日清戦争で戦場となった地域
日清戦争で
戦場となった地域
(黄は陸戦、赤は海戦) 
 
カイゼン視点から見る
日清戦争
The Sino-Japanese War of 1894-95 from Kaizen Aspect

日清戦争前の日本の状況 A

対外硬派
反政府の団結スローガン

上 日本陸軍の旅順西方砲撃 下 日本海軍の速射砲砲撃
上 日本陸軍の
旅順西方砲撃
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(日清戦争写真帳より)
 
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日清戦争の開戦は、「内閣と議会」で見たとおり、当時の政府と議会との激しい対立が、その直接の原因となっていました。議会では反政府各派が「対外硬派」として連合して政府に対立していました。

では、対外硬の基本的主張はどういうものであったのか、対外硬派は日清開戦を望んでいたのか、この点をもう少し確認しておきたいと思います。

外交問題での対政府批判の流れ

外交問題において政府が批判される現象は、すでに、日清戦争の10年近く前から起こっていたことであり、まず民権派が外交問題でも政府を批判、それに国権主義者が加わった、いずれにしても反政府であった、との構図であったようです。まずはそうした全体の流れについて、以下は、色川大吉 『日本の歴史21 近代国家の出発』からの要約です。

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1882−84年 朝鮮での壬午軍乱・甲申の変での日本の世論

1882(明治15)年の壬午軍乱の真相は、日本側にはほとんど報道されず。当時の日本は自由民権運動がその頂点に達していた時で、アジア諸国の連帯と協力を訴える議論が生まれたほど。

1884(明治17)年の甲申の変についても、記事はきびしく管制、一般国民は事の真相をまったく知らされず。事件の責任は朝鮮にはなく清にあるとの被害記事のみ。世論は反清感情一色。『毎日』は戦争回避論だが、『報知』は強硬で太沽・天津をおとしいれよという武力解決論。自由党の『自由燈』も同じく主戦論、義勇兵が編成され、従軍・献金を申し出る者が続出。

1886年 井上外相による条約改正案での反対運動

1883(明治16)年、井上馨外務卿は、内地を外国人に全面開放、治外法権を全廃、日本の法規を欧米諸国にならって完備、日本裁判所に外人判事を置き外国人が関係する事件には外人判事の数を多くする、との条約改正案をまとめ、列国会議に提出。

1886(明治19)年5月、伊藤首相・井上外相の体制のもと、列国共同の条約改正会議で改正案を審議。内閣法律顧問のボアソナードは、この新条約草案は旧条約より甚だしく劣る、との意見書、谷干城農商務大臣も強硬に反対。さらにボ氏や谷の意見書が民権派の手にも渡ると、新条約反対をとなえる建白書が元老院に殺到。7月29日に政府は条約会議の無期限延期。反対運動は、条約問題をこえて政治体制そのものの変革をめざすものとなって拡大。同年9月17日、伊藤総理は井上外相を更迭、12月末には内相が保安条例を発動し民権家の逮捕や帝都追放などを実施して鎮静化。

1887年 ノルマントン号事件

1887(明治20)年10月25日、イギリス貨物船ノルマントン号が紀州大島沖で難船沈没、そのときイギリス人水夫などは助かったのに日本人乗客は一人も救助されず、イギリス領事は海事審判所でイギリス船長に無罪、という事件が発生、当時の伊藤内閣は条約改正会議開催中で、本事件に消極的態度。ために民間側がこの事件を取り上げ、政府の腰抜け外交と批判。

1888‐89年 大隈外相による条約改正案での反対運動

1888年(明治21)年11月大隈重信外相の下、メキシコとの間に治外法権も税権の制限もない対等条約を調印。同年末から翌年にかけ列強との間にも新条約の締結交渉。列強との新条約案は井上案よりはるかに前進していたものの、依然ある程度の治外法権や税権制限を認めるものだったため、今度は国権主義者による反対運動が発生、民権派とも連携し建白運動。1889(明治22)年12月18日、大隈外相が、国粋主義者の壮士(頭山満率いる玄洋社の社員)に爆弾を投げつけられ文字通り「失脚」する事件が発生、黒田内閣総辞職、条約改正は挫折。

1892年 千島艦事件、対外硬へ

1892(明治25)年11月、フランスから回航中の水雷砲艦千島が、瀬戸内海でイギリス汽船と衝突して沈没、政府は天皇の名で横浜のイギリス領事裁判所に損害賠償の提訴。ところがイギリス汽船会社は逆に、責任は日本にありと天皇を上海の高等裁判所に控訴。イギリス高裁は瀬戸内海を「公海」と認め、日本天皇に責任ありと判決。国民は激怒、政府は狼狽。この「国論」の火に油を注ぎ、これを反政府運動に引っ張っていったのが「対外硬」論者たちで、旧自由党左派と右派<=国権主義者ら>との奇妙な混合戦線。彼らは「内地雑居反対・対等条約締結・現行条約履行・千島艦訴訟事件詰責」などをスローガンに排外主義感情をあおり、国民をひきずって政府に強硬政策を迫った。先導者に品川弥二郎、その黒幕に山県有朋ら反伊藤派の保守グループ。

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民権派は外交ではタカ派、しかも積極的な武力解決論も主張

上記の経緯の中で特徴的なことの第一点として、自由民権を主張する民党は、対外政策ではハト派ではなくむしろタカ派であり、それがその後も継続していった、ということです。

甲申事変は、朝鮮の親日派が日本の支援のもとに起したクーデターが、清国軍による鎮圧で失敗に終わった事件でした。この時政府は、対清軍備が未完成で無謀不可能として平和解決方針をとりました。しかし、自由党も改進党(尾崎行雄、犬養毅ら)も干渉を主張しました。すなわち、日清戦争に先立つ10年前から、対清武力解決論の主張が、民党によって政府批判の立場からなされました。

なお、日本は甲申事変以前に、派兵の規模は小さくても海外に出兵した、あるいは海外で戦闘を行ったという経験がすでにありました。すなわち1874(明治7)年の台湾出兵と、76(明治9)年の江華島事件がすでにあったため、対外武断論が安易に主張されやすい基盤があった、と言えるように思います。言い換えると、当時の日本は、何かあるとすぐに外征を主張し始める、威勢だけは良い人が少なからずいた、そういう時代であった、と理解しておく必要があるように思います。

外交でのタカ派主張は、政府に勝てる政府批判の急所だった

上記の経緯の中で特徴的なことの第二点目は、井上外相や大隈外相による条約改正問題では、どちらも外相を辞任にまで至らせて、反政府派が政府に勝利したことです。外交問題では国権・国益を論じることになりますが、国権・国益の主張においてはタカ派的であるほうが世論の支持を得やすく、対政府で勝利しやすい、ということを学んでしまったのではないでしょうか。

その結果として、民党側は、政府批判の目的として、タカ派的・武断的な外交の主張を続けた、という面があったように思われます。こうした当時の状況が、10年後の日清戦争につながっていった、基盤的な要因になったのではないでしょうか。

実際に達成される国益が、タカ派的主張に沿う方がより大きくなるかどうかは、全く別問題で、結果的には、しばしば、むしろ大きな損失を招いてきたのが歴史の実績だったように思います。民党側は、政府批判ですぐに得点が稼げる短期的なメリットを重視して、中長期的な国益は脇に置いてしまっていた、と言わざるを得ません。

対外硬運動も、野党派・非政権派の政府批判運動

こうした流れの中で、対外硬運動が成立しました。その対外硬運動の特徴について、もう少し詳しく確認したいと思います。以下は、酒田正敏 『近代日本における対外硬運動の研究』の要約です。

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対外硬運動で注目すべき点

近代日本における対外硬運動で注目すべき点

第一、対外硬運動が野党派、非政権派の政府批判運動であった。政府は、有司専制、藩閥、非立憲であるがゆえに、国民に信頼・依頼しないゆえに、対外軟との主張。

第二、対外硬スローガンが野党派の連合形成に有効に機能。

第三、対外問題のための連合は、同時にまた国内問題についての連合。政費削減、軍備拡張反対、軍備制限、政治的活動の自由、増税批判等の「民力休養」「民権」的主張を対外硬連合派は展開。対外硬集団は、これらの国内政策を「対外硬のための国内政策」という枠組で主張。

第四、運動の中心勢力にかなり強い連続性。

国権派と民権派

「国権派」と「民権派」とは、「国権」と「民権」の実現の手段方法、先後関係、比重関係をめぐって対立したのであって、「国権派」が「民権」を否定し、「民権派」が「国権」を否定したわけではない。両者ともに、国民の政治的統合、国家的統合が立憲制度によるべきであるという点では一致。

「民権派」がほぼ明治20年を境に国権問題を政治争点として選ぶようになるのは、必ずしも「民権派」が転向したり「堕落」したわけではなく、国内政治情勢と国際関係の変化に大きな原因があったから。

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対外硬主張の本質は、外交問題それ自体ではなく、
政府の有司専制・藩閥体質への批判

「政府は、有司専制、藩閥、非立憲であるがゆえに、国民に信頼・依頼しないゆえに、対外軟との主張」というのは、裏を返せば、野党派の真の要求は、世論に依存した政策決定を保障する政府体制、あるいは多数党が政権を担う責任内閣制であって、外交問題はそのダシにされた、と言えると思います。

また、対外硬のスローガンによって野党連合の形成が容易であったという点も、言い換えれば、真の目的は外交政策そのものではなく政府を倒すことであって、その手段として野党連合が形成され、さらに野党連合を形成する手段として対外硬スローガンが活用された、と言えると思います。つまりは、名前は「対外硬」であったけれども、外交問題そのものが目的であったとは必ずしも言えない運動であった、と理解するのが正しいように思われます。

対外硬運動の担い手は多様

次に、対外硬運動の実際の担い手はどういう勢力であったのか、再び酒田正敏『近代日本における対外硬運動の研究』からの要約です。

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1889年 大隈外相の条約改正案への反対運動

1889(明治22)年、大隈条約改正案。反対運動、8月までにほぼ戦列がでそろう。民党派では改進党系を除き、旧自由党系の大同協和会〔大井憲太郎派〕、大同倶楽部〔大井憲太郎派以外〕、非民党系では、保守中正党〔谷干城ら〕、政教社・『日本』新聞グループ〔陸羯南ら〕、九州団体連合〔福岡玄洋社と熊本国権党を含む〕の5団体、さらに『日本』『政論』『東京新報』『東京公論』『都』『絵入自由』『保守新論』『東京朝日』『日本人』の9新聞雑誌、「5団体9新聞連合」の成立。

さらに谷干城、浅野長勲、三浦梧楼らは、5団体連合とは別に日本倶楽部を設け、独自の運動を開始。「先ずこのたび限りの目的にて、永遠の意はその中に含むもの」として設立、非民党派の大同団結運動の意味をこめていた。

1893年 硬六派運動の成立、非内地雑居・条約励行・自主外交

1893(明治26)年末第5議会において「硬六派」と呼ばれる党派連合が成立。国民協会(議員数66名)、改進党(42)、同盟倶楽部(25)、政務調査会(20)、同志倶楽部(18)、東洋自由党(4)で、議員数にして175名、議席数300の過半数を占める勢力。

六派のうち四派(改進党、同盟倶楽部、同志倶楽部、東洋自由党 〔議員数計89名、六派全体のほぼ半数〕が、第1議会以来「政費節減・民力休養」をスローガンに活動してきた旧民党連合派であることは注目に値する。硬六派の政府攻撃は一方で、伊藤内閣と自由党との接近を促進。第1議会以来自由党とともに「民党連合」を形成し、議会内多数派を占めていた改進党は、第5議会を契機に「対外硬派」に転換。

硬六派連合の前身、内地雑居講究会〜大日本協会

硬六派連合の前身。第3議会における条約改正をめぐる議論の高まりに刺激されて、内地雑居講究会。「非内地雑居」を旗じるし、「一般の内地雑居は当分これを許さず、条約を改正すると同時に開港場を増加し、開港場に限り区域を定めて雑居を許す」。この組織と運動に参加したのは、国民協会〔品川弥二郎ら、反伊藤・親山県派〕、同盟倶楽部〔民党連合の一つ〕、東洋自由党〔大井憲太郎派〕など。

1893(明治26)年10月1日、内地雑居講究会は大日本協会と名称を変え発展解消。大日本協会勢力は、第5議会当時の党派別でみると、東洋自由党派、国民協会派、政務調査会派、同盟倶楽部派の4派から成る。さらに、自由党とともに大日本協会を鎖国主義、攘夷主義と非難していた改進党も、第5議会の開会とともに、ついには大日本協会と提携するにいたる。

大日本協会は非内地雑居をスローガン、ところが第4議会以来、自由党と対立反目していた改進党は「現行条約励行」論。大日本協会派も、改進党との共闘という意図が働いて「現行条約励行」「千島艦事件上奏」にまで、大日本協会派と改進党同志倶楽部の共闘は進展。政府は「現行条約励行」が進行中の条約改正に障害になるとして、12月9日議会解散をしたが、貴族院の三曜会と懇話会および新聞同盟という二つの戦力もこれに参加して戦力は強化された。

1894年の対外硬派

明治27年に入ると、これら官紀振粛条約励行派は一般に「対外硬派」と呼ばれるようになった。すなわち「条約励行」とともに「対外硬」「対外強硬主義」がスローガンとして用いられはじめた。一方対外硬派のなかでも『国民新聞』『国民之友』は3月下旬以降、「対外硬」「対外硬派」にたいし、「対外自主」「対外自主派」を用いまた「自主的外交」をスローガンとして用いた。

第6議会前後に高揚する対外硬運動は、改進党の積極的コミット、旧内地雑居講究会派の議員数の半減によって、第5議会前のそれと様相を異にしてきた。すなわち改進党および立憲革新党(同盟倶楽部および自由党脱党組の同志倶楽部が合併したもの)という旧民党連合派すなわち「民党主義」者の比重が増し、これらが運動のリーダーシップを握り始めた。この対外硬連合は、日清戦争中も継続し、ついに29年3月の進歩党結成に至る。

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結局、対外硬勢力の中には、終始一貫して対外硬であった勢力もあれば、ときどきの情勢によって対外硬になった勢力もあったと言えます。また、国民協会という本来なら政府支持であるべき勢力は反伊藤内閣で対外硬、改進党は反自由党で対外硬、貴族院の谷干城派は反藩閥超然政府で対外硬、などと、実に多様な勢力が、それぞれの思惑で、しかしスローガンでは一致して、反政府主張を強めていた状況であった、とも言えるようです。

対外硬論における攘夷論の側面

「対外硬派」の主張は、内地雑居尚早論であれ現行条約励行論であれ、外国人をうまく活用して日本人の活動に役立てよう、あるいは外国との利害をうまくバランスをとって調整しよう、という方向性にはありません。むしろ、日本人だけを信頼して外国人をできるだけ回避する、あるいは日本の国益だけを一方的に主張してそれに抵触する外国の国益は徹底拒否しようとする排外主義に近いものです。したがって、本質的には攘夷論の変形、という見方が出来るように思います。

すでに別に見たとおり、日本は攘夷論を捨てて開国して成功し、ベトナムや朝鮮は攘夷論にこだわって国を滅ぼしました。攘夷論は、むしろ国益に反する、国を滅ぼしかねない主張です。しかし攘夷論は、変化を恐れる人々に対しては、心情的にアピールしやすい議論です。また表面的には「国益」を主張する話なので、正義に聞こえ、直感的に飛びつきやすく、世論の支持を作り出しやすい議論であり、また政府としても議論そのものを押さえつけにくい、という特徴があります。

政府批判の目的のために、正しくはないと知っていても、あえて攘夷論的な議論を主張した、という側面もあったものの、とにかくその結果政府がそれに引きずられてくれたので、対外硬派もますます主張をエスカレートさせたのだと思われます。

対外硬論における、「対清硬」論の側面

第五議会での、対外硬派による内地雑居尚早論および現行条約励行論の議論については、特に「対清硬」を意識した側面もあったようです。その点を確認しておきたいと思います。以下は、石井寛治 『日本の産業革命』によります。

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「対外」の内地雑居尚早論と、「対清」の現行条約励行論

内地雑居尚早論とは、治外法権撤廃と引き換えに外国人に内地雑居を認めると、欧米商人による投資・商工業進出は一挙に加速、さらに中国人の大群が日本の労働市場に進入する危険、したがい、法権回復は後回しにしてまず関税自主権回復、保護関税の下で経済の実力を養成すべしとの主張。

対外硬論者の中からもこれに対する反対論あり、欧米人による事実上の内地雑居はすでに公然だが、内地雑居を非とすべきほどの弊害を見出さざる。むしろ問題は中国人の内地雑居、彼らに対しては従来通り禁止せよ、との現行条約励行論。

1890年代になると、居留地に閉じ込められていたはずの欧米商人がさまざまな抜け道を通って内地に侵入を開始。他方、対中国貿易では在日中国商人が日本の開港場において大きな役割。93年当時、清国在留日本人が900人に満たないのに、日本在留の中国人は約6000人。1880年代の1890年代の中国綿花の輸入の70%以上、中国向け綿糸輸出の商権もほぼ、中国商人が握っていた。日清戦争直前の段階において、日本人が経済的に意識していた外圧の中身が、欧米からの外圧だけでなく、中国からの外圧でもあったことは、政府の対アジア外交を軟弱として批判する基盤として注目に値する。

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特に民権派は、対外硬の中でも「対清硬」

当時の世論の中にあった反清感情について、さらに補足しておきたいと思います。佐谷眞木人 『日清戦争−「国民」の誕生』の内容の一部の要約です。

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日清談判破裂して − 戦争以前からの流行歌

日清戦争当時、大流行した歌に「欣舞節」があり、その歌詞は、「日清談判破裂して、品川乗り出す吾妻艦、続いて金剛浪速艦、国旗堂々翻し…」というもの。戦争の5年あまりも前の明治21〜22年ごろに作られた。新橋の芸妓は振りをつけて踊った。上流の家庭でも家の女中を集めて踊らせた。

この歌は、当時の民権派の壮士芝居のなかから生まれたもので、民権派は「国権の拡張は民権の拡大にもつながる」という論理から、「対外硬」すなわち戦争をも辞さない強硬な外交姿勢を強く主張。この歌は、清にたいして弱腰外交の政府を痛烈に批判し、「戦争をしろ!」という強硬な要求を在野からつきつけるための歌だった。

この「欣舞節」の中には、「西郷死するも彼がため、大久保殺すも彼がため、遺恨重なるチャンチャン坊主」とある。「もし西郷の主張していた征韓論が実現し、清と戦争していれば、西郷は死なずにすんだ」という仮説の裏返しで、中国人への遺恨と結び付けられている。『明治大正見聞史』を書いた生方敏郎は、明治22年頃を回想して、「私の地方民はその頃まだ明治新政府に反感を持っていた。そして西郷隆盛に同情」していたと記している。

「征韓」は目の前の朝鮮に攻めこむことだけを指しているのではなく、神功皇后や豊臣秀吉の先例に倣うことを意味内容として含んでいる。幕末の尊王攘夷運動と明治の自由民権運動は、下級士族や豪農層という担い手においても、対外拡張論という思想においても、強い連続性を持っている。したがって日清戦争当時にも、このような朝鮮侵略を正当化する歴史意識は、社会的に共有化されていたと考えられる。

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それが正しいことかどうかは全く別問題として、当時の日本には、反政府の心情から、清国に対する武断論が民権派によって主張される雰囲気があり、またその威勢の良さがある程度世間にうけるところがあったものと思われます。

民権派は、具体的な対清政策では言行不一致

ただし民権派は、明治21〜22年頃に「欣舞節」を作っておきながら、明治23〜25年の議会では、一貫して軍艦建造費を削り続けました。すなわち、反政府という点では一貫していても、対外タカ派政策の実務面では矛盾した行動をとっていたわけであり、当時の対清武断論は政府批判のための「ためにする」議論でしかなかったことの証明にもなっているように思います。

その点政府側は、清国軍と戦えるレベルに陸海軍を強化すべく、予算をつけ、実務的にも着々と準備を進めていく一方、その準備が十分なレベルに達するまでは軍事衝突は回避しようと努めました。課題設定そのものが妥当だったかどうかは別にして、設定された課題の解決策としては、政府側は正しい対応を図ってきたと言えるように思います。

政府内にも対清武断派

反政府の民権派が対清硬だったからといって、政府側が対清協調で統一されていたわけではありません。それを示す、日清開戦の約1年前に描かれた風刺漫画がありますので、酒井忠康・清水勲 編 『日清戦争期の漫画』から引用したいと思います。

写真 漫画 旗の支度  旗の支度
(錦吉郎 明治26年8月)

「明治26年7月15日、大鳥圭介が韓国駐在公使に任命され、彼を支える対清武断派がいよいよ旗上げをするところである。」

「山県有朋(筆を持つ)とその直系官僚である品川弥二郎。うしろは前首相の松方正義。それに海軍経費の削減に反対し、藩閥政府の功績を力説する演説で有名になった元海相の樺山資紀が大鳥を力づけている。」

本のページとページのちょうど真ん中で、山県有朋の顔が隠れてしまっているところはご容赦ください。大鳥が弓を持ち、山県は筆をとって「武断」と書いているところです。藩閥政府側には、伊藤博文や井上馨のような対外協調派だけがいたわけではないことがよくわかる漫画です。

なお、特に政党への姿勢をめぐって、当時の政府内に伊藤博文対山県有朋の対立があったことは、例えば伊藤之雄 『山県有朋』に出ています。

1894年6月の朝鮮への出兵後の世論は、対清強硬の開戦論

東学乱対策での清国の朝鮮出兵にあわせて、日本は6月2日に朝鮮への出兵を閣議決定、それが9日の新聞各紙に一斉に報じられると、「この日から義勇兵の申請が相次ぐ。日本赤十字社の地方会員からも、「朝鮮に赴かんと願い出しものすでに400余名」があった(『国民新聞』 6月29日)」(原田敬一 『日清・日露戦争』)とのことです。6月26日付『時事新報』も、高知での義勇兵の志願がすでに800名に及びなお増加中と伝えました(鈴木孝一編 『ニュースで追う明治史発掘 5』)。

藤村道生 『日清戦争』でも、「日本の新聞論調もまた、強硬論であり、自主的外交をスローガンに政府にせまった」として、『国民新聞』や『東京日日』の例が引かれていて、「日清開戦を実現するために現内閣を打倒せよと扇動した(7月9日)」という『国民』の例まで出てきます。

7月半ばになると、「清国との開戦の好機なり」(7月15日 『国民新聞』)、「開戦の機すでに迫る…まず向かう所は牙山成るべしといえり」(7月21日 『東京朝日』)、「今日に至りて押し問答は無益なり。一刻も猶予せず、断然支那を敵として我より戦いを開くにしかざるなり」(7月24日 『時事新報』)などと、さらに過激になっていきます(鈴木孝一編 前掲書)。

日清開戦は、世論にひきずられた、という側面がまちがいなくあったように思います。

一般国民レベルでは、日清戦争直前まで、中国は尊敬されていた

なお、世間で反清の武断論がもてはやされたという事実がありましたが、同時に、一般国民レベルでは、日清戦争直前まで、中国は十分に尊敬をされてもいたようです。この点は誤解がないようにしておかなければなりません。以下は、佐谷眞木人の前掲書にも出てくる、生方敏郎 『明治大正見聞史』(橋川文三 編集 『現代日本記録全集 6 日清・日露の戦役』に所収)からの引用です。

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支那は立派な、ロマンチックな、そしてヒロイックなものだった

私たちはこの戦〔日清戦争〕が初まるその日まで、支那人を悪い国民とは思っていなかったし、まして支那に対する憎悪というものを少しもわれわれの心の中に抱いてはいなかった…。

私の家には、父の愛する六枚双の屏風が二つあった。…数人の絵が描かれてあった。…とても私の田舎でなんかどこをどう探しても見出すことの出来ない、立派で上品なものである。これが支那人だというのだ。家には、緑色の小皿が数枚あった。…父の言うところによると、これは南京皿だというのだ。どうも支那でなくてはこういう良い品はできない。墨でも硯でも、どうも彼地のものでなくっては、と書の好きな父は言いだした。私は父から毎夜漢文を教えられた。…孟子の話も孟母三遷の話も、父母からも聞き先生からも聞いていた。…それが皆支那の人々だ。学校で毎日教わる文字も支那の字だ。…その頃の日本の文明の九分九厘は、由来をたずねると皆支那から渡来したものだった。夏祭りには各町から立派な山車が引き出されたが、その高い二の勾欄の上の岩の上に置かれる大きい人形の多くは、支那の英雄だった。私等子供の頭に、日清戦争以前に感じた支那は、実はこのくらい立派な、ロマンチックな、そしてヒロイックなものであった。

その時まで、私達が見た物、聞いた物で、支那に敵意を持つか支那を軽んじたものは、ただの一つもなく、支那は東洋の一大帝国としてみられていた。…戦争が始まると間もなく、絵にも唄にも支那人に対する憎悪が反映してきた。

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日清開戦は、対外硬論者の本来目的であったのか?

これまで確認してきたことを整理しますと、次のようになるでしょうか。

「議会が始まって、議会内の主導権争いや政府との力関係の争いというきわめて国内的な事情の中で、対外硬派のタカ派外交論が力を得て、政府を危機に陥れる状況が発生した。その背景は、実は、元は民党で政府の藩閥超然主義への批判が主目的であったり、吏党であっても反伊藤博文であったりという、本質的な目的を異にするさまざまな勢力が、たまたま対外硬論で連携したに過ぎなかった。また経済的にも、特に対外硬論が強力になる必然性があったわけではなかった。しかし政府は、とにかく危機状況におかれてしまった。対外硬論の中では、特に「対清硬」論が主張されて世論がリードされた。政府は、その危機から逃れ出るために、またその「対清硬」の世論に引きずられて、日清戦争を開始した。」

対清硬論が叫ばれた結果として日清戦争が開始された、というところだけを見ると、対外硬派はその主張をみごとに実現したように見えます。しかし、そもそも対外硬運動の本来の目的は、対清硬を実現することになどなかったはずです。

対外硬論者たちの本来の目的は、藩閥政府を倒し責任内閣制を実現することであったはずです。その観点からすれば、日清開戦は、彼らが政府を追い込んだ結果ではあるものの、彼らの本来目的の実現には何も寄与しない、その本来目的とは整合性のとれない、そういう結果を生じた、と言えるように思います。

対外硬論者の中の少なからぬ人々にとって、日清戦争を開始することは、明らかに彼らが行っていた運動の目的と考えていなかったし、実際に開戦するなどということは、直前まで念頭にもなかったことだったのでなかろうか、と推定しますが、いかがでしょうか。


対外硬派のうち多数派が「対清硬」論者でもあったとしても、対外硬派の皆が日清開戦に賛成していた、というわけでもありません。次には、対外硬派中の日清開戦反対派の例として、谷干城の見解を確認しておきたいと思います。

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