4b3 中盤戦③ 金州・旅順
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日本軍は、開戦前の6月に立てた「作戦大方針」に沿って、1894年10月24日、第一軍は鴨緑江を越えて清国領内に進攻していきました。一方、第二軍は、同じ日に遼東半島への上陸を開始します。
このページでは、第二軍による旅順半島作戦の経過を、確認したいと思います。
なお、このページでの引用等で、引用元を記していない場合には、すべて「4 日清戦争の経過」のページに記した引用元から引用を行っていますこと、ご了解ください。
日本・第二軍による遼東半島作戦の過程
第二軍の編制と清国領への上陸
軍事的には、清国北洋艦隊の軍港の一つがある要塞都市旅順口を攻略し、それを逆に直隷決戦に活用することが企図されたわけですが、準備と輸送には期間がかかりまず。実際に戦闘が行われたのは、方針決定から一ヶ月以上を経過した11月のこととなりました。
まずは、実際に兵力が上陸するまでの経過です。
第一師団と第十二旅団で第二軍、大山巌が司令官
9月21日、直隷決戦の根拠地として旅順半島攻略作戦を進行できると判断した大本営は、第二軍の編成に踏み切る。まず、第一師団(山地元治中将、東京)と小倉の混成第十二旅団(長谷川好道中将、第六師団の半分)を派遣して金州城攻略作戦。旅順口の攻略に第二師団(佐久間佐間太中将、仙台)が必要かどうかは偵察の結果で判断。
9月25日、陸軍大将大山巌(当時陸軍大臣)を第二軍司令官に任命、10月8日大山司令官に訓令、「第一軍と気脈を通じ、連合艦隊と相協力して、旅順半島占領に努めよ。この占領を間接的に援助するため、第一軍にはその前面にある敵を牽制させる」。大本営は第二軍の編成に際し、臨時攻城廠を編成、清国の大市街の城壁は野砲の力だけでは攻撃困難とみられ、12センチカノン・15センチ臼砲・9センチ臼砲を加えるため。
9月15日の平壌の戦い、17日の黄海海戦が終わって数日で、旅順半島攻略作戦の進攻が決定されたようです。
清国・花園口への上陸
混成第十二旅団は、9月24日から28日までに門司港を出発し、まず仁川に。第一師団は10月15日から18日までに宇品港を出発。10月21日、上陸地点は花園口に決定、第一師団は24日から花園口に上陸を開始。24日から27日にかけての揚陸作業は波浪高く難航、10月28日花園口から南西方30キロにある貔子窩港も占領確保、清軍は戦うことなく金州城方面に退却。人馬は花園口、糧秣弾薬は貔子窩港で揚陸。
第一師団は11月1日、仁川にいた混成第十二旅団も11月7日、揚陸を完了。揚陸を終えた各部隊は続々と貔子窩で合流。山地師団長は11月3日から金州城の前進することに決し、まず2日に金州街道支隊を出発させる。
<花園口海岸に於る第二軍用貨物揚陸場の景(満潮時)>(『日清戦争写真帖』より)
第一軍が鴨緑江を渡河し九連城の戦いを行っているのと全く同じタイミングで、第2軍の花園口上陸が開始されたことになります。
花園口は水深が浅くて錨地から岸まで3、4海里も離れ、波浪が高く端艇の漕行も困難、干潮となると沿岸一帯幅1500メートルの干潟となる、というところであり、揚陸には相当の苦労があったようで、第一回揚陸部隊の揚陸作業には4日間かかっています(旧参謀本部編纂 『日清戦争』)。
上陸地としては不便であっても、花園口は金州から約100キロ離れています。このため、日本軍の花園口への上陸の報が金州の清国軍に届いた時には10月26日(同上書)になっており、清国軍が直ちに兵を出していたとしても、兵の到着までに第一回揚陸部隊の作業は完了していたはずです。上陸地点で清国軍から攻撃を受けるリスクが低い地点を選んだ、と言えそうです。
金州城・大連湾の攻略
第二軍は、清国軍からの抵抗を受けずに上陸を果たしました。その点、第一軍による清国軍牽制がうまく機能した、と言えるようです。第一軍は、10月末から11月はじめにかけて、北は鳳凰城を、西は大孤山を攻略しました。第二軍も、11月に入ると、いよいよ金州、さらには旅順口への進軍を開始します。
11月6日 金州城の攻略
金州街道支隊は11月4日午前8時、亮甲店にてはじめて清軍に遭遇、陳家店南方約1400メートルの高地から射撃を受けるもこれを駆逐、陳家店北方高地を占領。5日未明に劉家店に集合。
師団前衛司令官乃木希典少将も5日10時過ぎに劉家店に到着、師団本隊の先頭は劉家店東北約2000メートルの高地に到達。師団長は正面攻撃を不利とみて、主力は清軍の視界外で復州街道上の三十里堡付近に回り込み、さらに清軍の左側背に進んで金州城を攻撃することに決す。師団本隊は、正午に衣家屯を出発、午後4時30分三十里堡に、前衛は十三里西南高地を占領。清国は鴨緑江畔の防禦に力を集中した結果、金州方面の防禦は次第に手薄に。金州方面の3部隊、全体を統括する総指揮官おらず。増援なし。
11月5日夜山地第一師団長、翌朝の攻撃を命令。6日午前6時半には破頭山など金州の城外陣地をすべて占領。金州城の城壁は高さ6メートル、一番上の幅は4メートル、よじ登ることができない。師団本隊は6日午前7時に乾家子を出発。砲兵部隊、9時には砲撃開始、七里庄南方高地、西崔家屯北方高地、金州城東北方約1500メートルの丘から、城壁上の清軍の砲を砲撃。9時30分清軍は城の西門から退却開始、10時ころからは続々と旅順口・大連湾方面に退却。10時10分工兵が城門を破壊、城中へ突入、占領。
清国軍は、第一軍の鴨緑江方面侵出への対応を優先した結果、第二軍の金州方面は手薄になっていたようで、砲撃しただけで清国軍は退却してしまいました。
<金州城攻撃の際、歩兵第二連隊の一部、胸壁にせまる景>(『日清戦争写真帖』 より)
<金州城市街の大半(中央の道路は北大街とす)の景>(『日清戦争写真帖』 より)
11月7日 大連湾砲台の攻略
山地第一師団長は、大連湾地方の強大な威力を持つ永久砲台を、野戦砲を使って攻撃するのは不利と見て、奇襲して奪うことに決する。7日、未明から午後6時半までに、大連湾諸砲台6か所を奇襲、徐家山砲台・和尚島3砲台・老竜島砲台・黄山砲台攻略、どれも清軍はすでに退却後で、無血占領。兵站要地を花園口から大連湾内柳樹屯に移し揚陸も容易化。
金州城を攻略した第二軍は、方向を南に転じて、大連湾の砲台攻略を行いましたが、清国軍は放棄・退却していたようです。写真から、それなりにお金をかけた立派な砲台であったことが分かります。
<和尚島西砲台(占領後)の景況>(『日清戦争写真帖』 より)
旅順口の攻略
金州~大連砲台と攻略を進めた第二軍は、いよいよ旅順口攻略に進みます。
旅順口攻略戦の準備
清国の旅順口の防備、海正面は黄金山・労律咀・饅頭山砲戦砲台を主幹、ほかに9個の補助砲台。陸正面の防備、大街道の東方においては蟠桃山・大坡山・小坡山・鶏冠山・二竜山・松樹山にわたり旅順口をかこんで半円形を成し、9個の半永久砲台と4個の臨時砲台、さらに各砲台間に高さ約2メートル、上部の厚さ約1メートルの胸墻。大街道の西方は、案子山に東・西・低3個の半永久砲台と臨時小砲台。
清国軍側は、11月6日から9日までの間に、金州や大連湾の敗兵が続々と旅順口入り、旅順口守備兵の士気を沮喪。当時旅順口の清軍には4統領と金州・大連湾から来た敗将2統領、統率する主将はおらず、てんでんばらばら。堡塁に引きこもったまま、日本軍の状況を探る積極的な努力をせず。
日本軍は半島の付け根側から攻めてきたので、逃げる清国軍は半島の先の旅順口に流れ込んだ、ということであったようです。戦略的に退却して旅順口で決戦、という方針で準備を進めていたなら大いに意味はあったと思いますが、そうではなく、それどころか旅順口には、清国軍を統率する主将もいなかった、ということで、兵力は多くても力を発揮できない軍であったようです。
13日、清国兵力に関する情報、旅順口本来の守備兵8千5百名と、金州および大連湾にいた敗兵3千7百名の合計約1万2千名、うち約9千名は新徴募兵。旅順口攻撃には第一師団と、混成第十二旅団(上陸を終えて11月13日に金州城に到着)、それに臨時攻城廠(15日に大連湾に到着予定)で足りると判断、第二師団は招かぬことに。
左翼縦隊、歩兵第十四連隊など、17日蘇家屯付近を出発し、三道溝・盤道・岔溝の諸集落に通ずる経路を経て20日に旅順東北方に進む、右翼縦隊、第一師団・混成旅団・攻城廠、金州から旅順に通ずる大街道を進む。
11月18日午前、日本の斥候騎兵隊が土城子で、前日から陣取っていた清軍歩兵隊に遭遇、攻撃され銃撃戦。清国軍は続々と増加。日本軍も増援あったが苦戦、午後1時半退却。日本側、将校以下死者11名、負傷者37名。清国軍は前進をやめ、旅順口に引き揚げ、戦闘終了。
11月19日、各隊は旅順まで10キロの周家屯付近に宿営。この間攻城廠の前進は、道路事情が悪い(砂地で起伏あり)、馬は調教せぬ徴発馬でしかも海運で疲労、このため人力で野砲の砲車を引かざるをえず困難をきわめる。運搬力不足により砲弾数も制限、1門あたり50発のみ支給。
11月20日、第一師団歩兵第二連隊、午前7時に第一大隊が于大山を占領、第二大隊は大王庄付近に進む、西少将指揮下の部隊は火石稜北方の高地、師団本隊は泥河子の西南方に集合。混成第十二旅団は午前6時までに、第三大隊主力は土城子・火石稜間の山頸から東北溝(水師営の東北約2500メートル)の北方鞍部の間を占領、第二大隊主力は周家屯の南端、第三大隊の左翼から邱家屯西南方約1000メートルの鞍部までを占領、第一大隊主力は周家屯東端に位置して、第二大隊の左翼から柳樹房までの間を占領。
20日午後、清軍は于大山とその西隣の高地を攻撃するも、敗れて旅順口方面に退く。日本軍負傷者2名にすぎず。
11月6日の金州占領から2週間で、日本軍は旅順口攻略のための布陣を終えた、ということになります。この間、清国軍とは、土城子での斥候騎兵隊の遭遇戦、于大山での交戦があった程度でした。
11月21日 旅順口攻略戦
11月21日未明から各部隊は前進を開始。午前6時50分、三方から案子山の3砲台に野砲・野戦砲・臼砲による集中砲撃を開始、攻撃としては弱く、砲台は最後まで沈黙しなかった。歩兵の突撃、午前7時35分占領。
<旅順の西方、方家屯付近において山砲中隊砲撃の光景>(『日清戦争写真帖』 より)
最西方の松樹山砲台には7時5分からカノン砲・臼砲・野戦砲による砲撃開始、午前9時45分以降火薬庫に砲弾が命中、守備兵が後退。二龍山砲台には午前11時半突撃、東鶏冠山西方砲台には午前11時45分侵入。正午前後には背面防御砲台を占領、午後4時50分までに東海岸諸砲台もほとんど抵抗なく占領。
<旅順口椅子山第一砲台より、二龍山および松樹山の方向望遠の光景>(『日清戦争写真帖』 より)
この日第二軍は、旅順市街と周辺に宿営、翌日は、敗走した部隊も収容し守備を固めていた西海岸諸砲台の攻略と、残敵掃討にあたる作戦。西海岸諸砲台は夜間のうちに守備兵が敗走、翌22日無人の諸砲台を占領。工兵大隊が旅順口内の水雷除去を完了し、旅順口の攻略を終ったのは24日午後3時。
結局、清国軍は、砲台という防御拠点に依っているのに関わらず、また日本軍の砲撃も必ずしも効果的とは言えなかったのに関わらず、1日のうちに退却してしまったようです。
<旅順市街全景>(『日清戦争写真帖』 より)
清国兵、あるいは民船に乗って海に逃げ、あるいは付近の村落に入り軍服を脱いで市民になりすました者も多かったが、そのほとんどは隙を窺って金州方面に走り、窮鼠の勢いで行く道々の日本軍兵站地を襲い、ついに金州・大連湾地方にいた日本軍守備隊と衝突。清国軍の宋慶、10月29日に鳳凰城を出発、11月7日海城に行くと李鴻章から旅順口救援の命、21日早朝から金州城に向かう。一挙に金州城をたたきのめそうと攻めつのったが、守備する日本兵は砲兵を持ち、宋慶らには1門の砲もなし、敗走、退却。
何しろ、日本軍は半島の根元側から先端の旅順口に向かって攻撃したのですから、清国兵は根元側の金州方面にいる日本軍に向かって逃げざるを得なかったわけです。生きるか死ぬかがかかっているので、敗兵といえども窮鼠の勢いになるのは当然であったでしょう。
旅順攻略戦の総括
金州城での交戦では、日本軍は、戦死者はなく負傷者13名、清国側には多数の死屍。土城子での交戦では、日本軍の死傷者48名(うち戦死11名)。21日の旅順攻略戦では、日本軍死傷者は288名(うち戦死40名)、清国側は「死傷また7000に下がらず」。
日本軍の大型砲の多くが、運搬に手間取った、故障した、設置した場所からでは距離が遠くて効果が少なかった、などの理由から十分機能しなかったのに、21日の旅順諸砲台占領が半日ほどの戦闘で終わったのは、野砲編成二個大隊の効果と、清国軍1万2千人のうち約9千人が新募兵で錬度は低く戦闘能力も高くなかったこと。
金州・旅順攻略戦は、清国側の弱さが目立った戦い
清国軍の敗因 1: 鴨緑江の防御に集中していた
この旅順攻略戦では、日本軍は砲の活用には苦労した様子であるものの、これまでの成歓の戦い・平壌の戦いと比べると、戦闘そのものにはあまり苦戦の様相がなかったように思われます。清国軍は、崩れ出したらあっという間に崩壊してしまった、という印象です。
なぜ清国軍はこんなにも弱かったのでしょうか?「清国は鴨緑江畔の防禦に力を集中した結果、金州地方の防備はしだいに手薄になっていった」(旧参謀本部編纂 『日清戦争』)とされています。その点では、清国軍の牽制のために第一軍に同時に作戦を行わせた、日本軍の作戦が当たった、といえるように思います。
S. C. M. Paine, "The Sino-Japanese War of 1894-1895"(サラー・ペイン 『日清戦争』)は、以下の通り、清国の防御の重点が、日本の攻撃の重点目標とずれていたことを指摘しています。
満州王朝は、王朝としての理由から奉天を保持することが不可欠と考えたが、日本側は制海権を獲得するために旅順を取ることが不可欠と考えた。日本の戦略は、その主要な防衛が海上からの攻撃を予測していた旅順に対し、陸上から攻撃を行うために、遼東半島の頸部の両岸にある金州と大連を取ることだった。
さらに、第一軍による日本の牽制作戦が効果を発揮したこと、また旅順を海上からではなく陸上の後背地から攻撃したことも奏功したことを指摘しています。
清国軍の敗因 2: 清国軍の大多数は新募兵、加えて将も不適切
次に、旅順口の清国軍1万2千人のうちの約9千人、すなわち清国軍の4人に3人は新募兵であったことは、間違いなく影響を与えたものと思われます。
さらに、土城子の戦闘があった11月16日に、旅順口にいた8隻の清国水雷艇は、すべて威海衛軍港に行ってしまう、旅順口の3人の統領はそれに絶望して芝罘に逃げてしまう、それを知った部下の遊兵や造船所の官吏は、銀や貴重品を略奪して民船に乗せて逃亡していく、ということもあったようです(旧参謀本部編纂 前掲書)。
すなわち、旅順口の清国軍は、そもそも頑強に防衛戦を戦える軍隊ではなかった、といえるようです。
清国軍の後に尾を引いた問題点: 清国軍は、逃げ方も拙かった
さらに、清国軍は弱かっただけではなく、その逃亡の仕方が、その後の日本側の攻略を助けてしまったようです。ペインの上掲書は、以下の指摘を行っています。
● 清国側は、〔大連から〕急いで退却したので、大連港での水雷敷設区域の計画も、旅順の防衛計画も置き去りにした。この大失策は、港を日本の船舶が使用できるようにする仕事を簡単にした。即座に大連は旅順に攻撃を仕掛ける便利な根拠地となった。
● 旅順の陥落でも、11月21日、主攻撃が開始されたその日に、旅順は、全ての要塞とドックヤードが放棄された良好な状態で、日本側の手に落ちたため、威海衛攻略や直隷決戦準備など、それ以降の日本軍の作戦実施を支援してしまった。
日本軍の輜重の課題 - 軍夫・軍馬の確保ではカイゼン
楽勝した第二軍ですが、これまでの成歓の戦いや平壌の戦いでの第一軍の戦いぶりと比べ、カイゼンがあったと言えるでしょうか?過去の二つの戦いでの共通の課題は、輜重問題でしたが、どこまでカイゼンしたでしょうか?
第二軍の総兵力は約3万5000人、うち軍夫を1万人以上含んでいた(一ノ瀬俊也 『旅順と南京-日中五十年戦争の起源』)ということですので、輸送に関する必要人員の確保、という点では従来よりも大きなカイゼンがあった、と言えると思います。また平壌の戦いの時と異なり、兵士の糧食が事欠く、という事態は避けられました。
日本で、非戦闘員である軍夫を大量に臨時雇用し、また馬も大量に徴発し、海外まで連れて行く、揚陸後は軍夫の人海戦術で輸送する、というやり方が、ベストの解決であったかどうかは分かりません。しかし、平壌の戦いから1ヶ月たつか経たぬかで、何がなんでも数をそろえて日本を出発しなければならなかったという時間的制約の条件下では、やむを得なかった、妥当なカイゼン策であったといえるように思います。
火砲力のカイゼンは試みられたが、砲の輸送問題の課題が残った
他方、結果的にですが、砲の輸送まではカイゼンが及ばなかった、と言わざるを得ませんでした。平壌もこの旅順も、どちらも要塞として整備された都市であり、敵方は都市の周囲の高地に整備された砲台を多数保有していて、待ち構えているわけです。砲台を打ち破るにはこちら側も適切な攻撃力のある砲を用意する以外に手はありませんが、砲は、射程が長く破壊力が高くなるものほど、重量が増し輸送が厄介になるという課題がついてまわります。
平壌のときは、野砲は持ち込まず山砲で戦う選択を行い、そのため実際に、清国軍攻略に苦労することになり、損害も多く出すことになりました。
今回は、おそらくは平壌での反省を踏まえ、カノン砲などの大口径砲も持ち込みました。カイゼン意欲は明白でした。しかし、やはり揚陸後の輸送には大いに苦労し、そのため結局その大口径砲があまり役立たず、清国軍側の砲台攻略に時間がかかりました。清国軍の錬度と士気がもう少し高くて、かくまで簡単に退かなかったら、どうなっていたでしょうか。
輜重の課題に多少のカイゼンはあったものの、軍の必要戦力確保の根本課題として、一層のカイゼンに取り組む必要が確認された、というのが、この旅順攻略戦の客観的な総括であったように思います。
砲の輸送問題は、次の日露戦争でカイゼン
なお、この砲の輸送という重要課題は、10年後の日露戦争時に、鉄道・軌道を活用するという新しい工夫によって、カイゼンが実施されました。以下は、熊谷直 『軍用鉄道発達物語』 からの要約です。
日露戦争時、旅順攻略での線路活用
乃木第三軍は要塞攻略前に、鉄道部隊を使って、大連港から10キロの地点まで、ロシア軍が退却時に破壊していた東清鉄道を狭軌に改築復旧。そこからは、資材運搬用のトロッコ線路を攻略陣地まで敷設。トロッコは人力の手押し。復旧した本線も最初は手押し。主として砲兵部隊の大砲や砲弾の運搬用。
要塞攻略にてこずった乃木軍は、日本内地の要塞から、28センチ口径、総重量が10トン以上もある大砲を18門も運び込み、さらに大量のコンクリートで基礎を造って据えつけ。鉄道やトロッコなしには運び込むことさえできなかったであろう。
奉天方面でも鉄道を活用
鉄道部隊は、開戦後に朝鮮半島でも清国国境に向けて線路を建設、満州側にもそれと接続する線路。鴨緑江岸の安東から軽便鉄道の線路を敷き、最終的には奉天で本線に接続。軽便鉄道なので、最初は手押しトロッコと変わりがなかった。日本軍主力はこの方面からロシア軍を追い上げていったので、その補給のためにこの線路が役立っている。
鉄道部隊は戦闘部隊の前進につれて北に線路を伸ばし、戦争中に奉天の北の鉄嶺からさらに50キロ先までの本線と、本線から途中で分岐して撫順炭鉱にいたる線路の運行を可能にした。
日清戦争から日露戦争にかけての時期の日本陸軍は、昭和前期とは大違いで、輸送・補給問題を無視した作戦の実施は、無いわけではなかったが少なかった、また、課題を発見したら次々にカイゼンを実施していく体質が現に存在していた、と言えるようです。
この旅順口攻略戦で、日本軍はいわゆる旅順虐殺事件を引き起こします。この旅順虐殺事件とはどのような事件であったのか、何が問題とされたのか、それに対する日本側の対応はどうであったのかを、次に確認したいと思います。