6 朝鮮改革と挫折
ここまで、日清戦争の時代背景、戦前の日本・清国・朝鮮、そして日清戦争の経過から講和までの過程を確認してきました。そして、日清戦争の目的は、宣戦詔勅で宣言されたように、朝鮮にあり、その課題として内政改革が挙げられていたことも確認しました。
ところが、日清戦争の研究書の中には、朝鮮について、開戦前の状況には触れているのに、開戦後の状況や日本の戦争目的であった内政改革の動向がほとんど記述していないものがあります。しかし、一つの戦争を考える時に、その戦争の目的がどこまで達成されたのかを考えることは、必ず必要な作業であると思います。
ここでは、日清戦争の戦中から戦後にかけて、日清戦争の目的であった朝鮮はどういう状況になったのか、日本の開戦の目的は達成されたといえるのか、を確認していきたいと思います。
朝鮮では、結局は目論見に反する結果を招く
結果を先に申し上げますと、日本は、朝鮮について、開戦の目的を達成できずに終わりました。
日清戦争で日本は、当時の金で2億円を超える巨額の軍事費を使い、当時の全軍に近い規模の動員を行い、将兵だけで1万3千人以上、軍夫も加えれば2万人以上の戦死者(戦病死者を含む)という損害も出しました。それだけ大きな負担の戦争を行い、勝利して、賠償金や領土割譲要求についてはそれなりの見返りを獲得しました。
しかし、この戦争の本来の目的であった、朝鮮の内政改革および朝鮮への大きな影響力の確立という課題については、結局は目論見に反する結果を招いてしまった、しかも、それは日本自身の朝鮮への支援が不十分だったからである、という事実は、ほとんど常識化していないように思われます。
ここでは、日本は日清戦争で軍事的には大勝利を果たしたものの、朝鮮政府は日本の願望通りには動かず、内政改革もなかなか進まず、利権も得られず、日本が朝鮮に大きな影響力を確立したといえる状況はついに実現できなかった、という事実の確認を行いたいと思います。
「戦中戦後の朝鮮」の内容構成
日本は、1894年7月の日清開戦直前に、まず朝鮮に内政改革を迫り、さらに朝鮮王宮襲撃事件というクーデターを起こして政権を変えさえたことは、すでに「3 日本の戦争準備」のうち、「3c 朝鮮出兵と開戦決定」および「3d 朝鮮王宮襲撃事件」のページで確認しています。
本章では、日清戦争の開戦後および講和後の朝鮮について、以下を確認します。
6a 大鳥公使時代の朝鮮
開戦詔勅にも挙げられた朝鮮の内政改革ですが、駐朝公使が大鳥圭介だった時代には、取組はなされたものの、あまり進捗しない状態でした。まだ日本が勝つかどうかわからない時期だったこと、大院君が障害となっていたことなどの理由がありました。平壌の戦いと黄海海戦の勝利の後、大鳥公使は更迭され、井上馨に代わることになります。
日清戦争の開戦から大鳥公使更迭までの状況の詳細を確認します。
6b 井上馨による朝鮮の内政改革
大鳥圭介に代わって駐朝公使となった井上馨は、イギリスがエジプトを実質的に保護国化した事例を参考にして、朝鮮の内政改革を進めていこうとします。実際に井上が着任すると、内政改革討議は前進を始めます。しかし、内政改革が現実の成果を挙げ始める前に三国干渉が起り、そのために日本の影響力が削がれてしまいます。
三国干渉が起るまでの内政改革の進捗と、成果の出現を阻害した事情を確認します。
6b 三国干渉後の朝鮮と井上公使の退任
三国干渉後は、日本もロシアなどの意向を気にせざるを得なくなり、また朝鮮王宮がロシアとの関係の強化を図ったため、日本の指導力が十分に発揮できなくなります。井上馨が公使を退任し、後継者には三浦梧楼が選ばれます。
三国干渉後の、日本の朝鮮に対する影響力の喪失の状況を確認します。
6c 閔妃殺害事件
井上が帰国すると、朝鮮は宮中主導で内政改革の成果を急激に破壊、その状況下、井上の後任となった三浦梧楼は、閔妃殺害事件を起こします。その後は朝鮮国王がロシア公使館に逃げ出す露館播遷も起り、日本は、日清戦争の勝利によって得たはずの朝鮮への影響力を、全く喪失してしまいます。
閔妃殺害事件の詳細と、三浦梧楼らに対する広島での裁判の結果を確認します。
まずは、日清の開戦後、三国干渉に至るまでの時期の朝鮮の状況についてです。