2a1 日本① 内閣と議会
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日清戦争に至った時代背景について、世界全体を眺めて見ると、当時は帝国主義の時代の真っただ中で、欧米列強による植民地化がまさしく進行していく途上にあったことを確認しました。では、日本の国内情勢については、どうだったでしょうか。
このページでは、日清戦争を開戦する前の、日本国内の政治情勢を確認します。当時は、藩閥の「超然内閣」の時代でした。一方、帝国議会は、開始されてまだ年数が経っていなかったため議会運営の経験が乏しく、折からの経済不況もあって、内閣と議会の間に激しい対立があったようです。
1885~90年 内閣・憲法・議会の「近代政治3点セット」が揃う
明治国家が内閣制度を発足させ、伊藤博文が初代内閣総理大臣になったのは、明治も18年になった1885年の年末のこと。その4年後の1889(明治22)年に「大日本帝国憲法」が発布されました。第1回衆議院議員選挙が行われ、第一議会が召集されたのは、さらにもう1年たった1890(明治23)年のことでした。
明治維新でそれまでの幕藩体制をひっくり返したところからスタートして、いわばゼロから近代国家を作り上げていきましたが、曲がりなりにも内閣・憲法・議会の3つが揃う体制に行きつくまでに、維新後23年が必要だった、という言い方もできるように思います。
ただし、1890年代の前半の時点では、近代政治3点セットはようやく揃ったといっても、民法その他の法律はまだ策定途上の段階で、条約改正のネックになっていました。また、議会が開かれるようになったといっても、議会の多数党が政権を執る責任内閣制は成立しておらず、内閣は藩閥の超然内閣でした。
すなわち日本は、近代国家の建設工程の上で、ようやく外見を整えるところまでは来ましたが、依然、その内実については整備の途上にあった、といえるように思われます。
日本にとって新経験だった議会は、出だしから政府と激しく対立
ところで、第一議会の開会から、最初の対外戦争であった日清戦争までは、わずか5年間でした。その間、1890(明治23)年の第一議会から日清戦争直前の1894(明治27)年の第六議会まで、議会と政府とは毎回、大変な対立を繰り返しました。
そのような国内事情でなかったなら、言い換えれば、この間の政府と議会との対立がもう少し穏やかで、議会からの激しい政府批判の回避鎮静化を図る必要がなかったならば、日清戦争は、少なくともこの時点では行われなかったように思われます。
この点を、具体的に確認していきたいと思います。以下の記述は、色川大吉 『日本の歴史 21 近代国家の出発』、原田敬一 『日清・日露戦争』、石井寛治 『日本の産業革命』の3書を、総合的に要約したものです。
当時の衆議院議員とは
当時の衆議院議員選挙権は、直接国税(地租など)を15円以上納めている25歳以上の男子のみ、有権者総数は4000万の国民中わずか45万人程度、100人に1.1人という極端な制限選挙で、しかも投票人は自分の住所氏名を明記し、その下に実印を押すという投票方式であった。
初期の衆議院は地主議会であった。この当時の代議士は、その3分の1が10町以上の土地を持つ寄生地主であった。地主と言っても明治10年代の自由民権運動当時に見られた豪農経営者ではなく、すでに寄生地主と化したものに変わっていた。同じ党名で基盤は豪農・地主層で変わらないように見えても、明治14、15年頃の自由党と、明治24、25年ごろの自由党とでは、その性質が著しく違ってしまったことに注意が必要。
かなりの金持ちしか参加できない議会であったようです。
不況下で、民党が「民力休養」を主張した第一議会
1890(明治23)年11月29日開会~91年3月7日閉会
議会開始の当時、政府はまだ「超然内閣」で議会に与党を持っていなかったし、政権内では与党を持つ必要も合意されていなかった。政府側に与党がないため、300名の衆議院議員のうち、民党は、立憲自由党 130名、立憲改進党41名の合計171名、準与党(吏党)の大成会 79名、国民自由党 5名、無所属45名で、民党側が多数であった。
当時の政府は、政府支持の与党を持つことを考えていなかったため、議会は、反政府ないしは政府不支持の民党側が多数を占め、結果として、政府と議会が対立する、という図式になってしまったようです。
日本はこの年、前年に続く凶作で各地に米騒動が発生していた。産業界でもこの年の上半期に株式恐慌と綿紡績業の操業短縮という状況があり、更にこの年は世界恐慌の年で信用恐慌が世界に広がる中、日本も下半期には、恐慌中のアメリカとフランス向けの生糸輸出が減退したという経済情勢にあった。
議会では、山県有朋首相率いる政府提案の法案10件中4件しか成立しない、という対立状況だった。民党側は「民力休養」をスローガンとして、政府提案の予算案にたいし、その1割の約800万円減額し地租軽減にあてることを主張、政府側による民党の切り崩しもあり、最終的に650万円削減で衆議院可決され、予算が成立した。
第一議会がおわると、山県有朋は首相を投げ出し、伊藤博文は引き受けず、松方正義蔵相が首相を兼任することになり、5月6日松方内閣発足。この内閣は、閣僚の背後に伊藤や山県がいる「第二流内閣」「緞帳内閣」と揶揄された。
多額の税金を納めているかなりの金持ちしか参加できない議会は、税金の使われ方に大いに関心を持ち、また、不況下であったため、自分たちの当面の納税額を減らせるように、政府支出案を精査したようです。
経済情勢は少し好転したが、衆議院解散となった第二議会
1891(明治24)年11月26日開会 ~ 12月25日解散
高騰した金利は91年にはいって低下、銀価も低落し生糸や羽二重の輸出が伸長するという経済情勢の好転がみられたものの、政府と民党との激しい対立が続く。
第二議会では自由党は改進党と固く提携し切り崩しに乱れず、衆議院予算委員会では、海軍省予算案のうち軍艦製造費など794万円を減額決議して、12月14日に本会議へ。25日に衆議院本会議が総額892万円の削減を決めると、同日、松方首相は衆議院解散を奏請して、衆議院は解散。そのため前年度予算が執行されることになる。
海軍省予算を減額するぐらいですから、この時点の議員の過半は、対外戦争に踏み出す可能性を想定していなかった、と思われます。
衆議院議員選挙の前に、伊藤博文は事態を憂慮し、与党の設立を天皇に提言上奏したが、この意見に、明治天皇はもとより井上馨・黒田清隆・品川弥二郎・榎本武揚・山県有朋のいずれも賛成せず、伊藤による与党組織化の動きはいったん止められた。
議会の円滑な運営には与党が必要、と考えた伊藤博文は、当時の実力者の中で、1人抜きん出た発想の持ち主だった、と見るのが適切でしょうか、それとも、他の実力者の発想があまりにも遅れていた、と見るのが適切でしょうか?
大干渉選挙後で、激しい対立となった第三特別議会
1892(明治25)年5月2日 ~ 6月14日閉会
1892(明治25)年2月の第二回総選挙は、悪名高い大干渉選挙となった。この選挙戦で殺された者は25名、重傷者は400人に及ぶ。しかし開票の結果は、政府側120~130にたいし、民党は160~170名と、またも政府は敗北した。
5月に議会が開会されると、選挙戦での政府の激しい干渉が問題化し、従来以上に激しい対立となった。まずは5月14日の衆議院本会議で内閣弾劾決議が可決される。松方は議会を一週間停会、保安条例を施行し民党壮士150名を都外追放するが、再開後の5月26日、衆議院は保安条例廃止を可決。衆議院では、予算ほか軍艦建造費、製鋼所設立費、鉄道関係法案などの政府提案はほとんど否決。貴族院での復活修正後、両院協議会で軍艦製造費は認めず、原案からは91万6千円の減額で1892年度追加予算189万9千円が決定。鉄道関係は政府案への修正で可決、貴族院でも承認。衆議院は追加予算案の再否決し海軍軍拡費は成立せず。
議会閉会後、松方首相は辞意を表明。選挙前の与党設立の提言に元老たちは反対し選挙干渉した結果がこのざまになった、ということで、伊藤博文は首相を引き受ける条件として黒幕総揃いを主張、8月、「元勲内閣」といわれる第二次伊藤内閣が成立する。
殺されたもの25名、重傷者400人とは、すさまじい選挙干渉です。当然ながら大きな反発を受け、民党が多数を占めて政府予算案は否決されます。やり過ぎが事態をかえって悪化させた典型例、と言えそうです。
それなら次は更に強力な干渉・民党抑圧を、ということにはならなかったのは幸いでした。やはり伊藤博文が事態の収拾に乗り出しました。
好況となってきた第四議会
1892(明治25)年11月29日開会~1893年2月28日閉会
綿紡績業の業績は92年には著しく好転して増資計画相次ぐ、という経済情勢になりつつある。しかし、議会ではまだ民党との対立が続いた。
民党は、衆議院予算委員会で、8736万円の歳出予算案から海軍省の軍艦製造費全額など884万円を減額。本会議もほぼ査定原案を認めた。そこで政府は停会を命じる、それに対し民党は停会明けに政府弾劾上奏を可決。その状況化、伊藤首相は「詔勅」を渙発、建艦費は皇室費からの半額支出という手で民党との妥協を探ると、自由党は政府と妥協して衆議院の予算修正案可決し、貴族院も同調した。
日清戦争開戦の5年前のこの時点でも、軍艦製造費は減額されました。対外戦争は、現実的とは思われていなかったようです。
「民力休養」から「対外硬」に大変化した第五議会
1893(明治26)年11月28日~12月30日解散
93年になると、鉄道業でも新設・拡張計画が相次ぎ、新たな企業勃興の機運がみなぎり、好況の経済情勢になっている。民党の「民力休養」の旗印は下された。議員の多くは地主勢力で、好景気で米価が上昇し固定額の地租の負担は軽くなったので、本音では政府の積極政策=地方開発政策の恩恵にあやかりたいと思うようになっていた、というのが第四議会での政府と自由党との妥協の背景。
自由党にかわって伊藤内閣に抵抗したのは、対外硬派。その前衛が1893年10月に設立された「大日本協会」で、「内地雑居反対・対等条約締結・現行条約履行」などをスローガンに排外主義感情をあおり、国民を引きずって政府に強硬政策をせまっていった。その黒幕に山県有朋ら、反伊藤博文派の保守グループがいた。
経済環境好転の折から、議会5年目となると、民党の中に、政府とうまくやって利権を得たいと考える一派が出てきたようです。一方、山県有朋のように、藩閥政府側に居ながら、目先の政権争いに議会を使おうとする一派も現れました。どうも、日本の国政を考える伊藤に対し、自己の権力を欲する陰険な山県、という印象を持ってしまいます。
この時期の海外情勢として、ロシアの極東進出強化と、甲申事変以降の朝鮮での清国の地位強化があった。ロシアについては、1891(明治24)年にはシベリア鉄道起工式、その参列の途次来日したロシア皇太子に警護の巡査が傷害をあたえた大津事件が発生。また92(明治25)年にはウラジオストーク軍港の建設、11月ロシア東洋艦隊は日本に来航して示威。
このような状況下、国民協会や立憲改進党などの対外硬派は、第五議会を前に現行条約履行を結集点として対外硬六派連合を成立させる。その議席合計は173となり、過半数を超える。条約改正で伊藤内閣を支援する自由党は議席数98のみ。
治外法権撤廃と引き換えに外国人に内地雑居を認めると、欧米商人の進出は一挙に加速、さらに中国人の大群が日本の労働市場に進入する危険あるので、法権回復は後回しにしてまず関税自主権回復すべし。あるいは、欧米人による内地雑居はさほどの弊害はないが、問題は中国人の内地雑居、彼らに対しては従来通り禁止せよ。対外硬派は、こうした内地雑居尚早論および現行条約励行論で政府を追及した。
第五議会では冒頭から、すでに政府の準与党だった自由党の星亨衆議院議長を除名決議、次に後藤象二郎農商務相に一撃を与え内閣処決動議を可決、という激しい対決。さらに現行条約励行決議案等本会議に上程。伊藤首相は議会の10日間の停会命令を出す。このときロンドンでは極秘の条約改正交渉が最終段階で、もし日本の議会で「鎖国攘夷的」現行条例励行決議案が可決されようものならそれがすぐ交渉の成否に響くため、伊藤首相は12月30日に衆議院を解散し、大日本協会の結社を禁止した。
この時期の対外関係では、ロシアの極東進出強化が脅威であったようですが、それよりも条約改正が大きな課題であったようです。その状況下、対外硬派は、条約改正について攘夷派的主張を強固に行うことで、ナショナリズムの国民感情を刺激して、政府をやりこめようとしたように思われます。
景気は良くなったのに、対外硬で激しく対立した第六特別議会
1894(明治27)年5月15日開会 ~ 6月2日解散
第六議会に先立ち、1894(明治27)年3月1日に第三回総選挙、自由党は30近く議席を回復、硬六派は180から40議席も減少。景気は良い、経済情勢には対立激化の要因はない、しかし対外硬で激しい対立が続く。野党はなお130の議席を確保し、無所属切り崩しで衆議院を制圧できる可能性が残った。
このころになると、国粋派の新聞『日本』から民友社の『国民新聞』に至るまで反政府側、さらに枢密院の一部や貴族院の近衛篤麿らの一角までが条約励行案支持となっていた。もともと対外硬派の狙いは、民衆の軟弱外交反対のエネルギーを藩閥政府打倒に振り向けること。こうして対外硬論は意図をのりこえて暴走し、日清戦争への世論統合を可能とした。
この議会でも、対外硬六派連合はたくみな政治的かけひきにより、ついに5月31日政府弾劾上奏案を160対132の大差で可決、対外硬の内容であった。政府は惨敗し、絶体絶命の窮地となる。
政府弾劾上奏案で一致したといっても、それに賛成した議員が皆、攘夷派的なナショナリズムで一致していたかといえば、そうではなかった可能性があります。つまり、藩閥政府に反対、山県派のように反伊藤博文、関税自主権の回復と治外法権の撤廃をもっと強固に主張すべき、とにかく中国人を始めとする外国人が増えるのはキライだ、いろいろな立場の議員が、この時点の政府弾劾という主張については一致できてしまった、そのとき、攘夷的なナショナリズムが大きな役割を果たした、ということであったのではないかと思われます。
ちょうどこのとき、朝鮮の雲行きがにわかにあわただしくなっていた。甲午農民戦争、いわゆる東学党の乱により、6月1日朝鮮政府が東学党の農民軍に大敗して、清国に援兵要請した。都下の新聞論調は一夜にして急変し、国民新聞を先頭に朝鮮出兵を叫び始めた。対外硬はたちまち対清硬に変じる。6月2日、衆議院の上奏却下・解散。6月4日早くも出兵開始、5日大本営設置。
当時、日本でも清国でもイギリスの承認がなくては朝鮮で一発の大砲も放てぬ状況であったが、7月6日政府はイギリス側の条約改正最終案を全面的に受け入れて至急調印せよと訓令。7月16日日英新条約に調印は、イギリスの日本への支持をしめすもの。それから10日も経たず日清戦争が開始された。
たまたま攘夷的なナショナリズムが力を持ってしまった時期に、朝鮮で東学乱が起こったのは、非常にタイミングが悪かったようです。それまで、清国に対する戦争など、対外硬派の主張の中でとくに支持を集めていたわけではなかったのに、「対外硬はたちまち対清硬に変じる」ということになってしまいました。
日清戦争の原因の一つは、日本国内の政府対議会の激しい対立
上述の経緯から言えそうなことを整理してみると、不況下の不幸なタイミングで議会が開始されたことが、ただでさえ未経験で未熟な議会運営での対立をあおってしまい、開戦に行きついてしまう原因の一つになった、と言えるように思われます。
では、どうして政府と議会はそこまで対立してしまったのか、激烈な対決をうまく回避できるカイゼン策はなかったのでしょうか。
第一議会がたまたま不況時だったのは回避困難な不幸
明治14年の政変(1881年)当時、自由民権運動の高まりに対し、10年後の1890(明治23)年からの国会開設を約束しました。その日程は変えられないので、予定通り議会が開かれましたが、たまたまその年は経済的には不況の真っただ中にありました。
第一議会から政府と議会が激しく対立した原因の一つに、この年の経済環境の不都合さがあったことは間違いなく、誠に不幸なことであったように思います。経済情勢が悪い年には、政府批判が激しくなる、そういう年に選挙があれば政権交代が起りやすくなる、政治体制によっては革命さえも起こる、というのは、今に至るも、どこの国でもみられるごく当たり前の現象だと思います。
では、第一議会が激しい対立モードで始まってしまったのはやむを得ない不幸であったとしても、その後はもう少し対立を緩和することができなかったでしょうか。別途、「経済の状況」のところで確認しますが、第一議会の翌年、1891(明治24)年からは、日本の経済は急速に回復し、さらに成長していく時期でした。それなのに激しい対立がつづいてしまったのはなぜか、ということが疑問になります。
議会で激しい対立を回避するノウハウがまだなかった
議会という制度は開始してみたものの、何しろ全く経験がないことで、しかもまだ始めたばかり。激しい対立を回避しつつ実りある議論で納得できる結論を出す、というノウハウは、政府側にも議員側にも、まだ誰にもない段階だった、と思われます。
伊藤博文は、第二議会までの経験で、早くも与党の設立を提案しますが、その段階ではまだ天皇や他の元勲にも支持されません。さすが伊藤博文で、他の人々より優れた見識があり、またカイゼン精神があったと思います。しかし実行となると、やはり皆が経験値を積んでいって認識がある程度共有化されないと、伊藤博文ほどの人でも簡単ではないことがある、と思います。
さらに不適切な対策が行われてしまった
不況下で始まった議会であったために対立が激化した部分があったわけですから、本来は、政府側では、その後の経済情勢の良化を活用して対立を緩和していく、言い換えれば議会の中で利益誘導できる部分に積極的に働きかけて政府支持を広げていく対策を実施するのが妥当であったように思われます。
ところが、実際には大干渉選挙が行われ、それがさらに対立を激化させました。大干渉を行えばかえって事態がまずくなる、ということは、実経験を経て、初めて関係者に多少とも理解されたのではないでしょうか。
しかし、実際の関係がまずくなったのは、結果として取り返しが難しいことでした。選挙干渉された側の民党側では、だから政府との妥協の余地はない、今の政府を何が何でも倒さねばならない、という確信を持ってしまい、さらに激しく対立するようになったのも当然です。目的(ここでは民党を抑えること)の実現のために行った対策の結果が、その目的とは正反対の結果を生み出した典型例の一つだと思います。さらに、目的に反する結果を招いたことが、しかるべく反省され教訓化されたかどうか、という問題もあるように思います。
新聞を使った世論形成を政府がある程度コントロールする、というノウハウも不十分で、世論を対外硬支持に回してしまった、という部分もあったように思われます。
とにもかくにも、こうした不適切な対策の結果として、第一議会以来の対立モードはさらに激化し、好景気になった段階でも、政府と議会が激しく対立を続けていた、といえるように思います。
反政府の対外硬派からの圧力が原因の開戦、を陸奥外相も認める
上述のとおり、政府は、朝鮮情勢に対し、1984年6月2日の第六議会解散からわずか2日後の6月4日には、朝鮮への出兵を始めています。ところが、朝鮮はすぐに平穏な状況に戻ります。それを見て駐朝鮮大島圭介公使は、6月10日、内乱拡大の可能性は少なく増兵中止の要請を政府に打電します。しかし、6月13日、陸奥宗光外相は大鳥公使に「何事も為さず…空しく帰国するに至らば、…政策の得たるものにあらず」の出電を行います。
いったん派兵してしまった以上、何もせずに帰国すると、国内の対外硬派からとんでもない反応が出て政府がますますやりにくくなる、時の外相に、そういう状況であると判断されていたわけです。この出電から開戦までは約1ヶ月半でした。日清戦争は対外戦争ではありましたが、その直接の原因は、海外からの脅威ではなく、日本国内の反政府派の圧力にあったわけです。
このときの派兵が、もともと国内の政治危機の回避策としてなされたものであったのか否かについては、議論があり、その点は別に確認したいと思います。いったん派兵したのち、日清開戦まで行ってしまったという点については、政府の責任もありましたが、「対清硬」が課題解決の方策として妥当であったかどうかをろくろく検討もせずに声高に主張した対外硬派の責任も免れないでしょう。
かように、議会での政府との対立の中で「対外硬派」が優位を占め、その結果として政府が追い込まれたわけですが、では、そもそも「対外硬派」とはどういう基盤や主張の勢力であったのか、あるいは、日清戦争は「対外硬派」が実際に望んだものであったのか、次にはこうした点を確認したいと思います。