4b4 中盤戦④ 旅順虐殺事件

 

 

11月21日に旅順口を攻略した日本軍は、引き続いて行った市内の残敵掃討のさい、旅順虐殺事件を起こし、それを目撃した欧米人の従軍記者によって、そのニュースが欧米にも報道されることになってしまいました。いわゆる旅順虐殺事件です。

このページでは、その事件の内容と、そのさいの日本側の対応について、確認していきたいと思います。

なお、このページでの引用等で、引用元を記していない場合には、すべて「第4章 日清戦争の経過」のページに記した引用元から引用を行っていますこと、ご了解ください。

戦争後の旅順市街の真景 日清戦争写真石版より

<「戦争後の旅順市街の真景」 陸地測量部編 『日清戦争写真石版』より>

 

旅順虐殺事件の事実関係

旅順虐殺事件の当事者と記録

まずは、事件そのものについての事実関係についてです。以下は、大谷正 『近代日本の対外宣伝』からの要約です。

旅順虐殺事件の日本側の当事者

いわゆる「旅順虐殺事件」の第一段階(11月21日午後から夕刻までの旅順市街の占領にともなう大量殺人)の日本側の当事者は、第一師団所属の歩兵第二連隊および歩兵第十五連隊第三大隊であった。〔第一師団は山地師団長。歩兵第二連隊は歩兵第二旅団-西旅団長に所属し、連隊長は伊瀬知好成大佐。歩兵第十五連隊第三大隊は、本来は歩兵第一旅団-乃木旅団長に所属、しかしこの時は歩兵第二連隊長伊瀬知大佐の指揮下。〕
翌22日、前日旅順攻撃にあたった部隊は北上して宋慶部隊の攻撃を受けた金州の援護に。市街地の掃討にあたったのは、混成第十二旅団所属の歩兵第十四連隊および第二十四連隊であった。占領の翌日22日から始まる掃討時の殺人という旅順虐殺事件の第二段階の主役となったのは、これら九州の兵隊であった。〔混成第十二旅団は長谷川旅団長〕

特に問題となった11月22日以降の掃討戦を行った混成第十二旅団は、小倉から来ていました。しかし、そもそも21日の大量殺人がなければ、22日の殺人もなかったかもしれませんので、第1師団 (第二連隊・東京、第十五連隊・高崎)にも間違いなく責任があったと言えます。

旅順虐殺事件についての日本側の記録

東京日日・東京朝日の記事、窪田忠蔵の従軍日記、小野六蔵の日記、歩兵第二十四連隊の兵士の手紙(福岡日日掲載)、三田村龍之介『日清戦争記 金州旅順の大戦』(1894年12月)、村松恒一郎『日清海陸戦史』(1895年6月)。
日本軍は土城子その他における「清国の蛮行」に対する報復=「仇討ち」として旅順口で大量殺人を行った、という説明の仕方は(三田村の記述にいたっては、山地師団長自らが配下の将校復讐を命じ、かつ旅順口占領後も虐殺を続けたことを認める)当時の新聞報道のパターンとも共通するものであり、国際法の知識を持たない多くの日本人にとっては、もっともな「道理」として違和感なくうけとられたようだ。
政府関係者の中で事件に関する最も詳しい記録を残しているのは、有賀長雄『日清戦争国際法論』(1896年6月)。有賀は第二軍司令部の法律顧問として従軍し、花園口上陸から金州、旅順口、威海衛の総ての戦闘を目撃。…有賀も第二軍司令部も、その規模や原因については若干の留保を付けながらも、いわゆる「旅順虐殺事件」と非難されるような「事実」があったことは認めていた。

事件が、清国の蛮行に対する仇討ちとして、清国将兵相手に限定されていたなら、さほど大きな問題にはなっていなかったかもしれません。

非難の対象となった事実

日本側の新聞記者と兵士の見聞、有賀長雄著書の記述を照らし合わせると、少なくとも次のようなことが言える。
まず日本軍の兵士のなかには山地第一師団長をも含めて、興奮して「復讐」を誓う心理状態の者がいた。11月21日に旅順市街の掃討にあたった歩兵第二連隊と歩兵第十五連隊第三大隊の兵士は、市内の路上・屋内で多数の中国人を殺害した。これは戦闘行為による殺人だけではなく、軍服を脱いで逃亡を計る兵士、あるいは投降の意思を示す兵士、さらには女性・子供を含む民間人の殺害を伴った。さらに22日以後は中国軍の組織的な抵抗はなかったにもかかわらず、市内では混成第十二旅団の兵隊たちを中心に敗残兵の捜索とその殺害が続いた。
日本側の史料からでも想定できるこれらの事態は、普通の感覚から見れば、大虐殺であり、かつ日本側の主張した戦時国際法を守る「文明戦争」に背くものであった。

逃亡兵はボーダーラインかもしれませんが、日本側の資料からも、投降の意思を示す兵士や女性・子供を含む民間人の殺害を伴っていた、と言うことであれば、明らかに行き過ぎであり、虐殺と避難されて当然であったように思われます。

虐殺事件を伝えた欧米の報道

11月26日英タイムズの報道、中国側残虐行為への報復としての虐殺。12月12日、ワールド新聞にクリールマン通信員からの旅順虐殺事件を伝える記事が掲載、米国国内のみならず欧州各国の新聞にも転載、続いて12月20日のワールド新聞の第一面と第二面にクリールマンからの詳報が掲載。
ニューヨーク・ヘラルド新聞・ガーヴィル通信員の報告、日本軍による大量殺人の事実、中国軍の野蛮な行為に対する報復として正当化。コーウェン通信員・英タイムズ、クリールマンと同様の事実。ウィリアース・ノースアメリカンレビュー、事実と言い難い「伝説」、僅か36人の中国人だけが生き残った。新聞記事以外のルート、各国の従軍武官ら。

欧米から非難されたのは、11月22日以降の掃討

これら3人の英米人〔コーウェン、ホランド、クリールマン〕が強く非難したのは、11月21日の戦闘と同日夕方の市街の掃討(ここで最も多くの中国人の死者が出た)ではなく、戦闘が一段落した後の22日以降の旅順市街および周辺の掃討に伴う敗残兵の殺害とこれに巻き込まれた民間人の被害であった(旅順虐殺事件の第二段階)。
彼らはこれを不必要かつ非合法な殺人=虐殺、さらにはアジア的=野蛮な日本(および日本人)の本性を暴露・証明する行為とみなす点で一致していた。…彼ら欧米人が要請していたのは、第二軍全体の処分ではなく、ごく限られた範囲の責任者の処分に過ぎず、もしそのような決断が日本政府によってなされれば、欧米ジャーナリズムの日本批判は再び日本の「文明化」の称賛に転換したはずであった。

英米人が非難したのは、旅順口攻略当日の11月21日の掃討戦ではなく、翌日22日以降の掃討戦での敗残兵の殺害と、それに巻き込まれた民間人の殺害であったようです。

本件での被害者数

当時の報道や報告に現れたものを見ますと、以下のように書かれています。

● <アメリカ『ワールド』、12月20日の記事>
旅順では、正当な戦闘で死んだ中国人は100人足らずで、少なくとも2000人の非武装の人間が殺された。
● <第二軍法律顧問の有賀長雄の著書>
市街の北の入り口より中央にある天后寺と称する寺まで、道の両側に民屋連列せり、而してその戸外および戸内に在るものは死体ならざるなく、特に横路の如きは累積する屍体を踏み越ゆるに非ざれば通過し難かりき。
● <日本占領後の清国人旅順行政長官から大山巌第二軍司令官への報告>
当時市内に逃げ後れたる小商人及貧民等は、敗兵と混入して類害を被り、非命の死を致したるもの一千五六百名の多きに至りたりと云う。

ワールド紙の言う「2000人の非武装の人間」には、軍服を脱いだ兵士と一般民衆の双方が含まれていたと思われます。一方、日本側の資料からは、軍服を脱いだ敗兵以外に、小商人及貧民等で非命の死を致したる者が1500~1600名ほどはいたようです。

旅順口市内掃討戦での発生した「敵屍」埋葬の写真

旅順口での市内掃討戦では、大量の「敵屍」が発生したことは間違いないようであり、その写真が残っています。日本軍側の記録写真です。

撮影者は、元津和野藩主の子孫である亀井玆明(かめい これあき)伯爵、ヨーロッパで習い覚えた写真術を活かして国家に報功しようと、自ら志願して第二軍に従軍して写真撮影を行い、のちに『明治廿七八年戦役写真帖』として出版しました。下の写真は、同書の中の1枚です。

敵屍を旅順口北方郊野に埋瘞の状況 写真

<敵屍を旅順口北方郊野に埋瘞〔まいえい=埋葬する〕の状況> (『明治廿七八年戦役写真帖』より)

この写真には、下の解説が付されています。(原文に対し、カタカナをひらがなに、旧かなを現代かなに、句読点や段落分けを追加、漢字を常用漢字またはひらがなに、などの変更を行っています。)

第二連隊勇往猛進して旅順市街に潜匿する敵兵を屠殺する者甚だ多し。これより先、清将、旅順付近の店民に諭し、15歳以上の男子は挙げて皆我軍に抵抗せしむ故に、民家毎戸多少の兵器弾薬を蓄えざるはなし。

これにおいて、我が兵の市街に進入するや、兵農を問わず、いやしくも我に抗する者は、ことごとく戮を加えて〔=殺して〕、少なくも寛貸〔=罪を許す〕することなし。すなわち、街衢〔がいく=広い通り〕、所として敵屍の横たわるを見ざるなく、脳漿流迸〔りゅうほう=流れほとばしる〕、腹膜露出、至る所鮮血淋漓〔りんり=あふれしたたる〕として腥風〔せいふう=ちなまぐさい風〕惨然、人を襲い満目荒涼たり。

のち数日の間、我軍は掃除隊を派して、諸所横死の敵屍をまとめ、土人〔=現地の人〕を役してこれを原野に埋瘞せしむ。これ明治27年11月24日、旅順口北方郊野において見るところの実況なり。

一般民であっても(=兵農を問わず)、15歳以上の男子は、少しでも日本軍に抵抗すると殺されていた、という状況であったようです。

旅順に先立ち、金州でも日本軍による虐殺が発生

「旅順虐殺」は、主には11月21日の旅順攻略戦後に発生したのですが、実際にはその2週間前、11月6日の金州占領のときから、日本軍による虐殺的な殺戮が発生していたようです。従軍した日本人軍夫が翌7日に金州城内に入り、清兵の首が転がっていたり、女性や子供を含む民間人の死体も多数目撃し、日記に絵も描いて記録していました。(一ノ瀬俊也『旅順と南京』

清国側が住民を事前退避させず、また清国の敗残兵の中に軍衣を脱いで民家に隠れ「土民に混ずる」者がいて見分けがつかなかったという事情もあったようですが、女性や子供の死体も含まれていたことについては、説明・正当化はできません。

金州占領の時点ですでに虐殺的な殺戮が発生していたようですから、軍としては、本来、この時点で課題に気づきカイゼンを行う、すなわち、例えば市民の保護を明確にする通達を出し部隊内に徹底するのが良かったであろうと思います。そうしていれば、旅順虐殺事件は起こっていなかった可能性があります。

日本軍側が指摘した土城子等での清国側の残虐行為

一方、旅順の虐殺事件について、日本軍側は土城子その他における「清国の蛮行」に対する報復と説明しました。清国軍側にも蛮行の事実があったようです。

11月18日の土城子の戦闘においては、清国軍が日本軍兵士の死体を「首は斬して見えず、手足は散々断たれ、腹は裂きて胃の腑を取り除き、石を詰めて充たしめ、甚だしきは陰茎を切断して有り」というように凌辱、土民も応援を成したのを発見したため、山地第一師団長が、「土民と云えども我が軍に妨害する者は残らず殺すべし」との命令を発した、との日記を従軍兵士が残しています。(一ノ瀬俊也 前掲書)。

確かに、首や手足を切り落としただけでなく、腹を割いて石を詰めたり陰茎を切断した、というのは蛮行でしょう。ただ、それで日本軍による一般住民や女性や子供まで含んだ殺害を正当化できるかといえば、それは無理でしょう。日本人はそうした虐殺を行う民族である、という印象を欧米人に与えてしまったことは、大変にマズい点であったと言えます。

南京虐殺事件との共通性

秦郁彦 「旅順虐殺事件―南京虐殺と対比しつつ―」(東アジア近代史学会 『日清戦争と東アジア世界の変容』所収)は、この事件を、昭和前期の日本軍が起した南京虐殺事件と対比して、相似点が多いと指摘しています。以下は、その要約です。

旅順と南京の相似点

● 中国側の要因
①地形の類似、海か大河を背、逃げ道が乏しくとくに住民の退避が困難。
②正規兵の便衣化、軍服を脱いで便衣に着替え民家に潜伏、日本軍は住民との区別が困難なので兵士と推定せるものは容赦なく殺戮、国際法違反、正規兵が便衣化するのも違反。
③責任者の逃亡、中国側の責任者と主要幹部は部下と住民を置き去りにして逃散。
● 日本側の要因
①背景と誘因、旅順は土城子事件、南京は上海戦での予想外の苦戦。
②捕虜を作らぬ方針、旅順の第二軍、捕虜をとる観念も用意もなかった、南京、支那事変だからという理由で軍中央部は国際法の適用外とこじつけ、捕虜収容保護の体制を準備せず。
③サディズム的指揮官の存在、旅順、山地第一師団長、南京の中島師団長。
④責任者を処罰せず、旅順の大山、南京の松井、誰も処罰されず。
● その他の要因
①外国人目撃者の報道
②犠牲者の数をめぐる論争、旅順の場合2千人を越えることはないと筆者は判断。
主たる下手人、大谷氏は少なくとも占領当日の11月21日については、歩兵二連隊と歩兵第一五連来第三大隊の兵士が主役と推定、筆者も同感。
歩兵第一旅団長だった乃木希典少将、少なくとも形式的責任は免れえないと考える。
犠牲者数、おそらく確定的な数字を出すのは不可能に近い。

旅順の場合2千人を超えることはない、というのは、当時の欧米紙での報道や日本側の報告とも整合しています。また、現代の中国側が主張する数字(1万8千人や1万8百人など)の根拠について何ら検証を行うことなく、その数字に基づいて論を立てている井上晴樹 『旅順虐殺事件』や、検証が多少はされていても不十分に思われる大江志乃夫 『東アジア史としての日清戦争』への批判でもあると思われます。

大江志乃夫の同書は、中国側の『甲午戦争図志』を検討して、背面防衛戦を行った徐・姜・程の諸将は退却部隊を率いて西海岸砲台に移動、その夜西海岸沿いに南関嶺に出て金州に退却したなど、清国軍各部隊の動向も確認し、その結果として、「旅順防衛の清国軍兵力の少なくとも半数以上は旅順からの退却に成功したと考えてよいであろう」としている点は妥当のように思います。しかし、当時の欧米や日本での報道・報告に現れた数字と、現代の中国側主張の数字との著しく大きな乖離の原因について、何ら検討するところがないのは、残念です。

 

カイゼン視点から見る旅順虐殺事件

清国軍の問題行動を、日本軍は気がついていたはず

当時の清国軍に大きな問題があったことは、間違いありません。清国軍には兵站部がなく住民からの掠奪が当たり前だったことは、「4b1 中盤戦① 戦争目的の転換」のページですでに触れました。

清国軍には、それだけでなく、退却行動および捕虜への残虐行為という点でも大きな問題があったことを、S. C. M. Paine, "The Sino-Japanese War of 1894-1895"(サラー・ペイン 『日清戦争』)が指摘しています。以下は、その要約です(筆者訳)。

清国軍の問題点は、平壌の戦いで周知となった

清国の軍事作戦の特質のいくつかが平壌で明らかになった。戦場での多量の武器弾薬の投棄、現地住民への略奪暴行、捕虜の拷問・切断、戦場から逃走するさい戦闘員による住民の服装の使用 (1894年10月~11月の現地発行英字紙など)。

清国法は、前線の将校による柔軟な戦術の採用や秩序ある退却を阻害

ドイツの記事は、清国将校の戦場での苦境も指摘。大清律例便覧は、陸軍を著しく規制。出征する将校は認められた行動予定の遵守が必要で、違犯は辺境への流刑ないしは普通の人なら殺されてしまうほどの棍棒叩きの懲罰。敵の攻撃のさい自分の位置を保てなかった者は斬首、政府供与の武器を破壊した場合には、致死的な棍棒叩き、となりうる。これでは、戦場の指揮官は、状況に合わせて戦術を変化させることが困難。武器が敵の手に渡らないように武器を破却して秩序ある退却することも阻害。

清国の軍法が指揮官を縛りすぎ、遵守が困難で、合理的な作戦実行の障害となっていたようです。

清国軍退却時の実際の逃亡のパターン ー 軍服を脱いで逃げる

〔成歓の戦い後の〕横浜発行のJapan Weekly Mailの記事。「清国側は実際、逃亡の技術に熟達している。彼らが逃げる時、彼等は普通その制服を脱ぎ棄て、朝鮮服を着て、彼らが安全な場所だと見なすところに行けるよう最大努力した。彼らが逃げて行った方向は、脱ぎ棄てられた制服で間違えることなく示されている。清国部隊の副司令官すら、この方法をやってみようと思ったようである。彼の制服が野営地に残されていたからである」(1894年8月11日付)。
戦争期間を通じて、逃亡する清国兵たちは、一般民衆に変装しようとした。このために、日本の部隊は、制服を着ていない戦場近くの清国人の男たちが実際に一般民衆なのかどうかを質問せざるをえなくなった。疑いなく、清国部隊はそうせざるを得ないと考えた。清国軍の流儀からすれば、敵部隊の降伏者が助命されることはないから。清国側は一般的に、軍人軍属であれ一般の軍支援者であれ、捕まえた者は即座に殺した。

生きながらえるためには、軍服を脱いで逃げるしかなかった、それが他国兵とは異なる清国兵の常識であった、ということを理解しておかないと、この問題への適切な対応は困難だった、とも言えそうです。

中国軍による残虐行為の理由 - 褒賞支払システム、もともと捕虜は取らず殺す

日清戦争中、清国軍は捕虜を拷問し倒れたものの首を斬るのを大いに楽しんだようだ。清国軍の敵の首を斬る傾向は、公式褒賞支払システムを反映しているところもある。清国軍が捕虜を適切にケアできないのは、彼等自身の兵士にも食糧や医療介護を与えれらないため。簡単な解決策は、全ての捕虜を殺すことだった。
ただし、これでは他の切り刻み、内臓の取りだし、顔の特徴の除去、肝臓の取りだしなどを説明できない。理由の推測、清の刑法典によれば、もっとも重い犯罪は叛乱。清国人は、日本の行為を、最も厳しい刑罰に値する儒教秩序への叛乱であると考えたのであろう。
拷問について最もよく記録されている事例。アメリカが上海で、スパイ行為で告発された二人の日本人を清国当局に引渡したさい、上海の清国当局者は、拷問しないと約束したにかかわらず、拷問が実際に起こった。拷問には、鎖の上にひざまずかせる、指の爪をはぐ、舌をつぶす、金属が骨に達するまで手錠された腕に沸騰した湯を注ぐ、股間をつぶす、などが行われ、彼らが息を引き取る寸前に首をはねた。The New York Timesは、第一面に記事を載せて詳細を書いた(1894年11月28日・29日付)。清国はすぐに、野蛮さの国際的な象徴になった。西洋人が、この国は不幸な運命に値すると結論するようになるまで、あまり時間はかからなかった。

清国軍が捕虜に残虐行為を行ったうえで殺す、というのは、それこそ300年前の秀吉の朝鮮侵攻での日本軍の行動(詳しくは「第2章 2c1 朝鮮① 秀吉の朝鮮侵攻」のページ)と同類であり、清国軍はまことに「前近代」の軍隊であったことを象徴していた、と言えそうです。

自軍の兵士の死体への残虐行為を見て、心情として強く憤るのはよく理解できますが、日清戦争時の日本軍は「近代」の軍隊ですから、第三者からやはり残虐と思われるような報復を行っては、国益を害します。そのような報復をしてしまうと、欧米列強から、日本軍も300年前のレベルと変わらない、と判断されてしまうためです。

ところで、ペインの上記の指摘からしますと、清国軍が退却の際には制服を脱ぎ棄てて逃げることは、すでに成歓の戦いの時点で、新聞に報道されていました。それが平壌の戦いでも繰り返されたなら、清国軍の退却時の典型的パターンとして、日本軍が気がついていて当然だった、と言えるように思います。

成歓の戦いや平壌の戦いを行ったのは第一軍、旅順口攻略を行った第二軍には未経験のことであった、と言えなくはないですが、清国軍敗兵の行動パターンとして、第二軍の派遣に先立って日本陸軍内部で共有されるのが適切であったように思われます。

捕虜への残虐行為も、退却時の紛れ込み逃亡も、清国軍側の問題行動なのですが、日本軍はそれに気がついて、課題として認識し何らかの対策を考えておくのが適切だったでしょう。

清国軍の平服での逃亡に関する写真

第二軍は、清国兵が逃げる際には、軍服を脱ぎ捨てて逃げることに、間違いなく気がついていました。上掲の『明治廿七八年戦役写真帖』には、その写真も載せられています。下は、「金州において生擒〔せいきん=生捕り〕の軍虜」と題された写真です。

金州において生け捕りの捕虜 写真

以下は、この写真についての同書の解説です。同書からの前掲写真の解説と同様、現代化して読みやすくしています。

金州において生擒の軍虜

清兵は皆、通常民服を着し、軍衣をその上に仮装し、一朝戦い破れて逃避するに際すれば、たちまち上衣を脱却して農民に疑似す。これをもって交戦の地、至る所支那軍服の委捨するもの甚だ多し。

軍虜の照相、其の一は金州城内において拘収する所、其の二は同第二軍司令部に拘禁する者となす。この面縛せし両人は、ともに敵の間細〔=スパイ〕たる証左あれども、その性甚だ執拗にして訊鞠〔じんきく=きびしく問いただす〕数回にしてなお実を告げずと云う。

戦場で清国の軍服が多数脱ぎ捨てられていれば、脱いで逃げていることに、日本軍が気が付かないはずがありません。現に、日本軍に従軍して写真を撮影した亀井伯爵は、そう聞いているわけです。清兵は軍装を脱いで逃げるのが当たり前、という事実を知っていながら、何も対策を取らなかった日本軍に問題があった、と言わざるをえないように思われます。

山地師団長・長谷川旅団長は、処分するのが適切だった

敵が自軍の兵を虐待し、それに自軍の将兵が憤ったというのは、心情的には理解できなくもありません。しかしそうではあっても、敵軍や住民には自軍の規律の厳格さを見せつけるのが、文明国の軍隊であり、現場での正しい指揮のあり方であったろうと思います。ところが、山地第一師団長は、その正反対の指示を与えてしまいました。この指示が旅順虐殺事件の根元にあったように思われますし、そうであれば、事件発覚後、日本軍は山地師団長・長谷川旅団長を処分すべきであったように思われます。

その最大の理由は、虐殺事件の発生が日本の国益に反していたからです。そもそも、戦闘に勝利するという目的の達成には、虐殺は少しも必要ではありません。現地住民を服従させる効果を狙ったのであれば、手段の選択が適切ではなかったといわざるを得ないように思います。虐殺によって表面的には抵抗を減らせるように見えても、面従腹背を生み出すにすぎません。むしろ強い反日感情を確実に生じさせ、その影響が中長期的に続くことになります。加えて、列強からの批判も招きます。そうした結果は、日本の利益の実現を危うくし、損害を増幅させかねません。それが、本件で山地師団長・長谷川旅団長を処分して、再発防止のためのカイゼンを検討すべきであった一番の理由であると考えます。

第二軍による金州・旅順攻略戦は、すでに見てきました通り、日本軍はかなり楽に勝利しているので、苦戦のすえ勝利したなどという情状酌量の必要性もなかったと思います。健全な軍規の確立のためには、処分こそが望ましい手段であったでしょう。

前原透 『日本陸軍用兵思想史』は、論拠となる出典は挙げていませんが、旅順虐殺事件が原因で、「第1師団長山地元治少将は参戦師団長のうち只一人大将になれなかった、ともいわれる」と書いています。確かに、日清戦争に出征した全師団長のうち、山地師団長だけが、「陸軍大将」にはなっていません。

ただし、山地も、男爵から子爵への陞爵はなされていますので、旅順虐殺の責任で大将になれなかったのが事実であったとしても、処分として中途半端であったように思われます。虐殺事件の原因と責任を明確にしたうえで、出来るだけ早いタイミングで予備役に編入していたなら、陸軍内で教訓として意識されるようになり、同様な事件の再発を防止する効果的な対策となっていたでしょう。

当時の日本政府・日本軍の一番のマチガイは、再発防止対策を怠ったこと

旅順虐殺事件では、日本政府が、殺されたのは制服を脱ぎ捨てた清国兵である、との釈明を国際的に行いました。しかしそこで止まってしまいました。

すなわち日本政府は、今後、制服を脱ぎ棄てて市民に紛れ込むという清国軍敗兵の一般的な行動パターンの再発をいかに防止するか、制服を脱いだ敗兵と一般住民をいかに区別するか、という対策の検討を行わずに、とにかく幕引きして事件に蓋をしてしまったようです。何も再発防止策が検討されず、カイゼンはなされませんでした。

再発防止策の検討には、原因の検討が不可欠であり、そうなると、旅順攻略に功績のあった将官たちの責任問題が生じてしまうので、それを避けたということだったように思われます。現組織内の身内を守ろうとする情緒論を優先してしまい、組織としての適切なカイゼン意識が抜け落ちて、将来組織での再発を招いた、と言わざるを得ません。

当時、日本は清国との戦争を続行していたのですから、類似のケースはすぐにでも再発しうる状況でした。したがって、事件には蓋をせず、原因となった事実を正確に確認して、しかるべき再発防止策を徹底しておくべきだったように思います。そうなれば、陸軍の組織力の強化になっただけでなく、日本の国益増進にも大きな力を発揮していたのではないか、と思います。約40年後にいわゆる南京大虐殺が発生することもなく、日中関係の現在も少しは違ったものになっていたのではないでしょうか。

なお、責任者(=偉いヒト)のメンツを守るために、不祥事が隠蔽されたり、不祥事は認めても反省や正しい原因分析がなされず、本質的なカイゼン策が回避されるのは、現在の日本の官僚組織や一部の日本企業にも、いまだに体質として受け継がれているように思います。是非カイゼンすべき重要課題であると思います。

原因は清国軍指揮官の遊兵切捨てと、日本軍部隊の無意味な殺戮

再発防止策の検討を行うために、あらためて旅順虐殺事件の原因を確認したいと思います。嶋名政雄 『乃木「神話」と日清・日露』は、昭和前期の敗戦前に大連に生まれて中学時代までを過ごし、現地の地理をよく知る著者による旅順戦の検証・論評の書です。この書の内容は、虐殺事件の再発防止策を検討する上で、大変参考になるように思います。

まずは、旅順口での清国部隊の撤退には2つのパターンがあったことについて、同書からの要約です。

清国軍、半数は指揮官が逃亡、残りは整然と退却

旅順口、清国軍指揮官の半数は、水雷艇などを使って逃亡。指揮官に逃亡された大半の部隊の兵士たちはパニックに陥り遊兵となっていたであろう。
清軍側の従軍記者、ロイター通信のハァート記者への証言で最も注目すべきなのは、21日当日の陥落間際、清軍は武器を携行し整然と退去していったということ。指揮官が残っていた部隊は、隊伍整然と退却していった。ハァートは、「旅順戦は戦争なんてものじゃない。ただ日本兵は歩いていって砲台を取ったに過ぎない」とまで論評している。

日本軍は、たいして戦わずに砲台を取った

蛇足になりますが、「日本兵は歩いていって砲台を取った」ことについて、やはり同書からの要約です。

松樹山砲台、二龍山砲台、案子山の複数の砲台の攻略、平均実質所要時間は45分、簡単に突破される。それを裏付けるのが観戦外国将校戦評、小銃の射程距離に接近したときには清国兵は姿を消している、「日本軍砲兵の位置は少し遠すぎて効果があまりなかった。あまりにも清兵の砲撃精度はひどかった。松樹山や市内砲台の側面砲撃があれば、日本兵は全滅したと思われる」。
東鶏冠山から海岸部にかけての砲台群、この地区こそハァート記者が「日本兵はただ歩いて砲台を取っただけ」と言った部分。『公刊日清戦史』は、蟠桃山・北山の砲台を「敗兵に尾して前進し」「占領せり」、全く戦闘がなかったのは明らか。

整然と退却した清軍は、港の東方から脱出

では、整然と退却していった部隊は、どうやって旅順口から脱出したのでしょうか。

ドイツ軍人の『日清戦史』、「港の東方にある海岸一帯を守備せざりしを以って、旅順守備兵の大部分は実はこの道を取りて逃走せり。」
旅順守備兵の大部分が脱出に成功していたことについては、日本軍側の証言もある。金州守備隊の大隊長の一人、斎藤徳明、22日午後には旅順の敗兵数千人が南方からせまり、東北方の宋慶軍とも対峙し困難な立場になった。敗兵を側撃して海中に追い込んだが、逃道がないため激しく抵抗を受け、前日の宋慶軍との戦闘よりも大隊は多くの死傷者を出した。この戦闘は12時より日没に至っても止まらず、敵兵は約12キロの浜辺に充満し、その数は1万あった。夜に入って自分は独断をもって海岸沿いの一走路を敵に与えたので、翌23日朝には海岸の残兵は数百人に減っていた。
逃げ場を失い戦意を失った僅かの兵士と無抵抗の市民に第二旅団の第二連隊と第三連隊、それと乃木の指揮下から臨時に配属されていた第十五連隊の第三大隊は猛然と襲いかかった。戦勢の推移から見て全く無意味な市内制圧と虐殺であった。

旅順港から東に進んで整然と金州までは退却できたようですが、日本軍は金州からの逃げ道を開けておかなかったので、そこで日本軍と激しい戦闘になり、日本軍側にも損害が出た、その対策として、日本軍側が清国部隊に逃げ道を与えたことで、不要な損害発生を回避した、ということが分かります。

指揮官が逃亡した清国軍部隊の兵士たち

ここまでで、旅順虐殺事件での問題は、指揮官が逃亡してしまった清国軍部隊の、遊兵化した兵士たちについて、であったことが確認できました。

敗戦を感じたら即座に逃亡にかかる、というのは、これまで見てきた、成歓の戦い・平壌の戦い・九連城の戦いのどれにも共通してあらわれている、清国軍の行動パターンの典型です。

ただし、旅順戦が成歓・平壌と異なるところは、清国軍の一部の指揮官が、配下の部隊を置いたまま逃亡してしまった、という点です。さらに、兵の4人に3人は新募兵でした。一部の兵には、逃亡の指示が正しく伝わらない、あるいはまったく指示がなされなかった、という事が十分にありえたように思われます。残された兵が生き延びられなかったとき、その最大の責任は、そもそもそうした兵を残したまま逃亡してしまった指揮官にあったように思われます。

だからといって、市内で虐殺を行った日本軍部隊の責任が免除されるわけでもありません。とりわけ、女性・子供を含む虐殺であったことは、言い訳の余地どころか、情状酌量の余地もないように思われます。

旅順虐殺事件の再発防止策 - 孫子の教え通り、逃げ口を残す

要素を整理しましょう。まずは、敗け戦だと思ったらすぐに逃げる、というのが、清国軍の行動パターンであり、日本軍はすでに成歓・平壌以来の経験でこれを知っていたはずでした。旅順攻略戦では、これに加えて特殊要因があり、一つは旅順は半島の先端で袋小路状態、という地形の特徴がありました。これも分かっていたことです。ただ、清国側の指揮官の一部が逃亡して、残置された部隊が混乱したことまでは、日本軍も知らなかったでしょう。

孫子に、「囲師には闕(けつ)を遺し、帰師には遏(とど)むるなかれ」と出てきます。大兵力を運用する方法として、包囲した敵軍には逃げ道を残しておき、故国に帰還しようとする敵軍をさえぎり留めたりしてはならない、必死に突破しようと奮戦して、自軍に多くの損害が出るからである、という教えです(『孫子』、浅野裕一著の講談社学術文庫版を使用)。上に出てきた金州守備隊大隊長の証言も、まさしくこの孫子の教え通りです。

敗け戦だと思ったらすぐ逃げる、という清国軍の行動パターンと、袋小路の地理条件を考えれば、日本軍は意識的に、清国軍の逃げ道を残すことを考えるべきだったように思われます。実態としては旅順口の西側が開いていましたが、さらに袋小路に追いつめられる印象となる西側よりも、東側の一部を意識的に開けて置き、清国側にもそれを分からせる、という手がとれなかったものか、という気がします。そうしていれば、そもそも敗兵が市街の一般住民に紛れ込むことは、かなり防止できた可能性がありそうに思われるのですが。

そうしていれば、平壌の戦いの時と同様、負傷して動けなくなったごく一部の兵以外は、皆逃亡できていたのではないか、街の中に紛れ込む清国兵の発生は避けられていたのではないか、と思いますが、いかがでしょうか。

日本軍は清国兵の逃亡を積極的に推奨して支援する、むしろ他の部隊に加われば士気を低下させるだけの敗残兵は、日本軍が許容する一定経路から逃亡させて、清国軍全体の士気を引き下げさせる、というのが一番適切だったように思われます。

包囲殲滅にこだわるなら、捕虜の取扱いのルールの明確化が必須

なお、この当時の日本陸軍は、戦法においても欧州列強から学習しており、当初はフランス式、のち明治20年代初めごろまでにはドイツ式に切り替わって、「戦闘は敵を圧倒しこれを殲滅するため」であると考えるようになっていました(前原 前掲書)。近代的な陸軍はやはりドイツ式でいくべきであると思われたのか、孫子は考慮されていなかったようです。

この日清戦争でも、平壌の戦いは、「日本軍が4方向から攻撃する包囲戦として始まった。敵軍を殲滅するには包囲戦が最も有利であるという、ドイツ参謀本部メッケル直伝の教科書通りの作戦だった」(原田敬一 『日清戦争』)とされています。旅順口も、おおむね包囲戦でした。

平壌の戦いの場合、すでに確認して来ました通り、確かに第一日目の昼間までは包囲戦でしたが、日本軍は夜間は包囲をきっちり行っておらず、清国軍も将官の指揮が維持されていて、将兵のほとんどが逃げることができました。旅順の場合、半島の付け根側方面はほぼ日本軍が押さえていたことと、清国軍側は将官の逃亡によって的確な指揮が失われていたことが問題でした。

ドイツの言う「殲滅」とは、文字通りに将兵を殺し尽くすことではなく、敵の抵抗力を喪失させればよいはずであり、逃亡を許容せず、あくまで包囲殲滅に徹するなら、命は保証して投降させ武装解除を行うルールが、日本側は全軍に徹底されているべきであった、と思われます。この点で、日本がどこまで適切にドイツ流を学んでいたのか、という課題があったかもしれません。

平壌では成歓の、九連城では平壌の、敗残兵が加わったことによって、清国軍側の士気が低下したのですから、逃亡を許容することにメリットはありました。その点で、そもそも包囲殲滅にこだわることは妥当であったのか、それとも実は孫子方式の方が優れているのか、の検証を行うのがよかったと思いますが、実施されなかったようです。

また、孫子方式よりも包囲殲滅を優位とするなら、相手側に対する投降勧告と捕虜の受け入れを効率的に行うカイゼンが絶対に必要であったように思います。こうした点で、旅順虐殺事件が、前向きに適切に反省されず、昭和前期の敗戦に至るまで何もカイゼンを生まなかったことは、非常に残念なことであったと思います。

旅順虐殺事件には、日本だけでなく清国も蓋をした

なお、この旅順虐殺事件については、当時の清国も、全く別の目的から、蓋をしようとしたようです。再び、S. C. M. Paine, "The Sino-Japanese War of 1894-1895"(サラー・ペイン 『日清戦争』)からの要約です。

清国政府は、そもそも旅順の陥落を否定した

清国政府は、大虐殺の報道に没頭するどころではなく、旅順で、大虐殺はもとより、清国軍が敗れたことも否定しようとしていた。
上海発行のChina Gazetteによれば、「清国政府の官吏によって、一大拠点の手が変わり、今は事実上日本海軍の基地になっているという事実を隠そうと、最も奮闘的な努力が行われてきた。電報による通告が、官吏によって帝国中に送られた。敵によって、彼らが旅順を奪取したという邪悪な報告が送られてきているが、全くの虚偽であり、その場所は日本軍には絶対に負けない3万の勇敢な中国兵によって守備されている、という通告である」(The Japan Weekly Mail 1894年12月8日付に引用)。
敗北から1ヵ月後、「多くの人々は、旅順が取られ日本軍に保持されていることを、知ったり認めたりしていなかった。『事情を良く知る』官吏でもそうだった。同じことが北京でも言えた」(The North-China Herald 1895年1月18日付)。

中華民国政府が自ら発信しようとした南京大虐殺と、清国政府がそもそも敗退を否定しようとした旅順虐殺事件では、時の中国政府の姿勢が正反対であったことだけは間違いないようです。

 

 

第二軍の旅順口占領時点までに、鳳凰城・草河口や岫厳まで進出していた第一軍は、その後、厳冬期であるにかかわらず、さらに清国領内への進出を進めていきます。次は、遼河平原への進出、海城・蓋平の戦いです。