4c1 終盤戦① 澎湖島
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日清戦争も、ここからは最終段階です。すでに見てきましたとおり、1895年1月下旬から2月前半に、海軍と陸軍・第二軍は威海衛攻略戦を実施し、翌3月上旬には、陸軍・第一軍が遼河平原掃蕩戦を行い、どちらも日本軍が清国軍に勝利しました。
威海衛攻略戦で日本が勝利すると、直ちに実行されたのが澎湖島攻略戦でした。ここでは、その詳細を確認したいと思います。
なお、このページでの引用等で、引用元を記していない場合には、すべて「4 日清戦争の経過」のページに記した引用元から引用を行っていますこと、ご了解ください。
澎湖列島攻略戦の計画・策定
台湾占領のステップとしての澎湖島攻略戦
澎湖島攻略戦は、1895年1月になってから、計画されたようです。
すでに確認してきました通り、陸上では平壌の戦い、海上では黄海海戦までの序盤戦は、この戦争の開戦の詔勅どおり、朝鮮から清国の影響を排除するための戦闘でした。鴨緑江を渡河して清国領に踏み入れてからの中盤戦は、金州・旅順口のある遼東半島の割譲を狙ったものでした。
この澎湖島攻略戦からは終盤戦となり、開戦の詔勅どころか、開戦直後に決定された大本営の「作戦大方針」(「3 日本の戦争準備 - 3c 朝鮮出兵と開戦決定」を参照ください)にも全く関係がない戦闘となります。澎湖島の名は聞いたことがない、という方も少なくないかもしれません。台湾と中国本土の間、台湾海峡の台湾寄りにある島です。
台湾攻略戦の前提としての澎湖島攻略
大本営、すでに1894(明治27)年8月に、冬季間に台湾を占領することもできると決定したが、その後、冬季にも直隷平野の決戦との意見もあり南方作戦を決行せず。翌年1月13日、威海衛陥落ののち澎湖島を攻略することを決定、この地に海軍根拠地をつくり中国南部の残存艦隊を討滅し、戦時禁制品を密輸する船舶を捕獲させる計画。
大本営は、2月13日威海衛の北洋水師降伏の報を受け、台湾攻略戦の前提として、澎湖列島攻略作戦計画を策定する。講和の正式交渉開始までに台湾島占領の既成事実を作っておくことが必要条件で、強引にでも進める必要。
日清戦争の戦利品として、台湾割譲を狙いたいが、台湾は日清戦争の戦場とは全く関係がなかったので、台湾獲得の根拠とするために、急遽澎湖島を占領することにした、というのが、この澎湖島攻略戦の目的であったわけです。
言い換えれば、この澎湖島攻略戦は、対清宣戦の詔勅で戦争目的とされていた朝鮮にも、当初からの作戦大方針で企図されていた直隷決戦にも、どちらにも関係のない、清国からの台湾獲得要求を実現することだけを目的とした戦闘であった、と言えます。また、日本が台湾獲得を狙っていることが、清国にも列強にも露呈した戦闘であった、とも言えそうです。
伊藤首相提案の台湾方面攻略 実施の遅れ
伊藤博文首相が、「威海衛ヲ衝キ台湾ヲ略スヘキ方略」を大本営に提出したのは前年の12月4日のことでした。清国政府の崩壊を引き起こす直隷決戦は避け、軍は二手に分けて一方は威海衛を攻略し、もう一方は台湾を略取すべし、という、状況に即した提案でした。
この伊藤首相提案に対し、第二軍による威海衛攻略戦は2月上旬までに完了しましたが、第一軍はその間、現在地での戦線拡大にこだわっていたため、澎湖島上陸の開始は、3月16日と遅くなりました。
平壌の戦いで当初戦争目的はすでに達してしまった後、何を目的として戦争をさらに続行するのか、領土拡張を目標に切り替える提案を行った伊藤首相に対し、第一軍は彼らの戦闘遂行そのものが目的化してしまい、噛み合わなかったと言えるように思います。
領土要求の善悪は別にして、「台湾を略す」という目標は、講和において、台湾での戦闘が未開始でも台湾割譲が得られ実現されました。澎湖島攻略は実施していて台湾方面への関心を示していたことが効いたのかもしれません。そうだとすれば、この澎湖島攻略戦は、その目的を達した戦闘であったといえるように思います。
他方、第一軍がそれだけこだわった遼東半島は、結局三国干渉で返還させられます。山県有朋の判断間違いであったように思います。
1895年3月23日~25日 澎湖列島攻略戦の実施
澎湖島は、周りの小さな島々を全て入れた諸島全体でも141平方キロの面積しかなく、日本の島と比べると、宮古島や小豆島よりも小さな島のようです。急に決まった作戦でしたが、小さな島であり、容易に占領できると見たのでしょう。
澎湖島攻略軍の編制と輸送
大本営の情報では、澎湖列島の清国軍は歩兵12営(6000人)、砲兵2営、海兵1営。
攻略に向かう混成支隊(支隊長比志島義輝大佐)は歩兵3個大隊(3000人)・山砲1個中隊・騎兵5騎で構成(人員3936名)、それに軍夫1572名。清国軍は倍の勢力の想定だが、強力でないと判断されたのか、歩兵は後備役で満28~32歳、後備歩兵第一連隊(東京湾警備)と歩兵第一二連隊第二大隊(下関海峡警備)。艦隊は、松島・橋立・厳島の三景艦、吉野・浪速・秋津洲・和泉の巡洋艦群など。
混成支隊は、3月6・7日に宇品港と門司港から乗船、9日佐世保港着。南方派遣艦隊、出征準備完了して佐世保集合は13日。15日佐世保軍港を出発、3月20日艦隊と輸送船団は澎湖列島近くに到着。21日は旗艦吉野が坐擱、22日は風波が強く、上陸見送り。
詳しくは「5 講和と三国干渉 - 5a 下関講和条約」のページで確認しますが、下関での伊藤博文・陸奥宗光と李鴻章との講和談判は、3月20日から開始されました。したがって、この澎湖島攻略戦のための艦隊と輸送船団の出発は、講和談判開始前でしたが、談判開始時点では、まだ澎湖島への上陸は行われていなかった、ということになります。
澎湖島への上陸・占領
23日天候はようやく回復、午前6時から上陸作戦発動。裏正角西方約1400メートルの海浜に上陸を開始、11時30分。清軍砲台は上陸点めがけて砲撃を開始、これに対し東方と南方の二方から艦砲射撃、しばらくすると清軍砲は沈黙、大武社占領午後4時20分。翌24日、拱北砲台の攻撃、占領は午前6時30分。つづいて馬公城の攻略、正午完全占領。25日午前1時円頂半島守備隊から降伏軍使、午後1時漁翁島守備隊の逃走が判明。26日午後澎湖列島行政庁を開き占領地行政を開始。
威海衛同様、陸軍と海軍の共同作戦でした。陸軍は、現地に駐屯している清国軍の半分ほど、しかも後備役中心という、あまり力の入っていない兵力派遣でしたが、それでも澎湖島占領では大きな困難はなく、上陸から2日ほどで平定したようです。
下関の講和談判では、3月30日に休戦条約への調印が行われましたので、この澎湖島攻略作戦は、調印直前に行われた、日清戦争での日本と清国との最後の戦闘となりました。
<馬公の日本軍> (毎日新聞社 『日本の戦史 1 日清・日露戦争』 より)
澎湖島攻略戦での日本軍の最大の損害の原因は、コレラ
澎湖島上陸前、すでに船中でコレラが発生
澎湖島作戦での最大の問題は、派遣された日本軍にコレラ患者が大発生した、という点でした。
出征5500名のうち、1000名もがコレラで死亡
最大の敵はコレラ。輸送船鹿児島丸にはすでに佐世保軍港滞在中にコレラが発生し、出港以来毎日4、5名の死亡者、21日からいっそう蔓延の兆候。他の輸送船に満載の混成支隊の多数は、船中でのコレラの発生はなくても、15日の佐世保出港以来連日の強風激波、19日以来の華氏80度の高温により、兵の大多数が健康を害し疲労困憊して病人と変わらない状態だったものが、23日上陸して戦闘。
2日間の戦闘中に収容したコレラ患者だけで約40名、衰えない病勢は、戦闘の終わった26日頃から毎日新患200名以上。この病勢は4月12日に終息。1ヶ月間の患者総数1700名、死亡者1000名という惨状。兵員と軍夫を合わせて5508名の18%が死去。
兵士を満載した輸送船のうち一隻の船内で、まだ佐世保を出港前からコレラ患者が発生していたのにかかわらず、そのまま澎湖島に行かせて戦闘させた、ということです。とにかく講和条約調印前に戦闘を開始しておきたい、という判断でコレラの蔓延は覚悟の上で作戦を行った可能性もあるように思われます。
当時コレラは、大流行なら数万人、流行なくても年に数百人が死亡
山本俊一 『日本コレラ史』によりますと、1877(明治10)年以降、1894(明治27)年の日清戦争までに、全国の死者数が3万~10万人を越えるようなコレラの大流行が、明治12年、15年、19年、23年の4度もあり、大流行がなかった年でも毎年必ず数百人以上の死者がありました。日本の総人口がまだ、1877年には3587万人、1894年に4086万人(安藤良雄編 『近代日本経済史要覧』)だった時代に、年間3~10万人もの死者が出ていたわけです。
したがって、この当時には、コレラ対策は非常に重要な課題であり、患者の隔離や消毒などが徹底されていただけでなく、コレラ患者が船内で発生した場合についても、規則が設けられていたとのことです。
その例として、すでに明治19年の海軍省令「海軍軍人、艦船営傭夫コレラ病に罹る者取扱手続」は、艦船営等においてコレラを発する者があるときには、これに接近した者は上官の命令なくして移動し他人と混じわってはならない、近接者は適当な場所に2週間隔離させ、便所は別々に設けなければならない、と規定していました。
また明治21年の警視訓令「伝染病予防消毒規則執行心得」も、船舶でコレラの船中発病があった場合、患者に接近した者および患者と同一の便所を使用した者は5日間船内に遮断しなければならない、陸揚げする手荷物には消毒を行わせなければならない、などと規定していました。
少なくとも、佐世保出港前にコレラ患者を発生させていた鹿児島丸については、出港を止めて、全員を隔離するのが、規則上も適切であったのに、そうした措置が取られなかったようです。
出征軍は、なぜ患者を隔離しなかったのか
陸軍が外地に大部隊を派遣したのは明治7年の台湾出兵以来であったため、外地派遣部隊でのコレラ発生に対応する規則が不十分であったのにはやむを得ない面があったにせよ、海軍や警察での上述の規則から見て、他の健康な兵への伝染を防ぐために、コレラ患者が発生した輸送船の兵を一定期間隔離することは、当時でも当然の処置であった、と言えるように思います。そうした対策が、このとき何故行われなかったのでしょうか。
そもそも、澎湖島に上陸した比志島支隊には、軍編制の常識に反して、なぜか衛生隊が編成されておらず、そのため支隊司令部に属する「人夫」から120人を選抜してこれにあてたに過ぎなかった、軍は戦闘を重視しても隊の衛生や兵の安全には配慮がなかった、との指摘(籠谷次郎「死者たちの日清戦争」、大谷正・原田敬一編 『日清戦争の社会史』 所収)があります。
作戦規模が小さいから手を抜いて良い、ということにならないのは当然です。兵がコレラでばたばたと倒れていけば、確実に戦闘に支障が発生します。戦闘を予定通り行うため、すなわち作戦優先であればこそ、現に発生したコレラから健康な兵を守る必要があったはずです。
講和条約調印前に戦闘を開始しておきたい、という判断でコレラの蔓延は覚悟の上で作戦を行ったのだとしても、佐世保出港前に患者が発生していた鹿児島丸だけ隔離、という対策をしておけば、コレラによる兵力の投入保留は最小限で済んだはずであり、コレラによる死者もかなり少なくて済んでいたでしょう。そうしなかったために、1000人を越える戦病死者を出したわけです。
衛生隊の編制では手抜かりがあったとしても、すでに罹病した兵を隔離することで健康な兵を守ることは、現場レベルの混成旅団の旅団長と司令部の役割であったのに、この比志島旅団ではその役割が果たされていなかったように思いますが、いかがでしょうか。
隔離しなかったために、澎湖島以外にも広がったコレラ死者
籠谷次郎の前掲論文は、山本俊一 『日本コレラ史』 に基づき、コレラが、翌4月、遼東半島にも、近衛師団・第四師団の上陸によって持ち込まれ拡大した、と指摘しています。両師団は、下関講和談判での休戦条約調印(3月30日)から講和条約調印(4月17日)に至る間の、4月9日から13日にかけて宇品を出港し、12日から18日の間に大連湾に到着、海上待機の後、19日に上陸命令、23日までに上陸を完了。宇品港出港以来船中にコレラ患者が発生し、19日までに両師団合わせて96人が死亡し、船中では「蔓延の徴」があっ た、とのこと。
近衛・第四両師団の宇品出港時点で、澎湖島派遣師団にはコレラ死者が頻発していました。対応する必要がある課題が発生しているのにも関わらず、上陸前の一定期間の隔離対策を行わなかったのであれば、このときの陸軍はカイゼン意識を全く欠いていたために失敗が繰り返された、ということになります。
コレラによる死者は、澎湖島だけで1100人、日清戦争全期間では数千人いたものと思われます。さらに、戦闘が実質的に終了した後から占領期にかけての遼東半島で、澎湖島を大きく上回る多数の患者が発生したものと思われます。澎湖島の経験が活かされて、隔離が正しくなされていれば、1000~2000人以上の人数が助かっていたのではないか、という気がしますが、いかがでしょうか。
日清戦争終了後には、帰還将兵に対する検疫で大きなカイゼン
この日清戦争は、平壌戦などで、補給不足・装備不足でも作戦優先で無理をして戦闘してしまう場面がありました。この澎湖島攻略でのコレラ対策不実行も、その一つの現れであったように思います。作戦優先で無理をして道理を引込めさせるのは、その後の日本軍の体質となってしまったところがあります。この澎湖島攻略でも、事態の重大さを認識して、責任者処分を行っておけば、無理を通すことの体質化が少しでも避けられたのではないか、という気がするのですが。
現実には、支隊長比志島義輝大佐は、処分どころか、作戦から半年もしないうちに陸軍少将に出世したようです。コレラで1000人もの兵が死んだことは、取るに足らない小さな問題と扱われたとしか思われません。
なお、別途触れますが、コレラ対策では、この年の3月30日に「臨時陸軍検疫部」が設置され、この年6月以降に出征地から日本に戻ってきた将兵には、全員に検疫が実施されました(山本俊一 前掲書、および、安岡昭男「日清戦争と検疫」、東アジア近代史学会編 『日清戦争と東アジア世界の変容』 下巻 所収)。こうした対策は、残念ながら、この澎湖島攻略戦には間に合わなかった、と言うべきかもしれません。とすれば、カイゼン実施の途上であったために、間に合わず大きな被害を出した件となった、といえるでしょうか。
上述の通り、下関での講和談判は、3月20日に開始され、3月30日に休戦条約に調印されましたが、講和談判と同時進行で、当初の作戦大方針通りに直隷決戦を行おうとする準備も、着々と進められていました。最終的に、決戦開始前に講和が成立し、作戦は中止されましたが、次は、その直隷決戦準備についてです。