4b6 中盤戦⑥ 威海衛

 

 

今度は、日清戦争で、清国の渤海湾・黄海での海軍力を壊滅させた威海衛攻略作戦についてです。

威海衛攻略は、現に敵艦隊のいる軍港の攻略戦であり、陸軍・海軍協同の作戦として遂行されました。陸軍の敵前上陸を海軍が援護し、陸軍は陸地の砲台を占領することによって海軍を支援して、現に協同の実をあげました。陸軍・海軍がそれぞれ独自の戦いを行ってきたこれまでの戦争の経過とは異なった様相の作戦でした。以下にその詳細を確認したいと思います。

なお、このページでの引用等で、引用元を記していない場合には、すべて「4 日清戦争の経過」のページに記した引用元から引用を行っていますこと、ご了解ください。

 

日本軍、威海衛攻略作戦の決定と準備

直隷決戦に備えて、北洋水師を潰滅させるための威海衛作戦

1894年12月9日、軍事行動もままならぬ厳冬の遼東半島では冬営するが、暖かくなって軍事行動ができるようになった時の直隷決戦に備えて、北洋水師を潰滅させる、そのため山東半島にある軍港の威海衛を攻略する、が大本営の方針となりました。

威海衛攻略戦の実施決定

大山巌ら第二軍司令部は、「冬季作戦方針」に従って、旅順攻撃が終わった後粛々と冬営の準備。大山巌第二軍司令官は、12月2日には伊藤連合艦隊司令官と会談、6日両者の連名で大本営に威海衛攻略戦を提言、大陸に向かい冬季の作戦は危険なり、もし続いて作戦をなさば宜しく威海衛を突くべし。
伊藤博文首相も4日、清国政府の土崩瓦解を引き起こして列強の合同干渉を招くことになる直隷決戦の回避、威海衛と台湾攻略の意見書を大本営に提出。大本営は12月9日午後、冬の間に威海衛攻略戦を実施すること決定。重視さるべきは実施のスピード、講和問題の進行との競争で実施が急がれた。

山東半島作戦軍の輸送

第二軍が第六師団(長谷川好道中将、熊本、うち混成第十二旅団は旅順半島に出征済)の残部(混成第十一旅団)、と第二師団(佐久間佐間太中将、仙台)を率いて山東半島の作戦。大山第二軍司令官、上陸地点を栄城湾付近と仮定して調査、第二軍参謀、海軍将校と共に軍艦高千穂に乗り、12月24日朝には栄城湾を測量、上陸して陸地の偵察も。さらに9センチ臼砲2中隊の使用の必要を感じ研究。1月16日山東半島作戦軍の編成は確定。
これより先の1月8日、大本営は第二師団・第六師団残部を同時に送ること決定。第二師団は1月9日から宇品港で、第六師団残部は1月12日から門司港で乗船を開始し逐次出発、すべて1月21日までに大連湾に到着。大連湾や旅順口からは、第二軍司令部のほか、徒歩砲兵大隊・野戦砲大隊・工兵中隊などが乗船し、ともに山東半島に向かう。作戦の迅速な実施のため、第二師団・第六師団の砲兵隊の動員を減らし、その不備を補うため金州半島で転戦していた砲兵隊をそれぞれの師団に配属。
予定上陸地点である栄城湾付近から威海衛への道路は起伏もあり、冬季の積雪は2尺(約60センチ)と予測、車輛使用を諦め軍夫に運ばせることとし、大本営に1万人の増加派遣を要請したが、急いで集めることの出来る2000人のみ認められた。

すでに前ページの「4b5 中盤戦⑤ 海城・蓋平」で見てきたように、山県有朋は、寒くて作戦行動に支障があっても、今いる出征地の周辺で、重要性がよくわからない、大本営からも反対されるような作戦の実施を図りました。一方、大山巌は、出征地の寒さを考慮して、今いる金州・旅順口では冬営を徹底し、別の地域で最終的な直隷決戦のために有効なステップとなる作戦を考えました。

大山と山県の、戦術・戦略の両面での発想力の相違が明瞭に出ているように思います。発想力は明らかに大山が上であったにかかわらず、山県の方が年齢も地位も上、しかもその後もずいぶん長生きをてしまったところに、結果論ですが、日本陸軍の大きな不幸があったように思われます。

 

1895年1月20日~2月12日 威海衛攻略作戦の経過

1895年1月20日 威海衛作戦の開始 - 山東半島への上陸

1月20日、いよいよ山東半島に上陸を開始、威海衛作戦が始まります。

1895年1月20日~2月12日 威海衛攻略戦 日清戦争の地図

 

陸軍 - 山東半島に上陸し、威海衛へ進軍

1月19日大連湾を出発した第一次揚陸部隊は、20日早朝に山東半島栄城湾付近に到着して待機。水雷艇隊が岸に近づいて砲撃を始めると、清軍はたちまちのうちに大混乱を起こして退去。そこで陸戦隊上陸、攻撃する清国軍数百を艦砲射撃で撃退、落鳳崗を占領。待機していた運送船が午前8時ごろから湾内に入り揚陸開始、連合艦隊は澳外で警戒。
栄城県龍睡湾 第1回の揚陸 日清戦争写真帖より

<栄城県龍睡湾 第1回の揚陸>(『日清戦争写真帖』 より)

第二軍司令部 栄城県に向かう 日清戦争写真帖より

<第二軍司令部 栄城県に向かう>(『日清戦争写真帖』 より)

同日午後4時50分、上陸地点より西方10キロの栄城を占領し大部隊の宿営地を確保。この日は午前9時から降雪、夕暮れになって急に激しく降る。諸隊の行進は非常に遅れ、栄城についたのは午後9時。第一次揚陸隊は、この20日にほとんど揚陸を終る。26日夜までに後続部隊の揚陸も終了。
大山司令官、1月25日に栄城県に到着。26日から行軍開始。道路がまったく悪い、とくに輜重兵の行軍は遅れ、予定通りには進まず。第六師団は海岸線に近い北路、第二師団は南路。第二師団は午前10時半孟家庄付近で歩兵1400~1500、砲5~6門の清国軍と衝突、3時頃撃退。
捜索・偵察しつつ、あるいは清軍と小戦闘を行い、あるいは清軍のすでに退却したあとを占領しつつ前進をつづけた日本軍の山東作戦軍は、28日第六師団は威海衛軍港南岸諸砲台から東南8キロの鮑家村付近に、第二師団は同じく南方12キロの江家口子付近に到達、軍司令部は30日の南岸諸砲台攻撃を指示。

写真にあります通り、積雪はあったものの、脛まで雪に埋まった第一軍の海城方面とは大違いで、道路は路面の土が見えている状態でしたが、輜重には苦労したようです。

1月30日 砲台攻撃の開始

栄城への上陸開始から10日後の1月30日、いよいよ、清軍側の威海衛諸砲台への攻撃を開始します。

威海衛の清国軍諸砲台 日清戦争の地図

 

1月30日 陸軍による南岸諸砲台の占領

清軍は二部に分かれて、温泉湯西北の高地線と百尺崖西南の高地を防禦、百尺崖西南の方面は、摩天嶺砲台から楊峰嶺および謝家所の砲台を拠点として海岸に至るまで連続した堡塁を築設。大山司令官は、清軍のなかで最も薄弱な鳳林集東南方高地を占領してその退路を遮断し、その後全力をあげて堡塁団の右翼から逐次攻撃の作戦。
1月30日午前7時、右縦隊右翼隊は海岸砲台の最東部の楊峰嶺砲台とその西隣の摩天嶺砲台への攻撃を開始、午前8時半摩天嶺砲台を占領、さらに9時半ごろ鹿角嘴・龍廟嘴の対海砲台を占領、午前中頑全として抵抗した楊峰嶺砲台は、昼ごろになって火薬庫が爆発、守兵は逃げ出す、日本軍は午後0時20分占領、次いで最後の海岸砲台である趙北嘴砲台も占領する。占領した鹿角嘴砲台に海軍陸戦隊がカノン砲3門を設置、午後1時過ぎ、港内の軍艦や日島砲台、劉公島砲台と激烈な砲撃戦を開始。清国の定遠以下三隻が接近して鹿角嘴砲台を砲撃したため、3門とも破壊される。
威海衛港の東岸 鹿角嘴砲台の景況 日清戦争写真帖より

<威海衛港の東岸 鹿角嘴砲台全部(占領後)の景況>(『日清戦争写真帖』 より)

威海衛港鹿角嘴砲台 毀折砲身の景況 日清戦争写真帖より

<威海衛港の東岸鹿角嘴砲台に於て敵弾に毀折せる第二砲身右側前面(占領後)の景況>(同上)

左縦隊は虎山北方高地の清国軍からの砲撃を受け交戦、8時前清国軍は山砲を棄てて北へ退却。9時半虎山より東北4キロの南虎口付近で清国軍と衝突した右翼隊はまもなく砲兵陣地を占領、北虎口まで進出。海岸線まで敗走する清国軍を追撃した各隊は、海岸に接近してきた北洋水師の各艦から砲撃され退却。
30日の半日ほどで威海衛南岸諸砲台は攻略された。『日清戦史』 は、「予想外」に清国軍は「抵抗軟弱」と記述。この戦闘の死傷者206名(うち戦死54名)だが、うち第二師団の死傷者92名(うち戦死40名)は、敗兵追撃戦で海岸に進出後艦砲射撃によるものが多かった。清国軍の死傷者数は不明、第六師団が後日埋葬しただけで740名。

2月2日 陸軍による北岸諸砲台の占領

1月31日朝、各隊は折からの飛雪で視界が遮られているのを利用して威海衛に迫る。他方、前日占領した南岸の海正面の諸砲台の砲を修理する。第二師団は針路を西に取り、威海衛から芝罘への街道を遮断し退路を断つことを目的として移動開始。2月1日午前11時過ぎ、羊亭集、孫家灘付近で歩兵数百の清国軍を撃退し追撃。この日の戦闘で死傷者46名(うち戦死6名)の損害、清国軍の死者は100名以上。
2日歩兵第三旅団の偵察部隊は午前2時半羊亭集を出発し威海衛に。8時威海衛まで5キロの田村周辺の堡塁に清国軍の姿なく、午前9時半全く抵抗をうけることなく威海衛に入城。前日までに清国軍は芝罘方面に逃走が判明。清国艦の砲撃が激しく威海衛方向から北岸砲台を占領するのは無理、黄家溝北方から北海岸を迂回、引き続き清国兵のすでに逃げ去った威海衛北岸諸砲台と兵営を占領、この日の威海衛周辺の諸砲台はすべて占領。

陸上での攻撃では、1月30日から2月2日までのわずか4日間で、威海衛と周辺の砲台をすべて占領しました。

威海衛港 黄土崖砲台の光景 日清戦争写真帖より

<威海衛港の西岸 黄土崖砲台の光景>(『日清戦争写真帖』 より) ※ 清国軍は、砲台を破壊して退却した

威海衛(占領後)の全景 日清戦争写真帖より

<威海衛(占領後)の全景> (同上)

海軍による海上からの攻撃

一方、海軍も海上から清国艦隊への攻撃を仕掛けます。

1月31日~2月2日 天候不良で連合艦隊は動けず

連合艦隊、30日の陸軍の百尺崖西南高地の攻撃のさいには、午前2時栄城湾を出発、威海衛軍港からの清国艦隊の出撃に備えるとともに、午前8時5分から百尺崖付近の砲台を砲撃。
31日から天候が悪くなり、行動が不可能に。特に1月31日夜から2日午前にかけて寒波襲来。寒気激しく、艦の舷側は5センチから7センチ、甲板は10センチ、砲身・砲楯は20センチの氷。清国海軍も同様の状況で、それが威海衛と周辺砲台が攻撃されている間、艦隊からの有効な反撃がなかった理由。
陸軍が2月2日に威海衛を占領しても、湾内の清国海軍は動かず。清国海軍は、威海衛湾内の劉公島に居館等を持ち、陸地とは離れていたから、城郭都市である威海衛が陥落しても、揺るがず。

陸軍が威海衛と周辺砲台をすべて占領しても、北洋艦隊はまだ健在でした。海軍が、海から仕留めることが必須になりました。

2月5・6日 連合艦隊 水雷艇による湾内への攻撃

1月30日伊東連合艦隊司令長官は水雷艇隊三隊共同して湾内に入り、「敵艦隊の優勢なるものを破壊」と命じる。水雷艇は小型軽快、敵艦に肉薄して搭載している水雷(魚雷)によって攻撃、50~80トン内外の排水量、耐波性を欠いており悪天候にはきわめて弱く、狭い艦内生活で長期の作戦には適合せず。水雷艇16隻、湾内への侵入は可能。風波と降雪もやんだ3日朝再び威海衛軍港の東口沖に。水雷艇、港口の防材と海岸の間に約百メートルの間隙があること発見。
第二・第三水雷艇隊合計10隻、5日午前3時、東口防材に到着、攻撃点まで進出できたのが5隻、水雷発射は4隻、損害3隻(1隻撃沈・2隻座礁)。清国艦に合計8個の水雷を発射。明瞭な戦果を確認できず帰投したが、定遠に命中、その擱座は同日午後確認された。
威海衛 水雷艇の破壊した定遠号 日清戦争写真帖より

<威海衛 劉公島の南灘において、我が水雷艇の破壊したる敵の巨艦定遠号> (『日清戦争写真帖』 より)

6日も第一水雷艇隊5隻が襲撃、午前4時防材付近に到着、清国海軍の警戒厳しくたちまち探照灯に捉えられ、砲撃と銃撃が集中したが、3隻が合計7個の水雷を発射、5時過ぎに退却、清国艦来遠・威遠の2隻と水雷敷設艦1隻を轟沈。

接近しての水雷(魚雷)攻撃は海軍艦艇の弱点で、大戦艦といえども水雷にやられると沈没しました。黄海海戦は艦隊決戦でしたが、威海衛では小さく低コストの水雷艇が大活躍しました。

威海衛 沈没せる敵艦 威遠号 日清戦争写真帖より

<威海衛 劉公島桟橋前に沈没せる敵艦 威遠号> (『日清戦争写真帖』 より)

海陸両軍共同による北洋艦隊への攻撃で北洋艦隊は降伏

2月7日以降は、陸軍は砲台から、海軍は海上で、共同して清国北洋艦隊を攻撃します。

2月7~11日 砲台と艦隊からの清国艦・劉公島への砲撃

7日、鹵獲砲使用のために整備していた趙北嘴砲台・謝家所砲台も戦列に加わり、午前7時30分から南岸諸砲台の砲は日島砲台を目標に一斉砲撃、8時10分日島砲台の右翼砲に命中、さらに8時30分その火薬庫爆発、日島砲台は沈黙。この日丁汝昌の命により清軍水雷艇10隻余が西口から突出して逃げ、日本軍艦に追われて多くは陸岸に坐擱。
8日午前8時、連合艦隊第三遊撃隊が東口沖に進んで劉公島南端の砲台を砲撃、鹿角嘴砲台の日本軍も日島の劉公島側にいる清国艦めがけて砲撃、つづいて他の南岸諸砲台も射撃を開始。9時30分鹿角嘴砲台の一弾が靖遠に命中しこれを撃沈。10日、今後は昼夜砲撃を継続し、清軍に休息の余地を与えない、との命令。11日南岸砲台からの砲撃で、劉公島東南端低砲台の砲を破壊。
威海衛港 劉公島市街 及び 同港内 日清戦争写真帖より

<威海衛港 劉公島市街 及び 同港内 諸船艦集合の図> (『日清戦争写真帖』 より)

2月12日 北洋艦隊の降伏

2月12日午前8時、清国砲艦鎮北が白旗を掲げ出港、清国海軍軍使が丁汝昌提督の乞降書を提出、丁汝昌提督はこの夜自殺。伊藤連合艦隊司令長官は17日降伏規約に調印、連合艦隊が港内に入り、劉公島の諸砲台・水雷営・官衙・諸倉庫・艦船一切を受領して、接収は完了。北洋艦隊は壊滅。

1月20日の上陸開始以来3週間ちょっとで、作戦の目的であった北洋艦隊を壊滅させるという目的を達成しました。

威海衛港に於ける降虜の上陸 日清戦争写真帖より

<威海衛港に於ける降虜の上陸> (『日清戦争写真帖』 より)

劉公島を除き、威海衛から撤退

大山大将はこの作戦を開始する前から、軍の目的を達したあとは、早急に清軍の防禦物件を破壊して金州半島に帰りたいと希望、大本営も大山大将の意見に傾き、ついに1月31日威海衛占領後は軍港内の劉公島のみを確保し、それ以外の部隊は撤去を決定。山東作戦軍、2月22日から3月1日までに軍の諸部隊はすべて旅順口に到着、5日までに揚陸を終了。

 

威海衛での第二軍、旅順口攻略経験からのカイゼン

威海衛では、大きな問題は発生せず

旅順口攻略作戦では、1894年9月21日に第二軍の編制を決定して、それから2か月後の11月20日に旅順口を陥落させました(「4b3 中盤戦③ 金州・旅順」)。今度の威海衛攻略戦では、12月9日に作戦実施を決定、やはり2か月後の2月12日に北洋艦隊を降伏させました。日清戦争開戦時から検討されてきた旅順口攻略と、順調な戦勝の結果急浮上してきた威海衛作戦という違いを考えれば、威海衛作戦での2ヶ月間の方が旅順口作戦での2ヶ月間より厳しかったのでは、と思われます。

旅順口作戦では、大型砲の運搬に問題を生じました。また虐殺事件という問題も発生させました。それと比べ、威海衛攻略戦では、積雪で道路が埋まり、雪になれていない熊本の第六師団(右縦隊)で前衛と本隊が離れてしまうとか、予想外の早い展開により、占領した砲台から進出した歩兵連隊を別の歩兵連隊が誤射撃する、という失敗もあった(原田敬一 『日清戦争』)ようですが、大きな問題は発生せずに済んだようです。

南北岸の砲台攻略中は、湾内は封鎖されていて連合艦隊が入れなかったため、清国艦から陸上の日本軍が砲撃されて損害も出しています。しかし、日本側の砲台攻撃では榴散弾発射を多用し、大砲や要塞の破壊を目指さず兵員の殺傷による戦闘力減少を図ったので、占領後はすぐに清国側の砲を修理して、湾内の清国艦への砲撃に役立てています(原田敬一 同上書)。こうした工夫が、作戦の終結を早める効果をもったことも言えるように思います。

攻略後の即座の撤退 - 大目的に沿った行動

この威海衛攻略戦で、特筆されるべきは、威海衛を攻略し北洋艦隊を撃滅した後には、即座に撤退することを、あらかじめ決めてから、作戦にとりかかった点であると思います。

大山第二軍司令官は、直隷への大輸送を視野に入れて威海衛攻略戦を考えており、攻略後はすぐに金州半島へ第二軍を送還する、その方がその後の直隷戦有利であるとの意見でした。もしも山東半島に軍をとどめれば、清国軍との戦闘が続いて、「兵力を吸収せらるるの不利ある」と考えたからであり、そのように大本営に意見を具申して、1月20日には大本営から同意の電報が来た、との事です。(斎藤聖二 『日清戦争の軍事戦略』

第一軍が海城まで進出して占領したのが12月13日、1月半ばになると海城への清国軍からの攻撃が始まりました(「4b5 中盤戦③ 海城・蓋平」)。大山からしても、第一軍の海城への突出は、清国軍を引き付けるだけになる、と見ていたのではないかと思われます。その意味で、威海衛における攻略後の撤退方針は、海城での第一軍の状況に学んだカイゼンであるとも言えるように思いますし、また第一軍への皮肉でもあったように思われるのですが、いかがでしょうか。

直隷決戦への明確なステップである威海衛作戦を実施するが、金州・旅順口に現にいる部隊は冬営させたままにする、威海衛作戦で目的を果たしたら、余分な戦闘のために戦力分散する必要が生じないよう、即座に撤退する、という大山の考え方は、目的と整合してきわめて合理的でありました。

こういう考え方が昭和前期の陸軍には引き継がれず、むしろ戦闘そのものを目的化して考えてしまう山県流の考え方が主流になってしまったのは、まことに不幸なことであったと思います。山県が早く亡くなり、大山が長生きしてくれていたなら、日本の陸軍も日本の歴史も、良い方向にかなり変わっていたのではないか、と思うのですが。

 

 

第二軍による威海衛攻略戦の翌月、3月2日から9日の期間、第一軍は、一部第二軍の協力も得て、鞍山站・牛荘・営口・田庄台の遼河平原掃蕩戦を行います。これが、清国本土領内での最後の戦闘になります。次はその経過を見ていきます。