5 講和と三国干渉

 

ここまで、戦争の経過を見てきました。

日本の宣戦の詔勅は、朝鮮が独立国の権義を全うし、内政改革を実行するのに、清国が障害となっている、ということを対清開戦の理由としていました。開戦後3か月もたたないうちに、日本は清国勢力を朝鮮から駆逐してしまいました。ところが、日本は戦争を継続しました。その時点で日本の戦争目的が実質的に変更されて、清国からの領土の割譲を得ることも目的の中に含められたことは、すでに見てきたとおりです。

ここでは、そうした日本の公式・非公式の戦争目的と講和条件とが、どこまで整合していたのか、日本が要求した講和の条件は、当時の世界常識から見て妥当なものであったのか、三国干渉を招いた責任は誰にあったのか、三国干渉という事態への反省は適切になされたのか、などについて見ていきます。

 

「講和と三国干渉」の内容構成

ここでの内容は、以下の通りです。

5a 下関講和条約

1895(明治28)年3月20日から、伊藤博文と李鴻章との講和談判が下関で開始されました。それに先立つ講和への動き、講和談判の経緯、講和条約での合意内容を確認いたします。これに関連して、とりわけ、講和談判での日本の要求が、当時の世界の常識の範囲内であったのかどうかについても、確認いたします。

 

5b 三国干渉

日本は講和条約締結の直後から、三国干渉を受けます。三国干渉は、当時どの程度の軍事的な危機だったのか、三国干渉を受けた結果生じた影響には何があったのか、三国干渉を受けたことへの反省は日本にあったのか、などについて確認いたします。

 

 

まずは、下関講和条約についてです。