日清戦争で戦場となった地域
日清戦争で
戦場となった地域
(黄は陸戦、赤は海戦) 
 
カイゼン視点から見る
日清戦争
The Sino-Japanese War of 1894-95 from Kaizen Aspect

日清戦争 戦中戦後の朝鮮

「朝鮮の内政改革」
井上馨による重要課題への取組み

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(日清戦争写真帳より)
 
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まずは、日清戦争が終わり講和が結ばれる一方、三国干渉を受けるまでの時期の朝鮮の状況です。

朝鮮の内政改革推進を公式に宣言した日本

日本が発した「宣戦の詔勅」は、清国が、「独立の一国」である「朝鮮をもって属邦と称し陰に陽にその内政に干渉」していると非難、さらに「朝鮮をして禍乱を永遠に免れ治安を将来に保たしめ」るよう提案した朝鮮の内政改革を清国が妨害した、としていました。

朝鮮で東学乱のような「禍乱」が発生するのは、その内政に問題があるためだから、内政改革が必要である、という指摘は、それを日本が強制・主導することが妥当だったかどうかを別にすれば、一応筋が通ったものでした。

宣戦の詔勅でその点を主張したわけですから、日本は対外的にも、単に清国に勝利して朝鮮の独立を確保するだけでなく、朝鮮政府の内政改革についても、それを成功に導くよう努力する義務を負った、といえます。

1894年7〜10月 大鳥圭介公使の時期

まずは、日清開戦以後、大鳥圭介公使時代の状況についてです。ここでの記述は、山辺健太郎 『日韓併合小史』からの要約によります。

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7月、日本が朝鮮政府に内政改革を要求

開戦前の7月10日に日本が朝鮮政府に要求した内政改革案。即座に実行にうつすべき事項は、政府と地方の制度では、内外政務と宮中事務の判然区別、格式によらぬ人材登用、売官の悪弊の停廃、官吏収賄の厳禁。財政改革では、国道の拡張・修理、ソウルと港との鉄道建設、全国重要城市間の電信架設、通信往来の便を開く(インフラ整備)。他にも6か月以内に実行にうつすべきもの、2年以内に実行にうつすべきもの、多数の項目の改革案。

7月23日、日本軍は王宮を占領、閔氏の一族は皆逃げ、ここに大院君政権が成立。大院君は元来が保守頑固、もとより内政改革を自発的にやる男ではない。そこで日本側は、親日派の要人をあげて大院君の干渉できない合議体の政府機関、軍国機務処を設立。

軍国機務処の決議した208件にものぼる改革案(これを甲午更張または甲午改革という)の実行はほとんどできず、日本の政策は思うように進まず。8月下旬でもなお、朝鮮国王は日本軍の目をかすめて清国の援助を請い、日本軍の動静、兵力、最高指揮官などについての詳報を送る有様。

8月17日、日本の閣議は、朝鮮の従属国化方針を決定

8月17日の閣議で、外務大臣陸奥宗光は、「対韓戦略」を、列強との関係を考えて4案を準備し、閣議の決定を求めた。4案とは、(甲)朝鮮を文字通り自由放任する、(乙)名義上独立国とするが、日本が直接間接に扶植、(丙)日清両国で朝鮮の領土を保全する、(丁)ベルギー・スイスのような永世中立国。閣議は、結局乙案をもって当面の対韓政策を決定、事実上、朝鮮を日本の従属国とするもの。

日本政府は8月下旬、朝鮮政府と二つの条約を締結、8月20日調印の「日韓暫定合同条款」で、日本は京釜・京仁鉄道の敷設権を獲得、26日調印の「大日本大朝鮮両国盟約」は、日本側からする一方的な清国に対する攻守同盟にほかならず、朝鮮はこれよりますます日本に従属。

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宣戦の詔勅により、世界に対しては、朝鮮の独立支援とそのための内政改革推進を宣言した一方、内実としては、朝鮮を従属化させる方針を閣議決定したわけです。

ただし、森山茂徳 『近代日韓関係史研究』は、陸奥外相にとって、内政改革は日清開戦のための布石にすぎず、改革を積極的に行う意図はなく、陸奥の対韓政策の最大の目的は、利権獲得をこの際一挙に実現することにあった、しかし大鳥公使以下の日本公使館側は、新開化派の政権掌握による日本の地位回復を企図していたため、陸奥よりも制度改革実現により意欲的であった、としています。また対韓政策では、松方正義も、朝鮮の開港場の増加、炭鉱採掘権や電信架設および京釜鉄道敷設権などの「実利実益を収むる」ことが目的と主張しており、松方や陸奥の主張が日本政府の代表的意見であった、としています。

内政改革の詳細についても、朝鮮従属国化の方針を決定しても、その具体策については特に政府内での合意を行わなかったことが、後々になって、朝鮮の内政改革推進への障害になっていったように思いますが、それは後段で確認したいと思います。

平壌の戦いと黄海海戦の勝利の後、大鳥公使が更迭され、井上馨が公使として赴任することになります。以下は、藤村道生 『日清戦争』からの要約です。

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大鳥公使の更迭、井上公使の任命

平壌戦の勝利の後に、大鳥公使を更迭しようという議論。慰問大使として朝鮮に派遣された西園寺公望ら一行が9月22日広島に帰着し、朝鮮の内政改革の難航が判明したため。伊藤首相は、朝鮮の内政改革を幾分かは成功させなければ諸外国から「批議」を招くことになり、「国家の威信に関し、甚だ不安」と述べた。

井上馨内相が自ら朝鮮に赴任して「老後の一腕を試みたい」と希望。伊藤は井上を特派全権弁理大臣として派遣、との考えに。大鳥公使の立場に同情的だった陸奥は、井上を弁理大臣として派遣すれば列強は日本が朝鮮を併合するものと猜疑するから反対、陸奥自身が外相職をなげうち一公使として赴任すると主張。陸奥外相の強硬な反対により、井上は公使に任命された。

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平壌戦までは、朝鮮政府内も、日本が勝てるのかやはり清国が強いのか様子見だったわけですから、日本が唱導する内政改革が進捗しなくても当然です。平壌戦の直後に帰国した訪朝団の報告に基づいて大鳥公使を更迭した、というのは、大鳥公使への公正な評価であった、とは言えなかったように思います。

大鳥公使時代、実際に内政改革は進捗していなかったのか

大鳥公使時代には、内政改革はどこまで進捗していたのでしょうか。

この時期の朝鮮の内政改革(甲午更張)については、森山茂徳 『近代日韓関係史研究』に詳しく述べられています。まずは同書から、軍国機務処時代の内政改革の状況について要約します。

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内政改革の性格−自律的な側面

日本軍が朝鮮の王宮までも掌握していた状況や、朝鮮側の改革官僚らの親日的な経歴などから考えて、甲午更張が日本の政治的・思想的影響下に行われたという点を否定することはできない。しかし、甲午更張前後の朝鮮における開化運動の展開、軍国機務処の構成や運営、議案の内容などを総合的に検討するならば、甲午更張は、朝鮮の開化派官僚が主導して日本がこれを幇助した改革、すなわち肯定的な意味での自律的な改革であったと解釈できる。

軍国機務処の構成と大院君

軍機処が発足した当時(7月27日)、総裁、副総裁および会議員に任命されたのは18名。いずれも7月23日のクーデター以降、大院君や金弘集あるいは日本公使館の後押しで「特擢」された人物。

大院君は当初は軍機処の創設に賛同し、自派の系列の会議員3名を送り込んで軍機処の改革運動に影響力を行使しようとしたが、これが思うに任せなくなった8月下旬以降、大院君は一連の反日工作に着手、また同時に軍機処の改革事業に対しても露骨に反対。

軍国機務処の改革の内容

7月27日から10月29日までの約3ヵ月間の期間に、軍機処は約210件の制度改革案ないしは政策建議案を議決し、国王の裁可を経て実施せんとした。

うち50余件は、朝鮮政府の政治・行政制度改革に関するもの。日本の宮内府−内閣中心体制に類似したかたちへと改編。日本式の近代的官僚制度の導入、科挙制度を廃止、文官の任用のために選挙条例、武官の選用のために選武条例を制定、官吏の厳格な公務執行と官紀確立のための制度など、近代西洋および日本で一般に用いられている能率的な行政処理方式を導入。一種の地方自治制を実施するよう決議。

一連の平等主義的社会制度改革、班常制度の革罷、奴隷解放、駅人・倡優・皮工など賤人の免賤、寡婦再嫁の許容など。東学農民軍が提起していた改革要求に応える経済改革、中央政府の官吏による公金横領と地方官の上納金着服を厳禁、過去10年間に官によって不当に奪われたり只同然で売却を強要された田・畑・山林・家屋などの財産の回復、田税の再調整、地方官衙などが随時徴収してきた雑税と雑貢をすべて廃止。

対日従属性を示す事項

日本への全権大使の速やかな派遣、駐東京弁理公使を全権公使に格上げ。政府の8衙門に外国人すなわち日本人の顧問官を一人ずつ置くことを議決、さらにこの実現を促す議決。新式の近衛隊を発足させ、そのために二百名の下士官を選抜・教育するための教官を日本から招聘することを議決。平常時に地方官が任意に防穀令を出すことができない措置。銀本位の日本式の貨幣制度を導入、朝鮮内での日本貨幣の流通権を認定。

大鳥公使の「消極干渉」

大鳥は8月4日付けの陸奥あての意見書で、「朝鮮政府は既に改革派の手に帰し、諸事我勧告を容るる傾向ある以上は、我より強硬主義を以って之に対するは不得策なり。…従前清国が朝鮮を取扱ひたる度合に比較して、いっそう朝鮮を利益する事を考えさる可からす。然らざれば朝鮮の君臣は其苦悶に堪えずして終に第三者に依頼するに至るへし」

朝鮮の改革派官僚が着手した甲午更張に対して大鳥公使は9月17日までは不干渉ないし傍観の立場。平壌戦闘での日本の勝利をきっかけに、大院君派・朴永孝派・親日(親閔)派・改革派などの間に激しい政争が繰り広げられ、これを契機に大鳥は、積極的な干渉戦略を注意深くではあるが進言するようになってきた。

大鳥公使の更迭

61歳の大鳥に対して、公使館内からは「経験に富むも活気に乏しく、諸事鄭寧に過ぎた」「老耄」と指弾する声もあがり、朝鮮の「内政改革」が停滞している責任が大鳥に押し付けられた。日本公使館内の官吏と少壮軍人が大鳥に対して抱いていた不満は、8月19日から9月19日までソウルを訪問した枢密院西園寺顧問官や法制局末松長官から政府要路に報告された。日本軍が平壌戦闘と黄海海戦で勝利を収めると、伊藤首相は、この有利な戦局を絶好の機会として、大鳥の更迭と有能で果敢な後任者の抜擢を決心したものと思われる。

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すなわち、軍国機務処内での内政改革に関する議論そのものは相当進んおり、具体的な施策も提案されていたものの、実施となると大院君派が障害で、そこから先に進まなかった、というのが当時の状況であったようです。

内政改革遅滞の原因分析−大院君対策は確かに必要カイゼン点

大鳥公使が陸奥外相あての意見書で、@諸事勧告を容れる傾向がある以上、強硬主義は不得策、A清国が朝鮮を取扱ったと比べ朝鮮に有利に、Bそうしないと第三者(他国)に逃げる、と述べたことは、まずは、日本の防穀令事件での対応や清国代表袁世凱の対朝姿勢などについての反省を踏まえたカイゼン策となっており、また大鳥公使が、朝鮮政府内の討議状況をそれなりに適切に認識していたことを示していると思います。

ただし、内政改革を進めるためには、まずは大院君とその一派を抑制あるいは排除する必要が確かにありました。大鳥公使の大院君派に対する抑制・排除努力が慎重・丁寧にすぎた、というのであれば、それは確かに反省事項でありまたカイゼン対策事項だったと言えるでしょう。
 

大鳥公使更迭の背景には、日本軍の責任押付もあった

大鳥公使更迭の事情として、内政改革がなかなか進捗していない状況はありました。しかしそれだけではなく、背景には、例えば日本軍からの意見もあったようです。以下は、また森山茂徳 『近代日韓関係史研究』からの要約です。

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野津師団長は、内政改革の進捗停滞に、糧食不足の責任を転嫁

朝鮮進駐の日本軍内部においても、改革が戦争遂行に何ら効果をあげていない、という別な形の不満の声が高まっていた。たとえば、第五師団長野津道貫は、改革が実効をみないために人馬徴集や進軍が困難である、と山県有朋に書き送っている。山県はこれをうけて総理大臣伊藤博文に対し、効果的な戦争遂行体制の整備という日本側の当面の目的にそった改革を、早急に実現させるよう訴えた。

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戦争の経過 序盤戦B − 平壌の戦い」のところで確認しました通り、野津第五師団長は8月19日に漢城に到着し、平壌にむけて行軍していきました。「その行進の困難なる、言辞をもって名状し能わざるものあり」との窮状でしたが、理由は農村が疲弊し現地徴発不可、朝鮮人人夫は確保困難で逃亡も発生、道路は峻嶮で気候も炎暑といったこと。それでも作戦優先で無理をして行軍したため、平壌戦の第一日である9月15日朝、師団主力などには米などなく、携帯口糧二日分があるのみでした。

すなわち、現地の経済事情、道路事情、その時の天候などに原因があり、さらには平壌戦の前でまだ朝鮮の政府も人民も日清のどちらが勝つか様子見をしていた時期だったわけですから、日本公使館が内政改革をサボっていたため、では全くありません。

糧食の不足は、現地の経済情勢等に対し軍側が準備不足であったのに、作戦遂行の時期にこだわって無理をしたことが原因でしたが、そうした本質的な課題には着目せず、反省もカイゼンも考えずに、公使館に責任を転嫁する発言を行った野津師団長と、その意見を真に受けた山県司令官の方が、日本軍の統率上大いに問題があった、と言わざるを得ないように思います。

大鳥公使の更迭には、日本からの資金問題もあった

他方、陸奥宗光は、『蹇蹇録』のなかで、大鳥公使の更迭に関し以下のように言っています。現代語化した要約です。

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陸奥の語る大鳥公使更迭の事情

朝鮮内政の改革と牽連して、日本による朝鮮での鉄道および電信の建設の利権確保が、日本の官民の重要問題とされてきた。これについて大鳥公使は、「日韓暫定合同条款」で外交上は確定させた。

ところが、いざ実行の段になり、費用の日本の国庫からの支出は軍事費優先で認められなかった。そこで豪商巨族の有志者で朝鮮鉄道の必要を主張していた人々に声をかけたが、最初の熱心にも似ず逡巡し、日本政府から損害補償の担保を得たいとか、特別の補助金を得たいなどとして、自分でリスクを取って事業を企てようという人はいなかった。

朝鮮内政改革の事業は、朝鮮内の事情の錯雑極まりないことと、日本が外面からこれを誘掖援助する方法が困難甚だ多きことにより、国民の期待通りに進まなかったのは当然の結果であったのに、その原因を研究せずに、大鳥公使を非難する声が高まった。自分は大鳥公使の更迭は得策にあらずと反対したが、更迭せざるをえない事情となった。

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陸奥自身は、もともと内政改革を重要視しておらず、むしろ日本がその望む利権を確保することの方が重要、という考え方であったことはすでに確認しました。

陸奥からすれば、朝鮮は国内のさまざまな事情があって日本の言うことがすぐに通る国ではなく、朝鮮の内政改革が簡単にうまく進むはずはなかったし、日本利権の拡張がうまく行っていなかったことには、日本国内にもその原因があった。ところが、そうした原因が冷静に追及されることはなく、責任が大鳥公使に押し付けられたのは間違いだ、ということだったでしょう。

内政改革・利権確保が進捗しない原因の究明が不足

順調に進まないことについて原因の研究が不十分であったことは、陸奥の言う通りでしょう。ただし、陸奥自身も含めて、責任感に欠ける評論家的判断がなされただけで、当時の日本には、冷静に原因を追究する適切なカイゼン意識が欠けていたように思われます。

陸奥自身が、鉄道が出来ない原因を、日本の「豪商巨族」に押し付けているようにも読めますが、朝鮮の当時の経済発展度を考えますと、「豪商巨族」の反応の方が妥当であったと思います。日本国内の鉄道事業なら、当時すでに産業革命を開始していた日本の経済力を基盤にして、民間事業としても成り立つものであったでしょう。しかし朝鮮は、はるかに自給自足的で商品経済の発達もまだまだの状況でした。日本国内と同等の運賃では利用客が集まらず、運賃を低くすれば採算が悪化するので、日本国内ほどには事業として成り立たないたない、という判断は妥当だったと思いますし、それでも事業の実施を要請されるなら、政府からの損害補償や補助金を要求しようとしたのも当然です。

陸奥外相自身が、朝鮮の経済発展度を認識できていなかったように思われます。その状況では、利権の獲得について、「鉄道を作れ、金は出さない」は手法として明らかに無理でした。陸奥がそれが無理だと理解できていなかったことが問題であるのに、その点への反省・カイゼンはなかったようです。陸奥には、農商務相の経験があり、またカミソリと言われるような頭の良さがあったにせよ、井上馨などとは大違いで、経済が本当には分かっていなかったのではないか、という気がしますがいかがでしょうか。

従属国化方針の具体策についての討議が欠けていたことの影響が、この大鳥公使の更迭問題にも現れていた、といえるように思います。

新公使の二つの重要課題

このような状況下で、駐朝鮮公使は、大鳥圭介から井上馨に交替することが決定されました。

あらためて状況を整理すれば、日本は7月25日から日清戦争を開戦し、8月1日の宣戦の詔勅の中で、朝鮮の内政改革の推進が重要課題であると国際的にも宣言していました。すなわち朝鮮の内政改革の実行に取り組むことが、重要課題でした。

さらに、これはもちろん公表されざる課題でしたが、8月17日の閣議で、朝鮮は名義上独立国とするが、日本が直接間接に扶植していくという、朝鮮従属国化方針が決定されていました。

すなわち、駐朝鮮新公使には、「内政改革の推進」と「従属国化」という二つの重要課題があったわけです。

重要課題には、井上馨は、確かに大鳥圭介より適任だった

大鳥圭介は1833年生まれ、井上馨は1836年生まれ、と、年齢的には大差はありません。しかし経歴は、井上が大鳥をはるかに上回り、明治政府の大蔵・外務・農商務・内務の大臣を歴任してきただけでなく、特に大蔵・外務両分野では行政実務についても詳細な知識を持っていました。また井上には、一時期は官界からはなれて三井物産の前身となった会社を設立したような実業家としての経歴もありました。

「内政改革の推進」と「従属国化」という二つの重要課題を実現するためには、朝鮮の国王夫妻や政府に対し、かなりの影響力や説得力が必要になることは間違いありません。その点で井上は、この経験・経歴からして、朝鮮の国王夫妻や政府内の大院君派や閔妃派を抑え込むことはもちろん、朝鮮の官僚に与える影響力でも、大鳥よりはるかに優れていた、と言えるかと思われます。

井上馨自身は、当時は内務大臣であり、開戦直前の第六議会で、反対党から古傷への集中攻撃を受けたため、内務大臣を辞したく思っていたところでした。個人的にそういう状況であったところに、この話が出て来たので、自ら希望したようです(井上馨の伝記 『世外井上公伝』)。

ただし、内務大臣であり、また外務ほかの大臣職を歴任してきた井上が、駐朝鮮公使に就任する、というのは、現代的にいえば、大企業の常務・専務クラスの大物が、部長級用のポストであり、しかもヒラ役員が直接の上司とされている海外の現地法人の社長職に、自ら手を挙げて就任したようなもので、きわめて異例のことだと思います。

すなわち、単純に、上記の個人的な事情があったから引受けた、というだけのものとは思えません。この時日本政府が朝鮮で設定していた「内政改革の推進」と「従属国化」の二つの課題の達成は難度が高く、余人が陸奥のような経済オンチに指導されつつ実行するのではなかなか達成には及びがたい、井上クラスの知識と経験が必要であろうと井上自身が判断したのであろう、課題の難度の高さこそが井上が自身から手を挙げた理由であったのではなかろうか、と筆者は推定していますが、いかがでしょうか。

井上馨は、エジプト・モデルの適用で、課題を達成しようとした

では、公使に任命された井上馨は、この二つの、通常なら矛盾しそうな課題を、いかにして達成しようと考えていたのでしょうか。

藤村道生『日清戦争』は、井上が朝鮮国王に上奏した提案のうち、借款供与により海関、国内税、地方事務を掌握する方策は、イギリスがエジプトでおこなった例にならったものだと、井上自身が説明している、と述べています。

イギリスによるエジプトの保護国化については、すでに「帝国主義の時代 − エジプトの保護国化」のところで、その経緯を確認いたしました。1894年の朝鮮と、クローマー卿が着任しイギリスが実質的に保護国化を開始した1883年のエジプトとを比較すると、類似点と相違点は以下のようになるかと思います。

  • どちらも、財政破綻の状況にあり、自主的な財政再建は困難と見られていた
  • どちらも、直前に国内の政情が不安定化した(エジプトは革命、朝鮮は東学乱)
  • エジプトの財政破綻の主要な原因は、インフラ投資が過大すぎたこと、朝鮮の方はは税収の落ち込み
  • エジプトには巨額の対外債務があったが、朝鮮の対外債務はまだ小さかった
  • エジプトには外貨獲得できる運河や商品があったが、朝鮮の商品生産は未発達だった

クローマー卿は、財政破綻状態のエジプトを再建するのに、@支出の抑制、A収入増加のための税制改革と産業振興、B収入増加策の実施にどうしても不足する資金のみ新たな借款で手当て、という対策を実施しました。

この@〜Bは、現代の経営不振の企業の再建のさいにも、基本的に同類のモデルが適用されています。@現在の需要に合わない過剰能力は徹底してリストラし、A需要に合ったものを供給できる能力を強化する、B能力強化にはやはり資金の注入が必要なので資金を供与する、というモデルです。井上馨も、こうしたモデルが朝鮮の内政改革・財政再建にも有効、と判断したものと思います。

ところでエジプトは、巨額の対外債務があったために、クローマー卿が財政再建を主導することを拒否できず、イギリスによる実質的な保護国化が容易でした。また、エジプトはそれなりのインフラがあり、また外貨獲得が可能な商品もあったので、財政再建自体についても比較的に容易でした

それと比べて朝鮮は、商品生産が発達していなかったため収入増加は容易ではなく、支出抑制にも収入増加にも、両班の既得権の撤廃など、既存秩序の抜本的な革新が必須でした。すなわち、財政破綻の程度はエジプトより軽微でも、財政再建の難易度は決して低くはなかったように思われます。加えて、対外債務もさほど巨額ではなかったため、井上馨が発揮できる影響力は、クローマー卿よりは厳しい条件にあった、と言わざるを得ないように思われます。

井上馨の立てた具体的な方策

森山茂徳 『近代日韓関係史研究』は、朝鮮内政改革を主要目的とする井上の対韓政策には、三つの要素があり、その第一は宮中の非政治化、第二は近代的法治国家体制の創出とそのための日本人顧問官による朝鮮政務の監督、第三は借款供与と利権獲得とによる朝鮮の対日経済従属化であった、としています。

個々の要素の優先順位なども考慮すると、井上馨が公使となることを引受けた時に立てた方策は、具体的には、下記のものではなかったろうかと、筆者は推定しています。

  • 対外公式宣言通りに、朝鮮の内政改革を先行させるが、内政改革の中心課題は財政再建である。財政再建がなされてはじめて国家が安定し、農民叛乱も防止でき、ロシアなどの介入も防止できるからである。
  • 財政再建には、国政システムの全面的な刷新、政治経済社会体制の変革が必至であるが、その際に重要なことは、国王・閔妃が内閣に恣意的な口出しを出来ないようにするなど、近代的な法治による政治システムを作り上げることである。
  • 当面の苦境を救う為にも、また内政改革・財政再建を推進していくためにも、とにかく不可欠な資金を、日本から供給する。それによって内政改革・財政再建が進展するだけでなく、日本からの債務が増加することで、日本の影響力の拡大=従属国化の進展が図れる
  • 日本からの援助を先行させ、日本との関係拡大のメリットを理解させるのが先であり、それがなされれば利権はついてくる。メリットを与える前に利権を拡大しようと試みることは、敵対関係につながるので、望ましい結果を生まなくなる。
  • 国政システムの全面的な刷新、旧来からの政治的経済的社会的体制への変革が必至であるが、これはある程度独裁的でないと進められないので、その点でもクローマー卿から学び高圧的な姿勢をとって、変革を推進させる
すでに、「戦争前の日清朝の状況 − 東学乱まで」のところで確認しました通り、もともと井上馨は現実的な対外協調論者です。対外目標の内政改革の成功と、対内目標の朝鮮従属国化の二つを考えれば、間違いなく対外目標を優先したものと思われます。そうすれば、少なくとも日本の国際的な威信を維持できます。

そして、財政や事業がよく分かった実務家でもある井上馨は、内政改革に必要な資金を日本が提供することで、対外・対内の二つの課題を同時に追及することが出来る、と考えたのででしょう。

筆者は、日本からの借款の供与が、井上の計画のなかで最も重要かつ不可欠な部分であり、それなしには目標を達成し得ないと井上は考えていた、また井上が高圧的であったのは、難易度の高い目標達成のための手段として、敢えてそうしていた、と推定するのですが、いかがでしょうか。

1894年10月 井上公使の着任 − 財政危機はますます深刻化

おそらく上記のような方策をもって着任した井上馨でしたが、朝鮮の財政状況はますます悪化していました。以下は、藤村道生 『日清戦争』からの要約です。

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井上馨の朝鮮公使就任

井上は公使に任命されたが、事実上、「監国」として朝鮮政府に君臨することが目的。10月26日ソウルに着任し「右に大院君を斥け、左に王妃を抑える」方針、ただちに大院君を政権から排除。軍国機務処も廃止。

井上公使は11月20日と21日の両日にわたって、内政改革綱領20か条を朝鮮国王に上奏。その意味は、12月4日陸奥外相への具申で、「現今の機会に乗じ、軍略的関係ならびに実利的関係における我帝国の地位を鞏固」にするため、借款貸与により海関・国内税・地方事務を掌握する方策は、イギリスがエジプトで行った例にならったもの、と説明。

旱魃と戦災による農民暴動の再発で、財政危機は深刻化

この年朝鮮南部は旱魃、北部は戦争の災害、飢饉は全国に拡がり、秋収期には各地で農民叛乱、政府が租税を徴集しうる可能性は京畿道のみとなり、財政危機は深刻化。10月、東学党の再蜂起。しかし、農民軍は政府軍と日本軍の圧倒的な火力のまえに敗退。農民軍指導者は12月末に逮捕、甲午農民戦争は終結。井上公使の報告、「慶尚、全羅、忠清の三道は東学のために蹂躙せられ、黄海、平安の二道は日清の戦争と東学党のためにほとんど荒廃……若しこのままに打過ぎなば官吏は離心を生じ、兵隊は乱暴をはたらき支離滅裂」

財政危機は深刻、旧暦歳末に文武官の俸給の未払額は平均三か月、「一時騒擾のおそれ」。政府の負債は208万円。内政改革実行にも500万円必要。朝鮮政府の平年度歳入額は約750万円だが、戦乱のため激減、財政は完全に破綻。

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この1894年秋に起こった農民叛乱は、明確に反日を標榜していました。これについて、以下は原田敬一 『日清・日露戦争』からの要約です。

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東学乱の再度の武装蜂起は、もうひとつの日清戦争

戦争協力を拒否せよ、という東学の呼びかけは7月下旬には広がっていた。軍用電信を破壊し、兵站線や兵站部を襲う東学農民軍の「討伐」は、日清戦争の勝敗に重要な問題。さらに東学「討伐」の帰趨はロシア軍介入如何に関わるため、10月、陸奥外相は井上馨朝鮮駐在公使に打電し、東学勢力が朝鮮北部に向かわないよう厳重な注意を与えた。

全○準 ○は王ヘンに奉を盟主とする東学主力の再度の武装蜂起は10月9日。東学農民軍への本格的な弾圧が、11月から翌95年4月初旬にかけて継続。弾圧部隊の主力は、2700名の日本軍。それに2800名の朝鮮政府軍、各地の民堡軍が加わり、村の隅々まで捜索する「討伐」作戦を続け、最西南端の海南・珍島まで追いつめ文字通り殲滅した。5か月間の農民軍の戦闘回数は46回、農民軍参加人員は延べ13万4750人と推定されている。もう一つの日清戦争であった。

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この94年秋の東学の武装蜂起は、朴宗根 『日清戦争と朝鮮』に詳しく記述されています。朴宗根は、義兵運動の開始の契機は、94年の日本軍の朝鮮侵入による王宮占領事件としたほうが客観的事実に合致していると思われる、としています。また、地方の反日運動は、日本軍の牙山進撃にともなう徴発への反対としてなされていたが、日本軍の北進する時点から積極的に展開される、としています。

日本は、7月23日の王宮襲撃事件によって、日清開戦の条件を作ることができたものの、その副作用として反日感情を高めてしまっただけでなく、さらにそれが反日武装蜂起というネガティブインパクトまで生み出した、といえるようです。

どれだけ深刻な財政危機だったか

当時の朝鮮の人口ですが、1200〜1300万人程度と朝鮮政府が推定(イザベラ・バード 『朝鮮紀行』)しています。他方日本の人口は、1893年に4893万人(『帝国統計年鑑』)であったので、人口では朝鮮は日本の約4分の1程度でした。

国家予算の規模は、「彼ら〔甲午開化派〕が権力を掌握した当時〔1894年〕、朝鮮政府の歳入は…500万円にも及ばないもので、これは日清戦争勃発以前の1893年の日本政府の歳入約8000万円の16分の1程度の規模にすぎなかった」(柳永益 『日清戦争期の韓国改革運動−甲午更張運動』)というのですから、人口一人当たりに換算すれば日本の4分の1、それだけ国力の差があったようです。

この1894年末の朝鮮の財政危機状態は、『世外井上公伝』では、下記のように記されています。

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朝鮮の財政状態は困迫窮乏の極、殆どその策の施しようなし

公はつとに朝鮮財政の整理調査に鋭意努力したのであったが、歳入の状況すら容易に明瞭になしかねた。僅かに明らかになし得たものといえば、仁川・釜山・元山の三税関における一年約40万円余りの税収のみで、この外に正当の収支は一も分明のものがない。

よしこれを分明にしても収支の償わぬことはもとより論なく、ことに平安・黄海の二道は日清戦争のために蹂躙せられ、全羅・忠清の二道および慶尚の半ばは東学党の略奪に遭い、到底これらから租税の徴収をなし得べくもない。先ず徴税の望みある所といえば、京畿・江原の二道と咸鏡道とがある位のものである。これでは政費さえ弁じかねることはいうまでもなく、当時総理大臣はじめ各閣僚は僅かの月給の半ばを割き、ようやくこれを警察の費途に当て、また文武官に与うべき給料の如きは殆ど三箇月も未払という有様であった。

朝鮮の財政がかくのごとくであるから、旧暦十二月に入り、年末の迫るにつれ、官吏・兵隊の怨言苦情はかまびすしくなり、このまま捨て置けば由々しき事態が発生する恐れさえあった。

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公務員給与が支払えないほどの状況ですから、日本軍の介入がなければ、内乱の深刻化を招き、王朝が崩壊することもありえたような、重大な危機に瀕していたとみるのが妥当と思われます。

内乱は軍事的に抑え込めても、危機の根本理由であった財政危機を救うためには、とにかく資金が必要でした。したがって当時の朝鮮政府は、日本からの借款を切実に求めていたに違いありません。

井上公使が着任して、内政改革は進んだのか

この時期に、朝鮮の内政改革はどう進んだのか、以下に柳永益の前掲書、 『日清戦争期の韓国改革運動』から確認したいと思います。やはり、必要資金の手配が出来るまで何もできなかったのが実態であったようです。

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井上公使による改革 − 朝鮮最初の近代的予算を編成

12月17日に金弘集・朴泳孝連立内閣。井上は、就任2ヶ月にして朝鮮の宮廷と政府を思いのままに操縦できる位置を確保。しかし、井上に政治不干渉を約束した閔妃はその実は高宗の背後で実権を引き続き掌握。

井上は、朝鮮政府の財政実体の把握作業に11月16日から着手、1895年1月17日に仁尾惟茂が度支部顧問、特に朝鮮政府の内・外債累計と歳出入規模などを明らかに。こうした基礎調査に立脚して、3月22日には朝鮮最初の近代的予算である1895年度(4月開始の会計年度)予算案が編成された。

借款導入が容易に進まず、改革も足踏み

その他のさまざまな改革制度は、前年12月4日から急がせてきた五百万円の借款導入が実現するときまで、その推進を保留。借款導入計画は容易には進まず、1895年3月30日になってようやく三百万円のみの借款が実現し、この時点から種々の改革法案を制定・公布することができた。

改革法令が施行された4月19日以降、三国干渉(4月23日)。井上公使が赴任直後に大言壮語していた「内政改革」は、内閣制度の導入と訓練隊の創設、それに予算の編制以外には特に成果がないまま終わった。

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進行中の日清戦争では、すでに日本の軍事的優勢が明確になっていました。その状況で、井上馨という大物公使が着任しました。したがって、内政改革はどんどん進展するはずの時期でした。

さすが井上馨といえる業績として、朝鮮政府の財政状況の実態を明確にして、初めて近代的な予算編成を行った、という点があったようです。確かに、そうした整理なしに、国家を順調に運営することは困難です。

にもかかわらず、朝鮮政府に金がないため、日本が朝鮮政府に迅速に必要な借款を供与できなかったため、内政改革全般が進展しなかったようです。

井上公使は、内政改革の実行のため、日本から借款を求めた

すなわち、改革資金の調達が内政改革の最重要課題でした。その点については、『世外井上公伝』にも、内政改革を「実行し、完成の域に達せしめるにあたって必要欠くべからざるものは改革資金である。この資金を如何にして拈出すべきか。公の最も頭を悩ませた問題はこの資金調達一件であった」と記されています。

では、井上馨はどのように日本側と借款の交渉を行ったのでしょうか。同じく、『世外井上公伝』からの要約です。

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井上馨は、12月4日、秘書官を日本に派遣

かく財政的に行詰っている朝鮮政府に対し、如何に立派な改革案を提示し強制してみたところで、実行の可能性がある筈はない。公が進んでその理論を行うには、必然的に改革資金の供給にまで立到らねばならぬ。しかしてこれまた改革の責に任じた我が国の義務でもある。

すなわち公は12月4日に安広秘書官を特に帰朝せしめ、朝鮮財政の困難な事情を報告し、かつ五百万円公債募集の緊急意見を我が政府に進言せしめた所以である。

さらに、12月25日付けで伊藤首相に書簡を送付

同月25日に伊藤に寄せた公の書翰中に、

何分にもただ名義上独立の実を迫り立見候ても、経済の点に至りては終に他よりまた手を出さしむるの外致しかたこれなく…。たとい五百万円貸付候ても、申し述べ候通り租税抵当に取り置き、かつその取締りのため我が官吏を派出せしめ候義ゆえ随分堅固にこれあるべく、また税関も当年収入は六十万以上に至り申しべく候。

…もっとも政府より貸付け候も如何敷く候ゆえ、日本銀行または正金銀行よりして、金額一度には及び申さず、明年中にて充分と存じ候。左候わばたとえば百万円銀を貸与候えば、これに対し六分の引換の資を備わしめば、百四十万円兌換紙幣を発行せしめ得られ申すべきにつき、九度または十度に分かち候て苦しからず候。

…右の資金これなくては改良着手に懸かられ申さず候□間、とくと御勘案の上、至急ご決定願い奉り候。この義御否決に至り候えば、小生滞在は実に無用に候間、辞退仕り候ほか致し方これなく候間、この義はお含み置き成り下されたく候。…英国のイヂツプトにおける政策を取るの手段に出るの意に御座候…。

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すなわち、井上馨としては、融資は日本銀行からでよいが、総額500万円を銀貨で貸付けてほしい、そうすれば朝鮮側は700万円の兌換銀行券を発行できる、融資は分割でかまわない、という計画であったわけです。

井上の計画は、兌換銀行券の発行による借款の一層の活用

つまり、井上馨は、単に借款の供与を求めたというだけではなく、そこから得られる資金をさらに有効に活用しようという意欲にあふれていたことが明瞭です。

兌換銀行券の発行は、当時の朝鮮にはまだなかったことを新たに開始しようとするものでした。実際に兌換銀行券を通用させることがどこまでできそうだったか、ということには議論があるかもしれませんが、まずはこれを朝鮮金融システムの近代化の足掛かりにしたい、という気持ちがあったのではないか、と推定します。

その時、大量の紙幣を発行すれば、インフレを生じる懸念もあります。融資は分割で構わないというのは、インフレ状況を見ながら対応が出来るようにするつもりである、という、財政責任者が当然に配慮すべきことを気にしていた、というようにも思われます。

井上の伊藤あて書簡で最も注目すべき点は、この借款が認められないなら、自分が朝鮮に居る意味がない、辞任すると言い切っている点と、この計画がイギリスによるエジプトの実質保護国化をモデルにしていることを改めて説明している点の2点にあると思います。

内政改革の成功と朝鮮従属国化方針の二兎を追うなら、借款を井上の計画通りに供給すべきであるが、そうでないなら日本政府は方針を転換することになり、自分が朝鮮に居続ける必要もなくなる、というのは、井上馨がきわめて妥当な状況認識を持っていたことを示しているように思われますが、いかがでしょうか。

日本からの借款の供与は、順調には進まず

井上の期待に反し、日本からの借款の獲得は、順調には進みませんでした。以下は、また藤村道生 『日清戦争』からの要約です。

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旧暦歳末の緊急融資、第一銀行は高利率を要求

井上公使は旧暦歳末の危急を救うため、官吏給料をとりあえず1ヶ月分だけ支払うことにし、第一銀行に30万円の借款を求めたが、第一銀行は年利1割を要求、従来清国が供与した利率は8分以下であったから日本の権威は失墜。井上は魚度支相を脅迫し、沿岸航路開設特権をうばい、それを代償にようやく第一銀行に8分の利率を承諾させた。

井上は、民間資金が間に合わぬなら軍事費から支出を要求

この状況では内政改革借款は不可能。井上は1895年1月12日、「国債できざるときは、朝鮮政府は年をこえること難く、公使みずからもその位置にいること能わず」と電報し、日本政府に、民間資金が間に合わぬなら軍事費から支出せよと迫る。

伊藤首相は、朝鮮に政府資金を貸与すれば、英露の容喙を生むから、厳密に「私法上の契約」にもとづく資金以外は貸出せないと、井上の要請を拒否。日本政府は、三井、三菱、第一の各銀行を必死に説得し、銀行団はようやく国債の引き受けには同意したが、正貨不足のため日本紙幣を貸し付けるとの条件。

日本政府の最終結論は、300万円の日本紙幣の貸付

日本資本主義の弱体性が最大の障害に。日本政府の最終結論は、国庫から支出した300万円の日本紙幣を日銀の名前で貸付け、朝鮮法貨に準じて通用させ、その間朝鮮政府に紙幣発行を差し止めるというもの。

井上はこの結論に、一方では他国に口実を与えざるようにと用心しながら、他の一方では朝鮮政府を拘束するのは矛盾、と反対。もしこの結論が変更できないのならば、むしろ「貸金を止め、これと同時に我が政策を変え、干渉の手段を縮めてその成行に任せ」るのが得策と主張した。

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井上馨は、朝鮮に利権を認めさせたければ、まずは朝鮮政府の要望をかなえて借款を供与せよ、と主張、一方陸奥は、まずは利権を認めさせよ、という主張だったと読めそうです。ビジネスの交渉として考えた時、井上説と陸奥説でどちらがまとまりそうか、といえば、明らかに井上説の方で、陸奥説は相手から嫌われて交渉に失敗することが多いパターンと言えるように思います。

この問題については、柳永益 『日清戦争期の韓国改革運動』からも、確認しておきたいと思います。

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井上公使は、1月中旬までに五百万円借款を実現させようと全力

1894年12月4日陸奥宛に送った長文の政策建議書で初めて示され、1895年3月14日までに追加送付した数々の報告書の中で詳細に言及。井上にとって五百万円は、これこそが朝鮮をエジプトのような保護国にするのに最も効果的な道具。井上はこの計画をきわめて重視、1月中旬までに五百万円借款案を実現させようと全力を傾注。

日本政府の対応は、井上公使の思惑から大きく乖離、朝鮮政府も憤慨

陸奥は大蔵大臣渡辺国武とともに主要銀行の代表と会って朝鮮公債を引き受けるように勧誘、銀行団の説得は不首尾に。結局、2月22日に、陸奥は伊藤や渡辺と協議の上、政府予算の中から三百万円を日本銀行に下付し、日本銀行の名義でこれを朝鮮政府に貸与することに決定し、三百万円貸与案は2月23日に衆議院と参議院を通過。

この三百万円貸与案は、井上公使の当初の思惑とはあまりにかけ離れたもの、また朝鮮政府代表をひどく失望・憤慨させるもの。半額は銀貨で残り半額は日本兌換券で支給などの「朝鮮国の実情を無視した苛酷」な借款条件に強く反発し、朝鮮政府内には「飢餓を忍んでも」こうした悪条件の借款を拒絶せんとの感情も招来。この借款は政治的借款としては効果よりも逆効果を招くものであった。

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日本政府側が口実にした、「英露の容喙を生む」から政府資金は貸せない、という理屈もよくわかりません。「英露の容喙」を避ける方法は、まずは借款供与の適切な理由を設定すること、すなわち、日清戦争の結果生じた民生への被害や日本軍の兵站協力への補償、などの列強が受入れてくれそうな口実をひねり出すことと、たとえ民間資金であったとしても利権とセットにしない、すなわち利権を短兵急に求めないことが重要だったと思います。

井上馨からの要請に対し、日本は朝鮮に金を貸すことにはしたものの、@決定を2ヶ月以上も遅らせた、A金額を500万円から300万円にケチった、B銀貨で借りて兌換紙幣の発行という井上の要請は、さらにケチられて150万円だけになった、C残り150万円は日本銀行兌換券という朝鮮の独立に抵触しかねないリーズナブルとはいえない条件までつけた、ということになりました。

陸奥自身が原因で、陸奥が望んだ日本の利権獲得も進まず

もう一つ、森山茂徳 『近代日韓関係史研究』は、借款問題についての井上と陸奥との考え方の相違について、次のように記しています。要約です。

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陸奥はとにかく利権獲得重視

借款供与、陸奥外相も「朝鮮の財政困難」を認めていたが、彼には現地の井上ほどの切迫感なし。陸奥は借款供与といった間接的手段よりも、直接的な利権獲得を重要視し、条約草案を作成しすでに井上に送っていた。

陸奥は借款供与を民間ベースで行うことによって、帝国議会の関与を避けようとしていたが、当の民間銀行家たちは、正貨の国外流出と朝鮮政府の返済能力不足とを極度に警戒、厳しい貸与条件を附し、海関税を担保として利息を年1割以上を要求。陸奥は井上に対しては500万円を300万円に減額要請。この間一旦実現したかにみえた宮中非政治化は旧に復する傾向。借款供与が行われない以上、井上はその見返りとしての利権要求を行うことはできず。

陸奥の介入は、結果的に大韓政策の実現に支障

井上は217日に伊藤と陸奥にそれぞれ書翰、利権獲得のみを追及するときは朝鮮を独立させると公言した日本側の立場と矛盾する故、相互の利益を並進させる方策を採る方がよい、という考え方を強調。

ここに至り借款問題は急速に解決に向かって進展。日本政府は民間ベースによる起債を断念し、臨時軍事費中より300万円を貸与することに決し、そのための追加予算案は法部顧問星亨の意向をうけた自由党などの賛同もあり、223日に衆議院を通過、成立。さらに借款協約の成立までに多くの日数を要したことは、井上の対韓政策の実現に大きな支障を作り出した。利権獲得もその例外ではなかった。

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陸奥からの利権獲得要求について、藤村道生 『日清戦争』は、鉄道、電信条約については、政府は1月17日、交渉開始を訓令した、朝鮮側は、支那の属邦だったときでも今回のように我が国権を検束されたことはないと激しく抵抗し、井上公使も本国に条件の緩和を交渉したが、陸奥外相は「今日の好機会に乗じ、朝鮮の全電信をわが管理のもとに」と強調し、かさねてその推進を要求した、と記しています。

朝鮮については清国勢力を駆逐しただけの状況を「今日の好機会」と言えるのかどうか、また、経済的に妥当な対価の支払いなしに利権をよこせと言って、通じるものか、陸奥は利権獲得の交渉手法で、全くの無理を試みようとした、と言えるように思います。

さらに借款供与について、最初は民間ベースを試みようとしたようですが、陸奥は大鳥公使時代の鉄道建設での民間への協力呼びかけの経験から、何も学習せず、その反省もなかったようです。

陸奥は全く勘違いをしていたようにしか思われません。陸奥の言うとおりに突っ張るだけでは、無理筋で、交渉がまとまるはずはありません。無理な交渉の結果、内政改革の実行にも支障を生じさせました。利権獲得未達成についても、さらには内政改革の進捗停滞・従属国化への反発拡大についても、その主要な責任は陸奥にあった、と言えるように思います。利権に関わりなく借款を要請し、利権交渉では条件の緩和を要求した井上の方が、やはり陸奥より交渉術を心得ていたと思います。

井上馨による、日本の一国利得主義への批判

井上馨は、日本の利益だけを近視眼的に求める、その当時の日本の風潮も痛烈に批判しています。以下は、『世外井上公伝』に引用された、井上馨の1895年2月17日付陸奥外相あて意見書の一部です。

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唯一途に日本の利益のみを図ることは、独立の公言に矛盾

近来我邦新聞紙の説くところ、ならびに続々渡韓し来る有志者の論ずるところを聞くに、何れも皆日本の利益をのみ主とし、或は鉱山を我が手において開くべしと云い、或は我が人民を内地に移殖すべしと云い、或は製魚場を設立すべし等、工業に商業にひたすら我が利のみをこれ図るを唯一の目的とする者多々増加せり。

本官は、我が国の利益を増進せしめんことは希望するところなれども、唯一途に日本人民の利益のみを図るときは、すなわち朝鮮の利益はことごとく日本人の利益に帰するの結果を来す。かくの如くに至るときは、朝鮮独立の実は何に依りて成立するを得るや。これすなわち、日本政府が朝鮮を独立せしめんと公言したる趣意と矛盾するに至らん。因りて、本官は、朝鮮に対し、将来彼の利益を奪わず、我の利を失わず、相互の利益を並進せしむるの方針を取らんと欲する考えにこれあり候。

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「新聞紙」や「渡韓し来る有志者」の主張とは言っているものの、内政改革には関心が低く、利権拡大にだけ熱心な陸奥自身への痛烈な皮肉、であるように思われます。井上は陸奥に対し、日本政府の課題は、内政改革の成功と従属国化の二つであったはずである、利権の短期的な獲得追求は、虻蜂取らずになって、その二つの課題の実現をむしろ阻害することになる、という指摘をしているように思われます。

現代風にいえば、陸奥は、本社の論理に染まりきった、まだ若くて出世欲の強い本社側のエリート責任者、井上は、実務能力が高く現地側の事情もよく理解している、年齢が年齢なのでもう出世欲など持っていない海外現地法人の社長、といったところでしょうか。

三国干渉後に実際に発生した状況を考えれば、井上の見方こそ適切であり、陸奥は目先の利益最大化にこだわって、まさしく虻蜂取らずの結果を生じさせた、と言えるように思います。

朝鮮の経済危機は、影響力拡大への絶好の機会だった

企業でも個人でも、資金的に生きるか死ぬかという苦しい状況にある時に、金を融通してくれる相手がいれば、その融資条件や相手の意向にできるだけ沿うように努力するのが当然です。こういうタイミングで、日本政府が迅速にしかるべき金額の借款を出せれば、日本政府のつける条件がリーズナブルである限りは、その条件にできるだけ対応しようとするでしょう。日本の影響力が拡大できる絶好のチャンスでした。

財政面で日本を当てにできることが現実に示せれば、親日派勢力を大きく拡大できていたでしょう。すでに親日派の人々は、現に資金の裏付けを得て内政改革を実行できるようになり、その政治的な立場をますます強くできたでしょう。

さらに、財政支援のおかげで内政改革が順調に進めば、動向を注視している列強から、日本がますます評価されたでしょう。一方、内政改革があまり順調に進まず、結果的に朝鮮政府が借款を計画通りに返すことに困難を生じたなら、朝鮮政府は日本側の追加条件をのまざるをえなくなって、日本の保護国化に向かって一層進んでいったでしょう。内政改革そのものは、順調に進んでも、あまり順調ではなくても、日本にとってはどちらでも損はありませんでした。ただ、適切な財政支援が不可欠でした。

せっかくの機会を自ら放棄した日本政府の重大な判断ミス

ところが、日本政府、すなわち陸奥と伊藤らは、財政支援のタイミングを遅らせ、金額をケチり、さらにはリーズナブルではない条件まで付けました。その意味で、井上馨による内政改革を失敗させた最大原因者は、当時の日本政府自身であった、と断定できるように思います。

すでに確認しました通り、日本が日清戦争の戦費(臨時軍事費)として支出したのは2億円の巨額でした。井上馨が求めていたのは、さしあたり500万円程度の資金であり、日清戦争の戦費と比べれば、はした金といってよいレベルでした。

この段階ではすでに清国に対する戦勝は間違いなく、金額は不明でも、賠償金は確実に取れそうな状況でした。日本政府は、朝鮮を危機から救うための融資を、あまり条件はつけず、金額もケチらず、むしろ500万円の要求には最大1000万円まで融資枠をコミットするぐらいに、積極的に行うべきだったと思います。

井上が希望した通りに、日本政府が1月中に借款供与を行っていれば、三国干渉までには内政改革の実績もそれなりに上がりだしていて、三国干渉が朝鮮に与えた影響も軽減できていた可能性が高いと思います。

その反対に、三国干渉の前の時点で、借款供与を期待通りに行わなかったことによって、日本への失望感をいだかせ、それまでの支持者すら失う結果になりました。そうした流れが、三国干渉による日本の威信低下で、さらに増幅されていった、と言えるように思います。その点で本件は、三国干渉を招くような非常識な領土割譲要求を行ったことと同様の、非常に深刻・重大な判断ミスであったと思われます。

日本政府のミス判断に、井上はやる気を失った?

上に見ました通り、井上馨は1894年12月25日付け伊藤あて書簡で、借款が認められなければ自分が自分が朝鮮にいる意味はなく辞任する、と明言しています。ところが日本政府は、井上馨の作戦を十分に承知していながら、最重要・不可欠の借款の供与を、適切には行いませんでした。日本政府が、自分が立てた作戦通りに動いてくれれば、ちゃんと日本政府自身の課題を達成できるのに、なぜそうしないのか、井上はイライラしていたのではないでしょうか。

当時の日本政府側が、朝鮮問題に井上馨案よりも優れた対案を持っていた、とか、内政改革と従属国化の課題を見直した、などという話はどの研究書にもありません。おそらくは、内政改革と従属国化の手段として、すなわち重大な政治的課題として方策を検討したのではなく、単に一つの対外借款供与案件として実務的レベルでの検討だけを行ったために、井上提案の大幅修正という結論になってしまったのではないだろうか、という気がしますがいかがでしょうか。

井上が、日本政府の結論を変更できないのなら、むしろ「貸金を止め、これと同時に我が政策を変え、干渉の手段を縮めてその成行に任せ」るのが得策と主張した、というのは、まさしく井上の本音だったのではなかろうか、という気が致します。

すなわち、井上馨は、遅くとも1895年3月終わりまでに、彼の借款供与要請に対する日本からの回答に相当失望していて、公使としてのやる気を失いつつあったのではないか、というのが筆者の推定なのですが、いかがでしょうか。

井上の失敗理由には、国王・王妃対策が不十分だった点も

ただし、井上の課題未達成の責任を、全て日本政府側に押し付けることも、妥当ではないように思われます。

井上の二つの課題、すなわち内政改革と従属国化のうち、従属国化については当然ながら朝鮮側と利害対立せざるをえない課題でしたので、それは結果的に達成されるものとして、朝鮮に対しては、表面的には内政改革のみに集中して達成を目指す必要がありました。

当時の朝鮮は王政ですから、政策の最終決定権限者である国王・王妃に、内政改革の必要性を十分に認識してもらえるかどうかが、内政改革を計画し実行する上で、きわめて重要な要素になりますが、その点に大きな困難がありました。

もともと、従属国化というもう一つの課題が、隠そうとしても隠しきれない状況であったこともあり、国王・王妃からすれば、井上馨の発言は何がしか割り引いてしか聴かないのが当り前であったろうと思われます。それでも、朝鮮が置かれた客観的な状況からすれば、内政改革は実施せざるを得ないのだ、ということを納得してもらわないと、、内政改革が順調に進捗することはありえません。

井上馨が課題未達成に終わることになった理由の一つとして、国王・王妃対策が十分とは言えなかった、結局国王・王妃には内政改革の必要性を十分には理解してもらえなかった、と言わざるを得ないように思います。

内政改革の阻害要因となった、国王・王妃の「君権」維持の欲求

木村幹 『高宗・閔妃』は、この時期の「高宗と閔妃が不満としていたのは、改革そのものよりも、改革によって、高宗の権力、つまり「君権」が失われ、臣下の権力「臣権」に取って代わられることだった」と見ています。

すなわち当時の朝鮮の権力状況は、「絶対的な「君権」を何がなんでも守ろうとする高宗・閔妃と、「内政改革」によりこの権力を内閣に移そうとする日本と諸大臣、そして、王位を狙う大院君と李呵O」の「三つ巴」だった、という説明です。三つ巴で政権の主導権を争っていれば、短期間で改革を実施していくことはきわめて困難です。とりわけ、高宗・閔妃が「君権」にこだわることは、臣下が実施しようとする内政改革案を混乱させ抑止する方向にしか働きません。

当時の朝鮮の王政にとっての最大の課題は、両班層の権益の肥大が原因となって財政危機に陥り、また行政システムも機能しなくなっていたため、農民反乱が頻発するような状況に陥っていたのに、それを鎮圧できる自前の軍事力すら保有していなかったことにありました。

まさしく王朝が生き延びられるか否か、という危機的な状況であり、生き延びるためには財政危機の根本原因である両班層の権益抑制に乗り出すほかはない、すなわち内政改革の実施が必須である、君権の維持より内政改革の実施の方が優先である、という状況であったことを、国王・王妃がどこまで理解していたかが問題です。

これは推定ですが、井上が、こうした朝鮮の状況について、国王・王妃に繰り返し説明したことは間違いないでしょう。さらに井上は、欧州列強には、立憲制により君主権の制限を行うことで君主制が生き延びてきた歴史があること、「君臨すれども統治せず」のように君主制が制限されている方が、むしろ君主の地位の安定につながっているのが現実であることも、説明して来たのではなかろうかと思います。井上は繰り返し説いてきたが、国王・王妃に納得してもらうことはできなかった、というところではないでしょうか。

井上はもともと、裏側にある日本の従属国化政策を見透かされていて、その発言は割り引いて聴かれる立場でした。繰り返し説明したから義務は果たした、ということにはなりません。企業の活動なら、相手先との交渉で、相手の頭が悪くて理解してもらえませんでした、では、弁解にもなりません。相手の理解がまだ足りないと思えば、手を変え品を変え、説明のやり方をいろいろ工夫して、相手にとことん納得してもらえるように一層の努力を行う必要があったと思います。

高宗・閔妃の判断の誤り

朝鮮国王・王妃の立場で考えれば、自分たちの王政を維持することを最大の課題として、当面は、「君権」では妥協しつつ、井上や臣下の内政改革の成果を都合よく活用する手を考えるのが良かったのではなかろうか、と思います。財政危機が原因で王政が崩壊してしまえば、君権の維持もなにもあったものではなかったからです。

日本の動きには従属国化の願望が露骨に見えているといっても、内政改革を回避したのでは、そもそも生き延びられない、というところが肝心のところです。うまく有効活用を考える方が、結果的に、王政と独立の双方を維持することに繋がったのではないか、と思います。

しかし、高宗と閔妃は、そうはしませんでした。それよりも自分たちの「君権」の維持を図ることの方が最重要課題である、と考えてしまったようです。三国干渉後は、自分たちの君権を守ることに協力してくれるなら、ロシアと手を組みたい、という方向に動いてしまいました。

体制の危機の根本課題であった財政問題よりも、表面的な問題にすぎない自分たちの君権の維持を優先課題としてしまった、優先順位付けが適切ではなかった、と言えるように思います。当然ながら、根本問題である財政問題と、そのカイゼンのための内政改革が後回しになります。国王・王妃によるこの判断が、のちには朝鮮の独立の圧殺と君権の喪失という、その願望とは正反対の結末を生じさせてしまったように思います。

高宗・閔妃は、国王・王妃としての儒教教育を一貫して受けてきた人々です。彼らの儒教観念からすれば、内政改革の成果だけを都合よく利用するようなプラグマティックな考え方は、そもそもできなかったのかもしれません。そうであるなら、儒教というものが、19世紀後半には、時代に不適合になっていたことの現れであった、と言わざるを得ないのかもしれません。

 

ようやく日本からの借款が得られたのが1895年の3月末、翌4月に三国干渉が起り、朝鮮の状況はすっかり変わってしまいます。次は、三国干渉から、井上公使の退任、三浦公使の後継着任までの朝鮮の状況についてです。

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