2c6 朝鮮⑥ バード・塩川の観察
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朝鮮経済の状況を確認して来ましたが、この時期の朝鮮に旅行あるいは居住して、朝鮮の社会的経済的な状況を観察して記録した外国人がいました。1人はイギリス人女性のイザベラ・バード、もう一人は日本人の塩川一太郎です。
この二人の著作からは、すでに「2c3 朝鮮③ 日朝貿易と反日感情」のところで、かなり引用を行いましたが、ここでは、この二人による朝鮮に対する観察をさらに確認することによって、当時の朝鮮の状況を、より具体的に理解したいと思います。
イザベラ・バードと塩川一太郎
イザベラ・バードの4回の朝鮮旅行と『朝鮮紀行』
イザベラ・バード(Isabella Bird、結婚後は、Isabella Bird Bishiop、1831-1904)は、イギリス人で、20代のときにアメリカに行き最初の旅行記を出版、以後世界各地を旅する旅行家となりました。
日本にも来ており、初来日は1878(明治11)年、40代のときで、その経験はUnbeaten Tracks of Japan (1880 - 邦訳は『日本奥地紀行』または『日本紀行』)として出版しています。
朝鮮には、1894年1月から1897年3月にかけて4度来訪、その経験を、Korea and Her Neighbours (1898 - 邦訳は 『朝鮮奥地紀行』 または 『朝鮮紀行』、ここでは時岡敬子訳 『朝鮮紀行』 講談社学術文庫版を使用)として出版しています。
バードの朝鮮来訪は、下記の日程と訪問先でした。(⇒ は海路、→ は陸路または河川)
● 朝鮮第1回 1894年1月~6月
◆ 日本・長崎⇒釜山⇒済物浦→ソウル→南漢江上流・永春→北漢江上流・狼川→金剛山→元山⇒釜山⇒済物浦
◆ 済物浦に戻ってきたのは6月21日、すでに日本の旅団が上陸し、日清開戦まであと1ヶ月、到着するやイギリス副領事から、当夜の船で朝鮮を離れるようにとの忠告を受け、やむなく出国。
◆ そこで、済物浦から引き続き、満州・ロシア沿海州 1894年6月~12月
済物浦⇒満州・牛荘→奉天→牛荘⇒長崎⇒ウラジオストック→ロシア/ 朝鮮国境地域→ウスリー→ウラジオストック ⇒元山⇒釜山⇒日本・長崎
◆ 日清開戦時は、奉天に。その後、ロシア沿海州に暮らす朝鮮人の生活も観察。
● 朝鮮第2回 1895年1月
◆ 日本・長崎⇒済物浦→ソウル⇒清国・南部/中央部⇒日本
◆ 井上馨による朝鮮内政改革まっ最中の時期。この時、朝鮮国王夫妻、すなわち高宗と暗殺される前の閔妃に会見。その後は清国を旅行、また日本にも立ち寄り。
● 朝鮮第3回1895年10月~12月
◆ 日本・長崎⇒済物浦→ソウル→平壌→大同江上流→平壌⇒済物浦→ソウル
◆ 閔妃暗殺から間もない時期にソウル入り。平壌・大同江地域の旅行を終えて再びソウルに戻ってきたのは、12月のこと。
◆ この第3回朝鮮旅行後は、6か月間、中国旅行。その後日本の男体山で3ヶ月すごし、1896年10月なかばに朝鮮に。
● 朝鮮第4回 1896年10月~97年3月
◆ ソウル
◆ 朝鮮政府に対しロシアが一番影響力を持っていた時期、朝鮮を発つ前月に、朝鮮国王が露館播遷を終え王宮に復帰。
◆ 長い旅行を終えてイギリスに帰国したのは、1897年8月。
塩川一太郎の『朝鮮通商事情』
もう一人の、塩川一太郎ですが、その著書である 『朝鮮通商事情』 の「序」で、末松兼澄は塩川について、「在朝鮮京城日本領事館書記生」である「氏は、朝鮮に在留すること、既に十余年、よく朝鮮語を談じ、その制度文物人情風俗に通暁す。韓人また深くその才識を重んず。ゆえをもって、その軍国機務所においても、常に氏を招いて諮詢するところ多し」と記しています。
末松兼澄は、当時は法制局長官で、日清開戦直後の1894年8月から9月にかけて、西園寺公望による朝鮮慰問大使ミッションのメンバーとして、まさしく「軍国機務処」が活動していた時期に、訪朝しています。塩川の本書が出版されたのは、それから数か月後でした。
バードと塩川の観察
以下では、イザベラ・バードと塩川一太郎が朝鮮で観察したことのうち、特に社会的・経済的な事項について、主題別に、抜き出していきたいと思います。そのさい、二人とも観察を行っている事項については、二人の観察を並べて、確認していきたいと思います。
できるだけ原文を尊重してはいますが、簡潔にするため、適宜省略や言葉の置換えを行っています。したがって、引用ではなく要約である、とご理解いただきたいと思います。
また、主題別に整理するにあたって、同じ主題に属する記述を、著作の異なる部分から引いてきている場合がありますこと、予めお断りしておきます。
なお、二人のうち、特にバードの方はきわめて分厚い著作であり、ご紹介できるのは、そのごく一部に過ぎません。したがって、各主題について一番適切な部分を引いていると、筆者として自信を持って言い切れないことも、お断りしておきます。
バードが見た済物浦・京城と、日本人・清国人の居留地
まずは、外国人にとっては朝鮮の玄関口である済物浦や、首都の京城は、当時はどのような状況であったのか、その中にあった、日本人や清国人の居留地の状況はどうであったのか、からです。これについては、塩川の記述はありませんので、バードの要約だけとなります。
日清開戦前の済物浦の状況
ここは港とは呼ぶにも呼べないところで、実際、停泊地の大半は一日の干満の差が36フィートもある軟泥地というお粗末なものである。係留地は浅瀬の狭い水路で、並の大きさの船は5隻しか収容できない。街はみすぼらしい人家の集まりで、おおむね木造白塗りの家が海岸沿いに建ち、そこから緑にとぼしい丘へと散在している。わびしくてさえないイギリス副領事館、という低いほうの地点から、装飾をほどこした大きな日本式茶屋、庭園、神社のある丘の上まで、全体で1マイルあまりある。
清国人居留地は充実し、立派な清国政府の官衙も町役場もあり、繁盛している大きな商店もある。明らかに清国人は商売において日本人に大きく水をあけている。彼らは外国の「得意先」をほぼ独占し、済物浦にある大手の「商店」はソウルに支店を持ち、保有する在庫では応じきれない注文を受けた場合は、時を移さず上海から品物を調達してくる。
日本人居留地はこれよりはるかに人口も多く、街も広くてもったいぶっている。領事館は公館としては十分に立派である。街には小さな商店のならぶ通りが何本かあるが、扱っている商品はおもに自国の人々の需要を満たすものである。というのも外国人は清国商をひいきにしており、3世紀にわたる〔豊臣秀吉の朝鮮出兵以来の〕憎悪をいだいている朝鮮人は日本人が大嫌いで、おもに清国人と取り引きしているからである。
読者は済物浦には朝鮮人はいないのだろうかと疑問に思われるかもしれない。彼らはあまり重要ではなく、その街は日本人居留地の外側にあり、英国教会の建っている丘のふもとに丸く集まっていて、さらに丘の中腹に散らばっている。岩棚ごとにそこから生えたように土壁の小屋があり、不潔な路地でつながっている。
済物浦と首都ソウルとの交通
済物浦は漢江の河口にあり、ソウルの河港麻浦まで航行可能であるが、潮の干満が激しいうえに河床は浅いところが多く〔汽船の航行には向いていないので〕、首都への連絡はなににつけても「道路」によって行われる。正確に言えば道路は存在しないが、このことばを用いることにする。
道路は交通そのものに損なわれてしまい、はっきりしない箇所が多く、たいがいは公道3,4本分の幅をだいなしにして、わだちがばらばらについている。しかも深いぬかるみを避けてあらたに出発しているところが多い。ぬかるみはほとんど底なしである。
ソウルの街
城内ソウルを描写するのは勘弁していただきたいところである。北京を見るまでわたしはソウルこそこの世でいちばん不潔な町だと思っていたし、紹興へいくまではソウルの悪臭こそこの世でいちばんひどいにおいだと考えていたのであるから!
都会であり首都であるにしては、そのお粗末さはじつに形容しがたい。礼節上2階建ての家は建てられず、したがって推定25万人の住民はおもに迷路のような横町の「地べた」で暮らしている。路地の多くは荷物を積んだ牛どおしがすれちがえず、荷牛と人間ならかろうじてすれちがえる程度の幅しかなく、おまけにその幅は家々から出た固体および液体の汚物を受ける穴かみぞで狭めらている。
南山の斜面には簡素で地味な白い木造の日本公使館があり、その下に茶屋、劇場をはじめ日本人の福利に不可欠なさまざまな施設を備えた、人口ほぼ5000人の日本人居留地がある。ここでは、朝鮮的なものとはきわめて対照的に、あくまで清潔できちょうめんで慎ましい商店街や家々が見られる。清国人居留地も1894年時点では同じくらいの大きさで、ほかの居留地とくらべてなんら異なったところはなかった。
済物浦(仁川)の開港は、実質的には1883年のことでしたから、1894年の時点ではすでに開港後10年を経過しています。それなのに、街が大して発展していません。それ以上に驚かされることは、済物浦と京城との間の道路事情が、あまりにもひどかったことです。
「済物浦から京城まで」といえば、当時の日本で言えば「横浜から東京まで」に相当する、一国を代表する最重要幹線であるはず、と思われるのですが、道路とされるものはあっても整備がされておらず、交通は円滑とは言い難かったようです。
そして、都市の不潔さと臭いです。これは、大都会であった首都京城に限った話ではなく、釜山でも、もっと小さな地方の町でも、当時の朝鮮ではどこでもそうであったことが、バードの他の記述からうかがわれます。
原田敬一 『日清・日露戦争』 には、「兵士たちが上陸して感じたのは、まず 『不潔』 と 『におい』 だった」という記述があります。歩兵連隊の一士官の、元山上陸の印象として、「聞きしに勝る不潔である。道路は塵糞にておおわれ、不潔の大王をもって自ら任ずる豚先生、子分を引き連れ、人間どもを横目で睨みつつ道路を横行する。臭気鼻を突き、嘔吐を催すなり」 という手記を引いて、「兵士たちは 『不潔』 と 『におい』 の向こうに必ず 『遅れた文化』 を見据えている」と記されています。筆者はこの記述について、バードを読んで初めて、日本人将兵は強い偏見があったわけでも過剰反応したわけでもなく、いわば当たり前の反応をしただけであったことが理解できました。
バードと塩川の見た朝鮮の農・林・水産業
ここからは、朝鮮の産業に関するバードと塩川の観察を見ていきたいと思います。まず初めに、朝鮮の農業・林業・牧畜業・水産業の状況についてです。農業以外は、塩川の観察のみです。
バードの見た朝鮮の農業
日本人のこまやかなところにも目のいく几帳面さや清国人の手のこんだ倹約ぶりにくらべると、朝鮮人の農業はある程度むだが多く、しまりがない。夏のあいだは除草しておくべきなのにそれがされていないし、石ころが転がったままの地面も多く、また畑の周辺や畦は手入れが行き届いていなくて、石垣がくずれたままになっているのは目ざわりである。農地を通る小道はかなり傷み、両側には雑草が生えていて、畑のうねはあまりまっすぐではない。それでもさまざまなことから予想していたよりは、概して耕作はずっと良好であるし、作物ははるかに清潔である。家畜はとても少なく、肥料はソウルその他の都市の周辺を除いてほとんどつかわれていない。施肥をしたところはきわめて肥沃なのでよく目立つ。
灌漑を必要とするのは朝鮮の主食である米の栽培だけである。一部の米作地をのぞき、中部朝鮮と南部朝鮮の全域で二毛作が行われており、6月に稲を植え、つまり5月に種をまいておいた苗代から苗を移植して、10月上旬に稲刈りが行われると、土を耕して大麦またはライ麦の種をまき、翌年の5月から6月上旬にかけて収穫する。一般に作柄はきわめて良く、これで肥料不足がなければ、大量の収穫が望めるはずである。
塩川の見た朝鮮の農業
〔朝鮮は〕農をもって国の大本となすといえども、現時当国農業界の有様を見るに、その不進歩なること、実に驚くべき程のものあり。
河に堤防の設けなく、故に霖雨秋潦雨降れば必ず水災を免れず。国土樹林乏しきがため、降雨少なく、旱災に遭うこと繁く。田に引水用水等灌漑の法なく、耕作地したがって少なく、故に少しく旱すればすなわち失収を常とす。移苗の法は豊公征韓の当時に始まりしとも云い、農家その利を称するも、その法今に至るも全国に普からず、往々移植の労を取らざる者あるをもって、農民の労苦注意の全からざるを知るに足る。しかして肥料の法はほとんど発見せられざるものの如き有様を呈せり。
故に3年に1回の凶作は、実に当国農家の予期するところにして、またその実あるものの如し。またもって当国農業の一般を知るに足るべし。
23年以来、穀物は輸出品中の重要品となれりといえども、大豆がその輸出盛況なるに伴い幾分かその耕作面積を拡めたりと云うのみ、その他に至っては耕作地の如き、肥料用法の如き、耕法もしくは灌漑の利の如きもの、一として旧来の面目を改めしものなし。
故に、もし後来農民の勤勉を致し、その耕法及び農具肥料の面目を改め、灌漑の利を興し、かくして漸次農業の発達を見るに至らば、その産額を増加し、豊富なる農業国たるを得べきは吾人の信じて疑わざるところなり。
塩川の見た朝鮮の林業
朝鮮は寒国なるが故、家々燃料を支用すること夥多に、然るに山林空漠樹木少なきが故、勢い草柴を培養せざるを得ず、これがため使用する平野少なしとなす。これ吾人が内地を旅行して、平野空しく柴草の繁茂に委するを見て、驚訝の念に絶えざりしものなり。
もし山林制度を布き、樹木を養成せんには、一方には水量を増して旱災を免れ、一方には従来の柴草場を変じて耕作地となすを得べし。かくして得る耕地は、決して鮮少ならざるべしと思わる。
塩川の見た牧畜業
馬匹は、満州より輸入を仰ぐほどなれば、牧業としては差当り見込みなし。牧羊は、食用せざるが故、至ってすくなし。
家豚は、最も多く食用せらるるものなれば、僻地といえども到る所家々多くはこれを飼養す。然れども、その質矮小、見るに足らず。もし種豚を輸入して改良を企てんには、播殖最も容易なるべく、従って該事業の発達を見るに至らん。
牧養として最も有望なるは牛に如くものなし。国民の耕用、運搬用、及び食用として、欠くべからざるものなるが故、飼養の数額甚だ多し。しかして、牛皮の輸出は、実に夥しき数額に達せり。輸出牛皮のみにて、毎年の屠殺数16万9 千百頭とす。日本の屠牛数に比すれば、2倍もしくは3倍せり。故に、政府において牧牛事業を勧奨し、その種牛を輸入して改良宜しきを得んには、朝鮮は他日西伯利亜一休地方及び東洋諸国に向かって夥多なる食料を供給するを得るは、敢えて難事にあらざるべし。
塩川の見た水産業
肉食を崇い、日本の如く魚介を食用せざるため、その業もまた振るわず、海産事業は、全く幼稚の有様を呈せり。船舶の製、至って不完全にして最も危険多きが如きは、またもって該事業不発達の因たるを免れず。
故に東南海面すなわち慶尚全羅等の漁区は、今や大半日本漁夫の蹂躙するところとなり、毎年百万円以上の収利を該海面より奪い去られ、黄海平安の海面は清国漁夫の進入するところとなりて、これまた奪利せらるるものすくなしとなさず。
もし朝鮮政府にして早くここに注意し、該事業の振興を企てしめんには、よりてもって外国漁船の進入を防ぎ、よりてもって一大富源を開発するに至るは、余輩いまさら疑いを容るるものなし。海産の発達は、朝鮮を富有ならしむるの一大捷計なり。
朝鮮の農業の生産水準は日本より劣っており、施肥を行えば直ちに生産増大が可能なことをバードも指摘しています。塩川は、施肥に加えて、治水・灌漑の実施や、林業での植林の実施等によって耕地面積の拡大や農業生産力の安定化と増大が可能であることを指摘しています。
ただ防穀令を発するだけで、それ以外には何も有効な農業増産策を打たなかった当時の朝鮮政府は、農本主義を標榜していたといっても、実質が全く伴っていなかったこと、また、財政危機対策で無策であったことが、ここから読み取れるように思います。
水産業も、当時の朝鮮はほとんど発達していなかったようです。
バードと塩川の見た朝鮮の商業
次は、朝鮮の商業の状況について、バード・塩川二人の観察です。
バードの見たソウルの商業
商店も概してみすぼらしいのは同じである。在庫品全部を買っても6ドル程度の店がたくさんある。いちばん立派な商店は《大釣鐘》の付近にある。商店はどれも、商品のすべてが手を伸ばせば届くところにあるほど小さい。3本ある広い通りのひとつには屋台が両側に並ぶ。
ソウルは、商業という概念が行商人の商いに限られているこの国の、商業の中心地でもある。全国の商店がソウルから在庫を仕入れる。条約港から船積みされない製品はすべてソウルに集中する。ソウルは商品の一部品目を実質的に独占しているポーター業ギルドの中心地である。
バードの見た朝鮮の通貨
通貨に関する問題は、当時朝鮮国内を旅行する者を例外なく悩ませ、旅程を大きく左右した。日本の円や銭はソウルと条約港でしか通用しない。銀行や両替商は旅先のどこにも一軒としてなく、しかも受け取ってもらえる貨幣は、当時公称3200枚で1ドルに相当する穴あき銭以外になかった。この貨幣は数百枚単位でなわに通してあり、数えるのも運ぶのも厄介だったが、なければないでそれも厄介なのである。100円分の穴あき銭を運ぶには、6人の男か朝鮮馬1頭がいる。たった10ポンドなのにである!
バードの見た朝鮮の地方の商業
加平は小さな群庁所在地で、漢江流域の小さな町の好見本である。加平には朝鮮のほかの小さな町と同じく、活気というものがまるでない。「商人」は行商以外にはない。流域のどの町にもこれといった産業がなにひとつない。
通常の意味での「交易」は朝鮮中部と北部のおおかたには存在しない。つまり、ある場所とほかの場所とのあいだで産物を交換し合うことも、そこに住んでいる商人が移出や移入を行うこともなく、供給が地元の需要を上回る産業はないのである。平壌を除いては、わたしの旅した<ソウルより北の>全域を通して「交易」は存在しない。
このような状況をつくった原因は、朝鮮馬一頭で10ポンドに相当する現金しか運べないほど貨幣の価値が低下していること、清西部ですら銀行施設があって商取り引きが簡便になっているのに、ここにはその施設が全くないこと、概して相手を信用しないこと、皮革業に対する偏見、すなわち階級による偏見があること、一般に収入が不安定で、まったくもって信じられないほど労働と収入が結びつかないこと、そして実質的に独占しているギルドがおびただしくあることである。
わたしが見たかぎりの「交易」は、日本人バイヤーの行っているもので、小さな町や村を訪れて米をはじめ穀物を買い取り、港から日本に出荷する。港まで運ぶのは褓商(ポサン)すなわち行商の組織で、ギルドが多いのは朝鮮の風変わりな特徴のひとつであるが、この行商ギルドはそのなかでも最も大きなものである。
村々には商店はなく、小さな町にすらごくわずかしかない。市の立つ日でなければなにも買えない。週に一度立つ市の日には、ふだん活気もなくものうげな村が生彩と人込みとざわめきでにぎわう。公に指定された広場へ通じる小道は朝早くからかごに入れた鶏、豚、わらじ、わら帽子、竹じゃくしなど物々交換するための品々を持った農民であふれ、街道は街道で重い荷物を自分で持ったりポーターや牛に運ばせたりしている商人、つまりたいがいは体格の屈強な身なりのいい行商人でいっぱいになる。
塩川の見た朝鮮政府の対商業政策
〔朝鮮政府は〕むしろ著しく商業を妨害し、その発達を抑圧せるが如き傾きなしとせず。今その重なるものを挙ぐれば、一 政府が財産保護の途を講ずる最も不完全なること、むしろ残暴を加うる跡あること。
一 中央政府各衙各署各地方の無定期の誅求。
一 朝紳、胥吏、書院の不時の強索。
一 政府収税の帰一ならずして、頗る商賈的受負事業もしくは掠奪的に類似すること。
今試みに、各地方にありて商品課税の概略を述ぶれば、その種類は官分(地方官庁に納む)、営分(各兵営に納む)、洞分(町入費の類)、貿易分(営業税の類)、その他国王殿下、王妃殿下、世子殿下、義和宮、龍洞宮、竹潤宮等の各宮に収むるもの等にして、その額を合計すれば決して少なからず。
かくの如くして商家に徴する各種の税は甚だ多く、しかしてその収税や頗る乱雑にして、往々人により増減することあるが故、勢い資力ある者は多額を出さざるべからず。その上時々多額の御用金を命ぜらるることありて、ために蕩産する者もまた少なからざるを常とす。
塩川の見た朝鮮の通貨
目下朝鮮における流通貨幣は、一文銭及び五文銭と称する両種銅貨のみにして、〔五文銭は悪貨ゆえ〕その一個は一文銭一個と同じく、目下の相場にて、日本銭一厘五毛に相当す。大金の取引にも皆これを用ゆ。故にその運搬授受に幾多の費用と手数とを要し、不便なること極まりなし。かかる貨幣流通の不便と共に、手形流通の法は、ある部分には盛んに行わるるとも、財産保護の途充分ならざるがため、信用したがって少なく、これまた完全の流通を見ざるは已むを得ざるの勢いなり。為替法のごときもまた然りとす。
近時日韓貿易の開始以来、年一年に、日本貨幣の信用を増加することとなりし。円銀はその重量なるがために嫌悪せられ、しかして日本紙幣はその流通を専らにし、目下日本紙幣が朝鮮国内に流通するものは、釜・元・仁3港および京城・松都を根拠とし、その流通高はたとえ精査を得ざるが故、確かにこれを知ること能わざるも、決して鮮少ならざるべしと思わる。目下の有様にては、手形券とし為替券とし流通せらるるが如き傾きあり。
目下朝鮮には各港とも銀行支店ありといえども、その業務は全く日本と朝鮮間の商業にありて、朝鮮国内の商業にまで業務を拡張せず。
塩川の見た朝鮮の地方の商業
朝鮮国内商業の現況を観察するに、各地とも何れも会市の制を取らざるなし。会市の制、全国普きが故、何れの辺邑鄙村に至るも、一里乃至二三里のところに会市場を有せざることなし。故に、京城・松都その他七道監司営あるの地を除くの外は、各地商業全然会市日にありて取引せらるるを常とす。故に、市日ならぬ日は、如何なる有名なる会市場に至って寂寥を極め、日常の食品その他細々しき小雑貨に至るも、販売店を見ることなし。当国内地における商業は、有数都府を除くの外は、総て会市日において行わるるものと云うも敢えて不可なきなり。
京畿・忠清・黄海の3道中において、外国品販売の途やや開けおるは、松都・海州の両所に過ぎず。〔他の町は〕特にこれ等地方に需用なきがためならずして、朝鮮商がその運搬に危険なると労費あるを憚るの結果と云わざるべからず。
バードと塩川が記していることは、前ページで確認した李憲昶 『韓国経済通史』 の記述とよく一致しており、この二人が良い観察者であったことがよく分かります。
日清戦争の開戦後、日本軍はまず朝鮮国内で清国軍と戦闘を行います。その時日本軍は、物流のために現地で人夫や馬を徴発しようとし、あるいは糧食を徴発しようとして、思うようにいかない、というトラブルを経験しました。(例えば、「4 日清戦争の経過 - 4a2 序盤戦② 成歓戦と宣戦詔勅」)
商業といえば行商しかなく、「供給が地元の需要を上回る産業がない」状況で、しかも貨幣は運搬にまことに不便な一文銭・五文銭しか通用しておらず、会市の日以外は商品が集まらなかったのですから、そもそも、出兵した日本軍が、朝鮮国内の作戦地で現地徴発をしようと発想したこと自体、根本的にマチガイであったと言えるように思います。
軍人は、軍事の専門家ではあっても、調達・運輸の専門家とは言えず、特に朝鮮国内の物資の流通や物流についてはほとんど何も知識を持っていなかったわけですから、予めその分野の専門家から話を聞いたうえで、作戦の準備をしておくべきであったろうと思います。
特に参謀本部や、最初に出征した第5師団の幹部(具体的には川上参謀次長・寺内通信運輸長官や、野津師団長・大島旅団長ら)が、出兵決定時に、塩川一太郎を日本に呼び寄せて話を聞いた上で準備を進めていたなら、その後の動員でも、また作戦の立案実施の上でも、事前に対策を取ることが可能となり、いろいろなトラブルが避けられたのではないか、と思いますが、いかがでしょうか。
バード・塩川が見た朝鮮の旅行・物流の事情
次は、バードと塩川が、実際に朝鮮の各地を旅行して観察した、当時の朝鮮の旅行や物流の事情についてです。
バードの見た朝鮮の道路
旅人が馬または徒歩で進むペースは何れの場合も1時間に3マイル〔4.8キロ〕で、道はとにかく悪い。人工の道は少なく、あっても夏には土ぼこりが厚くて冬にはぬかるみ、均していない場合は、でこぼこの地面と突きでた岩の上をわだちが通っている。たいがいの場合、道といってもけものや人間の通行でどうやら識別可能な程度についた道路にすぎない。
橋のかかっていない川も多く、橋の大半は通行部分が木の小枝と芝土だけでできており、7月はじめの雨で流されてしまう。そして10月なかばになるまで修復されない。地方によっては、川にさしかかったら浅瀬を渡るか渡し船に乗るかしなければならず、これには必ず危険と遅れがともなう。首都を中心とする《6大道路》ですら、橋はふつう渡る前にまず馬や人間の重量に耐えられるかどうかを馬夫が確かめるほど、もろい状態であることが多い。
バードの見た朝鮮の旅館
朝鮮の宿には正規のものとそうではないものがある。正式の旅館でないものは、かいばおけのついた囲いがあるのを自慢できるのと、人間ばかりでなく馬も泊まれるのをのぞけば、街道沿いのふつうのあばら家となんら変わりはしない。町や大きな村にある正規の旅館には穴や汚物の山だらけの不潔きわまりない中庭があり、街道からはくずれかけた門を通って入る。やせ衰えた黒豚が1、2匹耳にかけたひもでつながれ、大きな黄色い犬がごみをあさり、家禽、男の子たち、牡牛、馬、馬夫、居候、そして客の荷物がにぎやかな光景をつくりだしている。
宿に着くと旅人や従僕は土塗の床―むしろが敷いてある場合もある―に突進し、その勢いで舞い上がったほこりをひとすみに寄せ集める。そしてまもなくそのほこりの山が動いているのに気づく。共同部屋から聞こえるぶつぶついう声やため息や体をかく音やそわそわする気配は、ダニや南京虫の多さを物語っている。ごはん、卵、野菜、それにスープ、素麺、干した海藻や小麦粉と砂糖と油でつくる練り粉料理といった朝鮮式のおいしい食べ物はたいがいの宿で調達できる。ただお茶はどこにもなく、また井戸はたいがい中庭の汚物のしみこみそうな場所にあるので、用心深い旅人は沸かしたお湯しか飲まない。
塩川の見た朝鮮の水運
国内運輸の便は殊に不十分にして、船舶航海の如きは、特にその不進歩の有様を呈せり。船舶構造の甚だ脆弱に不堅牢なるは、実に吾人の思い寄らざるほどのものあり。余が仁川に在留中、少しく風波あるとき、毎に前面に繋留する船舶の多くが、最も容易に最も瞬間に破壊するを見て驚きたることあり。もとより危険にして、航海に耐ゆべくとも見えず。故に少しく重要なる貨物は、たとえ運賃の高く到着の遅きにもかかわらず、牛馬背にて陸送するを常とす。
塩川の見た朝鮮の陸運
陸運はおもに牛馬もしくは人背にして、まま牛車あれども、道路の悪きと共に、その用至って少なし。道路はまた至って険悪にして、二三国道とも云うべき大路を除くの外は、何れも崎嶇たる一条の小径にして、国道とも称せらるべきものさえ、河水放流架橋の設け至って稀に、常に旅人に困難を与うることあり。ただ道路の困難なるのみならず、驚くべきは轎輿費の格別高価なること。仁川京城間の如き、少なくも我3円以上4、5 円前後の轎夫賃、この間里数我8里。旅行馬の如きも、乗用と駄用とを問わず、総て1日我1円2、30銭以下なることなきを常とす。されば、旅行する者また随って少なし。
京城と平壌との間は、当国にて有名なる大路と称するほどにて、なお交通繁きところと称するにもかかわらず、余がかつてその間を往復せし時の如きは、途上旅人らしき者に出会せしこと至って少なかりし。かつ地方警察制度の不完全なるは、強盗火賊の白昼にさえ横行して憚らざるものあり。その他韓銭携帯の不便、為替制度の不十分等のもの、また皆交通運輸に不便を来すの一として数えざるべからず故に当国における交通運輸の不便の著しきは、何人も直ちにこれを認め得るところのものなり。かくの如くにして商業の隆盛を見んと欲するは、ほとんど水に縁りて魚を求むるの類たらざるべからず。
二人の観察にズレはありません。道路もは路面や橋のメンテに問題があり、水運は船の強度が十分ではなく、その結果物流は発達しておらず、旅行者が少なかった、という状況であったようです。
バード・塩川のみた朝鮮の工業など、その他の産業
産業について、農林水産業や商業を見てきましたが、工業など、その他の産業はどうだったのでしょうか。これについては、バードの記述は実に短いので、塩川の記述が中心となります。
バードの見た朝鮮の工業
手工業は不振である。最上の生産物はコウゾでつくる数種類の紙で、そのうち油紙はベラム革のような見かけをしており、人をその上に載せて四すみを持ち上げられるほど丈夫である。その他上質のござ、竹製のすだれがある。美術工芸はなにもない。
塩川の見た鉱業
金は朝鮮国産中、最も有名。採金の方法は、殊別の熟練を要するわけにもあらず、用具また一般農具にして殊に機力を利用するにあらず、しかして政府これが奨励をなすにもあらず、故に採金業はあたかも農夫等の内職たるが如き観あり。石炭の世に需用あることは最も近頃はじめて朝鮮人の知るところなれば、炭鉱発見の如きは、未だ普からず。
塩川の見た繊維産業
蚕綿麻の三業の発達は、機業の幼稚と相随伴して、毫も見るべきものなく、故にその産出もまた十分なるを得ず。もし機業上の智識を増進するに至らば、三業の発達を見、その輸入を仰ぐに至らざることとならば、目下その輸入に注力する購買力は他方に転ずるは必然なるべく、なお一歩を進めば、外国に輸出し得るやも計られず。
塩川の見た工業
日本の中古にありて、総ての技術は均しく皆これを朝鮮より伝え来たり。その当時、朝鮮は実に工業の先進国たり美術国たらざるべからず。今朝鮮の国土を踏み幾般事物と相接するや、この観念は全然夢想に帰し、全く正反対の結果をもって吾人を呆然たらしめり。この国の工業は、新羅時代に一時その隆盛を致せしことあるにもせよ、爾後漸く退歩し来たりて、遂に現今の有様となりしと云うの説は、余の最も信憑するところのものなり。
百般の工芸品は一として見るに足るものなく、至って不発達に、至って幼稚なる現象においてあり。故に外国貿易の開けし以後、一として工芸品の輸出せらるるものなし。
国民がその製冠において精巧細密の手芸を示し、竹簾、花蓆において幾分の技量を顕わすものを見るに、決して工芸に適せざるの人種として放棄すべきに非ず。もし一朝工芸社会に光明を照らし、その発達を奨励し勧誘せんには、その業の振興を来し、よりて国富の一要素たるや知るべからざるなり。
かくの如く殖産興業の不発達なるは、すなわち大に後来に望みを属すべきところのもの、もし国民にして一朝文明の雨露に感染するところありて殖産興業の必要を知るに至っては、その発達は沛然として振起すべきはけだし疑うべからざるなり。
朝鮮政府は歴史的観念より、金の産出は外国の垂涎を来すの要素として、工業の発達は奢侈を致すの本とする等、ひたすら生産事業の進歩を妨ぐるをもって、為政の方針となせしが如き傾きあり。然れども、現時における自家の貧たる所以と、外国の富たる所以を講究せんには、容易に殖産興業の振興を企図するに至るは、あたかも明鏡を見るが如きものあり。釜山開け、元山開け、ついで仁川開け、京城開桟成るの後、既に幾多の年所を経たるにもかかわらず、朝鮮における殖産事業は、一として旧来の面目を更えたるものなく、一として進歩せしと云うものなし。
バード・塩川とも、現在は工業品・工芸品に見るものがない、という結論では一致しています。塩川は、古代に工業国であったものが衰退した原因を、朝鮮政府の観念=経済政策にあると認識し、開港後の無策を批判すると同時に、殖産興業路線に切り換えれば必ず大いに望みが生じると力説しています。
バードの見た朝鮮の両班・官吏
最後に、当時の朝鮮の両班階級・官吏はどのようなものであったのか、について確認したいと思います。これについては、記述があるのはバードだけであり、以下はすべてバードからの要約です。
両班は働かない
朝鮮の災いのもとのひとつに両班つまり貴族という特権階級の存在がある。両班はみずからの生活のために働いてはならないものの、身内に生活を支えてもらうのは恥とはならず、妻がこっそりよその縫い物や洗濯をして生活を支えている場合も少なくない。両班は自分では何ももたない。慣例上、この階級に属する者は旅行をするとき、おおぜいのお供をかき集められるだけかき集めて引き連れていくことになっている。本人は従僕に引かせた馬に乗るのであるが、伝統上、両班に求められるのは究極の無能さ加減である。従者たちは近くの住民を脅かして飼っている鶏や卵を奪い、金を払わない。
両班は掠奪・搾取する
非特権階級であり、年貢という思い負担をかけられているおびただしい数の民衆が、代価を払いもせずにその労働力を利用するばかりか、借金という名目のもとに無慈悲な取り立てを行う両班から過酷な圧迫を受けているのは疑いない。
商人なり農民なりがある程度の穴あき銭を貯めたという評判がたてば、両班か官吏が借金を求めてくる。これは実質的に徴税であり、もし断ろうものなら、その男はにせの負債をでっちあげられて投獄され、本人または身内の者が要求額を払うまで毎朝笞で打たれる。あるいは捕えられ、金が用意されるまで両班の家に食うや食わずで事実上監禁される。借金という名目で取り立てを装うとはまったくあっぱれな貴族であるが、しかし元金も利息も貸主にはもどってこない。貴族は家や田畑を買う場合、その代価を支払わずにすませるのがごく一般的で、貴族に支払いを強制する高官などひとりもいないのである。
わたしが舟旅を終えキムを解雇した船口尾では、両班の従僕があらゆる舟にむりやりソウルまでただで屋根がわらを運ばせようとしていた。キムはわたしに、運び賃は穴あき銭少々でいいから、何かちょっとしたものをソウル方面に運ばせてくれ、外国人に雇われていると屋根がわらを運ばなくてすむから、あなたに雇われているとひと言書いてくれ、と懇願したものである。
朝鮮の官僚は吸血鬼である
朝鮮の官僚は大衆の生き血をすする吸血鬼である。政府官僚の大半は、どんな地位にいようが、ソウルで社交と遊興の生活を送り、地元での仕事は部下にまかせている。しかも在任期間がとても短いので、任地の住民を搾取の対象としてとらえ、住民の生活向上については考えようとしない。
官吏階級は既得権を守るため、内政改革には反対である
官吏階級は改革で「搾取」や不正利得がもはやできなくなるとみており、ごまんといる役所の居候や取り巻きとともに、全員が私利私欲という最強の動機で結ばれ、改革には積極的にせよ消極的にせよ反対していた。政治腐敗はソウルが本拠地であるものの、どの地方でもスケールこそ小さいとはいえ、首都と同質の不正がはびこっており、勤勉実直な階層をしいたげて私腹を肥やす悪徳官吏が跋扈していた。
日本が改革に着手したとき、朝鮮には階層が二つしかなかった。盗む側と盗まれる側である。そして盗む側には官界をなす膨大な数の人間が含まれる。「搾取」と着服は上層部から下級官吏にいたるまで全体を通じての習わしであり、どの職位も売買の対象となっていた。
1892年に壬午軍乱を招いた官僚制の腐敗について、その後10年経っても、何等のカイゼン策も施されていなかったことが、このバードの記述からよく理解できます。また、財政危機の原因に対しても、上に引いた塩川の指摘にあるように、農業増産策や殖産興業政策の導入など、具体性のあるカイゼン策は何らとられていませんでした。
それゆえに、1894年には、東学乱が起こり、朝鮮の政治体制は重大な危機に直面することになった、と言えるように思います。
ここまで、日清戦争開戦前の、日清韓3ヵ国の状況を見てきました。次は、日本の戦争準備についてです。日清開戦が可能であったのは、それまでに開戦できる軍事的な能力を準備できていたからですが、具体的に、どのような準備がなされていたのかを確認したいと思います。