日清戦争で戦場となった地域
日清戦争で
戦場となった地域
(黄は陸戦、赤は海戦) 
 
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日清戦争
The Sino-Japanese War of 1894-95 from Kaizen Aspect

日清戦争前の日本の状況 B

谷干城の対外硬論
価値ある独自の近代化論

上 日本陸軍の旅順西方砲撃 下 日本海軍の速射砲砲撃
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(日清戦争写真帳より)
 
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日清開戦を支持しなかった対外硬論者、谷干城

対外硬は多様な勢力の寄り集まりであった、ということの例証として、谷干城にも触れておきたいと思います。谷干城は、すでに見ました通り、井上外相や大隈外相による条約改正案にも反対した有名な対外硬論者ですが、日清開戦は支持しませんでした。

まずは、条約改正反対論者として知られるまでの、谷干城の経歴を簡単に確認しておきたいと思います。以下は、小林和幸 『谷干城−憂国の明治人』によります。

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谷干城の経歴 − 西南戦争では熊本鎮台司令官、1870年代までは外征論者

谷干城は、1837年土佐に生まれる。坂本龍馬の2歳下、板垣退助は同年。坂本龍馬の影響も受け、維新前に上海も見て攘夷論を捨てる。戊辰戦争にも参加。71(明治4)年に、そもそもは高知藩兵の統率のため明治政府の陸軍に出仕。74(明治7)年の台湾出兵に、陸軍参軍として参加。77(明治10)年の西南戦争では、熊本鎮台司令長官として熊本鎮台の籠城戦を指揮。薩摩士族軍の攻撃に耐えぬいた軍功により、翌年陸軍中将に。

1870年代終わりごろまでの干城の考え方は、政府分裂や軍分裂の危機があるにもかかわらず、国内一致をもたらす外征を実施しない政府に不満。征韓の期日を確定、それに向けて軍備を充実し人心を結束させる。植民地化を避けるには、自らも他国を圧する強国にならなければならないと考え、その延長線上に中国・韓国への外征を置く。

1880年代には国憲創立議会開設派に

1881(明治14)年、陸軍行政に対する不満から辞表。政治を「公共」のものにするため、立憲政治体制、議会による政府の監視と政治運営が必要との意見に変化。同年、干城は鳥尾小弥太、三浦梧楼、曽我祐準の陸軍三将軍とともに「国憲創立議会開設の建白」を提出。政府が国民生活を圧迫することは、穏健な国民を過激な「民権派」に向かわせると考え、天皇を政治的に守るためにも、日本に憲法を制定し国会を開設することを主張。

1884(明治17)年5月、伊藤博文の依頼により学習院長に就任。85年12月、日本で最初の内閣である第一次伊藤博文内閣が成立すると、干城は学習院長を辞し、初代の農商務相として入閣。86年3月、干城は農商務相在任のまま欧米視察に。87(明治20)年6月の帰国までの1年3ヶ月に及ぶ欧米視察。

帰国後1ヶ月も経たない7月3日、干城は内閣に、井上外相による条約改正への「意見書」を提出、条約改正を日本にとって真の利益あるものにするためには、1890年の議会開設後に、情報公開と自由な議論による国民の合意に基づいて行うべき。7月26日農商務相罷免、9月17日井上は外相を辞任。

1889(明治22)年の大隈条約改正案への反対運動、そのさいも干城は反対派の糾合を図る。8月22日、陸軍中将の退職願、26日予備役編入、ここに完全な政治活動の自由を得た。

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征韓論者から国会開設論者への転換が、谷干城の特徴

谷干城は、幕末期、1870年代末まで、そして1880年代になってから、の三つの時期に、それぞれの時代背景に合った代表的な考え方の間を動いてきたようにも思われます。すなわち、幕末期には、幕藩体制の危機の中で、攘夷論から開国論に転換しました。維新後西南戦争を経て70年代までは、特権を失った士族が大きな不安定要素であった時期であるために、征韓論的な立場でした。西南戦争後、士族の不満暴発の恐れが減じると、国会開設派に転換しました。

この谷干城の考え方の変化を見ていますと、まずは、1870年代には征韓論的な考え方、すなわち、外征によって士族の不満を解消し国論統一を図る、という考え方が、当時非常に力を持っていたことがわかります。外征は、される側からすれば、明らかに迷惑です。裏返せば、多くの人々は、外征が問題の解決策として乱暴であると分かったであろうと思われます。そうであっても、その当時には、外征論を立てることにあまり違和感を持たれなかったという状況があった、それほどまでに士族の旧来の地位の喪失・失業という状況が非常に大きな政治経済課題であった、ということを示しているのであろうと思います。

しかし、1880年代に入ると、国会開設の意見書を提出するまでに考え方が変わりました。ただし、政府が国民を圧迫して民権派に向かわせないように、と意識してのことであった点、すなわち、政府は牽制・チェックを受ける必要があり、その方が国政をカイゼンできると考えた点に、谷干城の特徴があったといえるように思います。民権派と比べれば、外交問題をダシにしていることについては大差なくても、反対のための反対なのか、建設的な牽制チェックなのか、という点で、大きな差があったように思われます。

谷干城の対外硬運動での行動

条約改正反対運動以降、谷干城は何を考えどう行動したのでしょうか。以下は、再び小林和幸 『谷干城−憂国の明治人』からの要約です。

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干城は『日本』グループのスポンサー、また大隈条約改正案への反対

1888(明治21)年4月から、陸羯南主筆の『東京電報』(のち『日本』に名称変更)への資金援助。谷干城自身の使命は、天皇のために国家、国民を害する政府を糾弾すること。89(明治22)年5月、大隈条約改正案への反対運動が沸騰、大審院に外国人判事を任用すること。干城は8月下旬、浅野長勲や三浦梧楼、日本新聞社・乾坤社関係者らを中心に日本倶楽部を結成、改正反対運動の拠点に。

9月26日三浦は学習院長の資格で天皇に拝謁、大隈の罷免と条約改正反対意見を上奏。10月22日黒田内閣辞表、改正中止を受け、日本倶楽部も解散。

議会の開会、 民党にも政府にも反対、「新国家主義」により貴族院で活動

干城の意見、西洋は政党があっても競争は温和、日本では政党は必ず善悪の両極に分かれ「私利」を優先し自然に私党となる傾向がある。したがって民党の個人主義に反対。しかし、政府の専制主義にも反対。政府も民党も、私意、私見のみで、国民を見ない「個人主義」、国民と国家を思う「新国家主義」が必要。

干城の活動は、政府のみならず政党が支配する衆議院に対しても、独自の立場で監察を行い得る上院、すなわち貴族院の活動を中心とするものとなる。1890年7月の貴族院子爵議員選挙によって、貴族院議員に当選。

第一議会、干城は貴族院の予算委員長となる。1891年11月第二議会、干城は「勤倹尚武の建議案」で、政府は大いに行政の機関を改良し政費を節減して民力の養成と国防の完備とに充てるべきと主張、第三議会の貴族院予算委員会では、衆議院による削減のうち海軍軍艦製造費と震災予防調査会設備費について政府原案の復活を図ろうとするなど、衆議院の民党とは異なる主張。

第四議会後、衆議院にいわゆる「硬六派」が形成。その硬六派と貴族院内の干城らの懇話会、近衛篤麿の三曜会などが提携。第五議会・第六議会での条約励行の要求、伊藤は励行論は攘夷論としてこれを強く否定し衆議院解散、干城らは内閣が責任を尽くさず停会、解散を行ったと解散を非難。

日清戦争への反対論

朝鮮半島情勢緊迫化、主戦論が高まる中で干城は、慎重な態度を取るべきと主張、清国との戦争、予想せず、期待もしていなかった。干城の対外硬論の特徴、我が国固有の「国権」維持と独立国としての地位確保には断固たるもの、一方で対外的な武力行使には慎重な姿勢。強硬な主戦論となっていった対外硬派とは一線を画す。

広島で開かれた第七議会、干城は、戦争は不本意であっても、開戦されてしまえば勝利に向け最善を尽くすのが国民の務めとの認識。

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課題解決のための他の手段、を現に提案した谷干城

1894年6月ごろの国内政治の危機状況を回避するために、日清開戦という策が妥当であったのか、他の手段の検討が不足していたのではないか、ということを「内閣と議会」のところで申上げました。

条約改正問題、すなわち関税自主権や治外法権という、国権の維持・独立国としての地位確保に関わる問題と、日清開戦のような対外的な武力行使は、全く異なる問題である、との谷干城の主張は、論理的にも正しいように思われます。

しかし、谷のこの主張には支持が集まりませんでした。民権派は、おそらくは、対清硬の方が威勢が良く大衆からの支持をかき集めやすいと考えて見向きしなかったのでしょう。また政府の一部と陸軍は、過去の状況と異なりこの時点では対清開戦をしても勝てる戦力をすでに整備してきたという自信もあって、世論を見ながら開戦に踏み切ったのであろうと推測します。

谷の主張の基盤にあった「経済的軍備論」

同じように対外硬派といっても、谷と民権派とで、片方は日清開戦に反対し、もう片方は賛成したという差が生じた原因として、もともと軍や外交のあり方について、根本的な認識が異なっていたためであると思われます。

民権派は外交問題でタカ派主張を繰り返しただけでなく、特に対清国方針では武力行使論を声高に主張しました。その点では政府・陸軍との考え方の差は小さかったように思います。政府と民権派の相違点は、政府が軍備拡張の努力を着実に行ってきたのに対し、民権派は対清武力行使論に立つ一方で軍備拡張予算には反対するという行動の矛盾があったことでした。

ところが、谷干城や三浦梧楼・鳥尾小弥太・曽我祐準は、もともと陸軍の軍人として実績をあげた人々です。彼らは陸軍の中でも、「外征戦争むけに機構・編制を改編する軍制改革を強行しつつあった山県有朋・大山巌・川上操六・桂太郎らの主流派に対し、専守防衛の立場から経済的軍備論を主張して軍備拡張に反対」し現役を追われた反主流派将軍たちでした(大江志乃夫 『東アジア史としての日清戦争』)。民権派と異なり、そもそも対清強硬論を主張していなかったのです。

三浦梧楼『兵備論』にみる「経済的軍備論」の具体的内容

専守防衛の立場からの「経済的軍備論」とは、具体的にどういう意見であったのでしょうか。谷干城と三浦梧楼は、全く同じ考え方であったかどうかはわかりませんが、近似の考え方ではあったであろうと推定します。そこで、以下の三浦梧楼の『兵備論』の要約によって、「経済的軍備論」とされるものの内容を確認したいと思います。なお三浦『兵備論』は、日清戦争の5年前、1889(明治22)年に有志に頒布されたものであり、その後三浦の『観樹将軍回顧録』にも収録されています(ただし同書の中公文庫版では断り書きなしで割愛されています)。

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三浦梧楼 『兵備論』 − 国家兵備の目的

国家兵備上の考按は、これをその国家の経済に体して必ず実行し得らるるの度をもって目的とす。みだりに大言壮語を放ち、もって我国家百年の長計を誤られては、実に迷惑千万のきわみ。

軍紀

一国の軍備を要する所以は、敵に対し自国を護るの一語に過ぎず。 軍紀の本原、仏語「ヂシプリーヌ」。欧州強国の軍紀や、単に軍隊のみに限るにあらずして、一国の人民常に愛国の忠誠を抱持し、しかして国家兵役の業務に服従す。軍隊の平素最大の目的は単に敵国に対し自国を護るという唯一愛国心にある。

外患

今我国は亜細亜の絶東に在り、泰西比隣の諸国とその形勢相同じからず。1860年英仏連合軍の支那出征の挙、当時英はその兵2万、仏は1万。他の一例、仏国東京(トンキン)の出兵、1884年4月の総員1万6470人、真に本国より派遣せし軍隊は実に3千530 人に過ぎず。欧州いずれの強国といえども、常時能く懸軍万里大兵を擁して敢えて遠征に従事する能わざる。

兵備

我国はもともと絶海の一国土、その敵や艦隊、その進寇の路や海上。しかれば陸地のごとくその方向もとより一定するなく、敵艦の現るるところをもってその戦場とするなれば、決して欧州大陸戦のごとく予めこれが方向を定めこれが配備を為すべきにあらざるなり。

いかにせば可ならん。曰く、所在皆兵の意をもって護郷軍を編制し、その数を増加するのほか策なし。 陸軍定額はまず今日のところをもって度となし、しかしてこれが軍備を増加するにあり。一人の費用をもって三人を養うと同じく、三年の常備役を減じて一年の役とし、しかして戦時多数の兵員を得べきこれなり。

我邦の地形上、軍備の重要は陸軍にありて、海軍はこれに次けり。世人動もすればもっていえらく、我が国四方環海、ゆえに兵備の要は海軍を養うにあり。 欧州各国の皆これを置くところの所以のもの、職として殖民政略にこれよらざるはなし。けだし艦隊をもって殖民地を維持し、殖民地の利をもって艦隊を養う。

我国外、未だ殖民地あらず。海軍なるものは、自国防御の一方のみよりこれを見れば、彼は陸軍に比しほとほと贅沢物、軍備上経費を要するの最も大なるもの。およそ国防に着手するには順序あり。砲台は先なり、艦隊は後なり。砲台未だ築かず、なんぞ艦隊をもってこれに代用するを得べけん。余は我国艦隊は皆無なるもその防御の用に差支えなしというにはあらず。国防の順序に従い、これを軽重せんと欲する者なり。

転じて、攻勢的に関する方法を論究せんとす。向来また東洋には利益上関係上のため、我日本が攻勢的運動を執らざるを得ざるの場合、必然的に到来すべし。それ隣邦事あり。欧米人その欲望を逞しうするにあたって、我空しく指を含みてこれを他の壟断にのみ委すべけんや。我もまた躍然起って頭角をその間に露し、彼とまさに利益を競争するの計をなすべし。

我東洋に生ずる関係は、必ずや商略にあり、しかして商略の主眼は利益にあり、これにおいて戦争もその利益を同じうする者と連合せざるを得ず。攻守共にこれが連合軍たらざるを免れざるものなり。

この時にあたり、我国出征軍の数を定むるに、予は大約常備一師団にして事足るべしとなす。欧州各国といえども我が東洋に一軍団の兵を出すは、勢い能わざるものあり。東洋の事の成否は、実に我日本の連合を有すると否とに関すること大なり。故に日本の威権や最も重く、日本の声価や極めて高しというべし。現時の近衛をもって完備せる一師団となし、その選抜も現今の法により将校を特選して熟練を積ましめ、武器を鋭にして輜重を整え、世界強国の兵に対して毫も羞ずるなきを要するなり。しかしてこの出征師団には適宜の艦隊を備えざるべからず。しかれども敢えて多数なるを要せず。なんとなれば欧州人が力を東洋に用ゆるにあたって、陸兵はその最も難ずるところにして、海兵はその易しとするところなればなり。

兵器

我軍隊をもって欧州軍隊に比す、その学識経験の及ばざるはもちろん、躯幹矮小体力饒かならず、しかのみならず兵器また彼に及ばずとせば、それはた何を頼みて相対敵せんとす。この軍隊にして一朝有事の日、その兵器の劣等なるがゆえに敗を取り、万が一にも国家を挙げてこれを失うことあるに至らば、その不経済なる実に焉より甚だしきはなし。ゆえに予は、軍隊に関しては、徹頭徹尾勤倹を主とする者なるも、この兵器の一事に至りては、軍事経済の堪うる限りは、充分に精妙鋭利のものを選択せんと欲するものなり。兵器製造と共に、人を製造するも頗る要用たり。けだし善良能材の監督者を得ざる事業の完全、けっして望むべからざればなり。故にその人に乏しくんば、一時多数にその専門を定めて、欧州に留学せしめ業成るの後おのおのその専門に従事せしむるを要す。

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「経済的軍備論」での仮想敵国は、欧米列強の極東派遣軍
実質的に、異なる経済成長モデルの提案でもあった

三浦はまずは、軍備は、国の経済規模に見合った規模として、経済的な無理を行わないことを大原則としています。次に、「敵に対して自国を護るの一語」として専守防衛としているのは、仮想敵国として欧米列強の極東派遣軍だけを想定しているからです。

すなわち、甲申事変以来、清国との紛争が生じたときに軍事的に勝てる軍備、という方針によって軍備拡張を行っていた陸軍主流派とは、仮想敵国の考え方が根本的に異なり、その結果軍備に投入すべき資金規模の想定にも大差が生じました。

陸軍主流派との、軍備論の相違の根底には、国際紛争が如何にして発生するのかについての認識の差があったように思われます。すなわち三浦は、「我東洋に生ずる関係は必ず商略にあり」として、紛争は経済的利害の対立によって起こるものであるとしています。甲申事変という、経済的利害の対立ではなかった事件への対応として対清軍備増強を開始した主流派の考え方は、地勢やメンツなどといった経済的には必ずしも合理的とは言えない要素まで重視する考え方であり、それと比べれば三浦の方がより近代的・合理的であったように思われます。

三浦は、日本が軍事的に攻勢をかけなければならい事態が将来は「必然的に到来」すると見ていて、専守防衛だけでは済まないこともわかっています。ただ、現時点では日本の経済力がそこまでに至っていないとの認識であっただけであり、その点でも日本の経済力の状況を適切に理解していたように思われます。さらに、そうした事態では日本の単独行動とせず、欧米との連合軍を組むことによって、費用効率の良い軍備を行いながら国益を達成するのが良い、と考えていたわけです。

この「経済的軍備論」が、当時の日本の軍備の考え方になっていたなら、まずは日清戦争は発生していなかったでしょう。そうであれば、日本だけでなく、清国も朝鮮も、その後の歴史が大きく変わっていたであろうと思われます。日本自身も、軍備への資金と人材の集中配分が避けられ、その分の資金と人材が民生分野に投入されていたなら、経済成長の過程も相当に異なる道をたどったことでしょう。昭和前期に見られたような不幸な歴史の方向に歩むことはなく、もっと早い段階からその経済力・技術力が高く評価される国になっていたかもしれませんし、そうであれば、現在の中国や韓国との心理的な関係も異なるものになっていたのではないかと思われますが、いかがでしょうか。

反主流派将軍は、さらに参謀本部廃止論も主張

なお、大江志乃夫 『東アジア史としての日清戦争』には、谷ら反主流派将軍たちと、陸軍との間で、参謀本部の位置づけをめぐる争いがあったことも書かれています。それによりますと、やはり反主流派で貴族院議員になっていた小沢武雄中将が、まず院外で1891年10月に、独立の参謀本部は廃止して陸軍大臣の所管に含めよ、また軍備の重点を東京湾と大阪湾の防備に向けよ、といった主張を含む演説を行った。それに参謀次長川上操六が怒り、新聞紙上で反論した。同年12月、谷干城が貴族院に提出した「勤倹尚武建議案」の討議に賛成討論を行った際、小沢は改めて参謀本部の陸軍省への統合を主張、それに憤激した陸軍首脳は小沢を諭旨免官処分にした、という事件でした。

谷の「勤倹尚武建議案」自体が、議会によって軍備予算に制限をかけようとするものでありました。小沢の主張もまた、統帥権を陸軍省の下に置き国務の中に繰り込むことによって、国防費を議会がコントロールできるようにしようとするものでした。

こののち大正時代になって、三浦梧楼がもう一度参謀本部廃止を試みたようです。『観樹将軍回顧録』によれば、三浦は原内閣の時、責任内閣の実を挙げよ、また併せて参謀本部を廃止せよと勧告した、その理由は、参謀総長が帷幄上奏の特権を持って、内閣を経由せず直接に上奏することが出来るとすれば、責任内閣の主義が立たない、ということであった。参謀総長にごく従順の人を据えれば、参謀総長は名のみとなり、事実上もう陸軍大臣でやれることになるとの議論にまでは進んだが、それを決行する前に山県有朋が死んでしまい(1922−大正11年)、参謀本部廃止問題は未決のままとなった、とのことです。

反主流派将軍たちの主張通りに参謀本部が廃止されていたなら、昭和前期の日本は、敗けるのが当然の戦争は起こしていなかったかもしれません。その主張が取り上げられなかったのは残念な結果となりました。

組織論として、参謀本部の独立は、必然的に「全体最適」の阻害

参謀本部問題を、現代の企業組織にたとえてみましょう。この会社には、全社の運営に責任を持つ社長と、その社長に大所高所から助言するけれども細かく口出しすることはない会長がいます。そういう会社で、全社中が社長に報告して社長の指示で動くことになっているのに、ある部門だけは会長直結になっている、という状況と同じと言えます。

こういう組織を作ってしまうと、まずは、全社中が社長(首相)を見て仕事をしているのに、会長直結部門(陸軍参謀本部)だけは会長(天皇)だけを気にして社長など見なくなる、社長の言うことを無視するようになる、という問題を生じます。

さらに悪いことは、会長直轄部門は、他部門のことを気にせず、自部門の利害の実現(「部分の最適化」)だけを図るようになるため、結果として会社全体の利益の最大化(「全体の最適化」)が阻害されてしまう、ということになりがちなことです。他部門でも、自部門の利害優先の要求は当然起りますが、社長が全体最適を考えて調整を行い、その修正指示に従います。会長直結部門は、全体最適化のための調整の対象外なのです。そもそも会長は、日常業務には関与せず全体最適を実現すべく調整する役割を負っていないのです。こういう組織にしてしまっていては、全体最適が実現できなくなるのは当然です。ですから現実には、何か時限的な特殊事情があれば別ですが、恒常的にこんな組織にしている企業はほとんど存在していないわけです。

それなのに、参謀本部の独立を続けてしまったのです。言い換えれば、陸軍の利害(「部分最適」)の実現が国益の最大化(「全体最適」)よりも優先されがちとなる国家組織を作り、維持し続けてしまった、と言うことになります。その後昭和前期になり、この組織論の弊害が顕在化しました。当然の結果であったといえます。

明治のこの当時、近代国家の体制を整備していく時期に、谷干城らが反主流派とされてしまい、彼らの意見が国家の多数意見となれなかったことは、非常に残念であったように思いますが、いかがでしょうか。

日清講和でも遼東半島割譲要求を批判した谷干城

なお、谷干城はさらに、日清戦争の終結についても、早期の終結を目指すべきで、戦争賠償も過大な要求はすべきではないと主張、また遼東半島割譲の要求も批判、日清戦後の軍備拡張にも反対をしました(小林和幸 前掲書)。この点は、また別に確認したいと思います。

日清開戦前の日本の政治的状況の確認はここまでとし、次には、当時の日本の経済発展度・経済状況の確認を行いたいと思います。

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