日清戦争で戦場となった地域
日清戦争で
戦場となった地域
(黄は陸戦、赤は海戦) 
 
カイゼン視点から見る
日清戦争
The Sino-Japanese War of 1894-95 from Kaizen Aspect

日清戦争の戦史 終盤戦 A

「直隷決戦」準備
講和を飲ませた大圧力

上 日本陸軍の旅順西方砲撃 下 日本海軍の速射砲砲撃
上 日本陸軍の
旅順西方砲撃
下 日本海軍の速射砲砲撃
(日清戦争写真帳より)
 
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戦争の経過
序盤戦 @ 豊島沖海戦
序盤戦A 成歓の戦い
序盤戦B 平壌の戦い
序盤戦C 黄海海戦
中盤戦@ 九連城など
中盤戦A-1 金州・旅順
中盤戦A-2 旅順虐殺事件
中盤戦B 海城・蓋平
中盤戦C 威海衛
中盤戦D 遼河平原制圧
終盤戦@ 澎湖島
終盤戦A 直隷決戦準備
終盤戦B 台湾征服戦
総括 戦費と戦死者

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日清戦争開戦時以来の「作戦大方針」に定められた直隷決戦は、その前に講和が成立したために、実施されることはありませんでしたが、威海衛攻略に成功した後、着々と準備が進められました。

ここでは、直隷決戦の準備状況を確認した後、講和後の撤兵がどのようにおこなわれたのかについても確認したいと思います。

直隷決戦の準備状況

直隷決戦の準備はどこまで進められていたのでしょうか。

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直隷平野決戦のための大輸送

大本営が直隷平野の決戦に用いようとしているのは、7個の常備師団と後備部隊の3分の1で、当時直隷でぶつかるはずの清国軍推定約20万人に対してははるかに優勢。

最大の問題は輸送力。日本船籍の千トン以上の輸送船を使い、同時に輸送できるのは一個師団半がせいぜい、兵站輜重を除いた戦闘部隊だけならば二個師団。大本営の輸送計画は、まず近衛・第四の二個師団を上陸させ、拠点を確保し、次いで輜重隊と新たな戦闘師団を金州半島から送り込む、という戦闘第一主義で立案。

大本営は3月上旬、大輸送の計画を決定、講和の交渉が進められているなかで、この輸送は次々に行われ、新たに派遣される近衛(東京)・第四(大阪)両師団は、4月9日から13日にわたって宇品を出発、18日までには全部大連湾に到着。

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全師団で直隷決戦、の計画

すでに、第一軍として第三・第五の2師団、第二軍として第一・第二・第六の3師団、併せて5師団が送られていましたが、これにさらに近衛・第四の2師団を加えて直隷決戦を行おう、という計画でした。この当時、日本軍には近衛プラス6個師団しかなかったわけですから、日本をカラッポにして全師団を送って戦おう、という思い切った考え方だったことになります。

平壌・九連城・旅順口・威海衛・遼河平原など、それまで戦ってきた実績からすれば、日本軍は清国軍より確実に強く、清国軍より少数でも勝てる、2〜3個師団程度で十分だ、もしも足りなかったらその時増派すればよい、などという、昭和前期の日本軍流の考え方をとらず、必ず勝てる大兵力を最初から送り込んで確実に勝利しよう、という発想であった点は、適切であったように思われます。

しかし、全師団を送り込もうとすれば、海上輸送がボトルネックになる、という点は、この当時の日本の経済力の制約を示しています。輸送に制約があっても戦闘第一主義、というのが適切であったといえるのか、については、この当時からもっと議論されていてよかったように思いますが、いかがでしょうか。

なお、清国側の立場から考えてみると、ここで、まだ残っている南洋艦隊などを中心に、日本への遠征軍を編制して送っていたなら、日本は大混乱に陥り、一方的な敗戦は回避できた可能性が十分にあったのではないか、などと想像するのですが、そういう発想も実行力もなかったのが、この当時の清国であった、と言えるのではないかと思います。

講和を早めた直隷決戦準備

斎藤聖二 『日清戦争の軍事戦略』によれば、直隷作戦は「2月上旬、清国艦隊が壊滅した直後」から決戦に向けて直接的な手配が開始されたとのことです。同書によれば、もともとの上陸予定日は4月13日であり、「山東半島作戦軍の送還をしなければ、あるいは李鴻章が早々に来日しなければ、予定日時から見て直隷上陸作戦が開始されていた可能性は高かった」と見ています。

また同書は、大規模作戦をにわかに止めることは困難、万一談判が破裂したときにあらためて着手では時機を失するという戦略的な考え方は正当、という見解ですが、納得できます。

下関の講和会議に並行して直隷決戦部隊が日本から出発しているところだったため、李鴻章はじめ中国側講和使節はその出発に関する情報を直に見聞しました。したがって、日本が現に直隷決戦準備を進めているという状況が講和を早めた、ということも間違いないと思われます。

平和の回復と撤兵

下関での伊藤博文・陸奥宗光と李鴻章との講和談判は、3月20日から開始されました。24日に李鴻章への狙撃事件が発生したため、30日には台湾を除く地域での休戦条約が調印されました。さらに講和条件について談判が行われ、4月17日には講和条約が調印されました。

講和が成り立てば、送り込んだ全師団について、日本に帰還させなければなりません。撤兵はどのようになされたのでしょうか。以下は、旧参謀本部編纂 『日清戦争』からの要約です。

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講和後の撤兵

講和条約批准交換の報は、5月10日、大本営から旅順口にいる征清大総督小松宮彰仁親王(4月18日に大連湾に到着)のもとに。ここで清国軍に対する作戦停止の命。

奉天半島に二個師団を残し、威海衛に混成第十一旅団、台湾に近衛師団を派遣し、他の出征軍は順次帰国させることに。

大総督府は17日に旅順口を出発、22日京都大本営に帰着(大本営は4月27日、広島から京都に移転)、大総督府の編成を解除。全部隊は8月1日までに、衛戍地または編成地に帰着。

奉天半島占領のために残された二個師団の最終帰国は11月末。佐久間総督は12月23日、占領地還付を終了して帰国の途、1896(明治29)年1月4日に東京に帰還。

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征服戦を行わなくてはならなくなった台湾以外でも、講和後半年以上の間、出征地に残っていた師団が2個もあったようです。

日本が世界に先駆けて行った、帰還将兵への検疫

7個の常備師団すべてを送り出して戦った日清戦争ですが、終結すれば帰還兵問題が発生します。このとき日本は、世界に先駆けて、出征地から帰還してきた将兵全員に検疫を実施し、日本国内への伝染病の持ち込みを防いだという、重要なカイゼンを行っていたとのことです。

以下は、安岡昭男「日清戦争と検疫」(東アジア近代史学会編 『日清戦争と東アジア世界の変容』下巻 所収)からの要約です。

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帰還兵からのコレラ蔓延は、西南戦争で経験

明治10年西南戦争の終結時、コレラの流行地九州南部から帰還した凱旋兵士のために、神戸市内などにコレラが蔓延したという、苦い経験。

日清戦争では、1895(明治28)年に入ると出征将兵の帰還も予想され、野戦衛生長官に任命されていた石黒忠悳軍医総監は、軍隊検疫の準備着手を児玉源太郎陸軍次官に申し入れ。

日清戦争での帰還兵への検疫体制

3月30日、臨時陸軍検疫部官制を公布、4月1日部長に児玉源太郎陸軍少将(陸軍次官兼軍務局長)、事務官長に後藤新平(非職内務省衛生局長)を任命。軍隊検疫設備着手は全面的に後藤事務官長に「一托」された。

検疫所は似島(宇品付近)、彦島(下関付近)、桜島(大阪付近)の3か所、6月1日〜5日に開業。検疫励行について児玉源太郎部長から名案あり、明治天皇拝謁を前に征清大総督小松宮が率先して検疫を受けるように取計らい、師団長以下に異議ありよう無からしめた。

帰還兵への検疫状況

受検者は入浴中に消毒された被服携帯品を受取り、検疫所を離れるが、輸送船舶に一人でも発病者が出て感染の恐れがある場合は一時停留舎に。停留人は毎日診断を受け、伝染性の患者は直ちに避病院に。検疫人員の総数は3検疫所合計23万2300余人。コレラ患者を載せた船舶112隻、患者死亡は752人、停留舎での発病は821人、計1573人。

6月・7月の両月、夜間も電燈を用い作業し全能力を発揮した検疫は、8月に入ると作業量が激減、検疫所は9月15日桜島、10月31日似島・彦島が閉鎖され、似島は第五師団、彦島は第六師団各司令部に検疫業務を移した。

日清戦争における検疫事業の意義、@戦時内外における初の本格的検疫体制を整え、以後の検疫事業の範、A世界の好評を博し独帝カイゼルも賞賛、蒸気消毒汽缶による検疫は各国で模範に、B世界で初めてコレラに対する血清治療開始、C後藤新平にとって「一生の大傑作」、軍人との接触を含め以後の飛躍の基盤。

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動き出すのがもう数か月早かったなら、澎湖島その他の場所でのコレラの死者を減少させることも可能だったかも知れません。その点は残念なのですが、とにかく内外における初の本格的検疫体制を、まだ文明開化して間がない日本が行ったということは、画期的なことだったと思います。

日清戦争で勝利した、ということは、日本が近代化を進めたことを証明するものであり、世界中の目を引く派手な成果でした。しかし、日本が、日清戦争に勝利したことで、世界の文明の進歩に貢献した、というわけではありません。あくまで日本の文明化の結果を示したに過ぎません。

それに対し、日清戦争で帰還した将兵全てに検疫を実施して、国内への伝染病の流入を最小限にしようと努力したことは、間違いなく、日本が世界の文明の進歩に少しでも貢献しえたことであったと思います。


次は、講和の結果日本が台湾の割譲を得たことにより、いわば日清戦争に付随して行われた、台湾征服戦について、確認致します。

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