3c 朝鮮出兵と開戦決定

 

 

日清戦争は、1894年7月25日、朝鮮で開戦されました。

朝鮮では、1894年の春に東学乱が発生したところまでは、すでに状況を確認しました。ここでは、それに対し、同年6~7月、日清間に実際に戦争が開始される直前の時点までの経緯、日本政府による朝鮮への派兵や開戦の決定に至ったプロセスなどを確認したいと思います。

 

1894年6月前半、日清両国による朝鮮への派兵

日本政府の派兵・開戦方針の決定に関する諸学説

まずは、日本政府が大軍を派兵を決定、さらに対清開戦方針を決定した6月前半の状況についてです。5月31日、朝鮮では東学軍が全州府を占領するまでに勢いを得ていました。(「2 戦争前の日清朝 - 2c4 朝鮮④ 東学乱まで」のページをご覧ください。)

以下は、高橋秀直 『日清戦争への道』 からの要約です。同書は、従来の学説について以下のように整理を行ったうえで、政府は当初から開戦を意図していたわけではなかったと論じています。

● 中塚・朴両氏は、政府は当初より開戦を意図との説、一般に概説書で広く受け入れられているのも開戦意図説
● 信夫・藤村両氏は、政府は朝鮮における日清の「権力の平均を維持」しようとしていたのみで開戦は意図せず、開戦を望む軍と望まない政府との対抗のなかで軍の政府に対する領導により開戦に至ったとの説
● 檜山氏は、政府は出兵の目的や将来の展望を十分に検討することなくこれを決定、さらに無思想的で場当り的な対応の結果開戦に至ったとの説
● なお、内政危機の打開が開戦の動機の一因であったことには、中塚・藤村両氏も一致し、檜山氏が批判しているのみで広く受け入れられている
● また、対外強硬策の実施を求めた政党や世論の国内的圧力が、政府の開戦決意の要因になったとすることには、すべての研究が一致している

つまり、日清戦争の開戦決定をめぐっては、政府開戦意図説、軍による開戦領導説、場当たり的開戦説の3説があり、3説とも対外硬世論の圧力があった点は一致している、ということであるようです。

政府は派兵決定時点では対清協調論、その後の国内世論圧力で開戦方針に転換

以下では、高橋秀直 『日清戦争への道』 によって、日本政府の具体的な動きを確認します。

東学党乱の発生と、日本からの朝鮮出兵の閣議決定

1894年5月、甲午農民戦争〔=東学乱〕が勃発、朝鮮政府内部で農民軍鎮圧のために清軍の派兵を請おうとする動き。6月2日、杉村代理公使の電報が到着、農民軍の全州占領と、朝鮮政府が清兵の派遣を請うたという袁世凱の談話。2日の閣議で朝鮮への出兵を決定。出兵策は、朝鮮状勢の緊迫が伝えられ出した5月下旬に政府内部で徐々に形づくられていったもの。
6月3日の段階では大鳥公使は巡査を伴い帰任することになっていたのが、翌4日、清軍の派遣が確実になり、あらためて海兵を伴う帯兵帰任方針が決定され、実際の5日の帰任となったと見るべき。伊藤首相は出兵について強い統率力を持っていた。
伊藤は「大兵」の出兵に強い意欲。このとき出兵が予定された兵力は混成一個旅団(約8000人)で、公使館・居留民保護の任務に対しては明らかに過大。

甲申事変の翌年、1885年の天津条約で、韓国に重大な変乱がおこった場合に日清両国もしくはその一国が出兵するとき、互いに「行文知照」し、事がおさまればすぐに撤兵する、という条項を合意していました(「2 戦争前の日清朝 - 2c2 朝鮮② 開国~甲申事変」)。したがって、この東学乱で清国が出兵するなら、日本も通知の上で出兵できる、というところまでは問題ないのですが。

出兵決定時は内乱拡大を予想、日清共同内政改革にも活用

大鳥公使への訓令(6月3日)、混成旅団長大島義昌・常備艦隊司令長官伊東祐亨への訓令(8日)、出兵目的の基本は、内乱拡大の予想にもとづく、公使館・居留民保護、さらには農民軍鎮圧への参加であった。
出兵には他の意図もあったとみるべき。大鳥の5月31日付けの陸奥外相宛書簡に、内政改革のための日清共同対朝干渉の機会に出兵を利用しようという提案。農民軍に備えるために派遣した兵は、朝鮮政府への圧力としても機能する。これを利用して朝鮮の内政改革を強いる。これが出兵についての伊藤のもう一つの意図であったと思われる。
対清開戦意図は政府の方針として存在していなかった。大鳥宛・派遣軍宛訓令、日清両軍の衝突をいさめていた。大山陸相の朝鮮派遣参謀への訓令、アジアの大局維持のための日清提携論、その立場よりの衝突回避論。大山陸相は本来対清対決論者、伊藤首相の指示により出されたものと見るべき。

東学乱の発生原因は、官の腐敗・収奪と朝鮮の財政危機にありました。したがって、この機会に「朝鮮の内政改革を強いる」ということも、問題の抜本的な解決の解決のためのカイゼン策であったことは間違いありません。ただし、それを清国と同意できるかは、全くの別問題でした。

当時の日本政府内には路線対立、伊藤の対清避戦が公式方針

このとき日本指導部内において、伊藤の対清避戦方針と、陸軍-陸奥の対清対決方針の二つの方針が対抗。出兵方針が決定される前夜、陸奥外相と川上参謀次長は、出兵を機として対清開戦を導くことに合意。しかし、政府の公的方針となったのは前者。
しかし、伊藤の意図の実現の前には大きな難題。第一に、日清共同干渉という伊藤の構想に清が同意するか。第二には、居留民・公使館保護以上の政策目標については、このとき〔政府全体の〕合意はできていなかった。

第一次輸送部隊4000名の出発と、大鳥公使の漢城到着

派兵の対象に、広島の第五師団第九旅団が決定。第一次輸送部隊4126名は出発できる部隊より逐次派兵されることになり、まず一戸兵衛少佐に率いられた大隊1024名がが9日宇品を出港。第一次輸送部隊の残部は大島義昌旅団長に率いられ、11日に9隻の船で次々と出発。
一方、大鳥は6月10日漢城着。内乱拡大の予想の前提は崩れ、11日夜より大鳥は、増兵不可を政府に向かってくり返し打電。一戸大隊以外の増兵見合わせを主張した大鳥電が大島部隊の出発前に着いていれば、彼らの派兵は差し止めになっていただろう。しかし、大島部隊はすでに宇品を出港。この1000名と4000名の差が持つ意味は、きわめて大。

5月31日に始まった東学軍の全州府占領は12日間、すなわち6月11日までで終わっています。つまり、天津条約で出兵の根拠となる重大な変乱が収まってしまったのですから、その夜大鳥公使が増兵不可の打電を繰り返し行ったのは当然でしょう。

6月15日 内閣の方針転換、対清開戦方針の決定

6月13日陸奥の大鳥宛電報、「何事も為さず、または何処へも行かずして、終に同所より空しく帰国するに至らば、甚だ不体裁なるのみならず、また政策の得たるものにあらず」。派兵部隊に軍事活動をなさせるべきという強行論を唱えつつある議会各党派の圧力を陸奥は強く意識していた。

「甚だ不体裁」というのは、議会や国内の世論に対して「甚だ不体裁」、という意味であったと思われます。陸奥は、外相であるのに、天津条約の精神よりも日本国内の議会対策を優先することに決めたようです。

6月13日閣議、農民軍の日清共同鎮圧、朝鮮内政改革、陸奥の主張で決定保留に。6月15日、陸奥の新案、留兵のまま協議、清側が協議に応じないときは日本単独で改革実行。内政改革提議の原案はその性格を一変し、清と協調するのではなく、清と対立し挑戦するものになった。
なぜ伊藤はこれを受け入れたか。当時の伊藤内閣の政治目標は立憲政治の確立。ところがすでに6月2日、議会を二度目の解散。もしも連続三度の解散なら、議会の否定、事実上の憲法の停止を意味する。近く迎える総選挙は、政府にとって何としても負けられない、政党・世論の動向はかつてなく重要、撤兵は至難の業。出兵以後、清に対抗して何らかの朝鮮政策を実現しようという、政党・ジャーナリズムの動きが急速に強まり、「騎虎の勢い」。こうして6月15日、伊藤内閣そして日本は、対清開戦方針を決意した。

伊藤首相も、政党・世論の動向を意識せざるを得なかったようです。

従来の研究は、出兵は開戦を意図して決定されたと理解。しかしこの理解は誤り、当初において政府は対清開戦を考えてはいなかった。出兵開始にあたり政府系新聞の『東京日日新聞』が世論が強硬論に走るのを阻止すべく論陣。解散決定後の政府にとり、対外硬派が選挙で勝利を占めるのを防ぐことが最大の課題。出兵が政党取りこみの手段と考えられていないばかりでなく、逆に政府批判の材料となりかねないものと危惧されていた。
6月2日の出兵決定は、国内の政治的危機打開の意図をもってなされたとする通説が成り立たないことは、以上より明らか。このとき出兵は、従来よりの朝鮮政策の流れのなかで、国内政局の動きとは別次元のものとして決定された。結果として内政的危機と重なることになってしまった。朝鮮内乱の鎮静化で、出兵がまったく無用のものとなると、出兵が決定的危機を招いてしまった。政府の出兵政策は国内政局により大きく拘束されることになった。

政府の中に、もともと開戦を意図した強硬論と、あくまで対清協調の範囲内での出兵を考えた協調論があり、出兵決定時点では協調論が政府(伊藤首相)の公式見解であった、それが、その後の国内世論からの圧力で開戦方針に転換を迫られてしまった、という見解であると思います。説得力が高い見解であるように思われます。

陸奥外相は、伊藤首相の意に反して開戦に引っ張っていった

内政危機打開の意図ではなかった、というのも、政府の公式見解はその意図ではなかった、ということであって、政府内にそうした意図を持っている大臣が全くいなかったと言っているわけではありません。

少なくとも陸奥外相は、明らかに、伊藤首相の意に反して開戦に引っ張っていった、と言えるように思います。この点について、大谷正 『日清戦争』 は、以下のように評価しています。

陸奥が開戦を主張した理由は、外相として彼が担当した条約改正交渉でミスを重ね、国内・国外の危機を招いてしまい、この失敗をカバーするため、日清協調ではなく開戦を望んだという、大石一男(『条約改正交渉史』)の解釈は説得的である。

陸奥外交は、日本の国益よりも、陸奥自身の個人的利益の追求に主眼があった、と見るのが妥当なように思われますがいかがでしょうか。

政府の清国との武力衝突の覚悟は、6月15日

檜山幸夫 『日清戦争』 は、以下のように見ています。

① 5月31日段階では、政府は朝鮮の事態の推移によっては陸海軍を派遣するという消極的出兵論で固まっていたが、その政策的意図は、日清均衡論にあり、日清対立論にはなかった
② 6月2日の閣議での出兵決定も、対清開戦を想定していなかった、しかし、
③ 6月13日には、内閣と藩閥権力を維持するために、不撤退方針を決意した伊藤内閣が、駐兵の口実を探し、朝鮮内政改革案の閣議検討を開始する、さらに、
④ 6月15日に、清国が拒否することを承知で、対韓対清強硬案を追加した日清共同内政改革案を決定した段階で、政府は清国との武力衝突を覚悟したことになる

なお、日本は6月4日に大本営設置を決定、翌5日に大本営を参謀本部内に設置していますが、この時点では、内乱は拡大するとの見方であっただけに、対清開戦の意図が無かったことと矛盾はしないように思われます。これについて、斎藤聖二 『日清戦争の軍事戦略』 は、政府が大本営=軍主導の事務システムの設立に反対しなかったのは、出兵準備に遅れを取ってはならないとの閣議決定の趣旨から当然である、鉄道ならびに海上輸送、それにともなう海軍との協力関係の調整には、大本営の設定は非常に有効に働いていく、としています。

6月前半の日清両国からの出兵

日清両国からこの時点で派兵された軍隊は、具体的にどのような規模で、どういう日程で派遣されたのでしょうか。以下は、原田敬一 『日清戦争』 および斎藤聖二 『日清戦争の軍事戦略』 からの要約を合せたものです。

清軍の出兵

清国直隷総督李鴻章は、朝鮮政府の援兵要請に、6月6日北洋陸軍(総督葉志超)の派遣を決定、7日日清両国は相互に出兵を通告、8日清国歩兵約2500名と山砲8門が牙山に上陸。

日本軍の出兵規模

広島の第五師団から第九旅団を抽出、規模は混成一個旅団8000人(歩兵2個連隊、騎兵1個中隊、砲兵1個大隊、工兵1個中隊、輜重兵隊、衛生隊、野戦病院、兵站部を含む)でミニ師団というべきもの。
● 6月4日には清国の出兵方針を確認の上、大本営設置を決定。
● 5日、大鳥公使は、海軍陸戦隊70名と巡査21名伴って仁川へ。
● 6日、大本営は歩兵一個大隊(大隊長一戸兵衛少佐)の先発を命令、9日午前宇品港を出て、12日仁川港に着、13日午後6時には漢城の日本公使館に到着して海兵と交替。
● 大島旅団長率いる第一次輸送部隊残部は10日から11日にかけて宇品を出航、16日に仁川港に到着上陸、18日には大島旅団長は漢城に入ったが、部隊は公使の要請により仁川に留まる。
● 第二次輸送計画は11日に着手、第五師団残部の第十旅団(旅団長立見尚文少佐)への動員命令、3500人の人夫を雇用する指示、野砲第五連隊を暫時山砲の編成に変更する大本営令。大鳥公使・外務省からの第二次輸送見合わせ要請ののちも準備を進行。大本営はとにかく準備を進めて待機するつもり。仁川向け第二大隊は15日に出港、翌朝あわてて以後の出帆待機の訓示。

日本軍の準備が良かったと言っても、距離の近い分、清国軍の方が先に朝鮮に着きました。開戦方針決定直後の6月16日の時点では、清国軍2500名、日本軍4000名、という規模だったようです。

日本の第1次輸送部隊の仁川到着直後の現地状況

イギリス人の旅行家イザベラ・バードは、朝鮮を何度も訪れ、その観察を『朝鮮紀行』 に記していたことは、2戦争前の日清朝 - 2c6 朝鮮⑥ バード・塩川の観察」のページで確認しました。イザベラ・バードは、日本軍の第一次輸送部隊が仁川に到着した直後に、たまたま通り合わせました。以下は、その時の状況の記録です。誰もが、日清間が開戦寸前の緊迫した状況であることを意識させられていたようです。

〔1894年6月〕21日 の早朝に〔著者が〕済物浦に到着すると、きわめて刺激的な事態が展開していた。日本の軍艦6隻、合衆国の軍艦、フランスと清の軍艦が各2隻、ロシアが1隻という大艦隊が外港に停泊していたのである。
…「日本の目的はなにか。これは侵略ではないのか。日本は敵として来たのか、味方として来たのか」…。6000人の軍隊が3ヶ月の駐屯予定で上陸したのである。極東軍事情勢の学徒ならだれしも、この日本軍の巧妙かつ常軌を逸した動きが済物浦やソウルの日本人街を守るためにとられたものではないこと、といって朝鮮に対してとられたものでもないことがわかっていたはずである。
…清国人のあいだにはパニックが広がった。日本軍がソウルにあらわれるや、清国弁理公使館、清国領事館関係家族の女性30人が帰国の途につき、わたしが済物浦に到着した日は、800人の清国人がこの港を発った。清国人居留地の住民はあわてふためき、最も繁盛する商売を独占していた野菜栽培業者たちすら逃げ出してしまった。

 

6月後半、日清交渉とその決裂

朝鮮改革提案と、列強からの干渉開始

開戦方針を決定したから即座に開戦、とはなりません。開戦に持ち込むためのステップが続きます。ただし、このステップの途上で、戦争を回避したい列強からの干渉が始まり、開戦方針はいったん放棄されます。

また、高橋秀直 『日清戦争への道』 からの要約です。

共同内政改革を清国に提案するも、清側は拒否

6月16日、陸奥外相は汪公使に留兵による共同鎮圧・共同内政改革を提案、翌日李鴻章や北京政府に伝えるよう在清公館に指示。交渉を進めるためではなく決裂させるため。
6月21日、汪公使より清国政府の回答、予想通り日本側提案の全面拒否。この結果、政府は12日に中止されていた混成旅団残部(第二次輸送部隊)の派遣を、日清衝突はもはや不可避として決定。翌22日の御前会議で、清国側の主張に全面的に対立する対清回答(第一次絶交文書)と、第二次輸送部隊の派遣が決定。
6月23日、陸奥は電報で大鳥に、朝鮮の内政改革に取り組むよう指示。大鳥は26日、朝鮮国王に面会、また陸奥の内訓を携えて朝鮮に来た加藤書記官と28日に協議。朝鮮は清の属国か否かの照会を、翌日を回答期限として朝鮮政府に出す。29日は回答期限であったが回答なし。30日杉村代理公使からの督促に、朝鮮は自主国、との回答。では日本軍が清軍の退去を援助する、という論理で軍事力行使への道をまさに踏みだそうとしていたこの日のうちに、状勢は急転、日本は開戦方針をいったん放棄せざるをえなくなる。

列強の干渉を経て、7月12日に日本は再び開戦路線に

回り始めていた戦争への歯車に、6月30日急ブレーキ。きっかけはロシアの干渉の本格的開始。ヒトロヴォ公使は陸奥を訪れ、日本の撤兵を強く要求するロシア政府の公文を交付。日本は事態の解決の道をイギリスの調停に求めることになる。
しかし、この平和解決の試みは、清の対応により一頓挫。さらに7月10日、ロシアは日本の撤兵拒否回答を了承したとの報告。日本が交渉解決路線を放棄する好機が到来、閣議はこの好機を生かすべく動くことに決めた、それが第二次絶交書、11日の閣議をふまえ翌12日に正式に決定され、同日、清政府に交付すべく小村に打電された。日本は開戦に向けてふたたび動き出した。

6月15日の開戦方針決定以後、日本は開戦に向けてゴリ押しをしていきます。列強からの干渉があったにも関わらず、日本がゴリ押しを通せた背景として、朝鮮が、国家財政、ひいては体制そのものの危機にあったにかかわらず、政府は長きにわたり改革の必要性を認識せずに問題を放置してきた、という朝鮮の現実の状況が各国に知れ渡っていることがあったように思われますが、いかがでしょうか。

6月21~22日、日本軍の増派と「作戦大方針」の決定

6月21日の第二次輸送部隊の派遣解禁の決定により、日本軍はさらに増派されます。どういう日程で増派が行われたのか、確認しておきたいを思います。また、斎藤聖二 『日清戦争の軍事戦略』 からの要約です。

日本の第二次輸送部隊の派兵

6月22日御前会議、第二次輸送部隊の出帆は24日とすること決定。24日正午、予定通り第二次輸送船団8隻に乗った混成旅団残部が宇品を出港。27日に仁川着、29日には漢城郊外の龍山の幕営に到着、大島部隊に合流。これによりソウル市街地に一戸大隊約1000名、郊外に大島部隊約7000名の日本軍が駐屯。

6月末の段階では、すでに見たように清国側は約2500名、一方日本側はここにありますとおり約8000名の兵力となっていました。7月下旬の実際の開戦のさいには、清国側がもう少し増派されただけで、日本側はこの兵力のまま、衝突することになります。

大本営の「作戦大方針」の決定

日清戦争では、大本営が定めた「作戦大方針」に沿って戦闘を進められました。この「作戦大方針」は、従来は開戦後の8月4日に完成し翌日天皇に奏上されたとされてきましたが、斎藤聖二 『日清戦争の軍事戦略』 によれば、6月21日午前の陸海軍の緊急会議で「陸海共同作戦案」の協議が行われ、この案に沿って戦争を辞さぬ決意で事態を進めることが同日午後の閣議で決まった、「ここで作成された陸海共同作戦案は、日清戦争の 『作戦大方針』 そのものか、もしくはそれに極めて近い内容を持つものであったと考えられる」とのことです。「作戦大方針」と第二次輸送部隊の派兵は、ほぼ同じタイミングで決定されていたようです。

大本営の「作戦大方針」は、以下の内容のものでした。

「わが軍の目的は軍の首力を渤海湾頭に輸し、清国と雌雄を決するにあり」
そのため第一期は、第5師団を朝鮮に派遣して清国軍を牽制、海軍により敵の水師を掃蕩し黄海及び渤海における制海権の獲得に努力する。
第二期は、制海権の状況により3つの場合を想定する。
(甲)制海権掌握の場合、陸軍の首力を渤海湾頭に輸送し直隷平野で大決戦を遂行。
(乙)渤海の制海権は掌握できないが日本近海は確保の場合、順次陸軍を朝鮮半島に送り、清国軍を撃破し、以って韓国の独立を扶植する目的を達成。
(丙)清が制海権掌握の場合、為し得る限り第5師団を援助し国内防備に務める。

清国海軍は強力という一般の評判もあり、海戦で負ける場合も想定して作戦が立てられている点、合理的であると同時に、自信過剰に凝り固まった昭和前期の戦争とは大違いであると思われます。

なお、檜山幸夫 『日清戦争』は、6月22日の御前会議で決定された開戦意思は、日清全面戦争ではなかった、実際に発令された陸軍の動員令からみて、対清開戦とはいえ、その規模は最大一個師団規模であり、当初考えられていたのは朝鮮内での戦闘で、日清全面戦争を想定したものではなかった、と見ています。御前会議での公式決定は限定戦争であっても、大本営はすでに全面戦争を想定して作戦を立てていた、ということであったのかもしれません。

 

7月 日本軍による朝鮮半島での戦争準備

朝鮮半島での電信線の建設強行

日本軍は、実戦の準備を着々と進めていきます。そのうちで、特に当時の戦争インフラ上で最先端かつ重要であったものが、電信線でした。開戦に間に合わせるよう、日本から建設用の資材と部隊を送って、建設を強行したようです。以下はまた、斎藤聖二 『日清戦争の軍事戦略』 からの要約です。

開戦前の朝鮮半島の電信線の状況

ソウル・東京間には、ソウル-釜山-対馬-佐賀県呼子経由と、ソウル-義州-天津-上海-長崎経由の二線の電信線があったが、東学党の内乱地域を経由、あるいは中国国内線を使用などから、開戦後の継続使用は不可能と判断。

日本軍による新線の建設

6月25日「釜山・京城間電線架設の件」に親裁を受ける。軍は新線を第五師団に建設させることとし、資材は7月1日に日本から出港、7月3日・4日に仁川・釜山着。朝鮮政府から建設了解を得るまで架設は待機。
7月8日から12日にかけて、ソウル・龍山間の軍用電線を仁川まで延長、朝鮮政府の許諾なしだが、大鳥公使もこの程度は差し支えなしと了承。10日、釜山-ソウル間は、進軍予定路に沿って最短距離で新線架設する計画を決定。16日、状況判断により「朝鮮政府に通知しっぱなしにて」ソウル-釜山間の起工を決定。20日から工事開始。現地人人夫の雇用困難に対しては、日本人人夫500人を26・28日に釜山へ輸送。
7月23日の王宮制圧の時に日本軍は義州経由線を切断、同日釜山経由線も不通に。以後出先とのやり取りは通信船頼り。突貫工事により、全線の通電は8月16日。朝鮮政府は、8月20日調印の「日韓暫定合同条款」において、この電信線を認知させられた。

すでに見たとおり、6月21日に第二次輸送部隊の派兵が決定され、またその時に「作戦大方針」も決定されています。日本軍による新しい電信線の建設も、直後に決定されたようです。すなわちその時点で、開戦する前提で、どのような兵力、どのような通信手段が必要か、作戦はどうするのか、などが総合的に検討され決定された、と言えるようです。ただし、電信線の建設にはある期間が絶対に必要であり、仁川・龍山間は7月12日までに片付いたものの、ソウル・釜山間の完成は開戦後となりました。

 

7月19日 日本政府による開戦の決定

19日の開戦決定は、清国増派なら、という条件付き

7月12日以降、日本が再び開戦に向けて動きだしたといっても、実際に開戦になるには、あと約半月間の期間と、さらには朝鮮王宮の襲撃という過激な事件が必要でした。再び、高橋秀直 『日清戦争への道』から確認したいと思います。

7月19日、日本政府の開戦決定、清側が増援なら反撃するというもの

大鳥が朝鮮政府に7月3日に交付した内政改革案、16日、日本軍が撤兵すれば改革に着手するとの朝鮮政府よりの決答。これを受け大鳥は、もはや協議は時間を費やすのみと判断。
王宮包囲による清韓宗属関係の否定と、朝鮮が清へ与えた特権の日本への均沾の要求への着手の許可を求める大鳥請訓電報は、19日の午前3時に到着、日本政府は大きな選択を迫られることになった。他方、同日までに、これまでひかえてきた兵力の増派にいよいよ清が踏みきったというかなり確度の高い情報を入手。またイギリスの第二次調停で清からの対日対案の到着。
19日午後6時、大鳥宛陸奥電報と午後9時、大島混成旅団長宛対清開戦を指示する訓電。開戦決定、しかし積極的開戦策ではなかった。清側が増援部隊を送ってくるならば、それに反撃するという受動的な政策。王宮包囲は禁じられた。

現地側は王宮包囲計画をそのまま続行

20日の朝に到着した、王宮包囲の禁止を命じた陸奥の訓電、大鳥はこれを無視し王宮包囲計画を変更せず。一切の責任は自分がとるので大鳥はなにをしてもよいと述べた陸奥の先の内訓が、この大鳥の行動の背後にある。現地側は開戦命令の受け身の性格をまったく無視。
「日清の衝突を促すは今日の急務なればこれを断行するためには何らの手段をも執るべし」という内訓は陸奥の独断行為と見るべき。強硬路線の追及、開戦の実現をめざすもの。日清戦争は、日本の強引な動きにより開始された。しかし、指導部全体の確固とした開戦決意、東京と現地との緊密な連係のもとに開戦に進んでいったのではなく、陸奥の謀略的と言うべき個人外交によりそこにいたった。きわめて異例の、問題のある外交。

かくして日本政府の開戦方針が最終的に確定されたのは、7月19日であったようです。ただし、清国増派なら、という条件付きでした。

しかし、陸奥外相に、「日清の衝突を促すは今日の急務」という個人の見解があったことから、大鳥公使と現地軍は朝鮮王宮包囲計画を進行させていったようです。日清戦争という国家の重大事が、陸奥外相ら一部関係者の独走によって引き起こされたことは、大変に問題の多いことであった、と言わざるをえないように思います。

 

 

25日の豊島沖海戦での実際の開戦まで、あと1週間ありません。ただし、開戦に至るには、もう一つ、朝鮮王宮襲撃事件というステップが必要でした。次は、7月23日の朝鮮王宮襲撃事件を確認します。