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当時の政治思潮、特に、明治維新以前から始まって、征韓論から対外硬に連なっていく、対外強硬論に関する参考図書です。
井上泰至・金時徳 『秀吉の対外戦争−変容する語りとイメージ』
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征韓論の源流の一つは、豊臣秀吉の朝鮮攻略まで行きつくようにも思われます。 本書は、豊臣秀吉の朝鮮攻略について、事実がどう捉えられたか、どう記憶され、語り継がれたかを、江戸時代から日清戦争までの軍記・軍書の記述を通して確認する、という、ユニークな取り組みを行った書です。 秀吉時代の反省・批判に立って朝鮮との外交関係を復活した江戸期でしたが、幕末になると、体制が弛緩し、徳川の敵だった秀吉も見直されだし、吉田松陰すらその朝鮮攻略を高く評価したことを、本書は指摘しています。 幕末期には、儒教的な観念論だけが膨れ上がっていて、そうした立場からは経済的な見方が出来ず、そのため国威・国力とは何かも適切には理解されていなかった、という時代性があったと考えればよいのでしょうか。 |
本書は、本ウェブサイト中、「戦争前の日清朝3国の状況−朝鮮の状況@ 秀吉の朝鮮侵攻」のページで、引用等を行っています。
現代の我々からすると理解しがたいような、日清戦争当時の日本の対外積極論を理解するには、どうしても幕末維新期の「征韓論」までさかのぼって見ておく必要があるように思われます。その点で本書は読むに値する研究書であり、幕末の吉田松陰の征韓論から始めて、江華島事件での万国公法論に基づく日朝修好条規の締結までの過程を確認しています。
吉田松陰は、「天皇を中心とした日本の国体にとって、朝鮮の臣属は不可欠の一環」として「征韓論」を位置づけたこと、「征韓論は王政復古として実現する明治維新の理念と不可分の関係にあり、この時期に昂揚するのは必然的なこと」、しかし江華島事件では、「万国公法に基づく日朝修好条規を締結」して「征韓論の時代は終焉した」こと、しかし明治国家の国是として「逸早く侵略主義が形成されるにおいては」「征韓論が決定的な役割をになった」ことを、著者は本書で論証しています。
筆者としては、征韓論なしでも王政復古は理論化できていたと思うのですが、松陰は征韓論を理論に入れ込んでしまいました。「近代」国家づくりの基盤思想に「古代」が入れ込まれてしまった影響は、甚大でした。松陰という人は、坂本龍馬などとは異なり、欧米の近代化の本質が、産業革命による経済発展を基盤とした生活水準の向上にあることを、理解できなかったのであろうと思います。
本書は、本ウェブサイト中、「戦争前の日清朝3国の状況−朝鮮の状況A 開国から甲申事変まで」のページで、引用等を行っています。
本書は、日清戦前から日露戦争期にかけての、日本の対外硬運動についての研究書です。対外硬運動を担ったさまざまなグループについて、また議会の外の議論も議会の中での議論も取り上げられ、検証されています。
当時の対外硬運動を理解するためには、必読書と思われます。
本書は、本ウェブサイト中、「戦争前の日清韓3国の状況−日本の状況A 対外硬派」のページで、引用等を行っています。
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本書は、日露戦争が終わって100年というタイミングに合わせて出版された、ノンフィクション・ライターによる作品ですが、記述の各所に典拠が明示されていて、学究的な姿勢が明確な著作と言えるように思います。 内容は、日露戦争の講和会議からはじめて、二日間の「帝都大騒擾」の詳細、戒厳令下の政府対新聞の対立とその後までが書かれています。 著者は、「あとがき」の中で、「日露戦争の勝利のあとに起こったこの民衆の大暴動こそ、近代日本の一大転換期だった」としています。 筆者は、「転換」の根元は日清戦争にあったと思います。日清戦争時に示された、当時の日本人の海外領土獲得への熱意、そして日清講和によって生まれた戦争ビジネスモデルへの期待が、いかに大きいものであったかが、日清戦争から10年経ってまた戦争に勝った時の、「帝都大騒擾」の激烈さとなって現れたように思います。 |
本書は、本ウェブサイト中、「戦争の結果−戦争ビジネスモデルの成立」のページで、引用等を行っています。
次は、対外硬派のメンバーに数えられることもあったものの、独自の政治経済論を持っていた、谷干城・三浦梧楼と福沢諭吉に関する参考図書です。