6c 三国干渉後の井上公使退任

 

 

日清戦争で軍事的には完全勝利を得ながら、その本来の戦争目的であった朝鮮の従属国化・利権拡大の達成には失敗してしまった過程を、再確認しています。

朝鮮の内政改革と従属国化という二つの目標の達成のため、井上馨という大物公使を出したのにかかわらず、目標達成の不可欠最重要の手段であった朝鮮への借款供与に、日本政府が余分な条件をつけ過ぎたため、好機を逸してしまいました。その状況に、さらに三国干渉で日本の威信が大きく低下していきます。

このページでは、三国干渉があった1895年4月から、井上馨の朝鮮公使の辞任が決まり、三浦梧楼が後任に選ばれ着任する、同年9月までの経過を確認したいと思います。

 

少額でもようやく借款成立で、井上馨による朝鮮内政改革は実施段階に到達

井上馨主導の内政改革の実施

井上馨の要請した内容と比べれば、かなりの条件改悪が行われた日本からの借款がとにかく成立したことにより、朝鮮の内政改革は実施段階に到達しました。以下は、井上馨の伝記、『世外井上公伝』 からです。

日本からの貸付金、4月10日までに230万円の入金

一波乱を経てのち貸付金の条件がまとまると、直ちに同月〔1895年3月〕30日には度支部に五十万円の金員が引渡され、続いて4月10日前後には百八十万円入って来て、1月以来その進捗を阻止されていた改革事業は俄かに活気を呈してきた。

朝鮮政府は、韓暦4月1日から新体制

しかして予算案の調製も出来上がり、韓暦4月1日(〔陽暦〕4月25日)を期して内閣官制を発布し、各衙門を部と改めて内部・外部・度支部・軍部・法部・学部・農工商部の7部とした。しかして更に諸官衙の官制を発布し、その他種々勅令・法律等一時に発布され、万般の改革はここに断行される気運に向かい、法治国として独立国の面目を発揮することになった。貸付金一件交渉からこの発布に至るまでの約一箇月間は、公は寸暇もなく各大臣および各顧問官を激励し、その準備に日忙殺を極めたのであった。

この時期の井上馨は、借款要請に対する日本側からのリーズナブルとは言えない条件に恐らくは腹を立てやる気を失いかけながらも、曲がりなりにも多少の資金手当てが出来たことで、その範囲で出来るところまで頑張ってみようと考え直していたところではないか、と思います。

井上内政改革の進展

ここまでの井上改革について、森山茂徳 『近代日韓関係史研究』 は、次のような評価を下しています。以下はその要約です。

4月、内政改革の新体制・新法令

各部官制および関係諸法令は、4月19日から24日にかけて公布、同25日施行。その主要なものは
第一に内閣官制を始めとする各部の官制、
第二は裁判所関係法令、
第三は予算関係法令、
第四は官吏服務および俸給関係法令、
第五に軍事関係法令。
最大の特徴は、井上の意図に従い、日本の利益沿うように、すなわち日本が朝鮮を保護しやすいように一元的統治体制を創出すること。井上は中央での改革が終了した後に地方の実情を調査し、そのうえで地方官制改革などに着手する予定だった。

井上馨は、やはり優れた実務家です。地方の改革に進むには、改革に先立って、現状調査が必要、という認識もしていたようです。そうした作業は、もう一つの課題である朝鮮の従属国化にも役に立ったでしょう。

朝鮮の政治指導者も改革派は熱心

朝鮮の政治指導者たち、政府を構成している者の多くは、改革それ自体には反対ではなく、穏健派・新開化派・旧開化派とも積極的、熱心、積年の目標。一般の両班官僚はこうした改革に戸惑い反発。
第三次金弘集内閣が8月に成立するや、改革は次第に進展。「法典政略」は、井上の対韓政策のうち他のものに比較すれば、よりよく実現された。日本の介入が止んだ後も、朝鮮独自の法制度整備の試みは朝鮮自身のイニシャティヴで、朝鮮の政治的伝統との抵触をできるだけ避けながら継続、1897年には高宗の推進する光武改革にも受け継がれた。

一方で、内政改革は、井上からの単なる押しつけではなく、朝鮮の改革派も必要性を痛感していて、三国干渉の結果井上が去ることになってしまった後も、それなりに継続の努力がなされたようです。

 

三国干渉は朝鮮内政改革にも大きなマイナス影響

井上はもともと列強からの干渉を懸念していた

ここまできて、国際情勢の変化によって、すなわち三国干渉が開始されたため、井上馨のやる気は決定的に削がれる事態となりました。

井上と陸奥との間に、対韓方針について見解の相違があったことはすでに確認しましたが、そればかりでなく、列強からの干渉の可能性についても、もともと見解の相違があったようです。以下は、再び森山茂徳 『近代日韓関係史研究』からの要約です。

列強からの干渉について、もともと陸奥は楽観的、井上は強く懸念

井上と陸奥とは、日本の朝鮮介入の目的を速やかに達成する必要を共通に認識していたが、それに対する欧米列国の反応の予測の点では、微妙に異なっていた。
陸奥は伊藤に対し、日本の対韓政策の目的(内政改革に限らない)が一年以内に実現できれば、欧米列国の干渉を回避できると述べ、またロシアの動向についても、日本が朝鮮の独立を脅かさない限り干渉しないであろうと予測していた。
これに対し井上は、対露政策の見地からも専ら速やかな朝鮮内政改革を必要と考えていた。しかも改革の前途についての井上の予測は、改革が成功しなければ、朝鮮は二、三の大国により分割されるかもしれない、という切迫したものだった。

陸奥は、願望が実現されるものとして、願望に合わない条件は考慮しない、「願望思考」に陥っていた、と言わざるをえないように思います。そうでなければ、朝鮮の国内事情やロシアの動向について、あまりにも無知であったということでしょう。あきらかに、出来の悪い外務大臣でした。

実際、三国干渉は、井上の懸念していた通りに、日清開戦から1年経つことなく、発生しました。陸奥の「一年以内に実現できれば欧米列国の干渉を回避」には根拠がなく、単なる願望思考に過ぎなかったことを明確に示す結果となったわけです。

内政改革の着手とほぼ同じタイミングで、三国干渉の発生

すでに「5 講和と三国干渉 - 5b 三国干渉」のページで見ましたとおり、4月8日、ロシア外相は列強各国に通牒、それにより4月23日、日本の外務省に露独仏公使が訪れ、遼東半島の放棄を勧告しました。朝鮮政府の内政改革実行着手のための新体制発足の、わずか2日前のことでした。

井上馨の伝記、『世外井上公伝』には、三国干渉の報に対し、井上馨が次のように感じていた、と記されています。

井上馨は、露土戦争の実績から、列強の干渉を恐れていた

5月10日に遂に遼東還付に関する詔勅は下った。公は不幸にもその予感が的中し、三国干渉の報道に接した時、その悲歎は一通りではなかった。しかも英国がこの干渉に関与していないことが、かえって公をして一層不安の念に駆らしめ、或は英国は別途の行動に出て、新たに台湾割譲に向かって干渉を試み来るのではないか。しかしてかの1878年に露国が土耳古と締結したサン、ステファノ条約を英・墺両国の抗議により破棄するの余儀なきに至り、露土戦争によって得た代償を無効にしてしまった如き前轍をここに繰り返すのではないかと、憂懼措く能わぬものがあった。

露土戦争とは、1877年のロシアとオスマン・トルコとの間の戦争です。その講和でサン・ステファノ条約が翌年結ばれ、ロシアがオスマン・トルコから広い領土の割譲を得ることになりました。しかし、イギリスとオーストリアがロシアの影響力拡大を懸念して干渉し、ロシアは割譲の一部放棄をせざるを得なくなった、というものです。

イギリスによるエジプトの実質保護国化といい、露土戦争といい、こういう事例を豊富に承知しているところが、長年外務卿・外務大臣の重職にあった井上馨らしいところ、と言えるように思います。(陸奥も『蹇蹇録』 で露土戦争とサン・ステファノ条約に言及していますが、弁解の中で触れているだけあり、陸奥自身はこの前例から事前に学んでいなかったことを示しているように思われます。)

もしもこの当時の外務大臣が陸奥ではなく井上であったなら、日清戦争はこのタイミングではそもそも起こっておらず、またもし起っていても、列強から干渉を受けるような法外な領土割譲要求は行っていなかったのではなかろうか、と思いますが、いかがでしょうか。

朝鮮にも列強が干渉を開始、日本の朝鮮政策は転換

列強からの干渉は、遼東半島の還付要求に留まらず、さらには日本の対朝鮮政策にも及び始めます。以下は藤村道生 『日清戦争』 からの要約です。

列強による朝鮮への干渉

1895年5月4日、米英露独4国公使は朝鮮外部(外務省)に公文書を送り、鉄道利権を日本のみに許すのは、朝鮮ならびに他の各国商民に不利益だと警告。
ついで15日、ロシア外相ロバノフは西公使を引見、日本政府は朝鮮の内政に極端に干渉している、各官庁には日本政府官吏を配置して朝鮮政府を圧迫していると指摘、さらに日本は鉱山採掘権や鉄道敷設権を含むあらゆる特権を掌中に収めているから、朝鮮全国に不満がたかまっていると述べて日本政府に善処を求めた。
他方、アメリカから、ロシア政府は近日中に日本にたいし朝鮮駐在軍の撤兵をもとめるであろうとの情報。

日本が閣議で遼東半島放棄を決定したのは5月4日でしたから、同じ日に、列強は朝鮮問題でも行動を起こした、ということになります。鉄道をはじめとする利権は、陸奥外相が積極的に獲得を推し進めたものでした。

なお、「朝鮮全国に不満がたかまっている」というのは、日本主導の内政改革を王権への圧迫と感じていた国王夫妻と、内政改革によって既得権を失う両班層の不満もあったでしょう。既得権に見直しをかけ制約しないと、朝鮮の王政そのものが維持できない危機状況にあるのに、既得権喪失の不満を理由に干渉をしかけてきたわけですから、この点では日本はそれなりに反駁の余地がありえたように思います。

ここに至って、陸奥外相の、「日本の対韓政策の目的(内政改革に限らない)が一年以内に実現できれば、欧米列国の干渉を回避できる」などという見通し判断は、全く間違っていたことが明白になりました。とくに、列強の干渉のポイントは、日本が朝鮮に政府資金供与を行ったことではなく、独善的に利権獲得を行った点にあったわけで、井上馨の読みが正しくて、陸奥の独善的利権獲得方針が間違っていたことも明確になりました。陸奥は、自身の不明を恥じて辞任しても良さそうなのに、そんなことはしません。その後を見ると、反省もしていなかったのではないか、と思われます。

日本の対朝鮮政策の転換

事態を憂慮すべきものと判断した陸奥外相は、朝鮮独立の列国による共同担保案を伊藤首相に提案、朝鮮の井上公使からも、三国干渉後の新事態に対応する「干渉の程度、すなわち朝鮮政略の大綱」を決定する必要ありとの上申。
5月22日の伊藤首相あて陸奥外相の具申、日本政府のとるべき選択、第一は従来の方針を続行、第二はイギリスと協同してロシアの進出を防ぐ、第三は日本が自発的に朝鮮の内政干渉を中止し、将来の日露協商の可能性を残しておく。閣僚会議は5月22日、「日本国政府は利害の関係ある他の諸国と協力して朝鮮国の事態を改善」の方針に決定。
しかし翌26日、京都での御前会議は結論を出せず。6月4日の閣議、「将来の対韓政略は成るべく干渉をやめ、朝鮮を自立せしむるの方針をとるべし、故に他動の方針をとるべきことに決す」と決議。

日本政府が公式に朝鮮政策の転換を決定したのは、列強からの申し入れの1ヶ月後の6月4日で、結論として「なるべく干渉をやめ、朝鮮を自立せしむる」ことになりました。とはいえ、実質的にはすでに5月4日以来そうであった、と言えるようです。朝鮮の新体制発足からは、わずか10日後であり、その時点で日本主導の内政改革は、実質的に勢いを減じることになりました。

列強は、日本主導の朝鮮内政改革を批判しているわけではありません。批判は、「日本があらゆる特権を掌中に収めている」という利権の独占に向かっていました。内政改革には不熱心、利権の獲得に熱心であった陸奥外交の失敗が、ここでも示されました。三国干渉を招いた領土割譲要求と同様、やり過ぎ・求め過ぎで失敗する、国益の主張に熱心過ぎてかえって国益を害する、そういう典型的な事例となってしまったように思います。

陸奥の『蹇蹇録』は、三国干渉は書いていますが、列強からの朝鮮への干渉開始は書いていません。この問題に陸奥が、メンツを捨てて反省を示していれば、あるいは、せめて井上馨の読みの正しさを認めていたなら、日本のその後には大きなカイゼンとなっていたように思いますが、いかがでしょうか。

同時期に、朝鮮の政府内に大事件、大院君の孫逮捕と新内閣

4月から5月にかけて、朝鮮政府内でも、大事件が発生しました。概略の動きについて、ここでは木村幹 『高宗・閔妃』 からの要約です。

大院君の孫の逮捕

1895年4月18日、朝鮮王朝は、東学と組んで国王の廃位を目論んだとして、大院君の孫李埈鎔の逮捕を断行。杉村代理公使によれば、これは日本人警務顧問官による捜査結果を井上公使が廟堂に直接手渡した結果。李埈鎔は10年の流刑、大院君は蟄居軟禁に。高宗と閔妃は、王世子に対する最も大きな脅威を、内閣と日本の力を借りて取り除くことに成功。

4月の時点では、井上馨と高宗・閔妃との関係は問題ありませんでした。

朝鮮の新内閣

高宗と閔妃は、次に内閣の分断を試みた。閔妃はかつて甲申政変において王宮を襲撃した張本人の一人、朴泳孝と結び、内閣を自らの影響下に収めようとした。朴泳孝と諸大臣の対立は、趙義淵軍部大臣と朴泳孝内務大臣の論争により表面化、5月31日、金弘集は遂に総理大臣を辞職することになり、後任の総理大臣は朴定陽に引き継がれたが、新内閣の実権は朴泳孝が握ることになった。

この5月の新内閣事件前から、井上馨と高宗・閔妃との関係が大きく変化したようです。

この朝鮮新内閣以後、日本の影響力が明らかに低下

『世外井上公伝』によれば、この朝鮮の「内閣の紛擾」は「開化・保守両派の暗闘」であり、井上馨は自身が仲裁に入って分裂を回避しようとした、しかし井上が一時延期を求めた5月16日の御前会議は予定通り開かれてしまい、軍部大臣は免職され、金総理大臣も辞表を捧呈して結局内閣総辞職となったという事態であった、「公の忠告が完全に無視されてしまったのは、けだし渡韓以来これが始めてである」、とのことです。

『世外井上公伝』は更に、この事件直後の井上の陸奥あて報告を引用しています。

「事態甚だ面白からざる次第なれども、本官は殆ど手の付け様に困却せり。…今これを圧えて結果を見んには、十分強大なる圧力を加えざるべからず。その結果は露国をして朝鮮の事に容喙せしむるの機会を作為すると同然なり。」

この内閣交代事件では、列強からの干渉が開始された結果、井上馨の発言の影響力が明らかに低下したことが示されています。

角田房子 『閔妃暗殺』 は、このころロシア公使ウェーベルが度々王宮に出入り、ウェーベル夫人はますます閔妃と親しく、毎夜のように開かれる宴会では最高の待遇を受けていた、政府要人の日本側に対する態度にも変化があらわれ、朴泳孝など日本の支援で要職についた人びとさえ、井上の意のままには動かなくなっていた、としています。

 

井上馨の公使退任と日本への一時帰国

井上は6月7日から、朝鮮を発ち一時帰国

三国干渉という大きな状況変化が生じ、さらにその影響で内閣交替事件が発生し、井上の、すなわち日本の影響力の低下が明らかな状況になったため、井上は、日本政府と協議するために日本に一時帰国することを決めます。以下は『世外井上公伝』からの要約です。

干渉開始直後に、帰朝の希望 (4月末か5月初め?)

今日焦眉の急は、将来の対韓方針を決定することである、このため公は一応帰朝しようと考え、ひそかに内意を陸奥まで漏らした。もっともこの頃公はリユウマチスに悩んではいたのだが、しかし伊藤・陸奥等は現今露国との関係極めて重大化せる折から、公が一時たりとも朝鮮を離れることはたちまち朝鮮をして動乱の巷と化せしめる恐れもあって、その影響する所も大きいから、予ての公の希望の如く11月頃までこのまま滞韓を懇望した。

伊藤・陸奥の、井上が今いなくなったら朝鮮は動乱になる、という心配も分からなくはありません。

内閣交代事件後の帰朝の決定

事態の急迫に考え、公はいよいよ帰朝して自己の意見を開陳すると共に、朝鮮に対する善後処置を講ずることに決意した。

井上の、自分が朝鮮にただ居続けても仕方ない、伊藤・陸奥との新状況に対する方針のすり合わせ・確立が必要だ、という判断はまことに適切であったと思います。

6月7日京城発で帰国

ひとまず帰朝に決定した公は、6月5日に暇乞いのため参内、国王に謁見。7日に京城を出発して20日に横浜に帰着、21日に参内、天皇に拝謁。

すなわち、井上の朝鮮出発は、日本の内閣による対朝鮮方針変更の閣議決定の後となりました。

井上馨は、一時帰国出発以前に、公使退任を決意していた

井上馨は公使職を続ける気であったが更迭されたとする研究書が多い中で、前掲の森山茂徳 『近代日韓関係史研究』 は、以下の指摘を行っています。同書からの要約です。

井上は、まさに四国使臣の抗議が行われた5月3日当日、陸奥に対して、日本はもはや東アジアでの「独行」は不可能であるゆえ、朝鮮に対しては傍観の態度をとり、ロシアと提携するのも一策であると述べた上で、帰国許可を要請した。このことは、井上の甲午改革との訣別を意味したのであった。

筆者もまた、ここまでに確認してきたことからしますと、井上馨は、日本に一時帰国する時点では、公使退任をすでに決意していたのではないか、と考えます。理由は、以下の通りです。

① 課題の取下げをせざるをえない状況変化となった

井上馨は、内政改革の成功と従属国化という、日本政府が立てた朝鮮についての、二つの難度の高い重要課題を達成するために、自ら公使就任を希望しました。しかし、列強からの干渉が始まり、従属国化はもちろんのこと、日本主導での内政改革の推進すら困難と言わざるを得ない状況となりました。

挑戦し甲斐がある達成難度が高い課題だったため自ら引受けたのですが、状況が変化して政府方針の切り換えが必至となり、課題も取り下げられることが明らかなら、井上馨という自他共に認める大物がわざわざ公使をしなければならない理由はなくなります。

② 課題の達成を困難化させたのは、井上自身ではなく、日本政府だった

井上馨は、課題達成のモデルをイギリスによるエジプトの実質保護国化の経験に置いていることも説明していました。ところが、課題達成の必須手段であった借款について、日本政府側の原因によって、実現はしたもののタイミングを逸し、また条件を付けられて効果が乏しくくなりました。さらに、列強からの干渉が開始されたのも、元はといえば、日本政府側の過大な領土割譲要求や、行き過ぎた利権獲得要求が原因でした。

日本政府の立てた重要課題を達成すべく取り組んでいるのに、またその達成手段も示しているのに、日本政府から足を引っ張られて課題達成が困難化したのですから、やる気をなくして当然であったように思われます。

伊藤と陸奥が井上をヤメさせたのではなく、井上が伊藤と陸奥に見切りをつけた

前ページにも述べましたように、井上は、1894年12月から翌年3月の間の日本からの借款交渉の中で、やる気をすでに十分に削がれていたのではないか、と思います。それでも3月末には一応は借款が実現するところまで来たので、いよいよ内政改革の実行段階入りだ、限界はあるがやれるところまでやってみよう、と思い直したのではないでしょうか。

ところが、4月下旬には、列強からの干渉が始まりました。こうなると、従属国化はもちろん、内政改革すら思い通りには進めようがない、あきらめざるを得なくなった、この状況なら自分が公使を続ける必要はなく他の人で十分だ、と考え、さらには健康問題もあって、すっかりやる気を失ってしまった、というところではないでしょうか。

他の人では達成が困難な、難度が高い重要課題だと思って自ら手を挙げて公使になったが、状況が変化してその課題の追求が明らかに現実的ではなくなったので、自ら退任を決意した、と理解するのが、一番自然であるように思われるのですが。

すなわち、三国干渉が動き出した4月23日から、列強による朝鮮への干渉が開始された5月4日の時点までの間に、あるいは帰朝の「内意を陸奥まで漏らした」時点までに、井上は完全に公使退任を決意していたのではないか、と推定します。また、伊藤・陸奥も、それを知っていたのではないかと思います。いかがでしょうか。

角田房子 『閔妃暗殺』 は、5月19日の井上からの一時帰国申請を受けた陸奥が「伊藤博文と相談の上で、井上に更迭の意向を示唆」した、「この時期の井上は、辞任か、留任か、まだ心を決めかねていたと思われる」としていますが、上記の経緯からすれば、陸奥側が井上ではダメだと思って更迭を決めたのではなく、井上側が状況の変化とその原因になった日本側、すなわち伊藤と陸奥にあきれて辞任を決めた、ということではなかったのか、と思います。

また、陸奥の死の翌年(1898)に刊行された阪崎斌による陸奥の伝記には、「(井上は)不評判なりしより、君(陸奥)は止むなく伊藤に謀りてこれを呼び返したるがため井上は頗る不平の色ありしと聞く」(秦郁彦 「閔妃殺害事件の再考察」から孫引き)とあるようですが、これはあまりに陸奥寄りで、陸奥の失敗を隠蔽して責任を井上に押し付ける、一方的な書き方になっているように思われます。もしも井上に「頗る不平の色」があったのなら、それは失敗の原因が陸奥の不適切な判断にあったのにかかわらず、陸奥がそれには頬かむりしていたことにあったのではなかろうか、と思いますが、いかがでしょうか。

井上の日本滞在中に、日本政府の朝鮮への影響力維持方針と、後任公使人事が決定

こうして井上馨は、6月7日にソウルを発し20日に日本に戻ってきました。再び朝鮮に向けて出発したのは7月14日、ソウル帰着は7月20日でした。井上馨の、この3週間ちょっとの日本滞在期間中に、日本国内ではどのような動きがあったのでしょうか。

以下は、『世外井上公伝』、金文子 『朝鮮王妃殺害と日本人』崔文衡 『閔妃は誰に殺されたのか』、秦郁彦「閔妃殺害事件の再考察」に記された内容を、筆者が整理したものです。

日本への帰国

6月7日、井上馨は京城発。20日、横浜着、芳川顕正と横浜で昼食、芳川は山県・陸奥あてに井上との面談結果を報告する書簡。21日、参内して天皇に拝謁。

6月20日に横浜で話し合われたのは、閔妃殺害(鄭秀雄監督説)だったのか、それとも大院君引き出し程度(秦郁彦説)か朝鮮駐屯軍の交替問題(金文子説)だったのか、という点については、即座に手配がかけられた朝鮮駐屯軍の交替問題だったのではないかという金文子説が、一番妥当のように思えます。

内閣への報告と協議

6月22日、井上は内閣に朝鮮事情を報告。28日、内相官邸にて各省高等官のため朝鮮に関する講話。
7月1日、井上は22頁におよぶ「意見書」を西園寺外相あてに提出。翌2日、閣議はこの井上意見書を検討。
5日、谷干城から伊藤博文あて、三浦梧楼を朝鮮公使に推薦する書簡。ただしその記述から、谷の三浦推薦はこれが初めてではなかったことが明白。
9日、井上から杉村代理公使あて「1週間以内に出発帰任」との連絡、さらにおそらく翌10日、杉村代理公使あて「来る13日横浜を発」して帰国するとの連絡。
11日 西園寺外相は井上公使あてに意見書に対する回答と訓令、またこの日までに井上の後任を三浦梧楼とする人事はすでに決定、井上もそれを了承、12日、 井上は天皇に帰任の挨拶。

滞在中の内閣との協議は、「7月1日意見書」の内容についてに現れている対朝鮮方針とその具体策、および後任公使問題についてに集中しており、この期間に井上馨の公使退任と三浦梧楼の後任任命が本決まりになった、また公使交替を前提に対応策が策定された、と言えるようです。

朝鮮への帰任

7月14日 井上が横浜から出発、15日神戸、17日下関に寄港、19日に仁川着、20日に京城帰着。

井上不在の朝鮮では7月6日に政変が発生、朴泳孝内相に逮捕の命が出され朴泳孝は日本に亡命する事態が生じたために、井上の朝鮮への帰任が早まったようです。

三浦梧楼の後任公使発令

他方、7月17日、三浦は野村靖内相らに駐韓公使就任内諾を取り消し、翌18日、山県らが三浦に公使職受諾を説得し三浦が受諾、19日、三浦梧楼を特命全権公使に任命、なお、この時点では発令上は無任所で、韓国駐箚が発令されたのは8月17日だった。

井上の後任者は、井上が日本滞在を切り上げたのと前後して発表された、ということであったようです。

 

状況変化への日本政府対応方針を変えた井上馨の「7月1日意見書」

井上の「7月1日意見書」は、三国干渉後の新状況への日本の対応策

井上馨の「7月1日意見書」は、「公の朝鮮に対する将来の方針対策をうかがい知るべき好個の資料」として『世外井上公伝』にも引用されています。以下に、その内容を要約します。

公債の事

昨年我が政府が朝鮮を独立せしめ、かつ内政を改革せしむと声言し、終わりに日清戦争端を発し、牙山を始め平壌・義州は日清の修羅場となり、釜・仁・元の3港は我軍の上陸場となり、従って8道ほとんど進軍の地となり、閭閻ために驚擾し、百姓離散す。…故に今これの酬ゆるに清国より受くべき償金の内より、500万円より少なからず600万円より多からざる金額を付与するも、敢えて過当の恩恵にもあらざるべし。
第一案 - 500万円より少なからず600万円より多からざる金額を朝鮮政府へ恵与し、この内より先ず300万円の貸与金を償還せしめ、残額の内一半もしくは三分の一を王室に与え、余りは彼政府有益の事業費に充てしむ。即ち本官の考える所にては、右残額を基本として、彼政府をして先ず京仁間の鉄道を布敷せしめ…
第二案 - 300万円に対する償還期限は、元金を3か年据置き、利子を払い、4ヶ年目より年賦をもって償却せしむ。その期限は、20ヶ年より多からず15ヶ年より少なからざる間において取極むること…

井上はまず、日清戦争での日本の朝鮮への派兵・朝鮮国内での清国軍との戦闘が朝鮮の経済に与えた悪影響を、日本政府が認めて、清国から得る賠償金の中から、朝鮮に500~600万資金提供をするのが適切である、と指摘しています。さらに、うち300万円は先に行った日本からの借款の返済に充てることにする、残りの金額中から、朝鮮政府の事業として京城-仁川間の鉄道を行う、という提案を行っています。

三国干渉が発生し、日本の朝鮮への影響力の低下が避けられない状況下で、なんとか朝鮮への影響力を継続確保するとともに、列強からの日本の朝鮮利権独占批判を回避する具体策を提案した、と言えそうです。

鉄道の事

今日の処、京城・釜山間における鉄道は差して必要とも見えず、唯京城・仁川間は貨物の運搬旅客の往来頻繁なるをもって、差向い必要を感じおり候間、第一案に決議相成り候えば…

京城・釜山間は日本にしかメリットがない割に経済性が低いが、京城・仁川間なら経済性がある上に列強にもメリットがあり支持を得やすい、ということも考えていたのであろうと思われます。

電信の事

京城より元山に至る電線は素より朝鮮線、仁川より京城を経て義州に達する電線も名義上また朝鮮線。日清開戦に際し、我においてこれを占用したるものなれば、平和の今日となりては、右両線は無論朝鮮政府へ直ちにこれを返還すべし。
京城・釜山間ならびに京城・仁川間における我が軍用電線は、この際挙げて朝鮮政府へ恵与せば、彼においても未だ充分に自らこれを管理するだけの準備も調い居らざれば、要する所の技術者又はその管理方をも皆我に求るよう、これまた裏面より斡旋致したく。

通信線も、現実的な解決策として、名を捨てて実を取る方策を提案しています。実務に強い井上らしい提案だと思われます。

京城守備兵の事

先ず朝鮮政府の要否を聴き、同政府において是非共入用とのことなれば、大君主の命を受けたる上、外部大臣を経て我が政府へ公文をもって依頼する様致させ…、本官の見込みにては、所要の兵数は、平時の2大隊もこれ有り候えば先ず十分。

渡韓者取締の事

昨年以来各種の日本人陸続渡韓し、種々の目論見を実行せんとし、動もすれば独立扶植の恩義を題し、戦勝の余光を借り、もって種々の難題を持掛け、様々の注文をなすが故、朝鮮官民共に甚だ迷惑し、果ては日本人に対し恐怖を懐くの情勢を生ぜり。…この際内地において渡韓規則を制定相成り、渡韓者を厳重に取締…

木浦及び鎮南浦居留地の件

せっかく我が商民の便益を得んため居留地を特設したる結果は、返って不便不利の結果を来す場合に立ち至るべく、故にむしろ該地区を挙げて各国共同居留地となし…

京城守備兵、日本からの渡韓者取締、木浦・鎮南浦居留地の件のどれも、三国干渉以降日本の影響力の低下の状況下でも朝鮮への影響力の維持確保を図るには、まずは朝鮮を独立国として尊重する立場に立った解決策を見出すのが適切である、という井上の考え方がよく表れていると言えそうです。

公使の交替

本官の帰任を要せられ候わば、何時にても帰任致すべく、また新任公使派遣の御都合に候得ば、本官の希望は公使その人の細君の交際向き等に熟練なる人物を特にご人選相成り候様致したく…

「本官の帰任を要せられ候わば、何時にても帰任致すべく」と、伊藤・陸奥の判断に従うという書き方になってはいますが、実は、自分はこれ以上朝鮮に居続ける気はないので、後任者を早く公式決定せよ、と伊藤・陸奥に迫っていて、一方後任者の人選については、「本官の希望は」という言葉を入れて、具体的な人名を強く主張する気はなく、伊藤・陸奥に任せる気であることを示したのではないか、と思うのですが、いかがでしょうか。

井上の「7月1日」意見書を「懐柔策」への転換と見るのは、表面的な見方

この意見書をそれ以前の井上の方針と対照して、「過干渉策」対「懐柔策」ととらえる見方もある(金文子 『朝鮮王妃殺害と日本人』)ようですが、それでは表面しか見ない整理になってしまっているのではないでしょうか。

朝鮮自身の最大課題が危機的な財政状況にあるので、朝鮮への影響力の維持拡大には資金援助が必須である、という井上の見方の根本は、前年の着任以来何も変化していません。鉄道や電信などの利権問題についても、また渡韓者取締のことも、三国干渉以前からの井上の主張から変っていません。井上の主張には根本的な方針転換があった、と考えられるべきではないように思います。

朝鮮への影響力や利権の確保などについては、ロシアなどとの競合を前提とせざるを得ない状況に変化していました。競合にある程度勝てるという目算の立つ対策、具体的には今まで以上の利益誘導策が必要とされるのは当然です。従って、「公債の事」が意見書の冒頭に置かれたことも当然であったと思います。

とくに、資金援助の条件をより朝鮮側に有利に変えるのは、その変化への対応策として、当然かつ妥当であると思います。そうでなければ、新状況では朝鮮側から相手にされず、影響力維持には何も役立ちません。第一案で一部を「王室に与え」るとしている点が「懐柔策」、ということになるかもしれませんが、現に朝鮮王室がロシアに接近している状況でした。ロシアとの競合に負けないためには、何がしかの利益誘導策が必須であったと思われます。

「過干渉策」から「懐柔策」に一大転換がなされたのではなく、三国干渉で生じた大きな状況変化に対応して、国際的な競合関係を前提に、利益誘導を含めた影響力維持を目的とする方策が提案された、と整理するのが妥当のように思います。

井上の「7月1日」意見書は、大失敗した陸奥外交への弥縫策の提案

そもそも意見書の背景や前提となった状況認識や課題設定について、確認する必要があるように思います。

この「7月1日意見書」自体には、具体策だけが記され、何の目的での意見書であったのかには触れられていません。この「意見書」の冒頭に、「本官在任中の事情大要は、過ぐる22日、内閣において陳述致し候」と書かれていますので、意見書の前提となった状況認識と課題設定については、6月22日に口頭で表明されたものと推測されます。

客観情勢としては、三国干渉後は、従来の日本政府の課題、すなわち日本主導の内政改革と従属国化の課題の双方とも、達成困難になりました。そこで日本政府は、6月4日の閣議で、「成るべく干渉をやめ、朝鮮を自立せしむるの方針をとるべし、故に他動の方針をとるべきことに決す」と決議しました。

干渉をやめて自立させる、他動の方針をとる、といっても、この時点での対応策の方向性として、下記の二つがありえました。

● 日本の影響力維持を優先する方針 = 列強との小対立はやむを得ない
干渉はやめるが、朝鮮に対する日本の影響力は何とか維持するよう努力する、列強との利害衝突を完全に避けることはできないが、小さな対立なら仕方ない

● 日本の影響力縮小を許容する方針 = 列強との対立を避けることを優先
とにかく徹底的に列強との利害衝突を避けることを優先する、すると朝鮮への日本の影響力の維持範囲は縮小するであろうが、止むを得ない

6月4日閣議の「他動の方針」では、日本はどこまで影響力を残したいのか、どこまで列強との利害衝突を回避したいのかが、あいまいであったように思います。したがって、井上の「7月1日意見書」は、その点に対する意見だったと考えるのが妥当のように思います。

この意見書の中で井上が言いたかった一番重要なことは、「日本が影響力をある程度確保し続けたいなら、追加の資金援助が必要である、それだけ資金援助をしても、鉄道・電信で一方的な利権確保は困難である、一方、半年前のように日本政府が資金援助に前向きにならないなら、影響力や利権の確保はますます困難になる、そういう状況であると認識して、政府方針を決定してほしい」、ということであったように思いますが、いかがでしょうか。

井上は、何も対策を行わなければ日本の影響力は縮小していくのみであり、利権は失われていく状況であること、列強との大きな利害衝突は回避しつつも日本の影響力をある程度維持することは可能であること、ただしその手段として資金恵与が必要不可欠であると考えられること、を明確にしたと言って良いように思います。

またこの意見書は、日本政府側の失策(朝鮮への資金供与の遅延および不必要な融資条件設定、三国干渉を招いた清国への法外な領土割譲要求)によって生じた、期待からの著しい逸脱・乖離をある程度立て直すための提案、言い換えれば、陸奥外交の大きな失敗への弥縫策の提案であった、とみることもできるように思います。

井上の意見書は、政府方針を変えさせた

秦郁彦「閔妃殺害事件の再考察」の中に引用されている、7月10日の東京朝日新聞は、「井上公使は帰朝後切に朝鮮放棄すべからざるの議論を主張し、ために一時放任主義に傾きし閣議を翻して…今や悟るところありなど、人に向かって打ち明かすほどなれば、再渡韓の上の政策大一変して…」というのは、井上の帰朝・意見書により、政府方針は列強衝突回避を優先する「影響力縮小許容方針」が強かったところを、「影響力維持優先方針」にはっきりと切り替わった、ということを示しているように思われます。

なお公使職について、自身が継続してもよいかのような言葉は使われていますが、それは本意ではなく、あくまで退任前提で、後任者が着任するまで、さらには着任後の後任者がやりやすくなるように、基本方針と具体策を決めておくのが、この意見書の狙いであったように思いますが、いかがでしょうか。

「過干渉策」から「懐柔策」に一大転換がなされたのではなく、三国干渉で生じた大きな状況変化に対応して、国際的な競合関係を前提に、利益誘導を含めた影響力維持を目的とする方策が提案された、と整理するのが妥当のように思います。

日本政府も、7月2日に「300万円恵与 = 影響力維持方針」を閣議決定

この意見書に対し、日本政府の回答はどうなったのでしょうか。それによって、日本政府の課題設定はどう決定されたのかが判ります。金文子 『朝鮮王妃殺害と日本人』は、次のように書いています。

7月11日西園寺外相の回訓

この井上案は、7月2日の閣議で検討された。その結果、西園寺外務大臣は、7月11日付で全権公使井上馨あてに回答と訓令を与えた。回訓内容のうち、「公債の事」に関しては、次のように書かれている。
「現に貸与する所の300万円の償還期限を15年もしくは20年に展延し、しかして別に大約300万円を朝鮮政府に恵与し、これをもって永久紀念と為るべき事業をおこさしむる事、ただし右金円恵与の件は最近に開かれるべき議会に提出してその協賛を求ることに廟議決定致し候。」
井上案のうち、第二案が閣議で決定されたわけである。後に、この寄付金の話が日本政府によって反古にされたとき、井上が、外務大臣の訓令によってすでに朝鮮国王と政府に話してあるのに迷惑千万であると憤った根拠となったものである。

日本政府としても、井上提案の「影響力維持方針」を取ることに閣議決定したと思われます。ただし、具体策は、井上提案の第一案と第二案の折衷、と言えるものでした。なお、金文子の同書は、「鉄道電信の事」についても、西園寺外相はほぼ井上に一任の意向を示したと記しています。

なお、突然、西園寺外相という名前に変わっていますが、陸奥宗光が「本年〔明治28・1895年〕6月以来養痾〔ようあ=この場合は結核の治療〕のため暇を賜り、大磯にあり」(『蹇蹇録』)という状況になったため、西園寺公望が外務大臣臨時代理になったものです。

 

後任公使・三浦梧楼の人選

井上馨の後任者に、どうして三浦梧楼が選ばれたのか

井上の日本滞在中の討議課題の一つ、対朝鮮基本方針の策定については、上記の通りおおむね井上提案通りの「影響力維持方針」が閣議決定されました。

もう一つの討議課題であった後任者についても、すでに確認しました通り、7月11日までに、三浦梧楼に内定していたようです。すなわち、この時点では、日本政府は「影響力維持方針」のもとに三浦梧楼に内定した、と言って良いように思われます。以下は、三浦梧楼の内定について、秦郁彦 「閔妃殺害事件の再考察」からの要約です。

三浦梧郎を推薦したのは、井上のほか、谷干城

最初に、しかも強く三浦を推したのが井上馨であったことは、関係者の記録や回想が一致しているところで、早い段階から新聞の話題にもなっている。例えば7月14日付の東京朝日新聞。
ところで井上が推し、陸奥が反対し、閣僚の意見も分れた状況下で伊藤があえて三浦の起用に踏み切ったのは、谷干城の献言ではなかったかと思われるふしがある。「朝鮮に対する明々白々の干渉」を避け、「無体の浪人輩」や「剛欲の居留民を訓戒」するには、三浦のように「人品の高、志操の潔」な人に「無用の用をなさしめる」のが「邦家のため願わしく」というのが推薦の理由とされていた。

すでに「2 戦争前の日清朝 - 2a3 日本③ 谷干城の意見」のページで確認しました通り、谷干城や三浦梧楼らは、専守防衛の立場から経済的軍備論を主張して、軍備拡張に反対して現役を追われた、反山県・反主流派の将軍たちです。谷干城は、とりわけその主張が明確で、対外的な武力行使には慎重な姿勢で、日清戦争にも反対論を主張しましたし、日清講和でも遼東半島割譲の要求を批判した人物でした。

他方、井上馨も、「2 戦争前の日清朝 - 2c2 朝鮮② 開国~甲申事変」「同 2c4 朝鮮④ 東学乱まで」のページで確認しました通り、もともと対外的には穏健派であり、伊藤と共に日清開戦までは対清協調論者でした。

伊藤・井上とも、後任公使の人選にあたっては、三国干渉後の状況変化に対応するため、対朝鮮方針の大転換を行ったことを強く意識していたのではないでしょうか。その新方針に合致するように、後任公使の要件を、対外積極論者や日本独善主義者ではない(= 陸奥宗光のような人物ではない)、国際協調を尊重する人物、と考えたのではないでしょうか。そして、具体的な人選では、敢えて、反藩閥で政府と対立することが多かったものの、対外拡張論を批判してきた谷干城の一派から人選することによって、旧来の陸奥路線からの決別を明確にしようとしたのではないか、一方、陸奥はそれがわかっているので三浦に反対したのではないか、と推定できるように思いますが、いかがでしょうか。

三浦梧楼は、どういう人物・経歴だったのか?

三浦梧楼について、角田房子 『閔妃暗殺』 は、「四将上奏事件」中心人物の一人で「剛毅果断の人物」と紹介し、金文子の 『朝鮮王妃殺害と日本人』 は「武断派」としていますが、どちらもそれだけでは誤解を招きそうな記述のように思われます。秦郁彦の「閔妃殺害事件の再考察」には、「山県らの陸軍主流に対抗する反主流の筆頭格」であることも説明されていて、バランスがとれています。

三浦梧楼は、対外進出面で剛毅果断であったり武断派であったことはありません。逆に防衛優先論者であり、日清開戦の5年前にはそれを具体的に展開した『兵備論』を書いて頒布しています(三浦の『兵備論』の内容については、「2 戦争前の日清朝 - 2a3 日本③ 谷干城の意見」のページで要約しました)。また、甲申事変後、薩摩派の軍人たちが征清論を声高に主張した時、三浦が、廟議において決定したことには服従するのが官吏の義務である、といって主戦主義を挫けさせました(『観樹将軍回顧録』)。

ただし、反山県・反主流派であったために、対立する見解を取って防衛優先論者となった、というところもあったのかもしれません。『回顧録』 からは、甲申事変時も廟議決定前までは、三浦自身、清仏戦争を仕掛けていたフランスとの同盟にやぶさかではなかったようにも読めます。しかし、日清戦争時の軍主流とは異なり、明らかな対外拡張論者でなかったことは、間違いないように思われます。

北海道開拓使官有物払下事件に関して「四将上奏事件」を起こしたり、師団長時代には「吾輩の認めて不利不法と思ったことは、皆片端から改革してしまった」り、大隈重信の条約改正の時には、学習院長の立場を利用して、天皇に条約改正反対の上奏をしたり、などと、他の人なら躊躇するかもしれないところを断固実行してしまった、という面は、確かに「剛毅果断」と言えないこともありません。

この任命の直前に、井上が内務大臣として管轄責任があった、曹洞宗内の永平寺派と総持寺派との紛擾問題について、三浦が中に入って両派を和解させたため、井上から感謝された、ということがありました(『観樹将軍回顧録』・『世外井上公伝』)。三浦の名が候補として浮かんだことに、この事件が影響していた可能性は高いように思われます。

結果論ですが、三浦梧楼がその後、現に閔妃殺害事件を起こしてしまったという事実からすれば、谷干城と三浦梧楼との間にあった隣国との外交についての微妙な考え方の差、そして三浦自身の、他の人なら躊躇するかもしれないところを断固実行してしまう性格が現れた、と言えるのかもしれません。

 

井上の京城帰着から帰国まで

7月6日 朝鮮の政変、高宗・閔妃は実権を回復

井上馨の京城出発直前にも朝鮮では政変があり、内閣が交替しましたが、伊藤・陸奥との協議のため日本に一時帰国している間に、もう一度政変が発生してしまいました。以下は、角田房子 『閔妃暗殺』 からの要約です。

井上不在となったソウルで政変、朴泳孝の追放

井上の出発を境に、閔妃の身辺は俄かに活気、閔妃は閔氏一族の数人を中央に呼び戻した。一時は勢力を誇った親日派は肩身のせまい立場、それにかわって貞洞派と呼ばれる親露、親欧米派の時代に。
7月王宮警護部隊を、米国軍人が訓練した侍衛隊から日本軍人が訓練した訓練隊に交替させる朴泳孝の提案を国王が拒否。朴泳孝は失脚し日本に亡命、新内閣。
7月9日、国王は閣議で「今後は朕が親政を行う」と決意表明。13日、日本の内政改革に基づく新制度、新法令で矛盾のあるものは再検討を行う旨の詔勅。王の強気の裏面には、ロシアと米国の日本非難。

この7月6日の朴泳孝追放の政変について、木村幹 『高宗・閔妃』 は、朴泳孝が日本以外の外国公使館と王宮との連絡を遮断しようとする思惑から、王宮警備を、米国人士官により教育された親衛隊から、日本士官により訓練された訓錬隊に交代させようとしたことに、国王が甲申事変を思い起こして強い非難を向け、朴泳孝に対し反逆罪の名目で逮捕命令が出された、高宗と閔妃は大権修復の目的を十中八九実現した、と記しています。

7月20日 井上の京城帰着、資金供与表明以外に打てる手なし

かくして、井上が京城に戻ったのは、朴泳孝追放、国王・閔妃の実権回復の後となりました。日本の影響力低下がそこまで進んでいたわけです。その状況で井上がどういう行動を行ったのか、以下は金文子『朝鮮王妃殺害と日本人』からの要約です。

井上は国王・王妃にたびたび内謁見、300万円恵与を表明

7月20日にソウルに帰任した井上公使は、国王と王妃の「真意を探り得んこと」に努め、「帝国政府誠意の所在を縷々陳述」するために、たびたび内謁見(臣下を排除した直接面談、国王の背後には扉を隔てて王妃)を求め、しかも「常に謁見の時は対話5時間以上に及」んだ。
ソウルに帰任して2週間あまりたち、井上は8月6日付で外務大臣に長文の報告書、その中で、「懐柔策」の最大の切り札、寄付金の話を切り出したことを報告。「両陛下は…天皇陛下ならびに貴政府はかくまで我国の事を思わるるやと、且つ喜悦し且つ安心せられたる様子にて、一回は一回よりも打解けられ、これまで秘し置かれたる俄国〔ロシア〕との関係も追々相漏らされ、将来本官の陳奏する事は必ず確守すべしと明言せらるるに立ち至り候」。
このように井上は寄付金の話を持出すことによって、国王と王妃を完全に掌握したと報告した後、先日の「七・一意見書」には200万円ないし300万円と書いたが、実際300万円なければ足りず、謁見の際に300万円と内密に漏らしたので、必ず300万円と決めてもらいたいと要求。また、寄付の名目が当を得なければロシアをはじめ他の各国は必ず疑義をはさみ、面白くない外交上の問題も生じる恐れがあるので、寄付の名目を十分詮議してもらいたいとして、別紙にその案文を添付。

国王がすでに「親政」宣言を行った後であり、また国王夫妻がロシア公使夫妻と緊密であるがゆえにロシアからの干渉を招いていているのが明白でしたから、まずは、とにかく国王・王妃と話が出来るようにする必要のある状況であったことは、間違いないように思われます。

井上が内謁見を求めれば、国王・王妃も一度は認めざるを得なかったと思いますが、それが度々で、しかも常に対話5時間以上に及ぶことができた、というのは、資金恵与の表明があったればこそであり、それがなければ長時間多数回の内謁見はそもそもありえなかったのではなかろうか、と思われます。

ロシアは、国王・王妃に「君主専制を保障」することを明確にしたことで国王・王妃から信頼を得た(木村幹 『高宗・閔妃』)のですが、経済的支援については特段の表明を行っていませんでした。朝鮮国王・王妃をめぐるロシアとの競合関係で、ロシア側に大きく振れた振り子を日本側に取り戻すには、資金恵与が最も効果的な方策である、とみた井上の見解は、正しかったように思われます。とにかく根本の問題である財政危機をなんとかしない限り、王権の安定はありえない、というのが井上の意見であったろうと推定します。

日本からの資金恵与は、朝鮮内閣の首班指名にも影響

角田房子『閔妃暗殺』は、王宮の衛兵交替問題が原因で朴定陽が辞職した後の後継者決定が難航、日露間では王妃を抱き込んだロシアの圧倒的優勢が続いていたが、井上公使の帰任以来また風向きが変わった、300万円が日本から流れ込んでくるとなれば、財政的には常に“火の車”の朝鮮政府の態度は変わらざるを得ない、として、日本の資金恵与が朝鮮内閣の首班指名にも影響を与えたとしています。困難な状況で引き受け手がいない中、8月26日、金弘集が止むを得ず引き受けた、との事です。

日清戦争開戦以来、朝鮮の内閣はいろいろと変動してきましたが、三国干渉後の変動がもっとも頻繁でした。ここで、この時期の朝鮮の内閣の変動を再確認しておきたいと思います。柳永益 『日清戦争期の韓国改革運動-甲午更張運動』 によります。

1894年7月~1896年2月の朝鮮の内閣の変動

第1期、1894.7.27~12.17 (約5か月)、金弘集・李埈鎔内閣、背後勢力-大院君・大鳥公使。
第2期、12.17~1895.5.21 (約5か月)、金弘集・朴泳孝内閣、井上公使・日本顧問官。
第3期、5.31~7.6 (約2か月)、朴定陽・朴泳孝内閣、日本顧問官。
第4期、7.6~8.23 (約2か月)、朴定陽・兪吉濬内閣、高宗・閔妃・宮廷派。
第5期、8.24~10.8 (約2か月)、金弘集・朴定陽内閣、高宗・閔妃・宮廷派。
第6期、10.8~1896.2.11 (約4か月)、金弘集・兪吉濬内閣、高宗・小村公使。

短ければ2か月以内、長くても5ヶ月ほどで、内閣の主要メンバーに入れ替わりがあったことが分かります。

甲午派は、第1期には大院君派と提携して執権。次の第2期には甲申派と連立内閣を構成して共同で改革を推進した。
第3期には甲申派との間に軋轢が起こり、金弘集・趙羲淵など甲午派の一部人士が内閣から退いたが、他のメンバーは引き続き内閣に残留して朴泳孝が主導した改革運動に参加した。
第4・第5期には貞洞派・宮廷派が合流して勢力を伸ばしたために甲午派は危機を迎えていた。しかし第6期に宮廷派が失脚すると甲午派は再び勢いを得て執権し、改革運動を再開することになった。

すなわち、三国干渉後もしばらくは、日本顧問官が背後勢力として支援した内閣が続いていましたが、7月6日を境として第4期以降、背後勢力は高宗・閔妃・宮廷派に変わっていました。

井上公使が日本から帰任した時には、こうしてさらに大きな状況変化があった後のことであり、日本の影響力を維持するために打てる手は、三国干渉以前とは全く異なるものとならざるを得なかった、と言えるように思います。

日本政府から、資金恵与表明の行動にストップ

帰任した井上が資金恵与を表明したことによって、国王・王妃とのコミュニケ―ションもある程度取れるようになり、内閣首班の指名にも影響を与えました。すなわち、資金恵与は、表明しただけで一定の効果を発揮しました。さらに、それが実行されるなら確実に効果を発揮しそうであったように思います。

ところが、日本政府から突然、資金恵与の順調な進展は困難になりそうだとの見通しの連絡が来ます。以下は金文子 『朝鮮王妃殺害と日本人』 からの要約です。

日本政府は、8月23日までに、資金供与案表明停止を決めた

三浦が東京を出立してソウルに向かった8月23日には、杉村の回想を信じるならば、日本政府は寄付金の提供を取りやめ、井上の懐柔策の梯子を外していた。杉村は左記の通り書いている。
「三浦公使は着任するや、内閣員の伝言として井上公使に向い、寄付金の事は到底議会を通過する見込みなければ、これを口に出すべからずとの注意を与えたれば、井上公使も内心当惑したるも、今更撤回するを得ず、やむをえず「朝鮮政府は日本の忠告に従い改革成功の見込ある場合に限りこれを寄贈すべし」との一の条件を加えたり。これにおいて両陛下は頓に失望せられ、今更夢の醒めたる如く、交情やや冷却せり」

9月5日付西園寺外相からの電報、臨時議会は召集しないので決定できない

三浦梧楼のソウル入りから井上馨のソウル出立までの17日間に、東京外務省の西園寺外務大臣とソウル日本公使館の井上・三浦間に寄付金をめぐる興味深い電信が往来。
9月5日、西園寺外相から三浦公使あて電信。「臨時議会を招集せざる事に一決したれば、この上は本年の通常議会を待つの外なし」

金文子は「井上の懐柔策」と書いていますが、すでに見たようにそうではなく、閣議決定された、日本政府としての「影響力維持方針」の根幹方策としての資金恵与策のことです。

また、「寄付金の提供を取りやめ」と書いていますが、電文の表現を素直に読むと、臨時議会が行われなくなったことが確定して、資金恵与の実行のタイミングが大幅に遅延することが明確になっただけで、政府が資金恵与そのものを中止する決定を行ったとか、「影響力維持方針」そのものを放棄した、という解釈はできないように思います。

ただし、ここで、資金恵与の表明と、資金恵与実施を前提にした国王・閔妃と朝鮮政府との交渉にストップがかけられたことは、在朝鮮公使館側では大きな問題を生じます。一旦は回復しかけた日本の影響力が再び縮小していくことを受容せざるをえなくなり、日本の利権を維持するための外交折衝を行う方策がなくなることを意味するからです。要は、現場として、日本政府の方針達成に向けた動きの取りようが、なくなってしまうのです。井上・三浦から西園寺外相宛に、それでは困る、という電信が繰り返されたのは当然のことであったと思います。

そういう状況だったのですから、問題の責任は、井上側にではなく西園寺外相側にあり、とにかく資金恵与を前提にした交渉にストップをかけただけで、それに代わる、少なくとも日本の影響力維持に少しでも役立ちそうな方策を何も指示してこなかったところに、混乱を招く原因の根本があったように思います。

資金恵与はなぜ棚上げされたのか

日本政府はなぜ資金恵与を棚上げしたのでしょうか。金文子 『朝鮮王妃殺害と日本人』 は、日本政府が「影響力維持方針」自体を転換したと見て、「日本政府は、寄付金の提供がさらなるロシアの介入を招きかねない、と判断したのではないだろうか」としています。

しかし、日本政府が「影響力維持方針」を選択した時点で、ロシアとの利害衝突が少しは生じることは想定内であったはずです。また日本政府の選択肢として、ロシアからの申し入れ通りに、朝鮮については今後日露両国協議することに合意することで、影響力を確保する手も現にあったと思います。また、日露協議も資金供与もどちらも行わない、というなら、影響力や利権の縮小を容認する以外に手がなくなりますが、それこそ、軍を含む日本政府内の合意形成が重要で、そのための討議が政府関係者間で行われていたであろうと思います。そうした点から、このロシア介入説は、ちょっと弱いように思われます。

秦郁彦 「閔妃殺害事件の再考察」は、「政治的攻撃を強めつつある野党対策に腐心していた伊藤内閣は、松方蔵相が辞任したこともあり、韓国に対する経済援助が承認される見込みは薄いと判断、8月末に予定した臨時議会の召集を断念した」としています。

しかし、臨時議会の招集断念の理由が、「韓国に対する経済援助」という特定項目であったとはとても考えられません。また、臨時議会が予定通り開催されていたとして、朝鮮への資金恵与案に野党側が大反対をしただろうとも思えません。

臨時議会招集断念の理由は、日清戦後経営に関わる増税問題

資金恵与棚上げについては、ロシアの介入ではなく、日本国内事情の方が重大であったように思われます。以下は、1895年8月に日本国内で発生した政治危機についての、原田敬一 『日清・日露戦争』 からの要約です。

日清戦後経営のための松方「財政意見書」

1895(明治28)年8月、松方正義蔵相は、「財政意見書」を提出、日清戦争後の国家財政についてのプランを示した。計画は「明治29年以後において臨時大計画に属する歳出の増加は、第一陸軍拡張、第二海軍拡張、第三製鋼所、第四鉄道及び電話拡張これなり」として陸海軍の軍備拡張を第一・第二に置くものだった。

増税策で意見が分かれ、松方蔵相は辞任、臨時議会は開かれず

軍拡を第一とし、足場を産業育成と植民地経営におく、そのために国家財政を大動員する、という内容がいわゆる「戦後経営」と呼ばれるものの体系である。ただ松方構想は、実施財源に増税案を含み、そのための臨時議会召集も提案されていた。伊藤首相はそのまま受け入れることはできず、対立した松方蔵相は辞任し、後任に伊藤系の渡辺国武が復活した。伊藤首相は「戦後経営」実施を見通して、3月に蔵相を財政畑の実力者松方に替えていたので、松方辞任は政治的危機でもあった。

すなわち、臨時議会召集断念の理由は、「日清戦後経営」の全体計画に関わる増税案について、野党側からの強い反対が予想されていたことにあったことがわかります。朝鮮への資金恵与という特定項目が問題であったわけではありませんでした。

斎藤聖二 『日清戦争の軍事戦略』 によれば、松方は、軍拡を含め拡大する歳出に見合った財源確保のため、翌年度からの増税のための法案を成立させるべく、早々の臨時議会の開催が必要との意見であった、また、陸軍軍拡案の閣議決定後に議会を招集するという内閣合意もあった、しかし陸軍部内でまとまった軍拡案が大蔵省審議を経て閣議決定し、その後最終予算案を作るという作業手順があり、松方の主張する時期に臨時議会を開催することは不可能であった、さらに松方は一時借入金や賠償金の経常費への流用に絶対反対であったが、伊藤はそうではないという意見の相違もあった、「歳出予算案の確定を優先した伊藤首相と、歳入の確保を優先しようとした松方蔵相の財政運営上の対立が、松方の辞任に帰結した」ということです。

朝鮮への資金恵与が300万円は、小さくはありませんが、それによって得られる影響力維持の効果を考えれば、決して過大な金額でもなく、井上は、この程度の金額であれば野党側からも賛成が得られるものと思っていたのではないでしょうか。

問題は、閣内で首相と蔵相の対立があり、また現に予算案の策定でも日程上の問題があったことでした。その状況では、臨時議会の開催は無理だったでしょう。松方蔵相の辞任は8月27日でしたが、臨時議会召集が困難という事態は、8月23日までに明確化していたのではないか、と思われます。

増税案をめぐる松方辞任のあおりを受けて、結果的に棚上げされた朝鮮への資金恵与

すなわち、日本政府は、朝鮮での影響力維持方針を放棄するか否かを討議した結果、方針の放棄を決定した、というのではなかったように思われます。現実に起こったことは、松方蔵相の辞任・臨時議会招集の見送りに伴い、行きがかり上、資金恵与案についても当面の棚上げを余儀なくされてしまった、ということでした。日本政府は影響力維持方針を放棄したわけではなく、しかし影響力維持のために効果を発揮しそうな資金恵与に代わる代案も思いつけず、在朝鮮公使館側はその状態で放り出されてしまった、ということではなかったか、と思われます。

また、日本政府が方針そのものを変更したわけではなかったがゆえに、井上は、資金恵与表明のストップをかけられてからも、西園寺外相にしつこく言い返したのではないか、という気がします。

第九議会は、1895年12月28日から96年3月28日の期間に開催されています。95年9月はじめの時点からすると、結果論ですが、議会での可決を半年間近くも待つ必要があった、ということになります。ところが、朝鮮側では、日本の影響力の低下が日々進行しているという状況で、その間は手の打ちようがなかったわけです。

なお、このときの松方辞任は、朝鮮問題にとどまらず、その後の日本が、軍備増強を健全財政の範囲内で実施するか、赤字財政となっても軍拡を行うのかの、大きな分岐点となりました。その点については、次章「7 日清戦争の結果」の中で確認します。

 

 

 

こうして、三国干渉後は朝鮮に関しても列強からの干渉が開始され、その結果朝鮮への日本の影響力がそがれ、日本主導での内政改革推進と従属国化の方針を放棄せざるを得なくなったという状況変化の中で、井上は公使退任を決断する一方、一時帰国して伊藤らと協議し、影響力維持方針による資金恵与策が決定されました。

ところが、日清戦後経営に関して増税案を主張した松方蔵相の辞任もあって臨時議会の開催が困難となり、朝鮮への資金恵与策への議会の協賛を得ることが出来なくなってしまった結果、朝鮮問題については、井上にとっても日本と朝鮮にとっても、不都合な状況に至ってしましました。

そうした、影響力維持のために手も足も出せない、影響力縮小を容認せざるをえない状況で、三浦梧楼が井上馨の後任公使として着任します。次は、その三浦梧楼の着任後の状況です。