会社の体面の問題なのだ、とおっしゃる方があるかもしれませんが、会社の体面もやはりメンツです。

メンツを優先すると、つまりは事実を軽視してカイゼンを行わないことになりますから、進歩は止まってしまいます。企業のエライ人のメンツ意識は、大概はその企業の進歩を阻害する側に働いてしまう、と言ってもよいかもしれません。

政治となるといわずもがな、総理大臣が毎年変わるような事態が長年継続しているのは、三流としか言いようがない状況のように思われます。政治の場にはカイゼン意識にあふれた方々も多いのですが、残念ながらその目的が、議員個人や代表している業界の利益のカイゼンであることがきわめて多いので、その場合にはいくらカイゼン意識が高くても、そもそも目的の設定そのものが間違っていると言わざるを得ません。

企業の経営陣や政治家などの一部に、トラブルにポジティブに向き合うのを避ける傾向があるのは、テレビや新聞などにカイゼン視点が不足していて、発生したトラブルに対する根本的なカイゼン策よりも、トラブルを発生させた責任追及を優先している報道姿勢に原因があるような気がします。マスメディアは、日本を進化させるために、よりカイゼン視点に徹した報道を行うべきだと思います。ただし、カイゼン意識を持たない単純責任追求だけの報道姿勢に異を唱えない視聴者・読者側に、実は最大の課題がある、とも言えるかもしれません。

こうした状況もあるので、日本が一流である企業現場の視点をさらに広げて、歴史の見方にも適用してみたい、その一つの実例を示したい、というのがこのサイトの狙いの一つです。通常の歴史研究書にはまず出て来ない見方ですが、それがうまく行っているかどうか、中身を読んでいただければ、と思います。

次は、本論の日清戦争に入る前に、当時の時代状況の再確認を行いたいと思います。まずは、世界が帝国主義の時代にあったことの確認からです。


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