日清戦争で戦場となった地域
日清戦争で
戦場となった地域
(黄は陸戦、赤は海戦) 
 
カイゼン視点から見る
日清戦争
The Sino-Japanese War of 1894-95 from Kaizen Aspect

日清戦争の戦史 中盤戦 B

海城・蓋平の攻防
厳冬期にも侵攻を継続

上 日本陸軍の旅順西方砲撃 下 日本海軍の速射砲砲撃
上 日本陸軍の
旅順西方砲撃
下 日本海軍の速射砲砲撃
(日清戦争写真帳より)
 
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戦争の経過
序盤戦 @ 豊島沖海戦
序盤戦A 成歓の戦い
序盤戦B 平壌の戦い
序盤戦C 黄海海戦
中盤戦@ 九連城など
中盤戦A-1 金州・旅順
中盤戦A-2 旅順虐殺事件
中盤戦B 海城・蓋平
中盤戦C 威海衛
中盤戦D 遼河平原制圧
終盤戦@ 澎湖島
終盤戦A 直隷決戦準備
終盤戦B 台湾征服戦
総括 戦費と戦死者

講和と三国干渉
戦中戦後の朝鮮
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カイゼン視点から見る 第一次世界大戦

鴨緑江を越えた第一軍は、1894年11月半ばまでに、奉天街道方面では鳳凰城まで、遼東半島の海岸沿いには大孤山さらには岫厳まで占領しました。11月初めまでの第一軍の行動は、第二軍の行動を助けるため「前面の敵の牽制」という企図どおりで、合理的なものであり、まさしく牽制の効果を発揮しました。

しかし、第一軍は、そこまで順調に遂行できてしまうと、「牽制」という役割からはみ出た作戦行動を遼東半島北部で進め、さらには遼河平原まで進出し、旅順口攻略を終えた第二軍にもそれに協力させるようになります。以下に、この経過を再確認していきます。

冬営前の攻勢作戦問題

山県第一軍司令官は、とにかく軍を動かしたがっていて、必ずしも必要とは思われない作戦を、大本営に提案していたようです。まずは、その経緯から。

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11月初め、山県第一軍司令官は三つの案、大本営はどれも拒否

10月31日以降11月5日までの間に、「氷結期前なお約30の日子あり」と判断し作戦討議。山県第一軍司令官は、@ 第二軍と合流し山海関付近に上陸して「真の目的点攻撃の根拠地を占む」、A 旅順半島まで進出して第二軍と合流、「結氷せざる海岸」で冬営、B「直ちに奉天府を攻撃」の三案を建策。

これに対し大本営は11月9日、3案とも拒否。理由は、第@策は、第二軍の旅順口占領および威海衛軍港の北洋水師殲滅未達成状況では、渤海湾北岸の調査不可、第A策は「作戦大方針」と矛盾、また旅順半島に第一・第二両軍を同時収容できる宿舎量なし、第B策は輸送力不足で成算なし。

第一軍司令部(九連城)は、現在の大孤山−湯山城−鳳凰城ラインを防守して冬営せよ、だと解釈、12日冬営に関する軍命令、第二軍は金州と大連湾を占領、第一軍の第三、第五師団は指定地で冬営、第五師団は東北方面の懐仁・遼陽方面を警戒、第三師団は、西北方面の海城・蓋平方面を警戒。

山県は海城攻略を決意

山県第一軍司令官は第@策の採用にこだわり、大本営とやり取りするも、大本営は意見を変えず、山県司令官も11月21日に諦める。しかし、山県司令官は25日になって、このころ清国軍が析木城・海城・蓋平付近に兵力を増加しているらしいことを知り、第五師団を九連城一帯の地域にとどめ、第三師団を進めて海城を攻略しようと決意。この決心は当時大本営の趣旨には少し反する感がなくもなかったので、実行にはいささか躊躇。山県司令官は12月1日、海城攻撃を第三師団長に命令。

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山県・大本営間の冬季攻勢論争は、内容の詰めが不足

11月初めに、第一軍山県司令官と大本営との間で行われた作戦討議ですが、明確な共通認識を確立すべき非常に重要なテーマでありながら、詰めが不十分な論争になってしまったように思われます。

まずは、この地ではいつまで作戦行動ができるのか、の認識が十分に討議されたように思われません。日本よりはるかに寒さが厳しい現地について、いつから「氷結期」とみなすべきか、データを交えた議論を行ったのかどうか。

「中盤戦@ 九連城など」で見たように、そもそも補給体制の問題が解消したのは11月中旬でした。さらに問題として、奉天街道方面を進んだ第五師団は、11月末の戦闘でも多数の凍傷患者を出しています。補給上も気候上も問題なく軍事行動ができた期間などなかった、というのが現実であり、山県の提案を大本営が却下したのは正しかったのですが、却下する理由について明確に詰めず共通認識化しなかったところに、課題を生じてしまったように思われます。

大本営の、そもそもの「前面の敵の牽制」というあいまいな役割の指示、あるいは提案を却下するだけで具体的な詰めを欠いた討議、こういった指示や結論の不明瞭さは、明らかにカイゼンされるべき課題であったと思います。これもひょっとしたら、現代の一部の企業組織にまで引き継がれている、カイゼンされるべき日本的体質の一つかもしれません。

山県は海城進出を命令、第三師団は厳冬期に海城へ

山県提案から約3週間、11月21日に第二軍は旅順口を陥落させます。すると山県は、ついに第三師団に海城攻撃を命じました。

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山県の作戦、冬営前の攻勢継続 − 海城への進出

11月25日、第二軍の旅順港攻略の報を聞くと、山県は冬季にもかかわらず、前進作戦を計画。第三師団(主力は岫厳)の前方には、海城、蓋平など清国軍が集結している重要都市。海城を攻撃しなければ、将来の直隷決戦に妨害となる、という判断。

12月11日 析木城、12月13日 海城を占領、厳冬期作戦の無理

12月1日、第一軍は第三師団に海城攻略を命じる。桂第三師団長は、まず析木城攻撃の計画、師団主力は12月10日岫厳を出発、50キ北の析木城をめざす。11日午前11時過ぎ析木手前10キロで清国軍と遭遇、午後には撃退。12日午前8時20分、最初の部隊が析木城入城、清軍はもぬけの殻。

12月13日に全力をあげて海城攻撃。9時20分海城東南1キロの蕎麦山攻撃、10時50分蕎麦山占領。蕎麦山上が動揺すると他陣地の清軍も退却。海城の城内に突入、11時10分、清軍の歩兵・騎兵あわてふためいて、大部分は遼陽方面に、一部は牛荘城方面に退却。第一軍司令官に海城占領の広告を送ったのは午後1時。この日の戦闘、下士兵士4名負傷。

第三師団が岫厳を出発したとき、雪はまだそれほど積もっていなかったが、路面はすでに凍結、人馬の歩行困難、滑って転ぶものがひっきりなし。河はやっと氷が張り始め、打ち破って歩いて渡った。一部の士卒にはまだ冬服が届いていなかった。第三師団戦闘詳報、「氷片を足の裏に刺して、足指に凍傷をつくらなかった者はいない。特に馬は滑りやすく、何度も転倒したから、後脚間の筋肉を裂いて歩行不能となり、途中で棄てなければならなくなった馬も少なくなかった」

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12月に入れば、現在の北京や大連でも平均気温は氷点下です。今より寒かったこの当時のこと、しかも岫厳・析木城から海城までの道は山の中でした。清国軍がすぐに逃げてくれたからよかったものの、頑強に抵抗していたらどうなっていたことか。

山県は、とにかく兵を動かすことにこだわりすぎて、無理な作戦を行ったのではないでしょうか。ある作戦構想に基づいて兵を動かそうとしたのではなく、兵を動かすこと自体が目的となって作戦構想を考えるという、本末転倒の発想を行っていたように思われます。

清国からの講和談判申入れと、威海衛・台湾攻略の新作戦

第二軍による旅順口占領後、マクロ的な戦略に関しては、議論はどうなっていたでしょうか。

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清国の講和談判申し入れ

旅順口が陥落した11月22日になると、清国の講和談判申し入れが米国経由で初めて行われた。陸奥外相は、清国にとって最も廉価なる条件で、日本の勝ち戦に見合った講和条件でないと判断し、27日拒絶の返答。陸奥や伊藤首相は、列強の動きを見ながら、講和に踏み切るにはより大きな戦勝が必要だと考えていた。

新戦略の討議、威海衛と台湾の攻略

伊藤首相は、1,800字の意見書「威海衛を衝き台湾を略すべき方策」を12月4日大本営に提出。冬季の直隷決戦は、天候から至難の業であり、かつ清国政府の土崩瓦解を引き起こして、列強の合同干渉を招くことになる、それは避けねばならない、と状況認識。そこから軍を二手に分け、一方は渤海湾を渡って「威海衛を屠るべし」、他の一方は「同時に台湾を略取すべし」と、威海衛、台湾攻略戦が提案される。前者は北洋水師の殲滅、後者は「和平条約の一要件」として「割譲せしむるの根抵」とするためのもの。

12月14日、大本営は威海衛作戦実施を最終決定、冬季作戦の実行は断念。大本営は直隷決戦のために冬季温存計画を持ち、海城から析木への帰還を期待、しかし山県監軍などの強い海城確保の意見に押し切られる。

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米国経由の講和談判申し入れを拒絶したのが妥当であったかどうかは別にして、すでに10月にイギリスからの調停申入れを断った経緯からすれば、清国から領土を割譲させるという目的意識は一貫しています。その目的からすれば、伊藤首相の提案した威海衛・台湾攻略戦は、マクロな戦術として、その時点の状況に最も適合したものであったと思います。伊藤と山県の、マクロ面での発想力の差を感じます。

山県が海城の確保にこだわったというのは、せいぜい旅団長レベルの発想で、マクロな全体戦略にとってはむしろ有害であったのではないでしょうか。軍司令官というのは、マクロレベルで戦略を考えて軍全体を動かす立場のように思うのですが、そうだとすれば、山県は、軍政では大物であっても、実戦を指揮する軍司令官職には不適合であった、といえるように思います。

山県有朋の解任

これだけズレを生じた山県は、ついに解任されます。なぜ解任されたか、その理由には論争があるようです。

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12月18日 山県有朋は第一軍司令官から解任

鴨緑江の戦闘後しばらくして病気になっていた第一軍司令官山県有朋は、12月18日解任される。その伝達には、侍従武官が奉勅して11月29日に広島を出発、12月8日に義州で山県司令官に会う。山県司令官は、軍司令官の更迭を清軍に知られることを好まず、軍司令部に迎えることを避けた。山県は翌9日義州を出発して帰国の途に。17日広島の大本営に戻る。19日正式に解任、監軍に就任。第一軍司令官の後任は第五師団長野津中将。第五師団長は奥保鞏中将に交替。

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山県の解任について、斎藤聖二 『日清戦争の軍事戦略』は、「従来これは、無断で海城への攻撃命令を出したことへの懲戒処分に等しいものと位置づけらてきた」が、「時間を追ってみていくとそうは言えない」との説を出しています。山県の召還が陸軍中央で実際的な問題となったのは旅順が陥落した11月22日、それまでに山県の病状を伝える電報が来ていたためであり、山県解任・召還の上奏は27日と、すべて12月1日の海城攻撃命令以前のことでした。また、「山東半島作戦に切り換える時点までは、大本営も山県と一致して山海上陸作戦を実施しようとしていた」ので、「療養に召還せざるを得ない人物を厳冬下の直隷決戦で現地司令官にしておくことはできない」と考えたために解任という措置をとったのであろうと見ています。

山県が帰国の途についたのは、第三師団が海城に向かって岫厳を出発する前日だったのですが、海城攻撃命令が取り消されることはありませんでした。山県のメンツを立てた、ということだったのでしょうか。あるいは、山県の後任で第一軍司令官になったのが、作戦優先論者で、平壌でも補給不十分のままで作戦を遂行した実績があった野津中将だったためでしょうか。

いずれにせよ、山県の解任がなされても、結果として、第一軍の海城へのこだわりには、変化は生じなかったようです。

海城の攻防

第三師団が海城に進出した結果は、やはり、ここだけが山中から出て遼河平原に突出した状況となりました。遼河平原には、清国軍が多数配置されています。厳冬期に、この海城からの攻勢、あるいは海城の防衛で、第三師団は苦労することになります。

海城蓋平進軍地図

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12月19・20日 缸瓦寨の戦い −海城からの雪中の攻勢

海城は、西北20キロに牛荘城、東北70キロに遼陽、西南35キロに大石橋、その先25キロに蓋平と、三方向に清国軍が駐屯する拠点がある主要街道に位置する。海城防守計画は、街道上に部隊を配置し、時を見て攻勢に転じる、という作戦計画。

12月17日、海城から西へ15キロの缸瓦寨に清国軍1万の情報、先制攻撃が有利だとして攻勢作戦の実施、19日午前5時から人馬脛を没する積雪の中で前進開始、歩兵はなんの遮蔽物もない白く平坦な雪原を敵弾の標的となりながら前進、死傷者が続出したものの戦闘に勝利し、清国軍を営口方面に敗走させた。5時30分に完全に缸瓦寨を占領。師団長は6時に缸瓦寨入り。

雪中攻勢の結果、大きな損害

根拠地である海城を空っぽにしておくわけにいかず、この夜6時30分海城への帰還命令。しかし、あたり一面白一色で道路の区別もつかない、飢えと寒さが身に迫る状況、最後の部隊が海城に帰り着くのは20日の昼前。戦闘参加約3960人のうち、戦死者69名、負傷者339名は鴨緑江を渡って以来最大の損害、また凍傷患者が続出、重症者539名、軽傷者523名、合計1062名。「当地の寒気は安東県の比にあらず」と戦闘報告に記された状況を視察した石黒忠悳野戦衛生長官からは、防寒衣服と十分な栄養という対策が守られていない状況への怒り。

もともと大本営は、「海城の敵に一撃を加えたる上は直ぐに兵を退けて」析木城付近に退くのが良いと考えていたのに、山県監軍−野津第一軍司令官−桂第三師団長は海城維持にこだわる。大本営も、12月「29日に至り討議一決し遂に第三師団をして当分海城地方に駐まらしむること」を結論とする。大本営が合理的な作戦指導できず。

1・2月 海城には4度の清国軍来襲

清国軍務処、天恵の障壁によって日本軍の上陸を阻止できる渤海沿岸の氷結のときを迎えて、東征の軍議を決定、1月9日。山海関周辺にいた諸軍は、22日から続々と東に進み始める。いよいよ出発というときに日本軍が山東半島角に上陸開始の報、日本軍が奉天省の兵を分けて手薄になっていると勝手に推測。

1月13日、清軍の海城接近の報、清国軍の海城攻撃は17日の朝から。午後4時には右翼隊がまず敗れ、ついで全軍西北の方向へ退却。第二回海城攻撃、22日、兵力約2万5千、砲16門。日本軍の猛反撃や不意打ちにあってもろくも敗退。

第三回、2月16日、析木城・海城・蓋平への同時攻撃の計画、兵力約3万2千。実行は齟齬と失敗、海城攻撃は清国各将軍協力したものの日本軍に敗退、析木城攻撃は1日遅れとなって撃退され、蓋平は攻撃せず。2月21日四回目の攻撃。この攻撃も敗北。27日牛荘城の諸隊が唐王山に向かって攻撃を試み、またもや日本軍に撃退された。

第三師団の12月13日の海城占領から2月27日まで76日間で、清国軍の4回の大来襲。その間の合計死傷者841名(そのうち118名戦死)、清国軍でも330名以上が戦死。

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結局、実質的には海城に留まり続けただけでそこから先には進めず、逆に清国軍には4度も来襲されたわけです。清国軍から見て一番攻めやすい日本軍が海城の部隊だったと思われます。すなわち、清国軍に集中的に狙われて、損害を出すために海城に進出したというに等しい状態になった、といわざるを得ないように思います。

山県−野津−桂という、その後も日本陸軍の中枢にあり続けた人々に責任があった作戦でした。その人々が、つまらないメンツなどにこだわることなく、こういう作戦はやってはいけなかった、と反省を公言されていれば、その後の陸軍の作戦立案には、非常に大きなカイゼンになっていたのではないか、と思うのですが。おそらくは、反省がなかったのでしょう。

第二軍 第一師団による、第一軍作戦への支援

時が多少前後しますが、第一軍が海城にこだわったばかりに、第二軍の第一師団も、第一軍の作戦支援のために、遼河平原に引っぱり出されることになりました。そして、第一師団も、雪の中で少なからぬ損害を出すことになります。

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第二軍第一師団による第一軍支援の決定

海城は三面に清軍。そこで桂第三師団長、第一軍司令官に対し、第二軍による蓋平付近の清軍の撃退をしきりに要請。第二軍は威海衛攻撃を控え余裕なしとして、12月20日夜第一軍要請を断る。山県−野津ラインは海城占領続行の意見、大本営はあまり海城方面に力を用い過ぎては作戦大計画の進行に妨げ、の意見。大本営、29日になって、第三師団は当分海城方面に駐屯、第二軍の一部を蓋平方面に進ませることに一決。

12月30日着の大本営訓令により、第二軍は、乃木希典少将の混成旅団を編成、1895年1月3日に前進命令。1月7日、混成旅団は蓋平西南40キロの熊岳城まで進出。

1月10日 蓋平の占領

蓋平の敵は少なくとも5千。蓋平の東方から蓋州河に沿って海山寨に至る約6000メートルの防禦線、左翼に孤立した小山(塔山)があり我進退を監視するのに便利、敵に地の利。1月10日午前5時40分、旅団主力は蓋平への攻撃を開始、射撃戦は猛烈、8時半ごろ旅団は蓋平を占領、清国軍は後退。

この日の戦闘に参加した日本軍兵力約5千5百人・野砲12門。清軍の死者は約450名。地形が攻撃側に不利で、清国軍の防戦も非常に頑強だったため、日本軍も死者将校以下36名、負傷者298名。

1月18日・2月21日 太平山の戦い

1月18日、蓋平から北20キロの太平山まで前進する牽制作戦。太平山には進出したものの、補給および凍傷の恐れから太平山から10キロ後退した村落まで戻る。24日朝、清国軍が太平山を三方から襲うがまもなく退却。

2月21日、営口方面の清国軍が第一師団の駐屯する蓋平・大石橋方面へ進撃。前哨は後退、清国軍は太平山などを占領。第一師団は24日6時40分から8時半までの砲撃や射撃で太平山を占領、しかし太平山周辺では清軍は後退せず砲撃継続。午後4時半過ぎからようやく清軍は退却を開始。第一師団の死傷者314名、うち戦死29名、清国軍の遺棄死体約200の激戦。積雪と寒さの中での戦闘のため凍傷患者が多発、総数4188名は戦闘人員1万1890人の35%。

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海城進出以後に第三師団・第一師団に生じた合計1000名をはるかに上回る死傷者、そしてさらに多数の凍傷患者は、山県らが無駄な作戦遂行にこだわることがなければ、発生していることはありませんでした。せめて作戦の発動前に、防寒対策ぐらいはしっかり実施して、凍傷患者を発生させないよう努めているべきであったと思います。

ことに、2月21日の戦闘ともなれば、凍傷患者が最初に発生した前年11月25日の第5師団による草河嶺での戦いから、すでに3ヵ月も経過しています。課題に気が付き、対策を考え、必要な防備を調達・配布することが可能な期間があった、といえるように思われます。にもかかわらずきわめて多数の凍傷患者を発生させた、ということは、作戦を立案・実行する第一軍や第一師団の首脳部は、カイゼン意識を欠いていた、と言わざるを得ないように思われますが、いかがでしょうか。


第一軍が海城の拠点維持にこだわっていた間に、第二軍は、本筋である直隷決戦に向けたステップとして、連合艦隊と共同して威海衛攻略戦を実施しました。次はその内容を確認したいと思います。

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