1c 仏のベトナム植民地化

 

フランス侵入のきっかけは、ベトナムの攘夷主義

帝国主義の当時にあって、植民地化が実際に進行していった事例の一つとして、フランスによるベトナムの植民地化の過程を再確認したいと思います。

ベトナム植民地化の過程

ベトナムは、帝国主義の時代に攘夷にこだわったことで、かえって植民地化された、という歴史をもっています。以下は、松本信広 『ベトナム民族小史』からの要約です。

1858年侵入開始、67年までに南部ベトナムを奪取

● ベトナムの阮朝は、中国文化を尊崇、儒教的な統治が理想。そのため先祖崇拝を否定するキリスト教に対して好意を持たず、宣教師や信者の殺害投獄を行うなど迫害政策を実施。このことが鎖国主義と相まって、危機に。
● フランスは、軍事的示威行動も外交交渉もともに無効なのを見て、武力侵攻の機会をねらっていた。たまたまスペインの僧正がトンキン(北部ベトナム)で処刑された事件を口実に、1858年スペインと連合してベトナムに侵攻作戦。1500名のフランス兵+850名のスペイン兵の仏西連合軍は、9月ダナン港を占領、さらに59年2月現在のサイゴン(現ホーチミン市)地域を占領して根拠地に。
● 1862年、第一次サイゴン条約(壬戌条約)で、阮朝政府はベトナム国内におけるキリスト教弘布の自由を認めたほか、コーチシナ東部3省(辺和、嘉定、定祥;現在のベトナム南東部)および崑崙島のフランスへの割譲、ダナンなど3港の開港、戦費賠償金の支払などに合意させられた。
● フランスの真の目的は、メコン河を遡り中国の南西部にはいる水路を確保すること。メコン河の中流区域はベトナムとシャムの両国に帰属するカンボジアの領土だったが、1864年カンボジアと条約、シャムの勢力を排除して保護国とした。さらに1867年、フランス軍はコーチシナ西部3省に突如侵入して占領。コーチシナ全域(南部ベトナム)はベトナムから失われ、フランスの完全な植民地と化した。

1858年といえば、日本は安政5年でペリー来航の5年後、日米修好通商条約が結ばれて、開国に向かっている年でした。この年、フランスは、中国ではイギリスと同盟してアロー戦争を戦いながら、ベトナムでもスペインと組んで侵攻作戦を行った、ということになります。

それから1867年まで、日本では尊王攘夷が倒幕へと進んでいく過程ですが、江戸幕府による開国後であり、日本の攘夷派は実際には海外勢とも付き合っていて武器を手に入れていました。一方のベトナムでは、フランスがさらに仕掛けて、南部ベトナムを手に入れていたわけです。

1883年 - フランスは阮朝も保護国化、ベトナム全土を支配

● フランスは、1973年にトンキン(北部ベトナム)に派兵して、一時的にハノイほかの都市を占領、このときは撤収して占領地をベトナム側に返還。翌74年3月第二次サイゴン条約(甲戌条約)を締結、フランスはベトナムの主権と独立を承認する一方、ベトナムはコーチシナ全省におけるフランスの主権を承認、ハノイほかを開港、フランスの利益と背反する条約を他国と締結しないなどの合意。
● 1880年代にはいると阮朝政府は弱体化、特にトンキンでは黒旗軍(太平天国の流れを汲む勢力)や土匪が跋扈。フランスは82年3月阮朝政府の第二サイゴン条約の不履行を口実に、約300名の軍をトンキンに派遣、ハノイを占領。阮朝から救援を求められた清朝は中国国境沿いのトンキン諸省に進駐、同時に黒旗軍もフランス軍と対峙して、フランスは750名の兵を増派。黒旗軍がフランス軍指揮官を戦死させたため、フランス本国政府は2000名の遠征軍派遣を決定。
● 1883年7月阮朝嗣徳帝が死去。権臣の策動でその後1年余りの短い期間に4人もの皇帝が変わる事態。宮廷の動揺と混乱に乗じ、フランス遠征軍は83年8月フエに進軍を開始。阮朝政府はたちまち屈服、第一フエ条約(アルマン条約・癸未条約)が成立、ベトナムはフランスの保護国となることを承認、トンキンはフランス理事官の監督下、アンナン(ベトナム中部)のみは阮朝統治だが対外関係・関税・土木の重要事項は全てフランスの管理。

元々フランスは、中国へのルートが狙いだったのですから、ベトナム北部にもなんとか進出したいと思っていたのでしょう。1883年は日本では明治16年、明治政府は少しずつ近代国家としての体裁を整え内実を強化している過程にありましたが、ベトナムは、国内体制の不安定化につけこまれて、フランスの保護国になってしまいました。

1884‐85年 清仏戦争で、清国も宗主権を放棄

● ベトナム植民地化の実施には、フランスはなお清朝のベトナムに対する宗主権を打ち破る必要あり。清朝は1882年のトンキン出兵からその後も撤収せず、黒旗軍と連合。仏軍は83年12月清軍と黒旗軍に攻撃を加え、翌年3月までにソンタイ・バクニンから駆逐。フランス軍の連勝により清国内に対仏和平の機運となり、84年5月李・フルニエ協定、清国はベトナムから即時引揚げ、またフランス・ベトナム間の一切の諸条約を尊重する合意となった。
● しかし同協定に基づく清軍の撤収中に清軍から攻撃あり、フランスは賠償金を請求、清国は拒絶。これに対しフランス艦隊は福州に停泊中の清国艦隊を急襲して瞬く間に全滅させ、清仏戦争が開始。制海権を獲得したフランス海軍は、台湾を攻撃、中国沿海を封鎖、トンキンでも清軍に痛撃を加えて中国国境方面へと退却させた。しかし地の利を持つ清国軍も態勢を立て直し、翌1885年3月、フランス軍をランソン付近の鎮南関に迎え撃ってこれを敗北させた。その後は膠着状態。
● 和平の機運が熟し、85年6月、李鴻章とパトノートルは天津条約を締結。清国はトンキンから撤兵、フランスのトンキン・アンナンにおける保護権を承認、清国の宗主権は放棄。

それまでにもベトナム国内では清国軍と戦っていたフランスですが、84年からは、福州・台湾など清国の領土内まで戦域を拡大して普仏戦争となります。ただ、清国が立て直して膠着状態に陥った、というのはアロー戦争のイギリス軍と比べ、動員した兵力が少なかったのか、作戦が下手だったのか。

1887年 仏領インドシナ連邦の成立

● 1887年、トンキン・アンナンにコーチシナおよび保護国カンボジアの4者を併せて、仏領インドシナ連邦を形成、総督の下に統治する体制を開始した。さらに93年には保護国としたラオスを、また1900年にはその前年に中国から租借した広州湾を、それぞれ仏領インドシナ連邦に編入した。

1887年の仏領インドシナ連邦形成は日清戦争の7年前、同連邦へのラオスの編入は日清戦争の前年、広州湾の編入は日清戦争終結の5年後でした。フランスによるベトナムの植民地化は、日本の開国~明治維新~近代化~日清戦争の展開とまったく同時期に進行していった、ということが分かります。

 

フランスによるベトナム植民地化の特徴 - 武力による圧迫・制圧

上記の経過を見て分かることは、フランスが行ったベトナムの植民地化は、最初から最後まで一貫して、武力による圧迫・制圧がその手段であった、ということです。フランスが、きわめて乱暴なやり方をしたことは間違いありません。前ページで確認したイギリスの清国に対するやり方、経済利害の達成を最優先として戦争はあくまでその手段とする考え方とは、全く大違いです。

満州事変から日中戦争に至る期間の昭和前期の日本軍の行動は、この当時のフランスの行動を真似たものか、と思いたくなるほどのものです。イギリス方式を真似ていたなら、日本の行動はまったく違っていて、当時の中国国民からあれほどの反感を買うことはなく、他の列強諸国からの非難もそこまで大きくはなっていなかったのではないか、と思われます。

とはいえ、阮朝側にも付け込まれる余地がかなりあったようにも思われます。フランス軍は大概の戦闘で、たかだか2000~3000人で勝利を収めています。まずは、当時のベトナム軍や清軍の兵器が、フランスの兵器に比べいかに貧弱であったのか、よくわかります。

さらに、サイゴン占拠からベトナム全土の制圧まで、25年かかっていますが、その間に阮朝側では、清国に支援を求める以外は、現実に立脚した対仏防衛カイゼン策を行ったようには思われません。それどころか、阮朝内の権臣の策動などといった事態まで起こして、フランスにつけこまれています。ベトナムを取り巻いている世界が急激に変化した時代に、旧来の儒教と華夷秩序から発想の転換をすることができなかったことが、国の被植民地化をもたらした、と言えるように思います。

 

攘夷論は、実態としては亡国の思想

中国・ベトナム・朝鮮の共通点 ー 儒教と華夷秩序

中国とベトナムと朝鮮、この時代のこの3国には一つの共通点がありました。それは、旧来の、中国皇帝を中心とする華夷秩序とそれを支える儒教思想を維持し続けようとした、という点です。

そのため、欧米列強からのアプローチは、出来る限り無視または排除しようとしました。言い換えれば、この3国はどれも、儒教と攘夷思想で固まっていた、と言えます。

儒教と攘夷思想は守るべきものである、それに対し、欧米の思想文物は絶対の邪である、と前提してしまえば、邪を排除する「攘夷」は絶対的に正しい、という議論になります。理念のみで物事を考えれば、そうなってしまいます。

現に変化が発生しているのに、旧来思考維持の攘夷論では、解決になりえない

しかし、「攘夷」を行うことの現実的な効果、という観点から見ると、「世界の変化を見ない、変化を教えられても拒否する、変化してしまった世界の中で、すでに時代遅れとなった旧来の体制・やり方に固執する、あくまで既得権を守ろうとする」というに等しい考え方です。

すでに環境条件が変化してしまい、旧来の事物ややり方を守ろうとしても無理がある、という状況で、旧来の理念に固執するのが攘夷論です。すなわち、外見上はどのように理屈付けがなされていても、実は現実への理性的な判断を欠いている、感情論に過ぎない議論が攘夷論である、そう言えるように思います。ただし、感情論であるだけに、変化を好まない人々や、とりわけ既得権を持っている側には、攘夷論を強く支持する人が必ず存在する議論でもあります。

攘夷思想の無理がたたって、ベトナムはフランスに植民地化されてしまった、朝鮮は日本に従属させられた、中国は一応独立を維持したものの欧米日の列強に半植民地化されてしまった、というのが、歴史上で実際に起こったことでした。攘夷は、主観的には、今の状況を何が何でも守りたいという強い願望が集約された思想、ではありますが、現実にはその願望とは正反対の結果を生じる亡国の思想、というべきものと思います。願望思考で外部条件の変化を拒否しているだけで、現に起こっている状況変化に現実的な対応が出来なくなるためです。

日本の多元的構造が、日本を開国論へ転向させた

日本は、ベトナムや朝鮮と異なり、中国皇帝を頂点とし中国を宗主国とする一元的な華夷秩序の中には入っていませんでした。そもそも日本は、12世紀末以来、天皇のほかに将軍もいて、民からすれば更に直接の「主君」である大名などもいるという、多元的な政治構造でやってきた国です。

儒教も入ってはいたものの、朱子学絶対ではなく陽明学の信奉者も多くいましたし、朱子学すら、日本の多元的な政治構造に反しない範囲で取り入れられた、と言えるように思われます。

主君には忠だが幕府には反する、天皇にも中国の皇帝にも無関係、という「忠臣蔵」が好まれてきたのは、この多元的構造の故であるように思われます。また、その多元的な政治構造のおかげで、経済的にも、各地方の、そして結果として日本全体の、生産力水準が向上されてきた、と言えると思います。

その当時は、日本も、ベトナムと同様に列強に植民地化されてしまう可能性が存在していたと思います。日本とベトナムとの大きな相違点は、それまでは攘夷論に立っていた薩摩や長州の変革リーダーたちが、薩英戦争や下関戦争で列強と戦って敗けたとたん、現実を直ちに悟り、攘夷論を捨てて開国論に転向した、ということでしょう。彼らは明治政府樹立後、ますます積極的に海外に出かけて知識技術の吸収消化に努めました。日本の政治構造の多元性が、幕末期には、変革のリーダーたちが攘夷論から開国論にいとも簡単に転向することを可能にした、と言えるように思います。

それに対しベトナムは、サイゴン占拠からベトナム全土の制圧まで25年もかかっているのに、考え方を見直して積極的に海外から学び、自ら近代化することでフランスに対抗しよう、という動きが力を得なかった、ということだったのでしょう。

今もときどき出てくる攘夷論もどき

攘夷の本質は、「自己のおかれた環境の変化を見ない、変化を教えられても拒否する、変化してしまった世界の中で、すでに時代遅れとなった旧来システム・やり方に固執する、あくまで既得権を守ろうとする」ということです。こういう攘夷論もどきの考え方は、今の日本でも、いまだにときどき出くわす、という気がしています。

現状と過去とを比較して、過去は良かったとすれば、あるいは現状と今後起りそうなことを比べて現状の方が良さそうなら、過去に帰りたい、あるいは、できれば変化を拒否して現状のままでいたい、という願望を持つことは、心情的には理解できます。

しかし、願望を心情的に理解できることと、変化を拒否・抑制することを政治やビジネスでの現実的な対策としてしまってよいかどうかということとは、まったく別の問題です。日本では、国政でも企業でも心情重視が良いと思われているところがあり、攘夷論もどきの変化の拒否・抑制がそのまま通ってしまうことも少なからずあるところに、現代でも少なからぬ課題があると思います。

変化のマイナス影響だけを見て、プラス影響を見ない攘夷論

ある変化が生じる時、その変化の結果は、ほとんどの場合、必ずマイナス・プラス両面の影響を生じます。つまり、マイナス影響をより受ける人と、プラス影響をより受ける人とが、出てきます。例えば、幕末期の開港によって、輸入品に対抗できなかった綿作などは壊滅させられました。他方で、貿易活動や、お茶や陶磁器など輸出できる商品の生産に関わった人々は利益を得て、その後の日本が貿易国家として発展していける基礎を作りました。技術の変化という観点では、人力車の発明によって、「駕籠かき」は絶滅しましたが、人力車夫を始めた人、人力車夫に転換した人はその後も、タクシー出現までは飯が食えました。

変化を拒否しようとする議論の問題点は、その変化からマイナス影響を受ける部分だけを議論して、プラス影響側は議論しない、あるいは変化への対応が新しい機会を生みだすことを見ようとしない点にあります。変化の全体像を把握した議論になっていないのです。

攘夷論では、企業も国も滅びる

変化の影響の一部だけを取り出して、その部分の変化は受け容れたくないから、あるいは他人はともかく自分は既得権を失うから反対、というのは、「攘夷論」と本質的に変わることがありません。企業ならその企業が滅ぶ、国なら亡国の議論となってしまいます。19世紀のベトナムは、まさしくその攘夷論の結果、国が滅び植民地化されてしまったのです。

こうした攘夷論もどきの議論に陥っていないか、未だに欧米流・外国流は絶対の邪で日本には向かないなどと決めつけていないか、すでに「人力車」あるいは「タクシー」の時代になっているのに未だ「駕籠かき」保護論に陥っていないか、ときどき考える必要があるように思います。

 

 

ベトナムは、攘夷にこだわった国が、それ故に欧州強国の侵入に妥当な対応策を打つことが出来ず、武力によって植民地化されてしまった事例でした。次は、全くパターンの異なるケースとして、近代化策の行きすぎから財政困難になり保護国化されたエジプトの事例を確認したいと思います。