4b2 中盤戦② 九連城より清国内へ
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日本軍は、当初からの「作戦大方針」に沿って清国領への侵攻に踏み切ります。清国領への侵攻は、第一軍による鴨緑江を渡河しての作戦と、第二軍による旅順半島攻略作戦の2方面から行われました。このうち、第二軍による旅順半島作戦こそ、「作戦大方針」が目標とする、直隷決戦に向かう根拠地を占めるための根幹的な作戦であり、第一軍はそれを支援するために、清国軍を牽制するのが役割でした。
前ページでは、中盤戦以降の日本軍の戦争目的の転換とともに、平壌の戦い後の清国軍の朝鮮撤退および日本軍・第一軍の北上の状況を確認しました。このページでは、第一軍による鴨緑江を渡河しての進軍の経過を見ていきたいと思います。
なお、このページでの引用等で、引用元を記していない場合には、すべて「4 日清戦争の経過」のページに記した引用元から引用を行っていますこと、ご了解ください。
清国軍の国境結集と、日本・第一軍の義州進軍
鴨緑江を挟んでの日清両軍の集結
日清両軍は、鴨緑江をはさんで、集結します。
清国は国境線の防衛強化
9月15日の平壌の戦いで敗れた清国には、日本軍は北京攻撃を図るとも、瀋陽(奉天)を襲う計画があるともいう各国からの情報。
清朝国境は、義州と鴨緑江を挟んで5キロ西の九連城が防御拠点であり、ここに増兵。10月中旬には鴨緑江防衛のため、3万4千人、火砲90余門が集結。長甸河口付近から安東県に至る約5、60キロの間を左右に区分して防禦配備を整える。右翼、総指揮官 提督宋慶、九連城など。左翼 総指揮官 将軍依克唐阿、安平河口など。当時は九連城付近の一部以外は防備工事を完了せず、虎山は陣地の左翼前に孤立。ただし牙山や平壌からの敗軍将兵約1万人を含み、「士気大いに低落」の状況。
牙山や平壌からの敗軍将兵を含んだ布陣では、士気の高揚は困難であったでしょう。
日本・第一軍は「前面の敵を牽制」する任務
第一軍の先遣、混成立見旅団は、10月10日から17日までの間に義州を占領、24日第一軍の諸隊はすべて鴨緑江畔に到着。10月15日、第一軍司令部は安州に到着、そこに大本営からの電報、第二軍は旅順半島占領を任務とするが、第一軍は「その前面の敵を牽制し、間接に第二軍の作戦を援助する」こととの指示。
第一軍の日本軍は、第三師団・第五師団とも朝鮮半島を陸路北上。鴨緑江にたどりつくまでは拙速主義、周辺地域からの徴発を強化してしのぐなど、補給が不完全でも進められてきた。鴨緑江を渡河してから一転して十分練られた作戦に。師団司令部の判断から変わり、上級で充実した参謀部(参謀長・小川又次少将)を持つ第一軍が作戦を立てる。砲兵隊の掩護の下での歩兵隊の攻撃と突撃、という作戦の基本に忠実になる。
第一軍の役割は、前面の敵を牽制して、間接に第二軍を支援することである、と明確に規定されたのは良かったと思います。ただし、後日、この役割規定に反した行動をとろうとする問題を生じましたが。
平壌の戦いは、清国軍の総指揮官・葉志超の士気が低すぎたために日本軍は勝ちを拾えましたが、そうでなければ、食糧不足や火砲の能力不足で日本軍は負けていても不思議ではない戦闘であり、その原因は、日本軍の進軍拙速主義にありました。その反省・カイゼンもせずに、鴨緑江まで再び拙速主義で進軍をしてしまったようです。
鴨緑江では参謀部が方針を改めて作戦の基本に忠実になったことは大変に結構なことだったと思いますが、やはり反省とその共有が足りなかったのではないでしょうか。拙速主義というこの日本軍の悪弊は、昭和前期まで継承されてしまい、大東亜・太平洋戦争での苦戦・敗戦の原因になった、と思われますので。
日本軍は鴨緑江を渡河、清国領内での戦闘の開始
1894年10月24日 日本・第一軍は鴨緑江を渡河、九連城の戦い
平壌の戦いから約40日を経過し、いよいよ第一軍は、九連城の攻略を目指して、鴨緑江の渡河を開始します。
鴨緑江を渡河
清軍は、鴨緑江右岸の九連城と安東県付近に陣地、虎山付近に前進哨、一部の兵で安平河口から長甸河口に至る間を守備。
山県軍司令官の作戦、24日に一支隊が鴨緑江渡河、同日夜ひそかに架橋、第三師団は25日未明に渡河し払暁から虎山地方を攻略、第五師団は必要となれば直ちに渡河、26日全力をあげて九連城の攻撃に決す、というもの。
佐藤支隊、24日11時10分頃から渡河開始、清軍砲台からの砲撃もあったが、渡河を終え安平河口両岸の高地を占領、安平河口の砲台にいた清軍は退く。架橋は24日夜6時から着手、材料の鉄船が長途の行軍のためにゆがんでいたり、寒さが相当厳しく手足は凍えるなどではかどらず、25日午前6時予定より2時間遅れで完成。軍橋が脆弱なため通過にも時間を要す。他の部隊は24日午後11時30分から夜陰に乗じ船3隻を用いて密かに渡河、虎山の東方約2000メートルの地に集合、25日午前5時30分渡河終了。
<鴨緑江船橋> (『日清戦争写真帖』 より) ー 右側の部分が船を並べた船橋
<義州統軍亭より虎山を望む> (『日清戦争写真帖』 より)
虎山の戦い
25日6時10分頃、砲兵隊は虎山鞍部の清軍砲兵台めがけ野砲の射撃開始。虎山鞍部の清軍守備隊は日本軍の渡河に気づかず、虎山の清軍歩兵が渡河した日本軍部隊に射撃を始めたのは6時50分頃。日本軍部隊は前進、野砲も集中砲撃。7時50分頃清軍の砲火が沈黙、退却の気配。午前8時、日本軍は一斉に突貫攻撃、清国陣地を奪う。
8時から8時35分ごろ、清軍の精鋭部隊約3、4000が栗子園方面から、約3000が九連城方面から虎山に迫り、また九連城北方山上の砲台から虎山日本軍を砲撃。このときが日本軍の危機。増援、突貫攻撃、清軍はついに10時30分ごろまでに退却。午前9時40分艾河尖を占領、午前11時楡樹溝高地を二か所占領、午後1時葦子溝陣地を占領。夕刻から夜半まで、九連城北方山上の清国軍陣地からの砲撃が続く。虎山攻略戦での死傷者149名(うち戦死34名)。
九連城・安東県の占領
山県司令官は、虎山付近の戦闘で敗北した清軍の大部分が九連城入りと知り、計画通り翌26日は九連城攻撃に決す。しかし清国軍は25日夜のうちに九連城から退却、26日無血占領。25日夜右翼総指揮官宋慶は毅字軍を引き連れ鳳凰城に逃走、これを見た付近の清国兵がおおいにあわてて支離滅裂になり、全軍が逃走したもの。安東県からも清軍は撤退、26日午後5時には渡河完了し、戦わずに占領。
<九連城> (『日清戦争写真帖』 より)
九連城の戦いは、日本軍歩兵1万3千人、清国軍総員1万9750人(多少の非戦闘員を含む)。九連城付近の天嶮に防御工事を施し且つ優勢の兵力だったにもかかわらず、虎山付近の敗戦に忽ち全軍の志気を喪失した、というのが『日清戦史』の判断。その背景には清国軍諸将間の不統一。なお、第一軍は安東県に民政庁を設置、小村寿太郎を長官とした。軍事占領のため民政庁を置く最初の例となる。
<九連城清軍砲塁内部> (『日清戦争写真帖』 より)
兵力も優勢なら、陣地の防御も強化していた清国軍が、なぜここでも簡単に日本軍に負けてしまったのか、非常に不思議です。日本軍は鴨緑江を渡河しないと、作戦行動ができません。そこに日本軍の弱点があったことは明らかです。なぜ日本軍の渡河を発見できないくらいに、鴨緑江の監視体制が著しく貧弱であったのか。また、九連城も一種の攻城戦、攻める日本側は本来は清国側の3倍・4万人近い兵力が必要なのに、その半分で勝ってしまったのは、平壌の戦いと同様、清国側に戦闘意欲がなかったからとしか思われません。日本が勝ったというよりも、清国軍がほぼ一方的に負けた、という戦闘であったのでしょう。
清国軍は、陣地の防御強化というハード面では対策を打っても、基本的な将兵の訓練というソフト面の対策と、とりわけ全体を指揮した将の能力が著しく不足していた、ということなのでしょうか。
日本軍による安東県での民政の開始
小村寿太郎による、住民と日本軍がウィン・ウィンとなる占領地行政
他方、日本軍側ですが、敵国ではない朝鮮領内で戦闘を行ってきた今までとは変り、敵国領内で戦勝したため、占領地行政、という新しい課題にも向き合うことになりました。最初の民政長官に任命された小村寿太郎が、どのような民政を実施したのでしょうか。以下は、外務省編 『小村外交史』 からの要約です。
民生庁の開設
10月30日、山県第一軍司令官は第一軍管民生庁の組織及び権限を定め、同日小村を民生庁長官に補した。翌11月1日、小村以下新たに民生庁付を命ぜられた者は安東県に着任し、直ちに事務を開始した。
当時住民多くは市邑を去って山野に避難し、沙河鎮の如きは1700戸を有する一要村なるも、残留者僅かに20~30名に過ぎなかった。加うるに盗賊昼夜俳諧し、空家に入りて物品を奪去する者日に絶えなかった。
住民の帰還と徴発購買の容易化
市邑の吏員の過半は他に逃げ去ったため、その帰来復職を促した。そして帰任した吏員らを民政庁に召集して親しく開庁の趣旨を懇説し、力を帰順奨励に尽さしめた。別に通訳憲兵巡査をして日々近村を巡回し、各々堵に安んじてその業に就くべきを諭さしめた結果、彼等は漸く我が真意を解し、遠く離散した者も安堵して陸続家に帰り、数日を出でずして敵前既に市の開けるを見るに至った。帰来した者には、通行券・住居券を付与して、市邑著しく平穏に帰した。
当時我が軍の最も苦心したのは徴発であった。小村は既に必要の諭告を発したが、長年官兵の誅求掠奪に遭って来た地方人民は、我が徴発の趣旨方法を解しないで、往々強奪ではないかと疑うので、小村はさらに諭告を発し、重ねて我が真意を民人に懇説した。それ以来馬の徴発、糧食の購買は次第に容易となり、軍の行動はために少なからず便宜を得た。
「4a3 序盤戦③ 平壌の戦い」のページで触れましたとおり、小村は平壌で、「満州に入れば、よく金を与え、生命を安全にし、この二者に安心を与えさえすれば、敵地なりとも兵站の輸送、物資の徴発、意の如くなる」と言いました。要するに、日本軍が住民から協力を得たければ、住民にもメリットが十分にあるウィン・ウィンの関係を構築する必要がある、と主張していたわけで、それをその通り安東県で実践したわけです。
しかも、住民を強権的に押え付けたのではなく、これまでの吏員を信用して彼らに任せるべきところは任せ、また直接コミュニケーションを取るべきところは日本人が顔を出して「懇説」した、ということでした。すなわち、方針が適切であっただけでなく、実行においても相手に信用され効果が上がる手段を選択した、と言えるように思います。
小村寿太郎は、この時、第一軍司令官だった山県有朋や、第三師団長だった桂太郎に高く評価され、後に外相にまで出世するきっかけとなりました。
小村の占領地行政モデルは、受け継がれたのか
小村が安東県民政庁長官であったのは1ヶ月足らずで、外務省の本省に呼び戻されてしまい、11月28日には外務省政務局長に就任します。このため、安東県民政庁長官職は、軍人(福島安正中佐)に引き継がれたとのことです。
後任となった福島安正は、軍人とはいっても、語学の達人であり「公金を使ってほうぼうを歩いた」人で、このときまでにアメリカ・清国・朝鮮・インド・ヨーロッパに行っていて、日清戦争の前年には単騎シベリア横断までやっています。「天才的な語学力を駆使して列強の国情を探り、軍人外交を展開」する能力から、最後は陸軍大将にまで昇進した人ですが、部隊勤務や攻城野戦の経験はほとんどないという、陸軍では異例の人物だったようです(半藤一利他 『歴代陸軍大将全覧 大正編』)。
少なくとも占領地行政の出だしにおいては、日本陸軍も、軍事知識しかない典型的な軍人には、任を委ねようとはしなかったことがわかります。こうした姿勢がそのまま引き継がれていけば、昭和前期の日本軍が行ったような、威嚇と抑圧でいたずらに敵を増やすだけとなる拙劣きわまりない占領地行政は防止できたと思うのですが。
小村式の民政方針と実践方式は、小村の帰任後も維持されていたのかどうか、他の地域や年月を経ても引き継がれていったのかどうか、などについて、筆者は大いに関心を持っていますが、不勉強で、この分野の研究書をまだ読んでおりません。ご存じの方がおられればぜひ教えていただきたいと存じます。
九連城からは、日本軍は北と西に進軍
九連城と安東県を占領した第一軍のうち、第五師団は、奉天街道を内陸へ、湯山城・鳳凰城、さらには草河城・連山関へと進んでいきます。また第三師団は、遼東半島の海岸沿いに西方に、大東溝から大孤山、さらには岫厳へと進んでいきます。
奉天街道を北上した第五師団
まずは、奉天街道を北上した第五師団の戦闘経過についてです。
10月末までに湯山城 ~ 鳳凰城への進攻
九連城攻略後はどこまで清国東北地方に侵入するのか、大本営の計画なし。第一軍司令部の作戦計画は、しだいに「牽制作戦」から、本来の計画である北京攻略のための東北地方制圧に傾いていく。
第一軍はまず、もう一歩進み、敗走する清軍を追って、40キロ西北にある清国軍の拠点鳳凰城攻略を計画。10月28日、九連城と鳳凰城の中間地点、湯山城を占領。29日に鳳凰城に接近すると清国城兵は退却を開始、主力は31日午前鳳凰城入り。清国軍の宋慶は、鳳凰城を捨てて摩天嶺に陣を占めこれによって奉天省を守ることに決心、盛字軍の一部を第一線として連山関を守らせ、他の軍は第二線として摩天嶺におき、防禦陣地の構築を急ぐこととしていた。なおこの頃はまだ第五師団の補給しばしば困難。最初に朝鮮に派遣されたときの急速な編成が原因、輜重輸卒や軍夫が不足。改善されたのは兵站糧食縦列が到着した11月中旬。
11月に入り、さらに連山関へ
11月11日、鳳凰城から80キロ、奉天街道途上の連山関を占領、22日連山関から後退し草河口防衛線を強化、11月25日草河嶺で清国軍との戦い。29日~30日も戦闘、凍傷患者多数。12月12日、清国軍、草河城と鳳凰城に二分された状態を掴み逆襲を計画、14日夜明け前から交戦、守備隊が撃退勝利。
鳳凰城まではともかくも、この段階で、連山関・草河口までの進出することが本当に必要なことだったのかどうか。無駄に補給線を長くし、また意義が乏しいのに凍傷患者を発生させたように思われるのですが。
第三師団は遼東半島方面へ、10月27日 大東溝を占領
次は、遼東半島の海岸沿いに西進した第三師団の行動の確認です。
大東溝から、11月には大孤山、さらに岫厳へ
安東県に入った第三師団は、10月27日鴨緑江河口の大東溝攻略のため出発、大東溝の清軍約500名は支隊前衛の突入を防ぎきれず逃走、午後8時15分前衛部隊が占領、28日に本隊も大東溝に入る。清軍は前夜のうちに、大東溝西方海岸55キロの大孤山へ退却。
山県第一軍司令官は、第二軍及び海軍との連絡を確実にし、また海運による補給路を確保するため、大孤山地方の占領を命令。大弧山に進軍する途上、清軍はさらに岫厳州方面へ退却したことを知る。大孤山は11月5日戦闘なく占領。11日大孤山に兵站支部開設、食糧弾薬輸送の中心となる。
11月17日、交通の要衝で大孤山西北55キロの岫厳州を攻略、清軍は海城・蓋平方面へと後退、18日朝岫厳を占領。
この第三師団方面でも、大孤山までは戦略的な必要性が明確ですが、岫厳までどうしても進出しておく必要があったのかは、理解が困難なところです。
第一軍は、「前面の敵の牽制・第二軍の支援」の役割を果たしたか?
10月24日、第二軍の上陸開始と同日に、鴨緑江を渡河して清国領内の別方面で戦闘を開始したことには、牽制の意味が充分にあり、10月31日の鳳凰城、11月5日の大孤山の占領までは、第一軍は与えられた役割を適切に果たしていたと思います。
疑問に思われるのは、それ以後です。第一軍が大孤山を占領した翌日、11月6日には、第二軍はすでに金州を占領していました。すなわちその時点で、旅順口はすでに袋のネズミ状態になっていますから、第一軍による大きな軍事行動、特に長距離の進出は、牽制という観点からはあまり必要がなくなっていたのではないでしょうか。
第五師団・第三師団を遊ばせておかず、それぞれに新しい課題をあたえて実行させた、という側面はあったものと思われます。しかし、作戦地域は、日本と比べれば格段に冬が厳しい地域です。最低気温がしばしば氷点下となりだす11月の課題として、それが妥当な課題設定であったかどうか、疑問が残ります。連山関・草河口や、岫厳への進出は、地図を見ても敵陣に突出しており、むしろ攻撃を受けて損害を出すリスクを高めただけのようにも思われますが、いかがでしょうか。
次は、第一軍の鴨緑江渡河開始と同じ日に、遼東半島への上陸を開始した、第二軍による旅順口攻略の経過を確認したいと思います。