1a 帝国主義とアジア
19世紀末の世界は帝国主義の時代
日清戦争の起こった19世紀末、世界は帝国主義の時代の真っただ中にありました。「列強」と呼ばれた欧米の強国が、主にはアジアやアフリカに所在する弱国や後進地域を、保護国化あるいは直轄支配して、植民地とするのが当たり前だった時代です。その善悪は別にして、当時はそれが当たり前と考えられていた点が、現代の世界の状況とは根本的に異なっています。
では、実際に、列強による「植民地化」はどの程度進んでいたのでしょうか。まずは、その状況を確認したいと思います。
レーニン『帝国主義論』に引用された植民地化のデータ
1917年に出版されたレーニンの『帝国主義論』には、19世紀後半から20世紀初頭にかけて、列強がどれだけ植民地化を進めていたのか、当時のデータが引用されています。レーニンの思想をどう考えるかは別にして、データとしては参考にできますので、これをグラフ化してみました。まず、ここから何がわかるか、整理してみましょう。
これは、アジアとアフリカについてだけ、データを抜き出したものです。1876(明治9)年までに、アジアは、すでにその全面積の50%強が植民地化されていました。一方アフリカはまだその全面積の10%程度でした。
それから四半世紀、日清戦争が終わってから5年ほど経った1900(明治33)年までに、アフリカについては植民地化が著しく進展、全面積の90%まで植民地化が拡大していました。一方、同じ時期のアジアは、やはり植民地化がさらに進行したとはいえ、進展スピードは緩くなっていたことがわかります。
上のグラフとは期間が少しだけ異なりますが、1860(安政6~万延元)年から1899(明治32)年までの期間の、英仏独の三カ国に限った、植民地の状況です。このグラフから、植民地獲得ではイギリスがまず先行し、1860年以降とくに1880(明治13)年までに植民地を大きく拡大、フランス・ドイツは1880年以降本格化した、ということのようです。
時代がさらに進んで、日清戦争から20年後、第一次世界大戦が勃発した1914(大正3)年には、世界の面積のほぼ半分が「6大強国」の植民地になっていたようです。このグラフには示していませんが、「6大強国」の中では英露仏の3国が抜きんでており、この3国の植民地だけで「6大強国」合計の約95%を占めていました。日本も「6大強国」の一つに数えられるようになっていましたが、英露仏と比較すれば、植民地の面積はごくわずかでした。
「6大強国」および「その他諸国」の「本国」の面積を合計すると、全世界の面積の33%、残る67%、すなわち全世界面積の3分の2は、そうした諸国の植民地にされていたか、あるいは半植民地であったようです。
アジアの植民地化は、どのように進展していたか
明治維新までに、アジアの半分は、植民地化済みだった
日清戦争の起こった1894(明治27)年当時、列強による植民地の拡大が現にかなり進行していたことが確認できました。では、日本を取り巻くアジアでの植民地化の進展の実情はどうであったのでしょうか。
日本については、ペリーが黒船で浦賀沖に来航したのが1853年、翌54年に日米和親条約、58年には日米修好通商条約が結ばれて、開国しました。明治維新は、ペリー来航から15年後の1868年でした。まずは、その明治維新当時、列強がどこまでアジアに進出していたか、地図で確認したいと思います。
これからわかるとおり、アジアは、日韓中の東アジア地域を除き、すでに植民地化がかなり進行している状態でした。上述のレーニンが引用したデータとも整合しています。
地図の中で、植民地化が完了またはほぼ完了に近かった国・地域名には、赤丸をつけましたが、特に、パキスタン・インドからフィリピンまでの南アジア・東南アジア地域では、すでに赤丸の方が圧倒的多数になっています。18世紀末までに、フィリピン、インドネシアはすでに植民地化されていました。インド・パキスタン・バングラデシュ・スリランカなどの地域でも植民地化が相当に進行していました。
日本が開国から明治維新に進んでいるちょうどそのころ、1850年代から60年代にかけては、ミャンマーやベトナムなどの植民地化がまさしく進行中、というタイミングでした。また、この時期に中国は、アロー号事件を経て九龍半島をイギリスに、また沿海州をロシアにとられてしまいます。そういう状況であったからこそ、日本の幕末期のリーダーたちは攘夷策を捨て、開国政策を基盤とする新政府の確立に向かった、と言えるのであろうと思います。
日清戦争直前までに、植民地化はさらに進行した
その後、1894年の日清戦争直前に至るまでの時期では、アジアの植民地化の状況にどのような変化があったでしょうか?これも地図で確認しましょう。
前の地図と見比べていただけば明瞭ですが、黄色点線の丸が消え、赤丸ばかりとなっています。主要国で赤丸がついてないのは、南アジア・東南アジア地域では、タイ(シャム)だけです。直轄か保護国かという違いはあるものの、他の国や地域はほとんど大部分、列強に従属させられてしまいました。インドネシア、フィリピンは、明治維新前からオランダ、スペインの植民地でした。(日清戦争時点では米西戦争は起こっていないため、フィリピンはまだ米国領でなくスペイン領です)
明治維新から日清戦争に至るまでの30年弱の間に、インドには英領インド帝国が成立し、ミャンマー(ビルマ)もそれに加えられてしまいました。マレーシアも英領マレーが成立、北ボルネオも保護国化されました。ベトナム・ラオス・カンボジアはフランスが獲得し、仏領インドシナ連邦が成立しました。これが当時アジアで起こっていたことでした。
特にフランスによるベトナムの植民地化は、いわば日本による朝鮮の植民地化の先行例であった、といえるかもしれません。ベトナムも清国が宗主国であり、帝国主義の時代に攘夷を徹底したという時代錯誤につけこまれて植民地化が進行し、その過程で宗主国に対する清仏戦争という戦争も行われました。日本による朝鮮の植民地化と非常によく似たパターンであったと言えます。
植民地化されずに残っていたのは、ほぼ日中韓の東アジアだけ
以上の整理の結果から、当時は、アジアでも列強が現に植民地化を進めていた時代であり、またアジアの中では、ほぼ日中韓の東アジア地域だけが、まだ植民地化が進んでいない地域であった、といえるようです。
この時期の中国について言えば、1884年に清仏戦争が発生し、清国の福建艦隊が全滅させられたり台湾にも攻め込まれたりして、ベトナムへの宗主権を失い、また北方ではロシアによって沿海州などの外辺部が切り取られていました。しかし、中国本土からの領土切り取りはまだほとんど発生していない、列強もまだそこまでは手を付けていない、そういう時期であった、と言えます。こうした点をあらかじめ頭に入れた上で、日清戦争をみていく必要があるように思います。
ここからは具体的に、この時代に、列強は清国に対してはどのような戦争を仕掛けたのか、アヘン戦争とアロー戦争(第2次アヘン戦争)の経緯を確認するとともに、列強が植民地化を具体的にどのように進めたかについては、ベトナムとエジプトの二つの事例を再確認したいと思います。
次は、アヘン戦争です。