3 日本の戦争準備
前章では、日清戦争以前の日本・清国・朝鮮の状況を見てきました。日本については、とくに朝鮮での壬午軍乱・甲申事変から日清戦争開戦に至るまでの10年ほどの間、政府内に協調派と強硬派との対立をかかえながらも、外交上は対清協調路線を取ってきたこと、同時に軍事面では清国を仮想敵国として軍備の拡張を行うべく、財政の厳しい制約が許容する範囲で予算措置を行ってきたことを確認しました。
しかし、戦争は、準備が不十分であれば勝てるはずがなく、勝てるはずがないのに開戦をするわけにもいかない、というのが合理的な判断です。日清戦争の開戦について、しかるべきデータに基づいて、一応合理的、といえる判断がなされたのかどうかは、カイゼン視点で歴史の事実を考える時に、重要なポイントであると思います。
この章の内容構成
そこで、日清戦争の開戦に至るまでに、日本は具体的にどのように軍備拡張を進めていたのか、勝てるという確信が持てるところまで軍備が進んでいたのかどうか、また対清協調路線から対決路線に転換し開戦するとの決定を行った日本の指導者たちはどのような人々であったのか、そして具体的に開戦に持ち込むために日本は何を行ったのかについて整理します。
ここでの内容は、以下の通りです。
3a 日本の軍備状況
1882年の壬午軍乱時点では、日本の軍事力は清国より劣る状況でした。それ以後は清国を仮想敵国として軍備を進め、12年後の日清戦争開戦直前の時点までに、実際に清国を上回る軍事力を保有していました。この点をまず確認します。
3b 日本の指導者たち
政府にあって開戦を決定した、また軍にあって戦争を遂行していった、日清戦争当時の日本の指導者たちは、どういう人々であったのかを確認します。
3c 朝鮮への出兵と開戦の意思決定
東学乱が発生した状況で派兵は行ったものの、それで即座に日清開戦した、というわけではありませんでした。派兵の目的は何であったのか、開戦を意識して派兵されたのか、開戦はどのように決定されたのか、などを確認します。
3d 朝鮮王宮襲撃事件
実際に日清戦争開戦の引き金となったのは、1894年7月23日の朝鮮王宮襲撃事件でしたが、この事件は偶発的なものではなく、事前に十分な準備がなされていました。その点を確認します。
まずは、軍備の状況から。