なぜ日清戦争か - カイゼン視点から気がつくこと

 

 

皆が常識を持っているが、関心は低い「日清戦争」

日清戦争についての日本人の一般常識

日清戦争についての日本人の一般常識は、下のようなところでしょうか。
● 日清戦争は、清国(中国清王朝)との間で朝鮮(李氏王朝)をめぐって戦われた、近代日本の最初の対外戦争だった
● この戦争に勝利したことで日本は欧米列強からの評価を高めた
● 勝利した日本は、清国から賠償金を得たほか、領土の割譲も得て台湾を領有することになった
● 遼東半島については露仏独による三国干渉が起り清国に返還した

以上の程度の知識は、日本人の大多数が持っているものであると思います。つまり、一定の「常識」を大多数の日本人が持っている、そういう戦争です。

日清戦争への関心は低い?

しかし、日清戦争について、この常識よりも詳細な知識を持っている人、となると、かなり少ないのではないでしょうか。満州事変から敗戦に至るまでの昭和前期の戦争の場合、あるいは同じ明治時代でも日露戦争であれば、常識よりも、はるかに深く詳細な知識を持っている人も多いと思います。それにひきかえ、日清戦争には、大多数の日本人はあまり興味を持っていないような気さえします。

筆者も、このウェブサイトを制作したほんの数年前までは、常識以上の知識は何も持っていない一人でした。あるとき、近代日本の最初の対外戦争とはどういう戦争だったのか、もう少し詳しい知識を得ておきたいと考え、日清戦争に関する本を読んでみました。

その結果、日清戦争に関する「常識」は、この戦争に関連して日本人が知っておくほうがよい知識のごく一部でしかないのではないか、という印象を強く持ちました。以来、日清戦争とその時代に関連する主題を扱った研究書や本を読み重ねてきました。それが、このウェブサイトのテーマを「日清戦争」にした理由です。

 

「日清戦争の常識」から抜けている「重要事項」

カイゼン視点については、別のページにまとめましたが、その視点から日清戦争に関連する読書を重ねた結果を、筆者なりに整理してみると、日清戦争に関する「常識」には含まれていない点、「常識」が不十分と思われる点には、次のようなものがある、との考えに至りました。

軍事的には準備が良く、さらにカイゼンも実施

清国に対する勝因の第一は、日本の戦争への準備が良かったことでした。この軍備は、しかし、それまでの健全財政の範囲内での軍備増強、という政府方針の下で成し遂げられたものでした。また、最初の対外戦争であったので、開戦とともにいろいろ課題も発生したが、戦闘を重ねる中でもカイゼンが積み重ねられ、大勝利を得ました。(← 健全財政の範囲内での軍備増強とか、戦争中にカイゼン、といったことは、昭和前期の戦争にはほぼ見られないことでした。)

ただし、日清戦争は楽勝過ぎたため、本来はカイゼンの必要がある事項が、取り組むべき課題だと認識されず、それから半世紀も後の昭和前期の敗戦に至るまでカイゼンが行われず、結局日本軍の体質的問題点となってしまった事項、例えば補給軽視の作戦遂行など、も生じました。公刊戦史が、メンツを優先する編纂方針としたことも、その後のカイゼンを阻害したと言えます.。カイゼンを行わなかったので、昭和前期の戦争には、負けるべくして負けました。

根本的に戦争を行う理由・目的が不明確

日清戦争開戦の直前まで、日本政府は長きわたり対清協調方針をとってきました。朝鮮への出兵決定時点でも、政府内には開戦を意図する強硬論もありましたが、あくまで対清協調の範囲内での出兵という協調論が政府(伊藤首相)の公式見解でした。

しかしその後、陸奥外相の先走りと、国内世論からの圧力で開戦方針に転換を迫られてしまいました。そういう状況であったため、開戦の理由・目的が必ずしも明確ではありませんでした。

そのため、清国勢力の朝鮮からの駆逐を達成してしまった平壌戦・黄海海戦の後も、日本は戦争を停止せず、継続してしまいました。この段階で、清国から領土の割譲を得ることに、目的が実質的に変更されていたと言えますが、どの範囲まで戦争を継続してどれだけの領土割譲を得るかについて、政府内の合意形成は不十分でした。

法外すぎた領土割譲の要求、また戦争ビジネスモデルへの誤った期待が成立

三国干渉を招いた直接原因がロシアの不凍港獲得の欲求にあったとしても、根本原因は、日本の領土割譲要求が、列強がそれまでに清国から得ていた割譲の実績に比べ、法外過ぎたためでした。

すなわち、三国干渉は、根本的には、講和条件の「相場」に関し、日本側、とくに国内世論が理解不足であったことが原因であったのに、その点が全く反省されませんでした。

他方では、巨額の賠償金と台湾の割譲を得ました。そのため、戦争によって、国家は賠償金や領土を得て、個人は出世・勲章・叙爵などを得る、という「戦争ビジネスモデル」が意識されることになりました。

日露戦争より大きい日清戦争の対外・対内影響

日本にとって、日清戦争は、日露戦争よりもずっと楽に勝てた戦争でした。しかし戦争の結果として生じた変化については、対外的な影響がより重大な戦争でした。

日清戦争の結果、列強による中国の分割競争が本格的に開始されることになりました。すなわち、当時の中国・朝鮮や世界の列強に与えたインパクトは非常に大きく、その大きさは、日露戦争以上であった、と海外の研究者は見ています。また、その影響は、ブーメラン的に日本自身にも帰ってきて、東アジア情勢はかえって不安定化してしまいました。

そのため、「国際協調」と「健全財政の範囲内での軍備増強」、という、日清戦争以前の政府方針は転換されてしまい、戦後の軍拡費用は大幅に増加されることになりました。そして、このことが、日本の資本主義の発達の方向性を大きく歪めることにもなってしまいました。

戦争の最大目的であった朝鮮の保護国化には大失敗

日清戦争は、清国勢力を朝鮮から駆逐して、少なくとも日本の影響力を増大させ、可能なら日本の保護国化することを大目的に開始された戦争でした。しかし、この目的達成の具体論については、政府内の合意が不十分でした。そのため、肝心の朝鮮で、日本政府は現地側に適切な支援策を供与できず、陸奥外相が井上公使の足を引っ張りました。

その結果、日本は、朝鮮ではせっかくの軍事的な勝利を活用することができなかったどころか、開戦前よりもはるかに朝鮮宮廷をロシア側に近づけさせてしまい、戦争の最大目的の達成には失敗してしまいました。

 

 

上記の諸点の大部分は、必ずしも筆者独自の見解ではなく、個々にはいろいろな研究書などで指摘されている事項です。しかし、日清戦争について大多数の日本人が持っている常識の中には必ずしも含まれておらず、事の重要性に比べて、知る人がきわめて少ない事項である、と言えるようにも思います。日清戦争の常識から漏れている点がひとりでも多くの人に理解されれば、と考え、このウェブサイトを制作しました。

上記の諸点の詳細は、このウェブサイトのとくに第3章以降に記していますので、ぜひ本文をお読みください。

 

 

 

筆者がこうした見解に行きついたのは、日清戦争をカイゼン視点から見てみた結果です。カイゼン視点とはどういう視点なのか、次のページで説明したいと思います。