日清戦争で戦場となった地域
日清戦争で
戦場となった地域
(黄は陸戦、赤は海戦) 
 
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日清戦争
The Sino-Japanese War of 1894-95 from Kaien Aspect

日清講和と三国干渉

「下関講和条約」
宣戦詔勅の開戦目的との不整合

上 日本陸軍の旅順西方砲撃 下 日本海軍の速射砲砲撃
上 日本陸軍の
旅順西方砲撃
下 日本海軍の速射砲砲撃
(日清戦争写真帳より)
 
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ここでは、日本と清国との講和談判、そしてその結果締結された講和条約について確認いたします。

下関講和談判に至るまで − 列強からの講和の強い圧力

先に「戦争の経過 − 中盤戦@ 九連城など」のところで確認しました通り、平壌の戦いと黄海海戦に勝利して、本来の戦争目的であった朝鮮からの清国勢力の駆逐を達成してしまった日本に対し、1894年10月にはイギリスが介入を開始して、講和への圧力をかけ始めました。

日本は、その時点で戦争を止める方が、むしろ国際的な信義をより高めていたのではないかと思います。それまでの戦勝ですでに日本が近代的な陸海軍を組織運営していることが欧米列強に認識されたこと、および宣戦の詔勅で宣言した戦争目的も達成したことによります。

目的を達成したから戦争はそこで止めた、としていれば、まさしく近代的な思考法に基づく行動でした。しかし、当時の日本政府はそのような判断をせず、日本の戦国時代的な、すなわち前近代的な思考法で、以後の戦争目的を、清国からの領土の割譲を得ることに実質的に切り換えて、戦争を継続しました。

日本が戦争を継続したので、当然ながら、その後も列強からの講和圧力が続きます。イギリスの調停が失敗した翌月の1894年11月以後、1895年3月に下関講和談判が開始されるまでの動きを、まず確認したいと思います。以下の記述は、藤村道夫 『日清戦争』からの要約・引用によります。

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1894年11月アメリカの仲介開始

11月5日、アメリカ国務次官が駐米日本公使に調停の用意ありと言明、14日の閣議でアメリカ提案を受け入れる事決定。清国も米国に和平交渉開始を依頼、朝鮮の独立と相当額の賠償を条件とすること申し出。陸奥外相は遼東半島割譲を要求すべきと考え、伊藤首相も同意。27日日本政府は清国2条件の承認を拒否、講和全権委員が会同ののち日本から講和条件を宣言すると回答。

講和の切迫が明白化、伊藤首相は12月4日、清国瓦解の可能性のある直隷作戦に反対し、威海衛を衝き台湾を略すべき方略の意見書を大本営に提出。文官である伊藤首相が政略的見地から大本営の作戦を指導し、作戦的な立場からのみ思考する軍人をおさえて、長期消耗作戦を避けたのはさすが。

94年12月〜95年2月 アメリカの仲介による清国との談判開始と決裂

12月20日、駐清米国公使は駐日米国公使を通じ、清国側の全権委員の任命、長崎が会議地、日本が全権委員を任命した日に休戦開始の日を決定、との条件を伝達。日本側は、このときまだ威海衛・澎湖島作戦を計画中の段階だったため、講和に乗り気でなく、会議地は広島と通告、また全権委員の即時指名と休戦同意は拒絶。

1月31日清国全権が到着、2月1日から会商開始、日本側は清国全権の委任状不備を指摘、締結した条約の実践を保証できる「名望官爵ある者」なら談判に応じる用意ありとして談判決裂させた。

日本国内世論の熱狂

新聞は民衆をあおり民衆は熱狂、講和の条件は「将来の欲望日々に増長」。谷干城のように、割地の要求は将来日清両国の親交を阻害すると考えていたものもあったが、公然と持論を発表する勇気なし。山県はこの状況に乗って北京攻略を主張。伊藤は、直隷作戦の開始前の講和を決意。

列強は講和条件に強い関心

1月31日、英露両国公使は陸奥外相に会見、講和条件を質問。列強の関心は日本が領土割譲を要求して中国分割の口火を切るかどうかに集中。2月7日付『タイムズ』紙は、露英仏三国間は共同干渉により中国大陸の寸土をも日本の領土とすることを許さない計画である、とのスクープ。2月21日西駐露公使は、ロシア外相と談話の上、陸奥外相に、わが国が中国の分割を要求すれば、露英仏三国から異議が出るのは恐らく確実、と報告。

清国は李鴻章を全権とし、3月3日、割地・賠償・朝鮮独立の条件で北京を出発。イギリスの態度はこのころから変わりつつあり、日本が清国に代わりロシアに対する防壁となりうるかどうかに向けられ始めていた。ドイツ外相は3月23日、ロシアに行動を共にすることを提議、三国干渉の端緒はここに発した。3月9日、日本軍の遼河平原の作戦が一段落。3月15日、澎湖島作戦の旅団が佐世保から出征。

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自国の利益しか考えなかった日本と、その後の影響まで考えた列強

ここまでの動きの中ですでに、後に三国干渉を招く要素が、すべて出そろっているように思われます。すなわち、

  • 日本国内は、領土要求で「欲望日々に増長」する状況で、理性的な判断・決定が出来なくなりつつあった。
  • 他方、列強はすでに、日本が清国領土の割譲を得れば中国分割競争に発展する可能性を認識して、日本への干渉も視野に入れはじめていた。

日本は、講和談判を開始する段階で、自国一国の利益だけにしか目を向けられず、全体のバランス・力関係を意識し、結果が生み出す影響も予測して危惧している列強との、視野の広さの差を全く認識できていなかったように思います。

日本の領土割譲要求が、当時の国際常識からどれだけ外れていたかは、次の三国干渉の項で確認することとして、ここでは、下関での講和談判と、合意された講和条約の内容を確認したいと思います。

下関での講和談判と、締結された講和条約

ふたたび、藤村道生『日清戦争』からの要約です。

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95年3月 李鴻章との講和交渉

3月19日、李鴻章は門司に到着、20日から会商。清国からは直ちに休戦を求めるも、日本側は休戦の条件として天津や山海関などの占領と清国軍の武装解除や休戦期間中の軍費の清国側負担など、過酷な条件を提示。第一軍・第二軍とも事実上休戦状態であったにかかわらず、軍が作戦上の不利を理由に休戦に反対していたため。

24日の会議で清国側は休戦提案を撤回し直ちに講和問題に入ることを決定。この日李鴻章狙撃事件、犯人は自由党系の壮士、講和は過早・日本の戦果は不十分との見方から。伊藤首相・陸奥外相は、これによって生じる列強の非難・干渉を憂慮し、3月30日、台湾・澎湖島を除く地域の3週間の休戦条約。

4月1日日本側講和条約案を手交、遼東半島・台湾・澎湖島の割譲、3億両の賠償、日本への最恵国待遇、瀋陽(奉天)・威海衛の占領、北京・沙市・湘潭・重慶・梧州・蘇州・杭州の7市の開市、汽船航路拡張、輸入税の引き下げ、製造業従事の許与など。通商上の権益は、主としてイギリスの歓心を求めその干渉を防ぐ意図から。

李鴻章は4月5日、長文の覚書を伊藤全権送った。清国領土の割譲は清国民の対日復讐心をたかめ、将来の日清協力を困難にする、日清両国の紛争は、列強の侵略を誘起するのみ。日本は講和条件を緩和すべき、との内容。日中永遠の平和のために極めて適切であったが、陸奥外相は国内世論の反対を考慮して黙殺。

列強の反応と、日本の譲歩

3月24日、アメリカ国務長官は駐米日本公使に、駐露アメリカ公使の本国宛報告の内容として、ロシアの野心は異常に大、中国北部と満州を占領しようと欲して、日本が同地域を占領し朝鮮を保護国にすることに反対している、ロシア軍3万が中国北部にありなお増加中、との情報を漏らす。

ドイツの立場は、露仏同盟の圧力を減らすためロシアの極東進出は望むが、列強の中国分割にドイツだけが取り残されることは防ぐ。ロシアは、太平洋における不凍港の獲得最優先、4月8日ロシアから各国に通告して、日本の旅順口取得中止勧告を主張、独仏がこれに賛成。イギリスは、ロシアに対する牽制として日本を容認。

4月10日、日本は譲歩案を提出、遼東半島の割譲地域を縮小、賠償は2億両、開市から北京など三市を削除、保護占領地域は威海衛のみ。17日、日清講和条約に調印。

下関講和条約の内容

調印された下関講和条約の要旨は次のごとし。

  1. 朝鮮国の完全無欠な自主独立の承認
  2. 遼東半島、台湾、澎湖列島の割譲
  3. 軍事賠償金平銀2億両(邦貨約3億円)
  4. 清国と欧州各国間条約を基礎として日清通商航海条約および陸路交通貿易に関する約定を締結、その実施まで日本国に最恵国待遇
  5. 新たに日本に沙市、重慶、蘇州、杭州を開市、開港
  6. 宜昌・重慶間および上海・蘇州、杭州間汽船航路を承認
  7. 開港場における各種製造業従事権の承認、内国運送税、内地賦課金、取立金についての特権
  8. 批准後3ヶ月以内に日本軍は撤退、条約を誠実に履行することの担保としての威海衛占領

日本は脱亜入欧の課題を達成、さらに中国分割のための南北の戦略要点を確保、また賠償金3億両は戦後の軍備拡張を軸とする産業革命に原資を与え、金本位制ほ採用を可能にした。

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詔勅の開戦目的から大幅に乖離した講和条約の内容

上の講和条約の条件のうち、日本の宣戦の詔勅に述べられた戦争目的から外れていないと言える条項は、1の「朝鮮国の完全無欠な独立の承認」と、3の「軍事賠償金」支払いの2項目だけでした。

軍事賠償金については、しかし、金額の問題もありました。日本の戦費の実額は、すでに「戦争の経過 総括 − 戦費と戦死者」のところで確認しました通り、2億円でした。それなのに、軍事賠償金は3億円を得る、という内容であったわけです。

それに加えて、2および4〜7の各条項は、日本が領土あるいはその他の経済的利益を清国からもぎとるという内容でした。実費を大幅に上回る巨額の賠償金を得るほかに、広大な領土を割譲させ、さらに貿易上等の利権も得る、という内容だったわけです。朝鮮の独立を目的として掲げた宣戦の詔勅での日本自身の宣言から、乖離があまりにも激しかった、というのが客観的な評価と言えるのではないでしょうか。

開戦目的達成後の戦争期間の長さの反映

講和条件の内容が宣戦の詔勅から乖離していた程度は、開戦目的達成後の戦争期間には相応したものだった、と言えるのかもしれません。

宣戦の詔勅に述べられた戦争目的は、1894年10月半ばには達成されましたので、開戦から詔勅の目的達成までの期間は2ヶ月弱、それから講和条約までは6ヵ月以上かかったわけです。2ヶ月弱と6カ月以上という期間のかかり方に一致するがごとく、講和条件のうち、詔勅の目的から外れていない条件は2項目だけ、乖離していた条件は5項目もありました。

詔勅の戦争目的から乖離したことが、三国干渉を招いた

当時は、日清間の戦争の講和であっても、日清二ヵ国間だけでは決定できず、最終結着には列強からの合意が必要な時代でした。そういう国際環境の中で、日本が、自身が宣戦の詔勅に述べた戦争目的から大幅に乖離する講和条件を持出したことが、三国干渉を招く原因となったように思われます。

何しろ、日本の提出した講和条件は、宣戦の詔勅には全く触れられなかった利己的な利害に基づいていただけで、宣戦の詔勅に述べられた戦争目的との整合性を欠いていたわけですから、列強としても不同意を言い易かったわけです。

列強からの干渉ありとの情報を、伊藤内閣は無視した

もともとは、開戦目的を達成したところで戦争は止めているのが適切であったように思われますが、日本は戦争を継続しました。それであればなおのこと、列強からの合意が得られるように、日本はどこまで対清要求を行うかに、慎重であるべきであったように思われます。

とりわけ、2月7日付の『タイムズ』紙は、すでに、露英仏三国間は共同干渉により中国大陸の寸土をも日本の領土とすることを許さない計画である、との報道を行っていました。そういう報道があったのに、さらに西駐露公使がその裏付けも取っているのに、伊藤内閣がその情報を無視して、それに対する対策を特に何も行わなかったことが、まずは失敗の根元であった、と言えるように思います。

伊藤首相・陸奥外相は、なぜ、何等の対策も取らなかったのでしょうか。イギリスさえ味方につけておけば、他の列強からは強硬な反対は出てこないだろうと、希望的観測に基づいて決めてかかってしまったのでないでしょうか。希望的観測は、事実の冷静な判断ではなく、願望に過ぎません。すなわち、責任ある立場の人間がやるべきことではなく、伊藤・陸奥がもしそれを行っていたのなら、重大な判断ミスであったといわざるをえないように思います。

日本の割譲要求への列強からの合意を得やすくするために、要求そのものを控えて範囲を縮小したり、あるいは割譲要求の根拠を理論化して通しやすくする、そのような具体的な対策を考えるべきであったと思います。

事前の対策討議も不足していた

これを言い換えますと、講和談判の直前の日本は、実務的に見て、
@列強からの干渉回避を優先し、反対が生じないように要求を自己規制する
A干渉を受けることはやむを得ないとの覚悟の上で、要求は目一杯に行い、列強から反対あればその分は要求を撤回する
の二つのやり方のどちらかをせざるを得ない状況にあった、と言えると思います。

政府内で、また政府と国民との間で、@とするかAで行くのか、Aで行ったときに考えられるネガティブインパクトに対策は打てるのか、などの議論が不足していたように思います。

言い換えれば、列強にどこまで通りそうか、通すためにはどういう言い方がよさそうか、宣戦の詔勅とどう関連付けるか、という議論が不十分なままに、列強からの干渉を受ける覚悟なしに談判に突入してしまい、事前情報の通りに干渉を受けてしまった、という結果を招いたように思います。

国民への啓蒙も不足していた

また、そういう議論を十分に行った後、国民にそれを周知する対策も必要だったでしょう。実際に講和は過早と考えて李鴻章を襲った暴漢まであらわれた状況です。世論が強硬論で沸き返っている時に、政府が慎重論を唱えようとすれば、悪くすると政府が倒されていた可能性もあったのかもしれません。だからこそ、国民への十分な啓蒙が必要であったように思われます。

政府の立場で考えると、この状況は、
@ 説得が容易ではないとしても国民を啓蒙し国内の強硬論を抑え、列強からの干渉を防止して日本の国際的な威信を守るのがよいか、
A 国内の強硬論との議論は避けて、列強からの干渉を招き、その結果日本の威信の低下を許容するとともに、国内から政府が批判にさらされるのがよいか、
この二つのどちらがよいか、という選択であったと思います。

どちらにしても、政府は、なにがしかの批判を免れません。違いは、先に批判されるか後で批判されるかということと、国際的な威信の2点でした。正攻法はやはり、国内の強硬論には無理があることををしかるべく説得することであったと思います。そうしていれば国内からも支持を得られ、列強からも国際的な信頼を獲得できていたでしょう。

陸奥宗光は『蹇蹇録』の中で、「当時国民一般は論なく、すなわち政府部内にありてすら、清国の譲与はただその大ならんことをこれ欲し…、その遼東半島割地のほかなお山東省の大部分を添加せんことを希望すとのべたる人ありしほど…、北京城を陥るるまでは決して和議を許すべからずと主張せし者さえありたる…、もし講和条約中とくに軍人の鮮血をそそいで略取したりという遼東半島割地の一条を脱漏したらんには…」という状況であった、つまり「内に顧慮するところありてここに至りたるなり」と。

要するに、領土の割譲に対する国内の期待・主張が強すぎて、それを顧慮せざるを得なかった、遼東半島の割譲要求を行わないなどとてもできない状況であった、というのが陸奥の言い分であると思います。悪いのは国民で自分ではない、と言っているように聞こえます。

外務大臣である陸奥と総理大臣である伊藤は、国際常識を知っているはずであり、また国際情勢を理性的に判断すれば、国際常識に反する著しい領土割譲要求は、列強からの干渉を招く可能性がかなり高いと判断できたはずです。政府なのですから、自分たちが不人気になっても、その国際常識を国民に説明する役割があったはずです。

事前にしかるべき議論を行わず、国際干渉が起こらないでほしいという願望、希望的観測に基づいて要求を決定してしまい、三国干渉を招いた責任は、伊藤首相・陸奥外相以下、当時の政府にあったと言わざるを得ないように思いますが。


次は、三国干渉と、その原因となった日本の過大な領土要求についてです。

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