日清戦争で戦場となった地域
日清戦争で
戦場となった地域
(黄は陸戦、赤は海戦) 
 
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日清戦争
The Sino-Japanese War of 1894-95 from Kaizen Aspect

日清戦争への日本の戦争準備

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日清戦争時の内閣と陸海軍

上 日本陸軍の旅順西方砲撃 下 日本海軍の速射砲砲撃
上 日本陸軍の
旅順西方砲撃
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(日清戦争写真帳より)
 
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日清戦争を開戦し、戦争の遂行を指導していった、当時の内閣や軍のメンバーはどういう人々であったか、具体的に戦争の経過を見る前に、先に確認しておきたいと思います。

天皇と、内閣のメンバー − 年寄りはいなかった

まずは、当時の天皇と内閣についてです。下の表をご覧ください。

 日清戦争時内閣メンバー 表

この表は、筆者が作成しました。年齢は、講和時の大臣も含めすべて、1894年7月25日の開戦時点のものです。

大多数が、現代の大企業なら、部長か少壮役員クラス

総理大臣の伊藤博文は、まだ52歳でした。開戦時の9人の閣僚についていえば、井上馨と榎本武揚の2人だけが50代後半、大山巌・西郷従道・吉川顕正・井上毅・黒田清隆の5人が50〜53歳、陸奥宗光と渡辺国武の2人に至ってはまだ40代でした。

9か月後の講和条約調印時(1895年4月17日)までに、若干閣僚メンバーが入れ替わりましたが、年齢に大きな差はありませんでした。天皇は、閣僚メンバーの誰よりも若く、開戦時にはまだ41歳でした。

現代の日本の大企業で、50〜53歳というと、役員に昇格するかどうかという年齢で、役員になっている人はまだ少数である、という企業が多いのではないかと思います。日清戦争を開戦した内閣の閣僚は、大多数が、現在の大企業なら、部長か少壮役員クラス程度の年齢であった、と言えます。

若かったがゆえに、思い切った決断ができた?

現代の日本の大企業に比べれば、たしかに、若くはありました。しかし、上のリストで最年長の松方正義や井上馨は1835〜36年生まれ、若い側の井上毅・陸奥宗光・渡辺国武も1844〜46年生まれです。1868年の明治維新のとき、彼らは皆、すでに20代・30代になっていました。リストでは1人だけとびぬけて若い西園寺公望でも、20歳直前になっていました。

それゆえ、彼らは維新後、廃藩置県から西南戦争、さらには国会開設に至るまで、前例のない大変革・大激動の時代を自ら切り開いて前進する、という経験をしてきた人々でした。今の大企業の経営陣と比べれば年齢が若くはありましたが、経験が不足していた人々ではなかった、といえるように思います。

一方、もっと上の年齢で、彼らの頭を抑えつけるような人たちは、すでにいなくなっていました。初期の明治政府のリーダーたちのうち、木戸孝允と西郷隆盛は1877年、大久保利通は1878年、岩倉具視は1883年、三条実美も1891年に亡くなっていました。現代の大企業でよくある、会長どころか相談役まで元気で、いろいろ口出しをしてきて、そのために新しい思い切った改革ができない、などという老害の状況は、この当時の日本政府にはなかったわけです。

日清戦争を開戦するというのはきわめて重大な決断でした。その決断が良かったかどうかは別にして、年寄りがいなかったがゆえに思い切った決断が出来た、と言えるのではないでしょうか。

陸奥宗光が開戦の方向に内閣を引っ張っていったことと、この時の彼の49歳という年齢には、関係があったように思います。政治家としてまだ先があり、もっと高い地位、あるいはもっと大きな権力を狙える年齢であったと思われるからです。

他方、井上馨が、開戦後に大臣を辞して朝鮮公使となったのも、彼の58歳という年齢が影響しているのかもしれません。長年政府の主要閣僚の一人として国政を引っ張り、特に世界の状況も、財務経済分野の実務も分かる大臣として、対外協調と緊縮財政を指導してきた人物です。この当時のこととして、年齢的にそろそろ引退モードに入っていく前の、最後の大仕事として、他の若い人々ではまだ及ばない自分の維新以来の知識と経験を最大限に活用して、朝鮮の内政改革を実現したい、そう考えたかもしれないと思われるからです。

陸軍・海軍の幹部

他方、陸海軍の幹部は、どのような人々だったのでしょうか。下の表をご覧ください。

 日清戦争時 陸海軍幹部 表

山県有朋の一人天下だった陸軍

まずは陸軍についてですが、皇族の参謀総長は別格として、軍中枢の大山陸軍大臣は51歳、そして児玉次官42歳、川上参謀次長45歳でした。師団長クラスは46〜52歳と、陸軍大臣と同じか少し若い人たちでした。旅団長クラスは、これも皇族を除くと43〜49歳で、師団長クラスより3年ほど下、という年齢層でした。

こうした人々に比べ、第一軍司令官(のち監軍)となった山県有朋は56歳と、陸軍幹部の中で1人だけ、年齢に差がある長老でした。経験も実力もあって地位も年齢も上、という人がいれば、周りはなかなか反対できないように思います。反山県派であった谷干城は山県より1歳年上でしたが、とうに陸軍から出されていましたから、山県有朋の天下であったという状況がわかります。

山県有朋が長生きしたことは、日本の陸軍にとって幸福なことであったかどうか。もしも山県有朋が日清戦争前に亡くなっていて、大山巌が陸軍全体を心置きなくリードしていける体制になっていたなら、その後の日本の歴史は、また中国・韓国両国との関係は、ずっと変わっていたかもしれない、という気がしますが、いかがでしょうか。

同年齢層が固まっていた海軍

海軍は、というと、樺山軍令部長だけが56歳で、西郷海軍大臣も、伊東連合艦隊司令長官も、相浦・坪井の両司令官も皆51〜52歳でした。

海軍の軍令部長は、開戦直前の1894年7月になって、陸軍からの要請をいれて、中牟田から樺山に交替していますが、樺山は1890年に海軍大臣も経験、すでに予備役、枢密顧問官になっていたものを、現役に戻して軍令部長に就任しました(大江志乃夫 『東アジア史としての日清戦争』)。つまり、陸軍の山県ほどではないにせよ、当時の海軍組織の中では、樺山に重みがあったように思われます。

樺山軍令部長は、1894年10月の黄海海戦の際、自ら戦況視察のため現地に赴き、仮装巡洋艦「西京丸」に乗船して連合艦隊司令部に随行し、伊東連合艦隊司令長官への督励を行いました。海軍省内では新聞記者がうるさいのと、当時の通信事情から最前線の状況が十分に伝わらないのとで、前線に出たので、連合艦隊としては迷惑極まりなかった、とも言われています(戸高一成 『海戦からみた日清戦争』)。56歳と51〜52歳という年齢差を考えますと、自分より若い司令長官・司令官たちがちゃんと戦えるか不安で、現地まで督励に出かけた、という解釈もあるように思います。

日清戦争は、政府・陸海軍を通じて、40代後半から50代前半の世代に属する人々が中心になって指導して遂行した戦争であった、といえるように思います。


以上のメンバーが当時の日本の政府および軍を引っ張っていました。次には、彼らはどういうプロセスで、朝鮮に派兵を行い、さらには開戦を決定していったのかについて、確認したいと思います。

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