2c5 朝鮮⑤ 経済の状況
朝鮮はこの当時、経済的にはどのような状況にあったのでしょうか。清国と日本とが朝鮮を争うほどに魅力のある経済状況にあったのでしょうか。それとも、日本が朝鮮の保護国化を目指すほど、当時の日朝間には経済力の差があったのでしょうか。ここでは、この点を確認しておきたいと思います。
李氏朝鮮 - 朝鮮の中世社会
李氏朝鮮の成立
まずは、李氏朝鮮成立から開港に至るまでの、朝鮮の中世社会の特徴についてです。以下は、李憲昶 『韓国経済通史』 からの引用・要約です。これは大部の著作ですので、ごく一部のエッセンスをご紹介するだけにとどまります。
武人政権の高麗
高麗では、12世紀初めには武人政権が樹立された。武人勢力と権門世族(代々高官を輩出する権力者層)は私田を拡大して農荘として経営し、彼らの経済的基盤となした。ほぼ同じ時期、日本でも律令制国家が崩壊して鎌倉幕府という武人政権が誕生した。日本の武人は地理的・人的に中央政府から自立した権力体を創出したのに対し、中央集権官僚制が長い伝統を持ち強固だった高麗では、武人がその枠内で台頭した。
朱子学による中央集権制の李氏朝鮮
儒学の素養を身につけ、科挙を通じて官職に出仕する与件を備えた両班層は、朝鮮時代に門閥を形成して支配集団を再生産し、中国より閉鎖的な身分社会が形成された。朝鮮時代には、すべての郡県に地方官を派遣し、個別土地所有者から賦税を徴取して中央政府に集中するようになった。
士太夫層は、高麗王朝の精神的支柱である仏教を排斥、新王朝の理念を儒学、そのなかでも朱子学=性理学に求めた。朱子学の朝鮮社会に対する影響力は中国や日本よりもはるかに強く長期にわたり、国家機構と農村社会の安定に寄与した反面、社会の変革と商工業の発展を制約した。
ヨーロッパでは封土の授受を通した封建制が分権的な政治構造を生みだしたのに対して、朝鮮の中世社会は中央集権的官僚国家によって統合された。朝鮮の中世を封建制と呼ぶのは難しいだろう。
500年間にわたった李氏朝鮮 ー 歴史過程の日本との大きな相違
古代には深い交流のあった日本列島と朝鮮半島も、19世紀後半に至るまでの両者の歴史過程には、大きな相違を生じていたようです。
李氏朝鮮は、李成桂が1392年に高麗から政権を奪取して成立しました。この時日本は室町時代、将軍足利義満の晩年期でした。それ以来朝鮮ではこの李氏朝鮮王朝が、日清戦争期にはすでに500年を越えて、ずっと存続してきました。
他方、同じ期間に日本では、足利幕府 → 戦国の騒乱期 → 260年の徳川幕府期 → 維新により明治政府の成立、と大きな変化が何度も繰り返されました。豊臣秀吉の朝鮮侵攻は、日本側では徳川幕府以前の昔話でも、朝鮮側にとっては同一王朝での大事件・大被害としてしっかり記憶されていたことは、こうした歴史過程の差の現れの明確な例であるように思われます。
その歴史過程の相違により、両国間には、地方分権・地方競合と中央集権、武士の倫理と朱子学の倫理、商工業の発展と抑制など、政治経済に関わるさまざまな質的差異が生じ、その結果、農業・商工業などの発展度や、さらには人口の成長にも差異を生じたようです。
開港前までの朝鮮、産業発展度は低かった
開港前までの朝鮮の農業
もう少し詳細に、開港に至るまでの朝鮮の経済状況を確認したいと思います。再び、李憲昶 『韓国経済通史』 からの引用・要約です。まずは農業について。
朝鮮は前期に人口成長、日本は徳川期に人口増大
朝鮮王朝が始まった1392年の人口500万人 → 1600年頃1100万人 → 1700年頃1350万人 → 1800年頃1650万人 → 日朝修好条規が締結された1876年の人口1688万人。朝鮮前期が後期より人口成長率は高かった。
日本の人口推移は、1600年頃1200万人→ 1700年頃2770万人→ 1800年頃3070万人。17世紀の顕著な人口成長は、戦乱の終息と経済発展に起因、18世紀以降は経済発展にもかかわらず人口成長は停滞し生活水準が向上。15~16世紀には日本よりも朝鮮の方が人口密度は高かったが、壬申倭乱〔豊臣秀吉の朝鮮侵攻〕以後には逆転した。
朝鮮中世の農業の特徴 - 生産性の遅れ
朝鮮王朝後期の農村は、当時の中国の先進地域や日本と比べると、水田の農業技術と土地生産性の面で立ち遅れ。その主たる要因は市場規模が小さかったこと。農産物市場の大きさが制限されたことで、金肥が導入されず、施肥効果の増進には限界があった。
19世紀初めの全羅道で地主が5%、自作農が25%、作人が70%との推定。土地の面積と所有関係が正確に調査された1918年段階では、全国の耕作地の50.4%が小作地であり、地主層3.1%、自作農19.7%、自小作農39.4%、小作農37.8%。
朝鮮末期でも高い農業比率、商品生産が発達せず、社会的分業も進展せず
朝鮮末期の農業従事者は全体の戸数の8割を超え、65%から75%であった欧日よりも農業社会の色合いが濃く、商品生産の進展を制約。職業分化、つまり社会的分業が進展せず。1909~10年でも、全国で工業に専業する戸数は、全戸数の0.8%。織物生産は、農家経営の副次的生産活動にとどまっていた。高級絹織物は中国製品で充足。朝鮮後期には綿織機も中国のものよりも生産性が段違いに落ちていた。
国家による一元的支配、結果的に不均等な税制、農業生産の意欲を阻害
1566年に職田法廃止、国家が租を徴収して官僚に俸禄を支給する官収官給制が施行され、国家の収租権に対する一元的支配力が確立。儒教理念は民生の安定を重視、適正かつ均等な課税が理想、収穫の1割が適正税率。朝鮮王朝は郡県制度と収取制度を整備、すべての人民に対して一律に、土地を対象として租を、戸口を対象として貢物と徭役を収取、初期の田租は収穫の10分の1の水準。
朝鮮後期には、国家財政は窮迫する趨勢。歳入減少の主要因は、国家の土地に対する把握能力の弱化。土地を測量・調査して量案を作成する量田事業を、両班官僚層が民弊にこと寄せて阻止したから。他方、官吏と王族は増加し、歳出は増加の趨勢、財政赤字は拡大の傾向。朝鮮王朝では、官員の禄俸が薄くて生活費を賄うに足らず、また、禄俸を受取ることのできない衙前が多くて、官吏の収奪が構造化する素地。19世紀、国家財政が悪化し官僚紀綱が弛緩するのにともない、正規でない中間収奪が拡大。
儒教理念は、結果的に賦税の不均等な賦課と国家財政の悪化をもたらし、恣意的な賦税収奪は、生産意欲を阻害することによって経済発展の障害に。欧日の封建領主は、恣意的賦税が所有領地の開発を阻害することを意識せざるをえなかったが、短期間赴任の朝鮮王朝の地方官は、地域開発のために賦税制を改善する力と誘因が足りなかった。
封建分権制と中央集権制の相違がもたらした生産性の差異
儒教理念に基づき一元的・中央集権的な政治経済体制を固定化した朝鮮では、前期には体制の長所である民政の安定が寄与して、人口・経済が成長しましたが、後期には体制の短所である社会の変革と商工業の発展への制約という側面が強まり、経済成長速度が日本より遅くなった、と理解できそうです。とりわけ、朝鮮の後期以降、官吏による収奪が、「生産意欲を阻害することによって経済発展に障害を与え」たようです。
これに対し、日本は鎌倉期以降、所領に基盤を置く分権的な武家政権であったために、各領主は自己の経済基盤を強化すべく、必然的に各自所領内の開発・生産力拡大を図ろうとし、その結果として日本各地の経済成長をもたらしました。すなわち、歴史的事実として、多元的分権体制の武家政権・幕藩体制が、当時の日本の経済成長をもたらしたと言えるようです。
日本が、開国後は明治維新によって中央集権制に戻ったことは、国際的な競争力、すなわちさらに高度な生産力が必要な時代になって、市場規模を藩単位から国単位に拡大することを意味するものであり、新たな発展段階への合理的な対応であったと思います。
開港前までの朝鮮の商業
次は、商業の状況についてです。また、李憲昶 『韓国経済通史』 からの引用・要約です。
場市(定期市)の発達
政府は1470年代には、農業人口の減少・物価の騰貴・盗賊の横行の懸念から、場市〔定期市〕を禁止。しかし恒常的な交換の拠り所を求める農民の要求から、場市は、15世紀後半まず全羅道に出現、以後拡散、壬辰倭乱直前には京畿道を除いたすべての道に存在。18世紀半ばには場市密度が高い水準に到達。その後1876年に至るまで、場市密度は増加することなく、場市網の基本構造も安定的に存続。
行商・浦口・市廛(してん)- 商業ルートの発達の程度
朝鮮時代、地方にはたいてい常設店舗が存在せず。行商が商品流通の主要な担当者、市の日に合わせて場市を巡回。重くて嵩張るが比較的価格の安い商品を背負って移動する担ぎ商人、すなわち負商と、小さくて軽く比較的高価な商品を褓に包み移動する包み商人、すなわち褓商。19世紀前半までには褓負商団が成立、行商活動を独占的に遂行し、特定の品目に対する独占権を獲得しようと試みることもあった。
17世紀後半以後、浦口〔海辺や河川の港〕はしだいに商業中心地へと浮上。産地の村落と場市から局地的な行商によって集荷された物資は、客主〔周旋人〕を経て遠隔地流通を担当する行商に引き渡され、たいていは浦口を経由して消費地に移動し、そこでまた客主を経て局地的行商に引き渡されて、消費者へ。
朝鮮後期にソウル市場の成長は京江浦口(広津から揚花津までの漢江川筋)の商業を発達させた。竜山には政府の倉庫が集中し、全国の租税穀が集散。しかし、民間商業の成長を背景にして出現した客主は、しだいに特権的な流通独占者へと転換。同時に、富民・両班官僚・宮房・官庁が主人権〔客商が独占的に委託される権利〕を掌握して利益追求、行商に対する収奪を強化するのにともない、浦口商業の成長は阻害された。
発展は限定的であった朝鮮の都市
漢城すなわちソウルは、全国屈指の都市市場、人口は1669年には19万人、19世紀末25万人前後。朝鮮前期からソウル商業の中心は常設店舗である市廛(してん)、廛税を納付し、国家の需要物資を調達。朝鮮後期の市廛は、登録された物種を排他的に取り扱うことができる乱廛禁止権。ソウルの市廛は、18世紀末には120まで増大。朝鮮後期、すべての市廛商人は、同業組合であるとともに最高意思決定機関である都中(とちゅう)に義務として加入。都中への加入には制限が設けられ、家柄が優先された。
中国貿易の通路に位置した平壌と開城の人口は、ソウルに次いで3万~4万人。商業都市として成長した江景・馬山・元山は、人口が5千人前後。開港直前に1万人以上の都市の人口は合計で40万人程度であり、総人口の2.5%ほど。
貨幣の普及も限定的、金融も未発達
1445年ごろにはすべての取引の価格は木綿で計算。銅銭は、1695~97年にかけて大量鋳銭、全国的に通用、基軸通貨の地位。銀貨は17世紀後半にソウルなどで使用されたが、1730年代以降、銀流通が激減。1870年代まで高額貨幣は普及せず。田税の銭納化率は19世紀半ばでも25%程度。金融も発達せず。
市場経済成長の制約 - 国家の流通独占と私的権力による侵害
1608年から大同法施行、国家の需用物資を米・布に統一して収取し、それを貢人〔政府指定の商人〕に支給して需用物資を調達。膨大な貢価の米・木綿・銅銭が市場に放出された。しかし、朝鮮末期に至っても、市場経済の位相は脆弱。農家の自給度も高く、1876年の日朝修好条規前後の時期に、市場を経由する生産物は3割にも満たなかった。
市場機能に対する基本的制約は、国家による流通独占と私的権力による侵害。すなわち、市廛商人は都市商業の独占、客主は権力と結託して客商に対する独占的な支配。国家の調達では、時価よりもずっと安い価格を支払い、かわりに請負業者に特権を付与することが一般的だった。
日本の幕藩制下、城下町が発達。また、領国間、あるいは領国と三都間の遠隔地流通が盛ん。このことが都市商業の発展に大きく寄与。町人=商人は政治から一定の自立性を維持しながら成長。権力者も公開的に経済的利益を追及、経済的利害が社会を規律する重要な動機として作用した。
これに対し朝鮮は、集権国家体制、名分論的儒教理念が強く、経済が社会と政治の制約から抜け出すことが難しかった。名分論的な儒教は商業に抑圧的ないしは消極的。中国の場合は、朝鮮と政治体制・統治理念において類似していたが、広大な領土。大都市市場と遠隔地流通が発展し、商人資本とその伝統が発達できた。
日本の武家政権の分権構造は、商業の発達も促した
開港前の朝鮮は、基本的には農業社会であり、しかも自給自足的部分が大きなウェートをしめていて、商業の発展度は高くなく、地方では行商が中心だった、貨幣は銅銭が使われていたものの、高額貨幣は使われていなかった、という説明です。
本ウェブサイト「第4章 日清戦争の経過」の中で詳しく確認しますが、朝鮮が開港後でもこうした経済発展の水準であったことが、日清戦争での日本軍の行動への制約にもなりました。兵員に行き渡るように現地で食料を大量調達したくても、市場には物がない、物を確保したのち支払いたくても、高額貨幣が通用しないから簡単に支払いを済ませられない、その前に大量の銅銭も調達しておかなければならない、という状態だったようです。
同じく開港前であっても、江戸・大阪・京の三都だけでなく、地方でも多数の商店があり、三都間や地方を結ぶ海上・内陸輸送も発達していた、また町人も大多数が読み書きが出来て、町人文化すら発達していた江戸期の日本とは、経済の成長度において、相当の差があった、と言えるように思います。
朱子学儒教が、李氏朝鮮の経済成長を制約した
「朝鮮の儒教」が経済に及ぼした影響
朝鮮が、農業においても商業においても、経済成長が遅れていたことについて、李憲昶 『韓国経済通史』 は、朝鮮の儒教理念が原因であったと指摘しています。
朝鮮の経済発展を制約した儒教理念
朝鮮王朝は儒学を統治理念に採用、16世紀には朱子学が在地士族の生活理念として定着、18~19世紀には儒教的な礼節が民衆の日常生活を律する。名分と礼の秩序を重視、経済的動機は抑制。財政の合理的調整や商業の管理などの経済問題は、礼論ほど体系的には論議されず、行政の効率化や経済開発の努力よりは儒教的教化を重視。
両班層は、大部分が寄生階級になり、また商業に従事できず商業の発展を阻害。商工業者層が社会勢力として成長することができず。近代への転換において深刻な制約要因。平民層には科挙への門は閉ざされ、教育の平民への拡大は困難。科挙は政治の実務とはかけ離れた儒学経典中心で、両班層は、実務教育を疎かにし、技術学を賤視、思想と価値観の多元的な展開を妨げた。加えて、朝鮮後期、科挙制の紊乱と売官売職の盛行。朝鮮王朝や清朝は、政治的後退と官僚綱紀の弛緩が進行していた時期に開港を迎え、既存政治秩序の無能さは著しかった。
朝鮮と日本-異なる儒教
開国前、朝鮮だけでなく日本も儒教がそれなりに浸透していましたし、両国とも長期にわたる鎖国の時代があったのに、なぜ開国後には大きな差異が生じたのでしょうか。姜在彦 『朝鮮の攘夷と開化』 は、日本と朝鮮では、儒教の内容とあり方が異なっていたことを、次のように説明しています。
「長崎」がなかった朝鮮、日本は包括的・習合的、朝鮮は純一的・対決的。
不幸なことに朝鮮には「長崎」がなかった。徳川幕府は鎖国をしながらも、ヨーロッパへの直接の窓口としてオランダに長崎を開港。朝鮮でもっとも閉鎖されていた19世紀前半期に、日本は蘭学を通じて、多くの人材を輩出、科学技術を産業・軍事に導入、さらに世界の動向を把握。
開国した当時でさえ、外国を知ろうとしない朝鮮の閉鎖的思想は、儒教のあり方と関連。開国前夜の思想において、朝鮮は純一的、対決的。唯一に朱子学だけの純化をきびしく追及。日本は、包括的、習合的。日本の儒学界、神道、仏教、儒教が習合し、さらには儒教においても洙泗学(古学)、朱子学、陽明学、はたまた蘭学にいたるまで、あらゆる流派が多様に共存・習合。もし朝鮮においてそのような試みがあったならば、必ず「斯文乱賊」として士太夫の世界から排除されたはず。
「士」は日本ではサムライ・朝鮮では儒者、日本は「忠」・朝鮮は「孝」
朝鮮は政治および軍事において徹底した文臣優位、崇文的気風。日本ではその支配者が武士階級、尚武的気風。象徴的には、「士」とは朝鮮では読書人または儒者をいうが、日本ではサムライをいう。
朝鮮と日本の儒学において「孝」と「忠」のウェイトの置き方が異なる。それが両国のナショナリズムの形成に重要な影響をあたえたのではないか。『論語』、親に対する孝、年長者に対する悌が仁の基本。『朱子学と陽明学』 の著者島田虔次の指摘、日本でもっとも問題になるのは君臣道徳、中国では家族道徳。
日本の場合、幕府や藩の学校では確かに儒学が教えられていましたが、儒学はあくまで武士の論理の補強に役立つ限りで活用されていた、いうのが実態ように思われます。そのおかげで、幕末維新期のリーダーで儒教原理主義に染まったのは少数にとどまり、多数派は現実に立脚して、簡単に攘夷論から開国論に転向したように思われます。ただし、武士の論理が支配的であったおかげで、維新後に安易に征韓論に走った者が少数者に留まらなかった、という別の面もあったように思われますが。
朝鮮の開港とその影響
開港以前の朝鮮の貿易
ここまでは、朝鮮の開港(1876年)までの経済状況を確認して来ました。これから、開港後の経済状況の変化に進みたいと思いますが、まずその前に、朝鮮にとって、もともと貿易はどのような位置づけにあったかについて、確認しておきたいと思います。また、李憲昶 『韓国経済通史』からの引用・要約です。
海禁体制の下、明と日本のみとの貿易
明が主導する朝貢貿易体制に編入され、使行にともなう貿易だけ許容。明の海禁で中国との海上貿易は途絶、中国が海禁を緩めた後にも朝鮮は海禁を維持。対日貿易では朝鮮に到着した日本船舶を相手に貿易、朝鮮側から商船の渡日はせず。
18世紀前半までは、朝鮮が中国の生糸・絹織物を日本に再輸出、日本から獲得した銀で中国産品の決済をする体制が中心軸。また、17世紀後半と18世紀前半には日本にも盛んに人蔘を輸出。
日本が清との直接貿易や人蔘の国内生産を開始すると、日朝貿易は衰退
しかし日本は、17世紀半ばから清と直接貿易を開始、18世紀初めからは銀の流出を規制、絹織物や生糸の輸入代替策。人蔘は安価な中国産などの輸入に切替え、また朝鮮から人蔘の生根を密かに入手して国内生産に着手、1750年代から日本への輸出は激減。18世紀半ば以後、日朝貿易は全般的に衰退。19世紀、日朝貿易の中心は、朝鮮産牛皮と日本産の銅を交換するもの。
日朝貿易の衰退で、対清貿易は万年赤字
日本からの銀流入が激減すると、対清貿易の決済手段が不足。その隘路の打開は家蔘〔栽培物の朝鮮人蔘〕の輸出。家蔘は薬効が弱く、長距離輸送に傷みやすかったので、それを加工した紅蔘の製造法が開発された。1797年から家蔘の輸出がはじまり、しだいに拡大。18世紀末からは砂金採掘と密輸出が急増。
朝鮮後期、貿易は、欧日ほどは重要な歴史的役割を果たさず。朝貢貿易体制で経済的動機は外交論理に従属、貿易を通じた国富の増進という積極的な観念は台頭しにくかった。中国に対して慢性的な貿易赤字状態にありながら、絹織物の輸入代替を実現できず。また朝鮮前期、日本に綿布を輸出しながら、それを綿業発展の契機として活用できず。これらの諸事情が、日朝修好条規以後の内的対応力を制約した重要な要因であった。
朝鮮の開港以前は、もともと国内政策でも、自給自足的農本主義が主流でしたから、貿易を通じた国富の増進という観念も薄かったようです。日本は、各藩が財政再建のために特産品の商品生産に力を入れましたが、朝鮮では、家蔘を除いては商品生産を促進する政策も弱かったようです。
開港後の朝鮮経済の変化
開港後も、貿易相手国はほぼ中国と日本に限られ、そのうち日本が貿易の第一の相手国だったこと、1886年以降は輸入相手国としては日本のシェアが中国に奪われて低下したこと、当初は日本も中国も欧米製品の中継貿易が中心であったが、日本だけは国内産業が成長して、欧米製品を日本製に徐々に切り替えていったこと、他方、朝鮮からの輸出品は日本向けの米と大豆ぐらいで、あとは金での決済が中心だったこと、また朝鮮側の立場で考えれば、輸出商品の育成が出来ず、貿易赤字の慢性化に何も効果的な手が打てていなかった、という状況があったことは、すでに「2c3 朝鮮③ 日朝貿易と反日感情」のページで確認しました。
開港後、日清戦争の時期に至るまでの20年弱の期間で、朝鮮の経済状況はどう変化したのか、少し確認したいと思います。また、李憲昶 『韓国経済通史』 からの引用・要約です。
開港後、朝鮮商人の貿易への関与は薄まってゆく
開港場の客主は、取引に対する熟練、一定の資金力および特権を持っていたので、初期には外国貿易商人は、輸出入品の国内取引を彼らに依存。しかし、外国商人は、内地通商を通じて産地の商人・生産者と直接取引することにより、開港場客主を頂点として形成されていた国内流通経路を解体し、それを直接掌握しはじめた。1880年代後半から、日本人と中国人の内地通商が本格化、輸出品の購入では日本人行商が、輸入品の販売では中国人行商が優勢であった。
日本は、自国商人に対して金融・交通などの分野で国家的な次元の支援を惜しまなかったのに対し、朝鮮は、商人の保護はおろか財政危機の重い負担を分担させた。国際貿易と関係のない商品流通においては、外国商人の浸透が進展しなかった。汽船を利用しない流通は、朝鮮商人が掌握した。
輸出用の農産物は生産拡大、輸入に競合した手工業は解体
国際貿易の展開は、産業構造を変化させた。米穀や大豆を中心とする農産物の輸出は、その商品生産を拡大させた。一方、綿製品をはじめとする各種工業生産品の輸入は、それと競合する手工業体制を解体した。
米穀を例にすれば、1890年以来米穀が日本へ輸出され始めると、朝鮮農民も余った米穀を高値で売り輸入貨物を安値で買う利益を知り、「従来一家数口の餓を支うるを以って足れりとせるもの、多少余糧を得んことを望み、従って委棄して顧みざりし田隴も、追々開発せらるるに至れり」(『通商彙纂』「1893年中仁川港商況年報」)。また綿畑が大豆畑に転換された。
ただし、日露戦争以前の米穀輸出量は生産量の4%未満であり、生産の拡大を考慮すると、国内流通量の減少を過大評価してはならない。1910年代初、米穀は生産額の4割程度が商品化し、そのなかで1割以上が輸出、大豆は生産額の3~4割が商品化され、その半分程度が輸出されたと推定される。
開港への対応-積極的だった日本、消極的だった朝鮮
外国商人が、言語も商習慣も異なる国で、その国の内部の商流を管理し拡大させていくことは容易ではありません。ですから、外国商人がその国の商人と組むのはきわめて自然の流れです。そうして外国商人と組んだ自国商人の中から、自ら貿易商となって外国に出かける者や、輸出用の商品生産を積極的に行う者が現れた、しかも、岩崎弥太郎・安田善次郎・五代友厚らのように、身分上は武士階級に属していた者の中からも大企業家となるものが現れたのが、日本の開港後の実績でした。
ところが、朝鮮商人の場合は、輸出入品の国内取引からさえ外されてしまうことになっていったようです。商品生産は、米穀や大豆の農産物ではそれなりに進展したようですが、日本と異なり、生糸や絹織物、綿布、陶磁器など、農産物以外で海外に売れる商品を工夫して製造させる業者も現れなかったようです。
開港後の朝鮮の政治状況の変化
開港は、政治的にはどのような影響をもたらしたのでしょうか。以下は、朝鮮政府内での開国後の対応について、また、李憲昶 『韓国経済通史』 からの引用・要約です。
急進開化派と穏健派・守旧派との対立
開化派の核心勢力は、壬午軍乱以後に急進派と穏健派に分裂した。穏健派は、清国が西洋勢力の浸透を防いでくれる保護幕と考え、東道西器論にもとづき清の洋務運動に倣って漸進的に近代化を推進しようとしたのに対し、急進派は清の内政干渉を排除し、日本の明治維新をモデルとして政治制度までを含む包括的な制度改革を通じて近代文明を全面的に導入する考えを持っていた。
自らの権力基盤を維持するために西洋文明を制限的に導入しようとした閔氏一族とそれに追随した高官は守旧派、広くみると東道西器派に含まれる。急進開化派は、1884年12月甲申事変を起こした。
現実の朝鮮政府の経済政策は進展せず
官営事業は、財政力・管理能力・技術力の不足などで所期の成果を収められず、あるいは甲申政変によってうやむやに。政府は財政危機の打開のため、新しい名目の租税を賦課、当五銭を濫発。増税策は官吏の腐敗と結びついて官の収奪を深めた。〔日清戦争期の〕甲午改革以前までは国家機構と財政制度の改革法案を具体的に準備できなかったなど、新たな次元にまで進展しえなかった。
儒教理念を固守し、両班的生活態度と伝統官僚の惰性に溺れていた支配層を、短期間に近代的な行政官僚や経済人に変えることは難しい問題。開港前に商人資本主義の伝統が発達しなかったことが、開港後における商人や企業家の対応力、さらに産業政策の実効性を弱いものにした。
政治体制、革命的に変化させた日本、守旧が強かった朝鮮
開港期、日本の変革リーダーたちは、その強い危機意識によって、幕藩体制を覆しただけでなく、自らの出身である士族身分の既得権まで廃止して、四民平等を達成する変革に進みました。
朝鮮の場合も、急進開化派は、日本の幕末期の変革リーダーたちと同等かそれ以上の危機意識を持っていたのであろうと思われますが、残念ながら、閔妃に代表される守旧派は、危機意識がそこまで強くはなかったのでしょう。生き残りのかかった大変化の時代であるにかかわらず、自らを変化に前向きに適合させて生き延びる体制を整えることに向かわず、自らの権力基盤や既得権の維持を優先し続けたのであろうと思います。そのため、国家財政を更に苦しくし、日清両国からつけ込まれる余地を広げていった、ということではないでしょうか。
ここまで、日清戦争期に至るまでの朝鮮と日本との間には、経済力の差異が現に存在していたことを確認してきました。もちろん、日朝間に経済力の差異が存在していたからといって、朝鮮を保護国化しようとした当時の日本の政策が肯定される、などということはありません。それとこれとは全く別問題であることは、念のために申しあげておきます。
ここに整理した、当時の日朝の経済力の差異、朝鮮の経済社会状況の実態は、当時朝鮮を訪れた外国人によっても記録されています。この記録は、当時の状況を具体的に理解するのに非常に役立ちますので、次に確認したいと思います。